第25話: 兄様、おやめください
部屋から、もう何日も出ていなかった。
俺——ヴィクトル・ランドルフは、自室の窓辺に座って外の庭をぼんやりと眺めていた。
春先の白い光が、芽吹きを待つ庭の木々に降りている。庭師だけが、いつも通りに枝を片付けている。何も変わらない庭の律儀さが、今の俺には妙に気に障った。
誰も、俺を呼ばなくなった。
社交界の集まりへの誘いがぱたりと途絶えたのは、もう半月ほど前のことだ。
はじめは病だと言い訳をした。気分が優れぬ、しばらく静養する、と。誘いを断る側に回っているうちは、まだ俺に余裕があった。誘われているのに行かないのと、誘われもしないのとでは、天と地ほど違う。俺はその違いを、二十四年の社交界で骨身に染みて知っていた。
今、俺は誘われていなかった。
観劇の桟敷も若い貴公子の集まりも、夜会の末席ですら俺の名は呼ばれなくなった。理由を口にする者は一人もいない。口にしないからこそ、はっきりと分かる。ランドルフ家の嫡男には、近づかぬほうがいい——そういう空気が社交界にじわりと広がっている。
その空気を作ったのが何なのか。俺は知っているつもりで、知らないふりをしていた。
扉が、軽く叩かれた。
俺は答えなかった。侍女が食事を運んできたのだろう。近頃の俺は、食事も部屋で済ませている。母も自室から出ない。父は書斎にこもったきりだ。広い屋敷の中で、家族はそれぞれ別の部屋で別の沈黙を抱えていた。同じ卓を囲まなくなって、もうずいぶんになる。
扉が、もう一度叩かれた。
今度は、少し強かった。
「兄様。アデリーナです」
俺は、わずかに身を硬くした。
妹が俺の部屋を訪ねてくることなど、近頃は絶えてなかった。アデリーナは俺と廊下ですれ違っても、前のように笑わなくなった。目を合わせなくなった。その妹が、わざわざ俺の部屋の扉を叩いている。
俺は、しばらく答えずにいた。答えなければ、帰るかもしれないと思った。
帰らなかった。
「兄様。少し、お話があります。開けても、よろしいですか」
俺は、扉を見たまま低く言った。
「……入れ」
扉が開いた。
アデリーナが入ってきた。十八になった妹は、俺と似た整った顔立ちをしている。けれど俺と違って、その表情はいつも柔らかかった。今日も、責める顔ではなかった。ただ、いつもより少しだけ青ざめて見えた。
妹は、後ろ手に扉を閉めた。閉めてから扉の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
その立ち方が、俺を落ち着かなくさせた。何か言いに来た者の立ち方だった。用件を切り出すまで、その場を動くまいと決めた者の立ち方だ。
「どうした」
俺は、努めて軽く言った。軽く言えば軽い話になる。これまで俺は、そうやって多くのことを処理してきた。
「珍しいな。お前が俺の部屋に来るとは。何か、母上のことでも——」
「兄様」
アデリーナが、俺の言葉を遮った。
遮られたのは、初めてだった。妹は俺に、これまで一度も逆らったことがない。柔らかい敬語で、いつも一歩引いて俺を立てる子だった。その妹が今、俺の言葉を途中で切った。
「もう、おやめください」
アデリーナは、まっすぐに俺を見てそう言った。
俺は、その言葉の意味をすぐには掴めなかった。
「やめる、とは。何の話だ」
「嘘を、続けることです」
俺の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。父の書斎で「その者の名は」と問われた、あの朝と同じ音だった。
俺は、笑おうとした。
「嘘とは、また穏やかでないな。お前は、いったい何を言っている。兄に向かって、嘘つき呼ばわりか」
「兄様」
「俺が何の嘘をついたと言うんだ。言ってみろ」
声が、少し高くなった。自分でも分かった。
アデリーナは、俺の昂りにわずかも動じなかった。妹は細く息を吸って、それから低い声で言った。
「あの人の、ことです」
あの人。
俺は、その短い一言の前で息を止めた。
誰のことか、問い返すまでもなかった。問い返せば、知らないふりが続けられる。けれど妹の目は、俺にそれを許さなかった。その目は、俺がもう何年も逸らし続けてきたものをまっすぐに見ていた。
「……知らんな」
俺は、辛うじてそう言った。
「あの人、とは誰のことだ。我が家には、使用人が大勢いる。その一人ひとりを、いちいち——」
「ティナ・ファブリツィアです」
妹が、その名をはっきりと口にした。
俺の部屋の空気が、その一言でぴんと張った。
ティナ・ファブリツィア。十年、我が家にいた女の名だった。父の書斎で問われて俺が答えられなかった、あの名だった。今、妹の口からそれが当たり前のように出てきた。妹は、その名を知っていた。ずっと知っていた。俺が覚えようとしなかった名を。
「お前は……なぜ、その名を」
「私は、最初から知っていました」
アデリーナは、目を伏せなかった。
「あの人が我が家に来た、あの日からです。私はあの人に名を尋ねて、それから十年ずっとティナと呼んでいました。兄様が一度も呼ばなかった名を」
俺は、椅子から立ち上がった。
立ち上がって、何をするでもなく窓辺へ二歩歩いた。妹の目から逃れたかったのかもしれない。けれど狭い自室では、逃げる場所などなかった。俺は窓の外の、芽吹きを待つ庭を見た。父があの書斎の窓から見ていたのと、同じ庭だった。
「だから、何だと言うんだ」
俺は、庭を見たまま言った。
「お前が、その女の名を覚えていた。それが、どうした。だからといって、何が変わる。あの女は、母上の専属職人だった。腕の立つ針仕事の女だった。家にそぐわなくなったから、俺が暇を出した。それだけのことだ。よくある話だ」
よくある話。俺はまた、その言葉を使った。父の書斎でも使った言葉だ。使うたびに、本当によくある話になる気がした。
「兄様」
アデリーナの声が、背中に届いた。
「あの人は、母上の専属職人ではありませんでした」
俺は、振り返らなかった。
「あの人は、ファブリツィア伯爵家のご令嬢でした。十二の歳に、借財の代わりに我が家へ参りました。それから十年、母上のドレスも社交界に出る装いの全ても、給金なしにただ一人で仕立て続けた人です。兄様も本当は、ご存じのはずです」
知っていた。
俺は、本当は知っていた。
あの女が伯爵家から借金の代わりに来たことも。十年、一人で母上の装いを縫い続けたことも。社交界で「ランドルフ家の専属職人」と俺が誇った腕が、その女一人のものだったことも。俺は、全部知っていた。
知っていて、見ないことにしてきた。
あの女が令嬢だと認めれば、十年も令嬢一人をただ働きさせていたことになる。あの女の腕を認めれば、俺が誇った全てが自分のものではなかったことになる。だから俺は、あの女を「地味な針仕事の女」にしておいた。名のない手にしておいた。そうしておけば、俺は何も認めずに済んだ。
「……仮に、そうだとしてだ」
俺は、振り返って言った。声が、自分でも嫌になるほど上ずっていた。
「仮にそうだとして、それは母上のなさったことだろう。あの女を専属職人と呼び始めたのも、表に名を出すなと命じたのも母上だ。俺ではない。俺はただ、母上の決めたことに従っていただけだ」
言ってから、俺は自分の言葉の卑しさに気づいた。
責任を、母に押しつけていた。
アデリーナが、わずかに目を細めた。
責める目ではなかった。けれど、その細め方が俺の卑しさをまっすぐに見ていた。妹は静かに言った。
「兄様は、あの人に何と仰いましたか」
「……何の話だ」
「あの人を追い出すとき。兄様は、あの人に何と仰いましたか」
俺は、答えられなかった。
覚えていた。はっきりと覚えていた。名前は思い出せないのに、あの言葉だけはいつでも喉のすぐ下にあった。
お前の針仕事など、誰でもできる。
俺は、あの女にそう言った。裁縫道具だけを抱えて屋敷を出ていく、その背中に向かって。地味な女が一人いなくなったところで、何も困らない、と。俺は本気でそう思っていた。
あの言葉が今、俺の喉を塞いでいた。
「……忘れた」
俺は、辛うじてそう言った。
「そんな昔のこと、いちいち覚えていない」
「私は、覚えています」
アデリーナが、低く言った。
「お前の針仕事など、誰でもできる——兄様はあの人にそう仰いました。私は、二階の窓から見ていました。あの人が振り返りもせずに門を出ていくのも。兄様がその背中に、その言葉を投げたのも」
俺は、窓の桟に手をついた。
手が、わずかに震えていた。剣を握る時には震えない手だった。杯を持つ時にも震えない手だった。針も握れないその手が今、震えていた。
「……だったら、何だと言うんだ」
俺は、もう軽く言うことができなかった。
「お前は、何をしに来た。昔の話を蒸し返して、兄を責めに来たのか。あの女に同情でもしているのか。だが、もう済んだことだ。あの女は出ていった。それで、終わりだ。今さら——」
「終わって、いません」
アデリーナの声が、はじめて強くなった。
「終わっていないから、私はここに来たのです。兄様」
妹は、一歩前に出た。
扉の前を離れて、俺のほうへ一歩。
「王宮から我が家へ、正式な問い合わせが来ているのをご存じですね。専属職人の姓名、雇い入れの年月、給金の記録、所在。その四つを書面で答えよと。母上は、お答えになれません。書くべき名が、我が家のどの紙にもないからです」
俺は、知っていた。その書状のことも。母が返事を書けずにいることも。
「だから、何だ」
「兄様は、その問いにどうお答えになるおつもりですか」
俺は、口を開いた。
開いて、何も出てこなかった。
答えなど、なかった。最初から、なかった。あの女の名を、俺は答えられない。雇い入れの年月も給金の記録も、何一つ我が家には残っていない。残さないようにしてきたのは、俺たちだ。十年、皆でそうしてきた。名のない手にしておけば、いつか返さねばならなくなることもない、と。
その十年の付けが今、王宮の紙の上に集まっていた。
「……黙っていれば、いい」
俺は、絞り出すように言った。
「返事を、遅らせる。先王妃の遺品の整理など、急ぐ話ではない。そのうち、王宮も忘れる。社交界の噂など、放っておけば、次の話題に押し流される。いつもそうだった。今度も——」
「押し流されません」
アデリーナが、俺の言葉をまた遮った。
「兄様。押し流される段階は、もう過ぎました。王妃陛下は、古いドレスをお調べになっています。歴代の御衣装を。その裏地を」
裏地。
その一言が、俺の背筋を冷たく這い上がった。
裏地に、何があると言うのか。
俺は布のことなど何も知らない。針を握ったこともない。けれど妹のその一言は、俺の知らないところで何か取り返しのつかないものが進んでいることをはっきりと告げていた。
「……裏地が、どうした」
「私には、詳しいことは分かりません」
アデリーナは、ゆるく首を横に振った。
「ただ、王妃陛下が古い御衣装の裏地を一着ずつお調べになっているという話だけは、聞きました。十年、社交界の装いを支えた手が誰のものだったのか。王宮は、それを知ろうとしています。そして——もう、ほとんど知っているのだと思います」
俺は、何も言えなかった。
知っている。王宮は、もう知っている。妹は、そう言った。だとすれば黙っていても遅らせても、何も変わらない。隠していたものが、隠したそばから外で形を取りつつある。俺の知らない場所で。俺の手の届かない場所で。
足元の床が、また薄くなった気がした。
「兄様」
アデリーナが、もう一度俺の名を呼んだ。
その声が、いつもより低かった。低い声で、妹は自分の胸に手を当てた。
「私は、王妃陛下に書状をお送りしました」
俺は、その言葉を一瞬で理解できなかった。
「……何を、送ったと」
「告発の、書状です」
妹は、目を逸らさなかった。
「兄が、王宮の問いに偽りを申し述べている。あの人は母の専属職人ではない。あの人の名はティナ・ファブリツィア。かつてファブリツィア伯爵家のご令嬢であり、十二の歳に借財の代わりとして我が家へ参り、十年あまり給金もなく母のドレスを仕立て続けた人だ——と。そう書きました」
俺の頭の中が、白くなった。
「……書状を。お前が。誰に」
「王妃陛下に」
「いつ」
「もう、届いています」
届いている。
その一言が、俺の足元から床ごと崩れ落ちるような感覚を呼んだ。
俺は、何か言わなければならなかった。叫ぶなり、止めるなり、何か。けれど、何も出てこなかった。妹は、もう書状を送った。もう届いている。俺がこの部屋にこもって、社交界の噂が押し流されるのを待っていた間に。最後の最後で、家を守る側にいると思っていた妹が——俺の知らぬ間に家を割る一通を夜の中へ放っていた。
「お前……っ」
俺は、妹に詰め寄った。
「お前は、自分が何をしたか分かっているのか。家が終わるんだぞ。父上も母上も、俺もお前もだ。社交界での居場所を失う。十年の偽証が公になれば、ランドルフの名は地に落ちる。お前は自分の家を、自分の手で売ったんだ」
「偽証をしたのは、私ではありません」
妹の声は、低いままだった。
「兄様です。父上に問われて、名を答えられなかったのも。十年、あの人を蔑んでこられたのも。私は、それを書いて出しただけです」
「黙れ」
俺は、思わず声を荒らげた。
「俺のせいだと言うのか。母上の決めたことだと言っただろう。俺はただ——」
「兄様」
妹が、もう一度俺を呼んだ。
その一声で、俺の言葉が止まった。
俺は、妹の腕を掴もうとした。
アデリーナは、退かなかった。
掴もうとした俺の手の前で、妹はただまっすぐに俺を見上げていた。その目には、怯えも後悔もなかった。怖くなかったわけではない、と俺にも分かった。妹の白い顔は、はっきりと青ざめていた。それでも、退かなかった。
俺の手が、宙で止まった。
「……なぜだ」
俺は、掴みかけた手を下ろした。
「なぜ、こんなことをした。家を守るのがお前の務めだろう。お前は、ランドルフの娘だろう。家が終われば、お前の縁談も未来も全部——」
「家のためではありません」
アデリーナが、静かに言った。
俺は、妹を見た。
「家のためでは、ないのです。兄様」
妹は、もう一度自分の胸に手を当てた。
「もし家のためを思うなら、私は黙っているべきでした。書状など書かず、嘘が押し流されるのを兄様と一緒に待つべきでした。それが、家のためでしょう。でも、私にはできませんでした」
「だったら、なぜ——」
「私のためです」
妹の声がわずかに震えた。
「兄様。もう、おやめください。家のためではなく——私のために」
俺は、その言葉の前で立ち尽くした。
私のために。
妹は、そう言った。家のためではなく。俺のためでもなく。あの女のためですらなく。自分のために、と。
「私は十八年、あの人が縫ったドレスを着て舞踏会で笑って、それが当たり前だと思って生きてきました。あの人を『ティナ』と呼びながら、その名を一度も外に出さなかった。気づいていて、何もしなかったのです。十年も」
アデリーナの目が、薄く濡れていた。
「もう嫌なのです。気づいていて何もしない自分が。あの人が門を出ていくのを、二階の窓から黙って見ていた、あの日の自分が。あれを、もう一度繰り返したくない。だから書きました。家を売るためではなく——私がこれ以上、自分を売らないために」
俺は、何も言えなかった。
妹の言っていることが、俺には本当の意味で分からなかった。自分を売る、とは何だ。家を割って家族を窮地に追いやって、それがお前のためになるとはどういうことだ。俺はそう問い返したかった。問い返して、妹の論理を崩したかった。
崩せなかった。
反論しようと口を開くたびに、言葉が喉の手前で消えた。
俺は、生まれてはじめて言葉を失っていた。
二十四年、俺は言葉に詰まったことがなかった。軽く言えば軽い話になった。嘘を重ねれば本当になった。父の書斎で名を答えられなかったあの一度を除けば、俺はいつも何かしら言うべきことを持っていた。言葉で、その場を切り抜けてきた。
今、俺の中には言うべき言葉が一つもなかった。
妹を責める言葉も、嘘で塗り固める言葉も、自分を守る言葉も。探しても探しても、何も出てこなかった。あるのは、ただ空白だった。父の書斎で名を探した、あの時と同じ空白。何かがそこにあるはずだと思って探って、何もなかったあの空白。
俺は、はじめてそれを正面から見た。
自分の中の空白を。
俺には、何もなかった。針を握れる手も、縫える技も、誇るべき腕も。社交界で語った全ては、あの女のものだった。そして今、最後に残っていたもの——言葉さえ俺の手からこぼれ落ちていた。
俺は、空っぽだった。
ずっと、空っぽだった。あの女がいる間は、それを認めずに済んだだけだ。あの女の手が、俺の空っぽを十年も覆い隠していてくれただけだ。
俺は、窓辺の椅子に崩れるように腰を下ろした。
立っていられなかった。膝の力が抜けていた。
アデリーナは、そんな俺をしばらく黙って見ていた。それから、ゆっくりと俺の傍へ歩み寄った。妹は、俺の肩に手を置こうとして——置かなかった。途中で、その手を引っ込めた。
慰めるために来たのではない、と。妹のその仕草が、俺に告げていた。
「兄様」
アデリーナは、静かに言った。
「私は兄様を憎んでいません。憎めるほど立派ではありません。私も十年、何もしなかった人間です。兄様と同じ家で、同じドレスを着て、同じ嘘の中で生きてきました。兄様を笑える立場にはいません」
俺は、俯いたまま聞いていた。
「ただ、一つだけ。兄様にも知っておいてほしかったのです。私が何をしたかを。兄様の知らぬところでこれが進んでいくのは、卑怯だと思いましたから。だから来ました。私の口から、兄様にお伝えしたかった」
妹は、そこで一度言葉を切った。
「もう止められません。書状は、王妃陛下のお手元にあります。これから先、何が起きるか、私にも分かりません。ただ——兄様。今からでも、嘘を重ねるのだけは、もうおやめください」
俺は、顔を上げられなかった。
上げれば、妹の目を見ることになる。あの、責めない目を。待つ目を。父が俺を見たのと同じ、量る目を。それを見るのが、怖かった。怒鳴られたほうが、まだ楽だった。憎まれたほうが、まだ楽だった。
妹は、俺を憎んでいなかった。憎まずに、ただ筋を通しに来た。それが、何よりも俺にこたえた。
「……出て、いってくれ」
俺は、辛うじてそう言った。
それが、俺に言える精いっぱいだった。妹を責める言葉でもなく、許しを乞う言葉でもなく。ただ、一人になりたかった。この空白と、二人きりになりたかった。誰の目もないところで。
アデリーナは、しばらく動かなかった。
それから、小さく頷いた。
「……はい。失礼いたします」
妹は、扉のほうへ歩いた。
扉を開ける前に、一度だけ振り返った。
「兄様」
俺は、答えなかった。
「あの人の名は、ティナです。ティナ・ファブリツィア。せめて、それだけは——覚えていてあげてください」
妹は、そう言って静かに部屋を出ていった。
扉が、閉まった。
俺は、一人になった。
自室の窓辺で、俺は長いあいだ動けなかった。
春先の白い光が、芽吹きを待つ庭に降りていた。庭師が、束ねた枝を運び出していた。何も変わらない庭の律儀さが、今はただ遠かった。
ティナ。
俺はその名を、口の中ではじめて無音で繰った。
ティナ・ファブリツィア。父の書斎で答えられなかった名。妹が十年、こっそり呼んでいた名。俺が覚えようとしなかった名。今、その名は俺の中ではっきりと形を取っていた。形を取るのが、十年遅すぎた。
俺は、自分の右手を見た。
白い手だった。針を握ったことのない手。布を縫ったことも繕ったこともない手。あの女が——ティナが十年、その手の代わりに針を動かしてくれていた。俺の着るこの服も俺が誇った我が家の格も、全部あの細い手から生まれていた。
その手を、俺は誰でもできる仕事の手だと言って追い出した。
遠くで、屋敷の窓がかたりと鳴った。
春先の風が、庭を渡ってきたのだろう。芽吹きを抱えた、まだ冷たい風だった。その風が、王宮の窓辺にも届いているのだろうか。妹の一通が今、王妃陛下のお手元にある。あの一通がこれから、王宮で何を動かすのか。俺には、見当もつかなかった。
ただ、一つだけ分かったことがある。
もう、止められない。
妹は、そう言った。書状はもう王宮にある。そして王妃陛下は、古いドレスの裏地を一着ずつ調べている。十年、誰の手が社交界を支えていたのかを王宮はほとんど知っているのだ。
俺の知らないところで、何かが確実に動き始めていた。
俺が、この部屋で噂が押し流されるのを待っている間に。最後に残っていた味方だと思っていた妹が真実の側へ渡り、家を割る一通を夜の王都へ放った後で。
俺は、もう一人だった。
家の中にも社交界にも、俺の味方は一人もいなくなっていた。
俺は、窓の外を見続けた。
その風の向こうに、王宮があった。そして王宮のさらに向こう、馬車で何日もかかる遠い辺境のどこかに——俺が名を答えられなかった、その女がいる。
あの女のいる、どこかから。
風は、こちらへ向かって吹いてきている気がした。止められない何かを、その風が運んでくる気がした。
俺は、椅子の肘掛けを強く握った。
肘掛けの木が、指先まで硬く冷えた。針も握れないその手は、今度は止めようとしても震えが止まらなかった。
言葉を、探した。
何か、言うべき言葉を。この事態を切り抜ける言葉を。いつものように、軽く言えば軽い話になるその一言を。
何も、出てこなかった。
俺は、空っぽの部屋で空っぽの自分と向き合っていた。
外で、風がもう一度窓を鳴らした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第25話、第2アーク「承」の一話であり、ヴィクトル断章の二回目です。第19話で父に名を問われて答えられなかった彼が、今度は、妹アデリーナに告発を突きつけられます。
この回でいちばん書きたかったのは、「言葉を失う」という一点でした。ヴィクトルは、これまでずっと言葉で切り抜けてきた男です。軽く言えば軽い話になり、嘘を重ねれば本当になる。父の書斎で名を答えられなかった一度を除けば、彼はいつも、言うべきことを持っていました。その彼が、妹の「家のためではなく、私のために」という静かな一言の前で、反論しようとして、何も出てこない。探しても探しても、自分の中に言葉がない——その空白を、彼は生まれてはじめて、正面から見ます。
ヴィクトルを、薄っぺらな悪役にはしたくありませんでした。けれど、同情を引かせる気もありません。彼の崩れ方は、尊大に出て、言い訳をして、母に責任を押しつけて、最後に懇願に近い昂りを見せる——そういう、見ていて気持ちのいいものではない順序です。それでも、彼が最後に直面するのは、「自分は空っぽだった。ティナの手が、十年、その空っぽを覆い隠してくれていただけだ」という、どん底の自覚です。これは、罰ではなく、彼が一度も向き合おうとしなかった自分そのものでした。
アデリーナを、無双の断罪者にもしたくありませんでした。彼女は、兄を憎んでいません。憎めるほど立派ではない、と自分で分かっている。兄を売る痛みも、家を割る怖さも抱えたまま、それでも筋を通しに来る。青ざめた顔で、退かずに立つ。「私のために」というのは、彼女自身の良心の救済なのです。
家で最後に残っていた味方までもが、真実の側に立った。ヴィクトルは、もう、一人です。そして妹の一通は、これから王宮で、何かを動かし始めます。
次話、第26話「継嗣資格剥奪」。妹の告発と、王宮の調査が、いよいよ一つの結末を呼びます。「もう遅い」の足音は、まだ止まりません。
第2アーク「裏地の真実編」、引き続き、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。
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