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「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


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28/30

第28話: 馬車で重荷を手放す

 車輪が石を踏むたびに、膝の上の針箱がことりと鳴った。


 私——マリエッタ・コルッツィは、その音をもう何百回も聞いていた。木の蓋と中の針が触れ合う、ただそれだけの音だ。けれど今朝の音は、いつもと違って聞こえた。屋敷の廊下で聞く音と、走る馬車の中で聞く音とは、同じ箱でも別の声を出すものらしい。


 窓の外を、春先の街道が流れていく。


 まだ王都を出て、半日も経っていない。それでも、景色はもう私の知らないものに変わり始めていた。整えられた貴族街の街路樹が、いつのまにか誰の手も入っていない雑木の生垣に変わっている。塀のない畑。芽吹いたばかりの麦の、薄い緑。


 よわい七十二にして、私は初めて王都の外へ出ようとしていた。




 昨日の昼、私は公爵家を辞した。


 三十年仕えた家を出るのに、要した支度は布袋ひとつと、この古い針箱ひとつだけだった。十年前、ティナお嬢様が屋敷を出ていったときとほとんど同じ量だ。あの子も布袋ひとつだった。長く勤めた者ほど、最後に持って出るものは少ない。それを私はこの年になって知った。


 屋敷は、もう屋敷の形をしていなかった。


 大広間の燭台は外され、銀器は数を勘定されて木箱に詰められていた。王宮への返納にあてるのだと、家令のギルベール殿が痩せた声で言っていた。掛けてあった肖像も外され、壁に四角い影だけが残っていた。日に焼けていない、白い四角。家が華やかだった年月の、その形だけがそこに残されていた。


 崩れる家とは、こうも静かなものかと私は思った。


 ヴィクトル様の名が社交界から消えても、公爵様が詐欺の追及を受けても、家の中はただひとつずつ物が減っていくだけだった。叫ぶ者もいない。誰もが、来るべきものが来たという顔をしていた。




 裏門を出るとき、見送る者は、一人だけだった。


 アデリーナお嬢様だった。


 灰色のショールを羽織って、石畳の上にまっすぐ立っておられた。十年前、ティナお嬢様を見送った私が立っていた、あの場所に。


「マリエッタ。本当に、行ってしまうのね」


「は。お役目は、もう終わりましてございます」


 私は深く頭を下げた。アデリーナお嬢様は、この家でただ一人、私が頭を下げるに値する方だった。兄君を止められなかったことを、ずっと悔いておられる。その悔いが、この家でいちばんまっすぐな背筋をこの方に与えていた。


「あなたがいなければ、ティナさんの名は、世に出なかった」


 お嬢様は、そう言ってくださる。


 私は首を振った。


「いいえ。私はただ、針と糸を渡しただけでございます。お嬢様の名を布の裏に残し続けたのは、ティナお嬢様ご自身です。私はその端を、ほんの少し抱えておりましただけ」


「それでも」


 お嬢様は、わずかに首を傾けて私を見た。


「端を抱える者がいなければ、布は最後まで残らないわ。あなたが抱えていたから、十年の糸はほどけずにいた」


 その言葉に、私はすぐには返せなかった。お嬢様は、人の働きをよく見ておられる。兄君を止められなかった悔いが、この方の目を、誰よりも細やかにしたのだろう。


「お嬢様こそ、どうかご無理をなさいませんよう」


「ええ。──ねえ、マリエッタ」


 お嬢様は、少しだけ声を落とした。


「私もいつか、この家の家督を継ぐことになるかもしれない。そうしたら、一度は辺境へ行こうと思っているの。ティナさんに、私の口で詫びを言うために」


 私は、その横顔を見た。灰色のショールの下で、背筋がまっすぐに伸びている。崩れていく家の中で、この方だけが折れずに立っていた。


「お嬢様の背筋は、この家でいちばんまっすぐでございます。その背筋でいらっしゃるなら、辺境までの道も、難しくはございますまい」


「あなたに褒められると、本当のことに思えてくるわね」


 お嬢様は、淡く笑った。


 それから懐から、一枚の紙を取り出された。


「これを。いつか辺境へ行くとき、私が持っていくものです。帳簿は王宮へ返さねばなりません。けれどその前に、父が空白の欄に、ティナさんの名を書きました。十年、空けてきた欄に。私はその一行だけを、この紙に写しました」


 私はその紙を見なかった。見なくても、それが何であるかは分かった。


「……お父上が」


「ええ。金も渡せない、十年も戻せない。それでも、この家が一度でもあの人の名を記したという、その一行だけは——と」


 私は、もう一度深く頭を下げた。今度は家にではなく、その一行に向けて下げた。


「お嬢様。その紙は、お嬢様の手で、お渡しくださいませ。私が先に着いても、私の口からは申しません。詫びは、詫びる者の口から出るのが筋でございますから」


「ええ。私の言葉で、いつか必ず」


 お嬢様は、頷かれた。


「マリエッタ。もし先にティナさんに会ったら、一つだけ伝えて。──この家にも、あなたの仕事を惜しむ者がいたと。それだけは、詫びではないから、あなたの口から言ってもいいでしょう」


「……かしこまりました。それだけは、確かに」


「お願いね。それと──」


 お嬢様は、言いかけて少し迷われた。


「あの子は、達者でいるかしら。便りもないから、何もわからないのだけれど」


「達者でございます」


 私は、迷わず答えた。


「布を読む指は、握り続けてさえいれば衰えません。あの子は、握り続けております。私には、それが分かります」


「……そう。あなたが言うなら、そうなのね」


 別れの言葉は、それだけだった。長く話す家ではない。長く話さないことが、この家の流儀だった。私は最後にもう一度頭を下げて、待っていた馬車に乗り込んだ。




 馬車が動き出すと、針箱がこと、と鳴った。


 御者は無口な男だった。ファーデンまでの七日を頼んだとき、「飯と寝床は宿場ごとに自分で」と言って、あとは黙って手綱を握っている。私はその無口がありがたかった。話しかけられても、今日はうまく答えられる気がしなかった。


 膝の針箱に私は手を置いた。


 木の蓋は、五十年の手垢で飴色に光っている。中には糸の見本帳と糸切り鋏。それから——もう、針は入っていない。


 私の針は、半年前、ティナお嬢様に渡した。


 あの雨の朝、裏門の石畳の上で。私の三十年とお嬢様の十年と、それからこれからのお嬢様の人生に——そう言って、若い頃から使ってきた一本をあの子の手のひらに置いた。


 針のない針箱を、それでも私は半年持ち続けてきた。中身のない箱を抱えて、私は何を運んでいたのだろう。


 馬車が、また石を踏んだ。




 最初の宿場を過ぎる頃に、私はようやく一つ目の重荷を下ろした。


 それは悔いだった。


 もっと早く動けなかったのか、という悔い。


 ティナお嬢様が屋敷に来られたのは十二の年だった。痩せた、目の大きな子どもだった。借財の代わりに来たのだと、誰かが言っていた。私はその子に、針と糸を渡した。手のかじかむ冬には、自分の毛糸の手袋の指先だけ切って渡した。それくらいしか、できなかった。


 十年、私はそれを繰り返した。針を渡し、糸を渡し、ときどき温かい茶を一杯。それだけだった。あの子の労働を世に出すことも、給金を取り戻してやることも、私にはできなかった。私は、ただの侍女頭だった。家の取り決めに逆らえば、私が追われてあの子はもっと縛られる。だから黙っていた。十年、黙っていた。


 その十年が悔いだった。


 もっと早く、声を上げていれば。もっと早く、誰かに告げていれば。あの子の指が裂けて血が絹に染みた冬を、私はただ見ていることしかできなかった。


 馬車の窓に、頬を寄せる。冷たいガラスごしに、流れていく畑を見る。


 ——けれど、と私は思った。


 もし私が早く声を上げていれば、あの子は守られなかった。職人の名は明かさぬ、という取り決めの中で、私が口を開けばお嬢様はもっと深い場所へ縛られていた。私が黙っていたから、あの子は十年、せめて針だけは握り続けられた。布の裏に、自分の名を残し続けられた。


 黙ることが、あのときの私にできる守りだった。


 悔いは消えなかった。けれど、悔いの隣に、もう一つの形が並んだ。私は、できることをした。針と糸を渡すことしか、できなかった。けれど、それを、十年やめなかった。


 窓の外を、一羽の鳥が馬車を追い越して飛んでいった。北東へ。私の行く方へ。


 悔いを、その鳥に少しだけ預けた気がした。




 三日目の夜は、雨だった。


 宿場の小さな部屋で、私は針箱を膝に乗せ、糸の見本帳をめくっていた。一枚ごとに、布の切れ端が貼ってある。北方の羊毛。南方の絹。亜麻。木綿。五十年、私が手に取ってきた布の記憶が、その薄い帳面に全部しまわれていた。


 屋根を打つ雨の音が、ティナお嬢様の最後の朝を思い出させた。


 あの朝も、雨だった。


 あの子は、屋根裏で荷物をまとめて夜明け前に屋敷を出た。私は、裏門で待っていた。誰にも見送られないと思っていたあの子に、せめて一人くらいは、と。


 手のひらに置いた銀針を、あの子は長く握っていた。それから、十年で初めて私の名を呼んだ。


「マリエッタ」


 と、あの子は言った。


 たった一言だった。けれど、その一言には、十年分の沈黙が全部こもっていた。あの子が、どれほどの言葉を飲み込んできたか。私にはそれが分かった。同じ屋敷で、同じだけ飲み込んできたから。


「はい。ここにおります」


 私はそう答えた。十年、あの子に名を呼ばれて、初めて返せた返事だった。


 あの子は、深く深く頭を下げた。言葉は、出てこなかった。出てこないのが、いちばん正しかった。


「行きなさい。お嬢様の場所は、ここではないのです」


 私はそう言って、あの子を送り出した。


 いつか、あの裏地を見つける者が現れます。糸は、嘘をつきませんから——と。


 あれから半年と、いくらかが過ぎた。


 糸は、嘘をつかなかった。王妃陛下の蔵で、百二十着のドレスの裏地がすべてあの子の名を語った。私は自分の指で、いちばん古い断片の裏地を辿った。そして自分の声で、陛下の前にあの子の名を生んだ。


 お嬢様の十年が、ようやく光を浴びた。


 雨の音を聞きながら、二つ目の重荷を下ろした。


 それは、果たせぬまま死ぬのではないか、という長い恐れだった。


 齢七十二。針を握って五十年。私にはずっと一つだけ、果たしたい願いがあった。死ぬ前に、あの子の名を世に出すこと。それだけが、私が残る年月でやり遂げたいことだった。


 その願いは果たされた。間に合った。


 私は、間に合ったのだ。




 雨は、夜のうちに上がった。


 四日目の朝、馬車が再び走り出すと、窓の外に見たことのない遠い山が見えた。青く霞んだ稜線が、空との境を縁取っている。あの山のどれかを越えればファーデンなのだと、御者が珍しく口を開いて教えてくれた。


「お客さん、王都の人かい」


「五十年、王都におりました」


「七十からの旅は、難儀でしょう」


「いいえ」


 私は首を振った。


「会いに行く人がおりますから」


「ほう。ファーデンに、身内でも」


「身内ではございません。ですが、身内よりも長く、見てきた子でございます」


 御者は、それ以上は訊かなかった。ただ、ほんの少し手綱をゆるめてくれた。揺れが、やわらかくなった。


「あと三日も揺られりゃ着きまさあ。山が出てきたら、もう半分だ」


「では、もう半分でございますね」


「ええ。冷えますから、膝はしっかり包んでおくんなさい」


 無口な男にしては、長く喋った方だった。私は布袋から肩掛けを出して、膝の針箱ごと包んだ。


 会いに行く人がいる。


 その言葉を自分の口から聞いて、私は驚いた。五十年、誰かに会いに行ったことなどなかった。私はいつも、屋敷で誰かを待つ側の者だった。針を渡し糸を渡し、客を迎え主を見送る。動かないのが、侍女頭の仕事だった。


 その私が今は馬車に乗って、人に会いに行っている。


 膝の針箱が、こと、と鳴った。




 五日目、六日目と、街道はだんだん険しくなった。


 山あいの道は細く、馬車は何度も大きく傾いた。そのたびに、私は針箱を両手で抱えた。中に針はない。それでも、この箱だけは落とすわけにはいかなかった。


 なぜ、針のない箱をこれほど大事に抱えているのだろう。


 六日目の宿で、私はその答えをようやく見つけた。


 針は、渡すものだ。


 私の五十年は、針を渡すことだった。手元に針を握り込んで、自分のために何かを縫う五十年では、なかった。私の針は、いつも誰かの手に渡るためにあった。だから——空になった針箱こそが、私の五十年のいちばん正直な姿なのだ。


 渡し終えた。だから空なのだ。


 私は、空の針箱をもう一度そっと撫でた。


 三つ目の重荷が、下りた。


 それは、自分には何もなかった、という長い寂しさだった。


 名のある仕事をしたわけではない。後に残るものを縫ったわけでもない。私はただ針を渡し、糸を渡しただけの老いた侍女頭だ。世が私を覚えることはない。


 けれど——その渡した針の一本が、半年前に世界を動かした。


 私が裏門で渡した銀針が、あの子の十年を支えた。あの子が裏地に残した名が、王妃陛下の蔵で見つかった。その発端を辿れば、針と糸を渡し続けた名もない侍女頭が一人、いる。


 私はそれを誇らない。誇るようなことではない。私は、自分にできることをしただけだ。


 ただ——あの一本の針が、あの子の手の中で、どんなふうに生きてきたのか。それを、この目でもう一度見たい。


 その願いだけが、寂しさの底から静かに立ち上がってきた。




 七日目の朝、最後の峠を越えた。


 馬車がゆっくりと坂を登りきると、御者が手綱を引いて馬を止めた。


「お客さん。あれが、ファーデンでさあ」


「あれが」


「ええ。塩で栄えた町じゃないが、布と革の職人が多うござんしてね。腕のいいのが集まる町でさ」


「布の職人が」


「ええ。お探しの方も、布のお人ですかい」


「布の人でございます。世にいちばん丁寧に、布を読む子でございます」


「そりゃあ、いい町に流れ着きなすった」


 御者は、そう言って前へ向き直った。


 私は窓から身を乗り出した。


 眼下に、盆地が広がっていた。


 石造りの古い家屋が、街道沿いに肩を寄せ合っている。町の中央で、小さな噴水が光を弾いていた。朝の薪の煙が、町のあちこちから細く立ち上り、空の低いところで淡くひとつに溶けていた。


 貴族街の、塗り固めた華やぎは、どこにもなかった。ただ、人が暮らして働き、誰かに何かを渡している町だ。


 あの町のどこかに、あの子がいる。


 名もなく縫い続けた十年を脱ぎ捨て、自分の名で看板を掲げている。自分の手で布を選び、自分の店で針を握っている。


 胸の奥で、何かが静かにほどけた。


 十年、私が布の裏で抱え続けた、あの子の名。半年前、それは光を浴びた。けれど私はまだ、光を浴びたあとのあの子を見ていなかった。


 会えば、分かる。あの子が、本当に自分の手で生きていけているか。布を読む指が、まだ達者か。裏地に名を残すあの祈りが、今はどんな名前になっているのか。


 私は針箱をぎゅっと抱きしめた。


 王都にとっては、何もかも遅すぎたのだろう。崩れた家も、追われた者も、もう戻りはしない。もう遅い。あの大きな屋敷の白い四角の影は、もう二度と絵で埋まることはない。


 けれど、私には。


 私には、間に合った。


 死ぬ前に、あの子の名を世に出せた。死ぬ前に、あの子のもとへ来られた。七十二の体で、七日の山道を越えてここまで来られた。


 間に合わなかった者ばかりの物語の中で、私だけが間に合ったのだ。


「マリエッタ」


 あの朝の、あの子の声が、耳の奥でもう一度鳴った気がした。


 今度は私が呼ぶ番だった。


 あの子の名を、十年、布の裏でだけ呼んできた。今度は本人の顔を見て、声に出して呼ぶのだ。


「……お嬢様」


 私は馬車の窓ごしに、まだ姿の見えない町へ向けて小さく呼びかけた。


 御者が、手綱を持ち直した。


「下りますかい」


「ええ」


 私は針箱を胸に抱え直した。空の箱は、軽かった。けれど、その軽さの中に、五十年分のいちばん確かなものがまだ残っている気がした。


「下ります。会いに、参ります」


 馬車が、最後の坂をゆっくりと下り始めた。


 車輪が石を踏むたびに、膝の針箱がこと、ことと鳴った。


 その音は、もう重くなかった。

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