第26話: 継嗣資格剥奪
召喚状は、たった三行だった。
俺——ヴィクトル・ランドルフは、その三行を握りしめたまま、王宮の大広間へ続く長い廊下を歩いていた。
三行のうち二行は型どおりの文言で、最後の一行だけが俺の足元を奪った。家中の者を残らず連れて参内せよ、と。残らず。家の不始末を詫びる席なら、当主一人で済むはずだった。残らず、と書かれているということは、これが詫びの席ではないということだった。
俺は、それを理解していた。理解しながら、まだどこかで信じていなかった。
大広間の扉が、内側から開かれた。
高い天井から下がる旗の連なりと、両側に並んだ列柱が、まず目に入った。柱の間には、見知った顔がいくつもあった。観劇の桟敷で隣り合った貴公子。母の茶会に来ていた伯爵夫人。半年前まで俺に向かって笑いかけていた者たちが、今は誰一人笑っていなかった。
彼らは、招かれて来ていた。
ランドルフ家が裁かれるのを見るために。
俺は背筋を伸ばして歩こうとした。父の隣を、当主の嫡男として。けれど膝が、思うように動かなかった。広間の床は磨き上げられていて、自分の足音が場違いなほど高く響いた。その音だけが、俺がまだ立って歩いていることを証明していた。
広間の奥、一段高い場所に、王妃エレオノーラが座していた。
銀色の髪を結い上げ、控えめな装いをしている。けれど、その控えめさが、かえって場の全てを支配していた。王妃は俺たちが入ってくるのを、まっすぐに見ていた。怒ってはいなかった。憐れんでもいなかった。ただ、量る目だった。父が俺を見た、あの書斎の目と同じだった。
俺たちは、王妃の前で足を止めた。
父が先に、深く礼をした。母が続いた。母は冬の舞踏会以来、人前に出ていなかった。久しぶりに見る母の顔は、化粧でも隠しきれないほど痩せていた。妹のアデリーナが、母の後ろでそっと頭を垂れた。
俺も、礼をした。礼をしながら、自分の襟元に目を落とした。
仕立屋に急かして仕上げさせた、一番上等の正装だった。けれど糸が、どこか落ち着かなかった。襟の合わせの縫い目が、ほんのわずかに浮いて見えた。気のせいだと思おうとした。針のことなど、俺には分からない。分からないはずだった。
王妃が、口を開いた。
「面を上げなさい」
優雅で、簡潔な声だった。命令調ではなかった。けれど誰一人、逆らえなかった。
俺たちは顔を上げた。王妃の傍らには、白髪の侍従長が控えていた。その手に、分厚い帳面のようなものが抱えられていた。いや、帳面ではなかった。布だった。何枚もの古い布が、番号を打たれて重ねられている。俺には何の意味も読み取れなかった。けれど、それが何か恐ろしいものだということだけは分かった。
「ランドルフ公爵」
王妃は、まず父の名を呼んだ。
「貴家は長年、一人の職人を抱えていると言い続けてきましたね。ランドルフ家の専属職人と」
「……仰せの通りでございます」
父が、低く答えた。
「では、その者の姓名は」
父は、答えなかった。
「雇い入れの年月は。給金の記録は。今、どこにいるのか」
父は、何も言えなかった。長い沈黙のあとに短い一言を置くのが父の流儀だった。けれど今、その短い一言さえ父は持っていなかった。先の問い合わせに、家は何一つ答えられていなかった。それを王妃は、わざわざこの広間で、一つずつ問い直していた。
王妃が、傍らの侍従長に目をやった。
侍従長が、重ねた布を一枚、王妃の前の卓に広げた。古い、染みの浮いたドレスの裏地だった。
「これは、先王妃陛下の御遺品の一着です」
王妃は、その裏地に指を滑らせた。指先で布目を確かめる仕草だった。
「ここをご覧なさい。襟元の右下。袖口の縫い代。裾の内側に指三本ぶん入ったところ。三箇所に、同じ二重縫いの署名があります。『T.F.』と読みます」
俺の胸の奥で、何かが軋んだ。
ティー・エフ。妹が口にしたあの名の頭文字だった。ティナ・ファブリツィア。父の書斎で答えられなかった名。妹が十年こっそり呼んでいた名。今その頭文字が、王妃の指の先で布の上に光っていた。
「同じ署名が、この衣装室の古いドレス百二十着すべてにありました」
王妃は、静かに言った。静かなのに、広間の隅々まで届いた。
「年代の違う百二十着です。先々代の御代より古いものまで含めて。すべて、同じ手が縫っていました」
広間が、ざわめいた。
「百二十着……」
「十年では、縫ききれぬ数だ」
「ならば、何年だ。その手は、いったい何年——」
列柱の間に並んだ貴族たちが、低く囁き交わした。その囁きが、広間の床を這うように広がっていった。誰もが同じ計算をしていた。百二十着は十年では縫えない。その手は、もっと長く針を握り続けていた。俺にも、それくらいは分かった。
俺は、母を見た。
母は青ざめた顔で卓の上の裏地を見ていた。見ていながら、その目はどこも見ていなかった。母はあの裏地を一度も見たことがなかったのだ。十年あの娘のドレスを社交界に出し続けながら、母は一度も裏地を裏返したことがなかった。
そして俺も、なかった。
俺たちは表しか見ていなかった。表の美しさだけを誇って、それが誰の手から生まれているのかを裏返して確かめることすらしなかった。確かめれば、答えが書いてあったのに。十年ずっと、布の裏側に。
「その手の名を、私はこの場で申し上げます」
王妃が、言った。
「ティナ・ファブリツィア。かつてファブリツィア伯爵家のご令嬢でした」
令嬢、という言葉に、広間がもう一度ざわめいた。「令嬢だと」「あの専属職人が」——囁きが、ふたたび床を這った。
「十二の歳に、借財の代わりとしてランドルフ公爵家へ参りました。表向きは礼儀作法の修養。けれど実態は、専属職人としての貸与でした。それから十年あまり、彼女は社交界に出る装いのほとんど全てを、ただ一人で仕立て続けた。給金は——」
王妃が、わずかに言葉を切った。
「一度も、支払われていません」
俺は、その一言の前で、息を止めた。
給金は一度も。その事実を俺は知っていた。本当は、ずっと知っていた。あの娘に金が渡ったことなど一度もない。家を通すという名目で結局どこにも渡らなかった。知っていて、見ないことにしてきた。給金の話をしなければ、あの娘はただの「専属職人」でいてくれる。令嬢を十年ただ働きさせている事実を認めずに済む。
その全部が今、王妃の口から広間中の耳へと流れ込んでいた。
貴族たちが俺たちを見ていた。父を、母を、俺を。憐れみではなかった。さげすみだった。半年前まで俺に頭を下げていた者たちの目が、今は俺を見下していた。裏地も確かめずに人を使い潰した家の者として。
俺はその視線に晒されながら、自分の襟元に手をやった。
縫い目が、また少し浮いた気がした。
「ランドルフ公爵」
王妃が、ふたたび父を呼んだ。
「王宮の正式な問い合わせに対し、貴家は偽りを述べました。専属職人と称した者が実は伯爵家のご令嬢であったことを伏せ、無給の十年を隠した。これは王家を欺いたことに等しい」
父が、ようやく口を開いた。
「……仰せの通りでございます」
短い一言だった。父はそれ以上、何も言わなかった。言い訳をしなかった。母の名を出さなかった。誰のせいにもしなかった。ただ、仰せの通りですと認めた。
俺は、その父を見ていた。
父が認めるのを聞きながら、俺の中で何かが奇妙にざわついた。父は罪を引き受けた。当主として。それが父にできる最後のことだった。それなら俺は——嫡男の俺は、何をすればいい。何を引き受けられる。
探した。引き受けるべきものを。差し出せるものを。
何も、なかった。
「ヴィクトル・ランドルフ」
王妃が、俺の名を呼んだ。
はじめて、俺の名だった。
「貴公が、その者を屋敷から追い出した。そう聞いています。間違いありませんか」
俺は、答えようとした。答える言葉を探した。違います、と言いたかった。あれは母上が、と言いたかった。けれど、その言葉はもう妹の前で使い果たしていた。ここで同じことを言えば、広間中がそれを聞く。母に罪を押しつける嫡男の声を。
「……間違い、ございません」
俺は、辛うじてそう言った。
言ってから、自分の声が震えていることに気づいた。剣を握る時には震えない声だった。社交界で軽口を叩く時にも震えたことのない声だった。
「その者に、貴公は何と言って追い出したのですか」
王妃が、問うた。
俺は、最後の足掻きで、顔を上げた。
「恐れながら、申し上げます。あの者は、確かに腕の立つ職人でございました。されど、職人を雇い、暇を出すのは、家の裁量に属することかと。我が家が、誰を抱え、誰を放つか——それは、王宮の御指図を仰ぐ筋のものではございますまい」
言った瞬間、自分でも、その言葉の薄っぺらさが分かった。それでも俺は言い募った。尊大さだけが、俺に残された最後の盾だった。それを手放せば、何も残らないと知っていた。
「我が家は、長きにわたり社交界の格を——」
「その格を、誰が縫ったのですか」
王妃が、俺の言葉を切った。
俺は、口をつぐんだ。
「貴公の言う家の格は、貴公が縫ったものですか。それとも、貴公が誰でもできると言って追い出した、その者が縫ったものですか。どちらです」
俺は、答えられなかった。
「お答えなさい。その者に、貴公は何と言ったのですか」
俺の喉が、塞がった。
言えなかった。あの言葉は、ここでは凶器だった。口にすれば、広間中の人間が、その言葉の卑しさを聞く。けれど黙っていれば、それもまた答えになる。言えないということ自体が、答えだった。
広間の沈黙が、俺の上に重く落ちてきた。
そのとき。
俺の後ろで、衣擦れの音がした。
妹のアデリーナが、一歩前へ出ていた。
「恐れながら、申し上げます」
アデリーナが、王妃に向かって言った。
その声は震えていなかった。低く、まっすぐだった。妹は、母の後ろの位置を離れて、俺と父の前に、一人で進み出ていた。
「兄は、あの人にこう言いました。お前の針仕事など、誰でもできる、と」
広間が、しんと静まった。
「私は、二階の窓からそれを見ていました。あの人が、裁縫道具だけを抱えて門を出ていくのを。兄が、その背中に、その言葉を投げるのを。私は、止めませんでした。十八の歳まで、私はあの人の縫ったドレスを着て、舞踏会で笑っていました。気づいていて、何もしなかった。それも、十年です」
妹は、そこで一度、言葉を切った。
そして、深く頭を下げた。
誰に命じられたのでもなかった。
父が、王妃に詫びるのは、当主の務めだった。けれど妹は、務めで頭を下げたのではなかった。妹は、家を代表してすらいなかった。母の後ろを離れ、列を崩し、たった一人で進み出て、自分の名で頭を下げていた。
「ランドルフ家の娘として、ではありません」
妹は、頭を下げたまま言った。
「アデリーナという、一人の人間として、お詫び申し上げます。私たちは、人を使い潰しました。名を呼ばず、給金を払わず、最後に、誰でもできると言って追い出しました。その全てを、私は見ていて、止めませんでした。許されるとは思っておりません。ただ——あの人に、いつか、私自身の言葉で詫びることだけは、お許しいただけるよう願っております」
俺は、妹の下げた頭を、見ていた。
その細い背中が、広間の冷たい床の上で、まっすぐに伸びていた。怖くないわけがなかった。妹の白い項が、はっきりと強張っていた。それでも、退かなかった。
王妃が、しばらく妹を見ていた。
それから、低く言った。
「面を上げなさい、アデリーナ嬢」
妹が、顔を上げた。
「貴女の詫びは、私に向けるものではありません」
王妃の声が、わずかに和らいだ。和らいで、けれど厳しさは消えなかった。
「私に頭を下げても、ティナ・ファブリツィアには届きません。詫びるなら、彼女に。けれど、覚えておきなさい。彼女が、それを受け取るかどうかは、彼女が決めることです。貴女が頭を下げたからといって、彼女が許す義務はありません」
「……承知して、おります」
妹は、そう答えた。
俺は、妹を見ながら、ようやく一つのことに気づいた。
この場で、頭を下げる資格を持っていたのは、妹だけだった。妹だけが、自分の言葉で詫びるものを持っていた。父は罪を認めることしかできず、母は青ざめて立っているだけで、俺は——俺は、何一つ差し出せなかった。
妹は、家の中でただ一人、筋を通していた。
「ランドルフ公爵」
王妃が、ふたたび父に向き直った。声から、和らぎが消えていた。
「王家を欺いた罪は、軽くありません。されど、貴家の罪のうち最も重いものは何だと、お思いになりますか」
父は、答えられなかった。
「王家を欺いたことではありません」
王妃は、卓の上の古い裏地にもう一度指を置いた。
「十年、一人の人間の手を名もなく使い潰したことです。その手が、王宮の名誉を支えていました。先王妃陛下の御衣装も。私の夜会服も。第一王女の、初めての舞踏会のドレスも。すべて、貴家が誰でもできると言って追い出した、その手から生まれていました」
広間の貴族たちが、息を呑んだ。
「では、あの華やかさは……」
「ランドルフ家のものではなかったというのか」
囁きが、列柱の間を走った。彼らもまた知っていたのだ。社交界の華やぎを。その美しさを。誰もがそれを「ランドルフ家のもの」として褒め称えてきた。その褒め言葉が全部、一人の名もない令嬢の手柄を家の名で横取りしていたものだったと、今、はじめて知った。
「よって」
王妃が、言い渡した。
「ランドルフ公爵家の家督については、当代アルベールの代に限り、これを存続とする。ただし——」
王妃の目が、俺へ向いた。
「嫡男ヴィクトル・ランドルフの継嗣資格を、剥奪します」
その一言が、広間の高い天井に反響した。
継嗣資格を、剥奪。
「お、お待ちください」
声が、勝手に口から出た。
「私は、ランドルフ家の嫡男でございます。生まれた時から、そう定められておりました。それを——剥奪、とは。陛下、それは、あまりに……」
「あまりに、何ですか」
王妃が、静かに問い返した。
俺は、その先を続けられなかった。あまりに惨い、と言いたかった。けれど、惨いのはどちらだ。十年、給金なしで令嬢を縫わせ続けたことと、嫡男の資格を一つ失うことと。この広間で、どちらが惨いかを口にすれば、それがそのまま俺に跳ね返ってくる。
俺は、口を閉じた。
継嗣。家を継ぐ者。俺が生まれた時から、それだけは決まっていた。ヴィクトル・ランドルフはランドルフ公爵家の嫡男であり、いずれこの家を継ぐ。俺の二十四年は、その一点を軸に回ってきた。
その軸が今、王妃の一言で抜き取られた。
俺は、立っていた。
立っているのが、不思議なくらいだった。膝から下に力が入らなかった。けれど倒れはしなかった。倒れることすら、俺には許されていない気がした。広間中の目が、俺を見ていた。継嗣資格を剥奪された男を。生まれた時から決まっていた未来を、たった今失った男を。
「家を継ぐべき者は」
王妃が、続けた。
「いずれ、別の者が立つでしょう。それは、ランドルフ家が自ら決めることです。けれど、その者の中に、ヴィクトル・ランドルフの名は、ありません」
俺は、父を見た。
父は、俺を見なかった。父はただ、まっすぐ前を——王妃の足元あたりを見ていた。父の横顔は、書斎で俺に「もうよい」と言ったあの時と、同じだった。あの時、父はもう、俺を継嗣として見ることをやめていたのかもしれない。名を答えられなかった、あの朝に。
母も、俺を見なかった。
妹だけが、一度だけ、俺を振り返った。
その目に、責めはなかった。憐れみも、なかった。ただ、見ていた。最後まで、俺を一人の兄として見ようとしていた。それが、何よりも俺にこたえた。
退出を許されて、俺たちは大広間を出た。
長い廊下を、来た時と同じ順に歩いた。父が先、母が続き、妹が、そして俺が最後だった。来た時は、俺は父の隣を歩こうとしていた。今、俺は列の一番後ろにいた。誰も、俺を隣に呼ばなかった。
廊下の窓から、春先の白い光が差し込んでいた。
その光の中を歩きながら、俺はもう一度、自分の襟元に手をやった。
縫い目が、ほつれていた。
気のせいではなかった。仕立屋に急かして仕上げさせた、その縫い目が、合わせのところで、はっきりと糸を浮かせていた。急ごしらえの縫いだったのだ。腕のいい職人なら、こんな縫い方はしない。あの娘なら、こんな縫い目は決して残さなかった。
俺は、その浮いた糸を、指でそっと押さえた。
押さえても、糸は元に戻らなかった。
ランドルフの屋敷へ戻る馬車の中で、長いあいだ誰も口を開かなかった。
父は窓の外を見ていた。母は俯いていた。妹は膝の上で手を組んだまま目を閉じていた。俺は向かいの座席の隅で、自分の手を見ていた。
馬車が、王宮の門を抜けた頃だった。
「……なぜ、あんな真似をした」
俺は、向かいに座る妹に、低くそう言った。
妹が、目を開けた。
「あの場で、お前一人が頭を下げた。父上でも母上でもなく。家を代表してすらいないと、お前は言った。なぜだ。下げても、お前に得るものなど何もない」
「兄様」
妹は、まっすぐ俺を見た。
「得るものがあるから、頭を下げるのですか」
俺は、答えられなかった。
「私は、得るために下げたのではありません。あの場で、自分の言葉で詫びるものを持っていたのが、私だけだったからです。それだけです」
「自分の言葉で、詫びるもの……」
「兄様には、なかったのですか」
妹は、責める口調ではなかった。ただ、問うていた。俺は窓の外へ目を逸らした。逸らすことしか、できなかった。
なかった。詫びるものなど、俺の中には一つもなかった。
馬車は、それきりまた沈黙に戻った。
白い手だった。針を握ったことのない手。布を縫ったことも繕ったこともない手。
継嗣資格を失った今、俺の中に残っているものは何だろうと考えた。
考えて、何もないことに気づいた。
俺には家督があった。それはもうない。社交界での評判があった。それもない。母の専属職人と誇った腕があった。あれは最初から俺のものではなかった。あの娘のものだった。俺が誇ってきた全部があの娘の手から生まれたもので、俺はただその上に名前を乗せていただけだった。
その娘を、俺は追い出した。
追い出したあとに残ったのが、これだった。名前を乗せる土台を失った、空っぽの名前だけだった。
屋敷に着いて、俺は自室にこもった。
窓辺の椅子に座って、外の庭を眺めた。庭師が、いつも通りに枝を片付けていた。何も変わらない庭の律儀さが、相変わらず俺の気に障った。
翌日から、王都に一枚の絵が出回り始めた。
風刺画だった。下働きの少年が、震えながら告げに来た。
「だ、旦那様……市場で、その……妙な絵が、出回っておりまして」
「絵だと」
「は……旦那様の、お姿に似た絵が、でございます」
俺はその一枚を手に入れさせた。手に入れて、見なければよかったと見た瞬間に思った。
絵の中には、一人の青年貴族が描かれていた。
誰の似姿か、見ればすぐに分かった。最高級の正装を着た整った顔の青年。けれどその服は裏返しに着られていた。裏地が表に出ていた。そしてその裏地のあちこちに、小さな署名が縫い込まれていた。すべて別の人間の手による署名だった。青年は他人の署名だらけの裏地を表のように着て、得意げに胸を張っていた。
絵の下に、題が添えられていた。
『裏地の侯爵令嬢』
俺は、その題の意味を、しばらく掴めなかった。
侯爵令嬢。俺は侯爵ではない。令嬢でもない。けれど、見ているうちに、その嘲りの形が分かってきた。
裏地の中に、本物の作者がいる。表に立って胸を張る男ではなく、裏地に隠された署名の主こそが、本物の貴族の令嬢だ——絵は、そう言っていた。表の男は、ただの抜け殻だ、と。中身は全部、裏地に隠された誰かのものだ、と。
その絵が、王都中に出回った。
茶会で。観劇の桟敷で。若い貴公子たちの集まりで。人々はその絵を回し見ては、口元を歪めて笑った。
「これが、噂の裏地の侯爵令嬢か」
「中身は全部、追い出した令嬢のものだったとさ」
「表で胸を張っていたのは、ただの抜け殻よ」
そういう声が、回し見られる絵の上を流れていったという。ランドルフ家の嫡男だった男を。裏地の中身に全部を負っていた、空っぽの抜け殻を。
俺は、社交界から消えた。
誘いが途絶えたのではない。今度は俺の存在ごと、笑い話の中に放り込まれていた。誰も俺を恐れず、誰も俺に気を遣わなかった。俺は社交界の話の種になって、種のまま忘れられていこうとしていた。
俺は、その風刺画を机の上に長く置いていた。
破り捨てることも、燃やすこともできなかった。
絵の中の青年が、得意げに胸を張っていた。その顔が、俺だった。半年前まで俺はあの顔で社交界を歩いていた。他人の手柄を裏地に隠したまま、表の名前だけで胸を張っていた。あの絵は嘘を一つも描いていなかった。それが、何よりこたえた。
夜になった。
俺は、窓の外の暗い庭を見ていた。
あの娘は、この場にいなかった。
今日、大広間で裁かれたのは俺たちだった。王妃が名を呼んだのも俺たちだった。けれど、その全ての中心にいたはずのあの娘は、広間のどこにもいなかった。王宮が十年使い潰した令嬢の名をようやく明らかにし、社交界がようやくその手柄を本物の作者へ返そうとしているのに——その本物は、もうここにいなかった。
遠い辺境のどこかに、あの娘はいるのだという。
馬車で何日もかかる、北東の街道の先に。
俺は、ふと思った。もし王宮があの娘をこの場に呼んだら。十年の労に報いるため、社交界の真ん中に立たせるために。あの娘は、来るだろうか。
来ない、と俺は思った。
なぜそう思うのか、自分でも分からなかった。けれど確信に近いものがあった。あの娘は、もう戻らない。王都がどれほど手を尽くして呼んでも。報いようとしても。詫びようとしても。あの娘の前ではもう、何もかもが遅すぎる。
遅すぎる。
その言葉が、夜の部屋の中で、俺の胸に沈んでいった。
俺はあの娘がいる間、自分が空っぽであることを認めずに済んだ。あの娘の手が十年、俺の空っぽを覆い隠してくれていた。あの娘を追い出してはじめて、俺は自分の空っぽを見た。妹に告発されてはじめて、言葉を失った。今日、継嗣資格を失ってはじめて、自分が立っていた土台が全部あの娘のものだったと知った。
全部、あの娘がいなくなってからだった。
いる間に気づけば、何か違ったのだろうか。あの娘が門を出ていく、あの背中に別の言葉をかけていれば。お前の針仕事など誰でもできる、ではなく——。
俺は、そこで考えるのをやめた。
別の言葉など、あの頃の俺の中には一つもなかった。今になって思いつくのは、全部を失ってからだ。失ってから思いつく言葉に何の意味がある。あの娘の背中は、もう十年も前に門の向こうへ消えている。
俺は、机の上の風刺画を、もう一度手に取った。
裏返しに着られた服。裏地に隠された、他人の署名。
俺は、自分の着ている服の襟にまた手をやった。馬車の中でほつれた、あの縫い目に。指先で、その浮いた糸を辿った。布のことなど俺は何も知らない。それでも、その糸がもう元には戻らないことだけは指で分かった。
あの娘なら、これを直せるのだろう。
ふと、そう思った。あの細い手なら、この浮いた糸を布が笑うほど美しく縫い直せるのだろう。十年あの娘はそうやって、俺たちの綻びを全部、裏側から縫い直してきたのだ。俺たちが表で胸を張っている間、ずっと。
もう、誰も俺の綻びを縫ってくれない。
あの娘は辺境にいる。妹は自分の言葉で詫びると言った。父も母も、自分のことで手一杯だった。俺の浮いた糸を、もう誰も裏返して見てはくれない。
俺は、窓辺に戻った。
夜の風が、屋敷の窓をかたりと鳴らした。
北東の街道の、その先のどこか。馬車で何日もかかる遠い辺境に、あの娘はいる。布の声を聞ける手を持った、ただ一人の令嬢が。俺が名を答えられなかった、その女が。
俺は、自分の右手を闇の中でじっと見た。
針を握ったことのない手。何も作れない手。継嗣でもなくなった、空っぽの名前を乗せただけの手。この手で俺は、これから何ができるのだろう。
一つだけ、ある気がした。
行く、という選択が。
馬車で何日もかかろうと、辺境のどこかへ。あの娘の前へ。詫びるためではなかった——詫びても、もう遅いことは王妃の言葉で分かっていた。あの娘は許す義務などない。それでも俺は、自分の口であの娘の名を呼びたかった。十年呼ばなかった、その名を。ティナ、と。一度でいい。あの娘の顔を見て。空っぽの俺がはじめて自分の口で見つけた、たった一つの——。
俺は、そこで首を振った。
まだ、何も決めてはいなかった。決められる立場でもなかった。けれど、闇の向こうへ吹いていく風の音を聞きながら、俺はその風の行く先のことを、もう考え始めていた。
翌朝も、王都にはあの風刺画が出回っていた。
俺は、それをもう手に入れさせなかった。
代わりに、下働きの少年を呼んだ。
「地図を持て。王都から北東の、街道の伸びた方角のものだ」
「……北東、でございますか」
少年が、戸惑った顔で俺を見た。北東に、ランドルフ家の用などないはずだった。
「いいから、持ってこい」
俺は、運ばれた地図を机に広げた。指で街道を辿ると、馬車で七日と書かれた先に、小さな町の名があった。ファーデン。
俺は、その名を指の下に置いたまま、長いあいだ動かなかった。
春先の風が、また窓を鳴らした。北東の、その町のほうから吹いてきた風のような気がした。止められない何かを運んでくる風ではなく——今度は俺自身が、その風の行く方へ歩き出そうとしている気がした。
遅すぎる、と分かっていた。
それでも。
俺は、指でその町の名を、もう一度なぞった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第26話、第2アーク「承」の末、ヴィクトル断章の三回目です。妹の告発書状(第22話)と、王宮の百二十着の検分(第16話)が、ついに一つの場所で交わります。王宮の大広間で、ランドルフ公爵家が裁かれ、ヴィクトルは継嗣資格を剥奪されます。生まれた時から決まっていた未来を、彼は一言で失います。
この回で書きたかったのは、「裁かれる場所に、彼女がいない」という一点でした。十年使い潰された令嬢の名が、ようやく王宮で明かされ、社交界がようやくその手柄を本物の作者へ返そうとしている——けれど、その本物のティナは、広間のどこにもいません。遠い辺境にいて、もう戻らない。王都がどれほど手を尽くして呼んでも、報いようとしても、詫びようとしても、彼女の前ではもう全部が遅すぎる。その不在こそが、ヴィクトルにとって一番のざまぁでした。彼が失ったものの大きさは、彼女がそこにいないことで、はじめて本当の形になります。
妹アデリーナを、無双の断罪者にはしたくありませんでした。彼女は家を代表してではなく、一人のアデリーナとして頭を下げます。「私に頭を下げても、彼女には届きません」という王妃の言葉が、この物語の芯です。詫びることと、許されることは、別のことです。アデリーナは、それを承知のうえで、それでも筋を通します。家の中でただ一人、自分の言葉で詫びるものを持っていたのが彼女でした。兄が何も差し出せず立ち尽くす横で、妹の細い背中だけが、まっすぐに伸びていました。
そして風刺画、『裏地の侯爵令嬢』。裏返しに着た服、裏地に隠れた本物の作者。ヴィクトルは、自分が「他人の手柄を裏地に隠して胸を張る抜け殻」だったと、王都中に晒されます。あの絵は、嘘を一つも描いていない——それが、彼に一番こたえます。
ヴィクトルが、辺境への足音を、ようやく自分の中に聞き始めます。詫びても遅い。それでも、十年呼ばなかった名を、一度だけ自分の口で呼びたい。その小さな願いが、彼を北東の街道へ向かわせます。「もう遅い」の物語の、最後の登場人物が、ようやく動き出します。
次話、第27話「詐欺罪追及」。王都の崩壊は、まだ続きます。ランドルフ家の経済の足元が、いよいよ崩れます。そして辺境では——ティナのもとへ、王宮の手が、別の形で伸び始めます。
第2アーク「裏地の真実編」、引き続き、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。
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