第27話: 詐欺罪追及
帳簿というものは、嘘をつかない。
私——アルベール・ランドルフは、四十年そう信じてきた。数字は人の言葉とは違う。誇張もしなければ忖度もしない。書かれた通りのことだけを黙って語る。
ならば、今この卓に積まれた帳簿が語っているのは何なのか。
書斎の卓には、革表紙の帳簿が四冊と、王宮の紋章の押された書状が一通並べて置かれていた。
書状は昨夕、王家の使者が届けていったものだ。封蝋を切ったのは私の手だが、その先を読み通したのは夜が明けてからだった。一度読めば足りる文面ではなかった。三度読んでようやく、これが家の終わりを告げる紙だと分かった。
継嗣資格を剥奪されて、まだ七日と経っていない。
あの大広間で、私は仰せの通りでございますと答えた。それで済むと思っていたわけではない。けれど罪を認めることと、罪が形を持って戻ってくることとは別のことだった。認めた罪は、こうして数字になって返ってきた。
扉が控えめに叩かれた。
「旦那様。モロー殿が、お見えでございます」
家令のギルベールだった。三十年この家に仕えてきた白髪の男だ。
「通せ」
「……あの方は、よい知らせを携えて来る方ではございません。よろしいので」
「よい知らせなど、もう来ぬ。通せ」
顧問弁士のモローは、痩せた手に革の鞄を抱えて入ってきた。
卓の上の帳簿を一瞥して、彼は浅く息を吐いた。安堵の息ではなかった。これから話すことの重さを先に量る息だった。
「公爵様。王宮の追及の筋が、はっきりいたしました」
「言え」
「詐欺罪に、ございます」
私は表情を動かさなかった。動かさないのは若い頃からの癖だった。場が悪いほど顔は静止させる。それが家長というものだと父から教わった。
「続けろ」
モローは革の鞄から書付の束を取り出した。卓の隅に積み、一枚を私の前に滑らせる。細かい数字の列だった。
「過去十年、この家には各家から仕立ての発注が数多く参っておりました。あの専属の手で一着を、と。ベルロワ家、アルテミア家、名のある伯爵家から。代金はいずれも相場の三倍、四倍」
「相場の、四倍か」
「ええ。一着のドレスに、領地ひとつの年貢ほどの代金が付くこともございました。常ならば、誰もが訝しむ額でございます」
「だが、誰も訝しまなかった」
「ランドルフ家の専属の手なら、と。その一言が、額を黙らせておりました」
「知っている」
「ええ。公爵様はご存じでした」
モローは、私の顔をうかがった。
「問題は、その代金が何への対価だったか。そこにございます」
モローは、私の目を見た。
弁士という人種は依頼人の顔色を読むのに長けている。彼は私が取り乱さないことを、もう見抜いていた。だから言葉を飾らなかった。
「あれは仕立ての代金では、ございません。便宜の見返りでございました」
その一言が、書斎の静けさの中に落ちた。
私は卓の数字をもう一度見下ろした。便宜。ベルロワ家の港の関税。アルテミア家の鉱山の採掘許可。伯爵家の領境の裁定。この十年、私が王宮で口添えし、評定の席で都合をつけてやった一つ一つだった。
その見返りが、表向きは仕立ての代金として、この家に流れ込んでいた。
「公爵様は、ドレスをご注文と思って受けておられた。各家もドレスを頼んだ体を取っていた。されど、双方とも本当に欲しいものは別にあった。違いますか」
「……違わぬ」
「ドレスなど、一着も要らなかったのでございましょう。要ったのは、公爵様の評定の席での一言。それが仕立ての形をまとって、ここへ流れ込んでおりました」
仕立ては名目に過ぎない。名目が立つだけの腕が、この家に一つだけあったから、それを隠れ蓑にできた。
ティナ・ファブリツィアの腕が。
「公爵様」
モローが、低く言った。
「その仕立てが、いまや果たせませぬ。職人がおりませぬゆえ」
「……分かっている」
「ベルロワ家からは、この春の発注が三着。すでに代金は納められております。されど仕上げる手がございません。アルテミア家からも二着。同じく代金は先に。これらを、どういたしますか」
「返せばよい」
「金は返せましょう。されど王宮の目にはこう映ります。仕立てを請け負い代金を取り、何も納めなかった、と。それが一つ二つではない。十年分でございます」
モローは、書付をもう一枚、私の前へ滑らせた。
「果たせぬのに代金だけは受け取った。さらに過去の発注も——あの華やかなドレスの数々も、代金に見合う仕立てではなかったのではと、追及の手が伸びております。受け取った金が仕立ての対価でないなら、それは何の金だったのか。王宮は、そう問うております」
「王宮が問うているのは、その金が何だったか。一言で申せば——」
「言うな」
私は、モローを遮った。
「言わずとも、分かっている」
モローは、口をつぐんだ。けれど、言わなかった語は、もう部屋の中に立っていた。
賄賂。
仕立てを名目にした賄賂。四十年、私はこの言葉を自分の家から遠ざけてきた。遠ざけることで見ずに済ませてきた。けれど言葉は、遠ざけても消えはしない。遠ざけた分だけ、よく肥えて戻ってくる。
「金額は、いくらになる」
「すべて返納を命じられれば——」
モローは、書付の最後の一枚をめくった。
「この家の立ちゆく額では、ございません」
私は椅子の背に身を預けた。
窓の外で、庭師が枝を片付けている。妻が自室の窓からいつも眺めているという、あの律儀な男だ。春先の白い光が、片付けられた地面に長く落ちていた。家がどうなろうと、庭は次の春を待っている。その変わらなさが、今朝の私には奇妙に遠かった。
「モロー」
「は」
「家を立て直す筋は」
弁士は、答えるまでに間を置いた。間を置くこと自体が答えだった。
「……正直に申し上げて、ございません」
「では、軽くする筋は」
「返納を分割に嘆願することはできましょう。されど、それもこの家にまだ払う当てがあると示せた場合のみ。当てとは——」
モローは、卓の帳簿に目を落とした。
「あの仕立ての腕を取り戻すこと。それが唯一の当てでございました」
あの仕立ての腕を取り戻すこと。
モローの言葉は、弁士として正しかった。家の格は、ティナ・ファブリツィアの手の上に乗っていた。その手さえ戻れば、各家への発注も果たせる。仕立ての代金は仕立ての代金として辻褄が合う。賄賂は辛うじて仕立てに化け直す。
けれど私は、誰より早く、それが不可能だと知っていた。
あの娘は、戻らない。
戻らないことを、私は息子の継嗣資格が剥がれたあの大広間で確かめていた。裁かれる場に、あの娘はいなかった。王宮が十年使い潰した令嬢の名を明らかにし、社交界がその手柄を本物の作者へ返そうとしているのに、本物はそこにいなかった。遠い辺境にいて、来なかった。呼ばれもしないうちから、来ない者として不在だった。
あの不在が、答えだった。
王宮が報いようとしても来ない者が、自分を使い潰した家のために戻るはずがない。それを当てにして嘆願するなど、もう一度あの娘の手を勘定に入れることだ。十年やってきたことを、家が傾いてからもう一度やることだ。
「モロー」
「は」
「その当ては、ない」
弁士が、顔を上げた。
「あの娘は戻らぬ。この家のために針を持つことは二度とない。それを当てにした嘆願は、するな。みっともない」
「……失礼ながら、公爵様」
モローが、めずらしく食い下がった。
「家を残せる、最後の筋でございます。お試しになる価値は」
「ない」
私は、言った。
「あの娘を呼び戻せば家は残る。お前はそう言う。だが、それは何だ。家を残すためにもう一度あの娘の手を当てにすることだ。十年それをやって、家はここまで来た。傾いた家を立て直すのに、また同じ手を使うのか。私はそれだけはせぬ」
モローは、口を閉じた。
モローは、しばらく私を見ていた。
それから、深く頭を下げた。
「……承知、いたしました」
彼が頭を下げたのは、嘆願を諦めたことへの礼ではなかったと思う。当てもないのに当てがあるふりをしろと私が命じなかったことへの、礼のようだった。弁士は、嘘で取り繕う依頼人を毎日のように見てきたのだろう。
「では、私は」
モローは、革の鞄を抱え直した。
「返納の最も穏当な手筈を調えて参ります。家を残す筋は、もうございません。されど家の名を辛うじて泥の中から拾い上げる筋なら——」
「あるのか」
「一つだけ。素直にすべてを認めることでございます。隠さず、抗わず。それだけが、この家に残された唯一の品でございます」
大広間で、私が選んだ道だった。仰せの通りでございます、と。弁士は、その続きを家の外でもやれと言っていた。
「分かった。行け」
モローは、もう一度浅く頭を下げて書斎を出ていった。
一人になった書斎で、私は帳簿を一冊ずつ開いた。
十年分の数字が、そこにあった。各家からの発注。法外な代金。家を通したという名目で、どこへも渡らなかった給金の欄。その欄だけが十年、空白だった。職人へ支払うべき額を書く欄が、ただの一行も埋まっていない。
その空白を、私ははじめてまっすぐ見た。
帳簿は嘘をつかない。私はそう信じてきた。けれど、この帳簿は十年嘘をつき続けていた。代金は書かれ、給金は書かれていない。書かれていないものは、なかったことになる。ティナ・ファブリツィアという手は、この家の帳簿の上で十年、なかったことにされていた。
なかったことにしてきたのは、妻だった。息子だった。
そして、それを止めなかったのは私だった。
私は、気づいていなかったわけではない。
四十年、家長として帳簿に目を通してきた。給金の欄が空白なのを、見なかったはずがない。あの娘が令嬢だということも、借財の代わりに来た子だということも知っていた。知っていて、問わなかった。問えば、家の格がどこから来ているのかを自分の口で言葉にせねばならなくなる。
だから私は、妻の差配に任せた。
あれは家のことだ、と。女のすることだ、と。そう言って書斎の扉を閉めた。閉めた扉の向こうで、一人の令嬢が十年、針を握り続けた。その針が縫い出す布の格を、私は評定の席で売り、見返りを受け取り、帳簿に仕立ての代金として書かせた。
共犯。その言葉が、頭の隅をよぎった。
妻は、自覚なき搾取者だった。家のため、社交界のため、これが当たり前だと心底信じていた。息子は、見栄っ張りで浅はかな空っぽの器だった。けれど私は何だ。私は二人と違って、見えていた。見えていて、見なかった。
二人より、たちが悪い。
扉が、また叩かれた。
今度は、ギルベールではなかった。
「父様。少し、よろしいでしょうか」
娘の、アデリーナだった。
「入れ」
扉が開き、娘が入ってきた。十八になる末の子だ。兄とよく似た顔立ちをしているが、表情が違う。兄の顔には常に何かを欲しがる色があったが、娘の顔にはそれがない。
娘は、卓の上の帳簿の山を見た。何が起きているか、もう察している目だった。
「家は、もう立ちゆかないのですね」
私は、すぐには答えなかった。長い沈黙のあとに短い言葉を置くのが、家族に対する私の流儀だった。けれど娘は、その沈黙を待てる子だった。急かさず、卓の前に立って、私が口を開くのを待った。
「……ああ」
「父様のせいだと、王宮は」
「私のせいだ。王宮がそう言わずとも」
娘は、目を伏せなかった。私を責めもしなかった。ただ、その答えを受け取った。
娘は、卓の帳簿に手を伸ばした。
「見ても、よろしいですか」
「好きにしろ」
一冊を開き、ページを繰る。賢い子だが、針のことも数字のことも、特に学んだわけではない。それでも娘は、給金の空白の欄で指を止めた。
「ここが、ずっと空いています」
「ああ」
「十年、空いています」
「ああ」
「これは、ティナさんに渡すはずだったお金の欄ですね」
「そうだ」
娘は、その空白の上に指を置いたまま、しばらく動かなかった。娘がはじめて気づいたのではない、と私には分かった。娘は、ずっと前から気づいていた。気づいていて、止められなかったことを悔いている子だった。それは私の悔いと、同じ形をしていた。違うのは、娘がまだ十八で、私が五十八だということだけだった。
「父様」
娘が、顔を上げた。
「私たちは、ティナさんに返せるものを持っていますか」
ティナさん、と娘は言った。この家で、あの娘の名にさんを付けて呼ぶ者は、娘だけだった。
返せるもの。
私は、卓の数字を見た。返せる金は、もうない。各家へ返納すれば、この家は空になる。家の格も、もうない。社交界はランドルフの名を笑い話の中に放り込んでいる。腕も、ない。あの腕は最初からこの家のものではなかった。
「金は、ない」
私は、言った。
「格も腕も、ない。返せるものなど、この家には一つも残っていない」
娘の顔が、わずかに曇った。けれど、退かなかった。私の言葉の続きを待っていた。
私は、長く黙った。
「では、何も、ないのですね」
娘は、そう言った。落胆ではなかった。確かめる声だった。
「金も、格も、腕も。何も返せるものは、ないのですね」
「ない」
「……本当に、何も」
「アデリーナ」
私は、娘の目を見た。
「お前は、何が返せると思って、ここへ来た」
娘は、すぐには答えなかった。今度は、娘のほうが沈黙を選んだ。私の流儀を、娘は私から受け継いでいた。
返せるものがないのは、本当だった。けれど、娘の問いはそういうことを聞いていない気がした。娘が聞いていたのは、金や格の話ではなかった。この家に、まだ筋を通せる人間が残っているか。それを聞いていた。
大広間で、私はその答えを一度見ていた。
あの場で、自分の言葉で詫びるものを持っていたのは娘だけだった。父は罪を認めることしかできず、母は青ざめて立ち、息子は何一つ差し出せなかった。娘だけが列を崩して、一人で進み出た。ランドルフ家の娘としてではなく、アデリーナという一人の人間として頭を下げた。
あの細い背中を、私は後ろから見ていた。見ながら思った。家の中でまっすぐに伸びていたのは、あの背中だけだと。
「アデリーナ」
私は、娘の名を呼んだ。
「お前は、あの場で頭を下げた。家を代表してではなく、自分の言葉で。なぜだ」
娘は、少し驚いた顔をした。私がその話をするとは思っていなかったのだろう。
「……自分の言葉で詫びるものを持っていたのが、私だけだったからです」
大広間の外、馬車の中で、娘が兄に答えたのと同じ言葉だった。私は、その馬車に同乗していた。窓の外を見ながら、娘の声を聞いていた。聞いていて、何も言わなかった。
「持っていたのか。お前は」
「兄を、止められませんでした。十年、ティナさんの縫ったドレスを着て舞踏会で笑っていました。気づいていて、何もしなかった。それも私の罪です」
「罪を持つことが、なぜ、詫びる資格になる」
私は、そう問うた。問いながら、自分が娘に答えを乞うていることに気づいた。家長が、十八の娘に。
「罪を持っていない者は、何も返せないからです」
娘は、迷わず言った。
「兄様は、自分が空っぽだと知って言葉を失いました。空っぽの人は、詫びるものを持っていません。母様も、父様も。何かを失ったとしても、それは自分の格や財です。ティナさんに返すものではありません。私だけが、自分の罪を自分の言葉で詫びる形に変えられます。だから、私が行きます」
私は、娘の言葉を胸の奥で繰り返した。
罪を持っている者だけが、詫びるものを持っている。
ならば、この家でいちばん重い罪を持っているのは私だ。見えていて見なかった私だ。私が誰より、詫びるものを持っているはずだった。
けれど私には、それを差し出す術がもう残っていなかった。家督は当代限り。私が頭を下げても、家が終わるだけだ。私の詫びは、家の終わりと一緒に泥の中に沈む。
「父様」
娘が、静かに言った。
「私は、いつかティナさんに会いに行くと、王妃陛下の前で願い出ました。自分の言葉で、詫びると」
「聞いている」
「金で返せないなら、せめてそれだけは。私の代で、果たします」
私の代で。
その一言が、書斎の空気をわずかに動かした。
娘は、自分が家を継ぐことを、まだ言葉にしていなかった。継嗣資格を失ったのは兄であり、家督存続は当代の私限り。後継を誰にするかは、家自身に委ねられている。けれど娘は、私の代で、と言った。
娘は、もう覚悟していた。この傾いた家を、泥の中から名だけでも拾い上げる役目を、自分が引き受けることを。
私は、娘の顔を見た。
兄に似た顔立ちで、けれど欲しがる色のない目で、娘は私を見返していた。怖くないわけがなかった。空になる家を継ぐのだ。怖くないはずがない。それでも、退かなかった。あの大広間のまっすぐな背中のまま、娘は立っていた。
私は、長い沈黙のあとで、短く言った。
「無理を、するな」
それが、家族に対する私の精一杯の言葉だった。命令調でも敬語でもない。ただ、案じる一言だった。四十年連れ添った妻にも、二十四になる息子にも、私はこんな言葉をかけたことがなかった。かけ方を、知らなかった。
娘は、少しだけ笑った。
「無理は、父様たちが十年してきたことです。私がするのは、その後始末です。後始末は、無理とは言いません」
私は、何も返せなかった。
返す言葉を持っていなかった。十年の無理を後始末と呼んでのける子の前で、私が言えることは、もう何も残っていなかった。
「下がりなさい」
私は、辛うじてそう言った。娘は、深く礼をして書斎を出ていった。扉が閉まる音が、いつもより柔らかかった。
娘と入れ替わるように、もう一人、扉口に立つ者がいた。
妻だった。冬の舞踏会以来、自室から出ない妻が、廊下に立っていた。寝間着の上に羽織りを掛けただけの姿で、痩せた手が、扉の枠に添えられていた。
「……あの子に、何を話していたのです」
妻の声は、低かった。問い詰める声ではなかった。ただ、聞き取れない言葉を聞こうとする声だった。
「家のことだ」
「家は、もう」
妻は、そこで言葉を切った。家は、もう、の先を、妻は言えなかった。四十年、家の格を守ることに自分の価値の全てを賭けてきた女だった。その家が終わると、妻は口にできなかった。
「アガタ」
私は、妻の名を呼んだ。久しく呼んでいなかった名だった。
「お前と私は、同じものを見てこなかった」
妻が、私を見た。
「私はお前に任せた。お前は家のためと信じた。二人で、一人の娘の名を帳面から外した。お前のせいでも私のせいでもない。二人のせいだ」
妻は、しばらく黙っていた。それから、扉の枠に添えた手を、そっと離した。
「……今さら、それを言うのですか」
「今さらだ」
私は、認めた。
「何もかも、今さらだ」
「では、なぜ言うのです」
妻の声が、わずかに揺れた。問い詰めではなかった。すがるような響きだった。
「言ったところで、家は戻りません。あの娘も、戻りません。何も変わらないのに、なぜ」
「変えるために言うのではない」
私は、卓の帳簿に目を落とした。
「四十年、私はお前に任せて見なかった。見なかったことを、せめて今夜だけは言葉にしておきたかった。それだけだ」
妻は、それ以上は何も言わず、廊下の奥へ消えていった。引き止めはしなかった。四十年の沈黙を、今夜の一言で埋められるとは、二人とも思っていなかった。
一人に戻った書斎で、私は卓の帳簿を閉じた。
数字は、もう見なくても分かっていた。家は終わる。各家への返納で、財はなくなる。詐欺の追及は、これからしばらくこの家を打ち続けるだろう。私は、その全てを抗わずに受けるしかない。それが、弁士の言う最後の品だった。
私は、椅子から立ち上がり、窓辺へ寄った。
庭では、まだ庭師が枝を片付けていた。春先の光が、地面に長く落ちている。私はその光をしばらく見ていた。見ながら、四十年見て見ぬふりをしてきたものの総量を、はじめてまっすぐに勘定した。
給金の空白の欄。あの娘の名のない十年。妻の偽証。息子の愚行。私の沈黙。それらが今、詐欺という一つの形にまとめられて、家へ返ってきていた。一度に、全部。
もう、遅い。
その言葉が、書斎の静けさの中に静かに沈んだ。家を立て直す術はない。あの娘を呼び戻す筋もない。呼んでも来ない。来るはずがない。私が誰より早く、それを知っていた。賢いというのは、こういう時、何の救いにもならなかった。挽回できないと、誰より先に分かるだけだった。
けれど。
私は、窓辺でもう一つのことを考えていた。
家は終わる。財も格も、終わる。それでも、家の名を泥から拾い上げる役目を引き受けると言った子が、一人いた。
あの娘が、いつか辺境へ向かう。自分の言葉でティナ・ファブリツィアに詫びるために。金でも格でもなく、自分の言葉だけを携えて。それが、この家が最後にできるたった一つのまともなことかもしれなかった。
私は、そう思った。
北東の街道の、馬車で何日もかかるその先。あの娘の手で布が縫われている遠い辺境のどこか。いつか娘が、その道を行く。そのとき、娘が携えていくものを、私は今、用意してやらねばならない。金ではない。家の権威でもない。
私が、四十年閉ざしてきた書斎の扉を開けること。
帳簿の空白の欄に、はじめて一つの名を書き込むこと。ティナ・ファブリツィア、と。なかったことにしてきた手に、せめて名だけでも返すこと。
私は、卓へ戻った。
閉じたばかりの帳簿を、もう一度開いた。十年空白だった給金の欄を指で辿った。そこに名を書いたところで、金は渡らない。十年は戻らない。何もかも、遅すぎる。
それでも、私は羽根ペンを取った。
遅すぎると分かっていて、なお書かねばならない一行が、家長にはある気がした。娘が辺境へ持っていく言葉のいちばん下に、私の手で添えるべき一行が。
私は、扉のほうへ声をかけた。
「ギルベール。まだ起きているなら、アデリーナを呼べ」
しばらくして、娘がまた扉口に立った。寝支度を解いて来たのだろう。怪訝な顔をしていた。
「父様。何か」
「いつか辺境へ行くと言ったな」
「はい」
「そのとき、これを持っていけ」
私は、開いた帳簿を、娘のほうへ向けた。十年空白だった給金の欄を、指で示した。
「ここに、名を書く。ティナ・ファブリツィア、と。金は渡せぬ。十年は戻せぬ。それでも、この家が一度でもあの娘の名を帳面に記したという、その一行だけは、お前が持っていける」
娘は、しばらく、その空白を見ていた。
「……父様が、お書きになるのですか」
「私が書く。十年、この欄を空けてきたのは私だ。埋めるのも、私だ」
娘は、何も言わなかった。ただ、深く頷いた。その頷きが、家を継ぐ者の頷きに見えた。
「下がってよい。書き終えたら、お前に渡す」
娘が、出ていった。
窓の外で、春先の風が北東のほうから吹いてきた。
その風の行く先に、あの娘がいる。
私は、空白の欄にペンを置いた。




