第24話: 祖父も、お前と同じ目に
その夜、店の戸を叩いたのは、布の匂いだった。
戸を開ける前に分かっていた。樫の戸板の隙間から夜気と一緒に羊毛の油の匂いが忍び込んでいた。北方の双糸羊毛。三年は寝かせた芯のある匂い。市場で嗅いだどの反物とも違う。私の指がいちばんよく覚えている匂いだった。
戸を開けると、案の定、エミルが立っていた。
腕に、布をひと抱え。胸ポケットの色見本のリボンが、夜風にひとつ揺れた。
「……まだ、起きてたか」
「はい」と、私は答えた。「眠れなくて」
あの男が町を出るのは明日の朝だと、夕方、彼が報せてくれたばかりだった。それなのにエミルは、もう一度ここへ来た。手ぶらではなかった。布を抱えていた。
「これ」と、彼は腕のなかの反物を、少し持ち上げて見せた。「夜に、悪いとは思ったんだが」
「布、ですか」
「ああ」と、彼は言った。「お前が、眠れてないだろうと思って」
「布で、眠れますか」
「眠れないやつもいるが」と、彼は言った。「お前は、眠れるほうだ」
可笑しなことを言う人だ。眠れない夜に、薬でも茶でもなく布を持ってくる。けれどその可笑しさが、今夜の私にはいちばん効いた。布の匂いを嗅いだ瞬間、強ばっていた肩がすこし下りていた。
「入って、ください」
私は、戸を大きく開けた。
彼はいつものように、机の端に布を置いた。布が湯気で濡れぬ場所——けれど今夜は湯気など立っていなかった。彼は湯を沸かすより先に布を置いた。
暖炉の火はまだ赤く残っていた。私は薪を一本足し、灯りを近くへ寄せた。
布が火の色を吸って、ほのかに温まっていくのが見えた。
「これ、見てくれ」と、彼は反物の端を、私のほうへ向けた。「昼間、市場の外れで仕入れた。北の隊商が王都へ抜けられなくて、こっちへ流れてきたやつだ」
「王都へ、抜けられない?」
「ああ。街道が、まだ詰まってるらしい」と、彼は言った。「だから、いい布が、こっちへ降りてくる」
私は、布に指を沿わせた。
経糸の張り。緯糸の噛み合わせ。指が、勝手に読みはじめた。一級の双糸羊毛。撚りが揃って、地が深い。
「いい布、ですね」と、私は言った。「三年は寝かせた、芯のある声です」
「だろうな」と、エミルは言った。「俺もそう思った。お前なら、これを、何に仕立てる」
「……まだ、決めません」と、私は言った。「布の声を、もう少し聞いてから」
いつものやりとりだった。布の話なら私たちはいくらでも続けられる。けれど今夜、彼の声はいつもとどこか違っていた。布の話をしながら、本当は布の話をしていない。そんな声だった。
私は、布の端を、もう少し手繰った。
手繰って——指が、止まった。
布の、いちばん端。裁ち切りの、ほんの数本の糸。そこに、何かが縫い込まれていた。
ごく小さな、二重縫い。
私の「T.F.」と、同じ手の——いや、似てはいるが、私のものではない。位置も違う。布の端、誰も見ない裁ち切りの隅に、針穴ふたつぶんほどの小さな文字。
灯りを近づけて、目を布に寄せた。
「……E.S.?」
声が、勝手にこぼれた。
エミルが、息を、ひとつ吐いた。
長い、ためらいの混じった息だった。
「……気づいたか」と、彼は言った。
「これ」と、私は布の端を指で押さえた。「あなたの、ですか」
彼は、すぐには答えなかった。机の向かいに、ゆっくりと腰を下ろした。革のジャケットが、椅子の上で軋んだ。
「ティナ」と、彼は言った。「俺、お前に、まだ話してないことがある」
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
私は、布の端を押さえたまま、彼を見た。彼は、布を見ていた。私の顔ではなく、布の端の、その小さな二文字を。
「祖父の、話だ」と、彼は言った。
その一言で、いつかの朝を思い出した。
百二十片を読んだ、あの夜明け。湯気の立つ椀を両手で包んで、彼はぽつりと言った。祖父も同じことを言ってた、と。傷んだ布ほど正直だ、と。私がお祖父様も布を読む方だったのかと聞くと、彼は——昔な、とだけ答えた。
昔な、の一言に何か重いものが沈んでいた。あの時、私はそれ以上聞かなかった。いつか彼が話してくれる気がした。布のように。傷んだところからほどけるように。
今、それが、ほどけようとしていた。
「聞かせて、ください」と、私は言った。
彼は、しばらく、暖炉の火を見ていた。
それから、訥々と語りはじめた。話し慣れていない人の、ひとつひとつ言葉を探す話し方だった。布のことなら淀みなく喋る彼が、自分のことになるとこんなにも言葉が遅くなる。それがかえって、ひとつひとつの言葉を重くした。
「祖父の名は、レナルド・ソーヤー」と、彼は言った。「五十年前——王都で、いちばん腕の立つ仕立て師だった」
私の指が、布の上でわずかに強ばった。
「王都、ですか」
「ああ」と、彼は頷いた。「宮廷仕立て師だ。王宮御用達の——お前がいた、あの場所の」
暖炉の火が、彼の横顔を、半分だけ照らしていた。
「祖父は貴族じゃなかった」と、エミルは言った。「ただの、腕のいい職人だ。下町の生まれで、針一本で宮廷まで上った。その腕を——ある公爵家が欲しがった」
私は、もうその先を知っている気がした。
胸の奥がすっと冷えた。あの男が来た時の冷たさとは、また違う冷たさだった。
「『貸与』だ」と、エミルは言った。その言葉を、口に出すのも嫌そうに言った。「公爵家が祖父を『借りた』。表向きは、その家の専属職人として。けど本当は——名前を奪うためだ」
「名前を」
「ああ」と、彼は言った。「祖父が縫った服は、全部、公爵家の名で世に出た。『あの家の専属の手は素晴らしい』ってな。祖父の名はどこにも出ない。出させてもらえない。給金も、家を通すって名目で、ほとんどなかったらしい」
彼は、そこで言葉を切った。
「……どこかで、聞いた話だろう」
聞いた話だった。
聞いた話、どころではなかった。それは私の十年だった。
十二の冬に、屋敷の門をくぐった。礼儀作法の修養、と契約には書いてあった。けれど私が教わったのは、礼儀でも作法でもなかった。針だった。年に四十三着。ほぼ毎週、一着。私の縫った全ては、ランドルフ家の名で社交界に出た。あの家の専属の手は素晴らしい、と。私の名はどこにも出なかった。給金は、一度も。
半世紀の隔たりを越えて、エミルの祖父と私は、同じ門を同じようにくぐっていた。
「……私の十年と、同じです」と、気づくと、私は言っていた。
「ああ」と、エミルは言った。「分かってる。だから、お前に話してる」
「給金は、一度も出ませんでした」と、私は言った。「家の名誉のため、と言われ続けて。縫った全部が、よその家の名で世に出ました」
「祖父も、そうだった」
「公爵家の、名は」と、私は声を絞り出した。聞かなくても分かっていた。けれど、聞かずにはいられなかった。
エミルは、火から目を離して私を見た。
灰青色の目が、まっすぐに私を見ていた。
「……ランドルフだ」と、彼は言った。
店のなかが、しんと静まった。
外で、樫の看板が夜風にひとつ軋んだ。いつもの音だった。けれど今夜は、その音が五十年前の門の軋みのように聞こえた。
ランドルフ。
私を十年縛り、半年前にあの雨の裏門から私を放り出した、あの家。同じ家が五十年前にも、ひとりの職人の名を奪っていた。同じ家が、同じやり方で、二度。
「祖父も」と、エミルは言った。声が低かった。「お前と、同じ目に遭った」
その一言が、私の胸のいちばん深いところに、まっすぐ落ちた。
布を読むより、ずっと確かに分かった。彼はただ、似た話をしているのではない。彼は——五十年前の祖父の傷を、半年前の私の傷に重ねていた。同じ糸で、二つの傷を縫い合わせていた。
「祖父は、潰された」と、エミルは続けた。「腕が良すぎたんだ。公爵家が外に出したがらなかった。けど、いつまでも名のない手でいられるかってんで、祖父は抗った。自分の名で仕立てたいって。そしたら——王都の組合から締め出された。公爵家の手が回ったんだろうな。仕事がぱたりと来なくなった」
彼は、自分の手のひらを火にかざすように、すこし開いた。布の擦れた跡のある、大きな手。
「一族で王都を出た。住む場所も仕事も奪われて。落ちのびた先が——ここだ」
「ファーデン」
「ああ」と、彼は言った。「祖父は、針を捨てた。もう縫わなかった。代わりに布を売りはじめた。腕のいい職人を見つけて、いい布を届ける。自分は二度と縫わないが、誰かの手にいい布を渡す。それだけを辺境で続けた」
「……縫わずに、いられたんですか」と、私は聞いた。
「いられるわけがない」と、彼は言った。「だから、布を売った。針を握れないなら、せめて布のそばにいたかったんだろ」
その答えが、私の胸を、ひとつ打った。十年でも、私は布から離れられない。五十年針を握った人なら、なおさらだ。
彼の指が、机の上の反物に触れた。
「俺の親父も、その布商いを継いだ。俺も継いだ。三代、布を売ってる」
「だから」と、私は言った。「布のことを、あんなに知っているんですね」
「血だな」と、彼はすこし笑った。「縫えはしない。けど、いい布と仕事は見ればわかる。それだけは祖父から、まっすぐ降りてきた」
私は、彼の語る一族の五十年を、布のように頭のなかで広げていた。王都で名を奪われた職人が、針を捨てて布商人になった。二度と縫わぬと決めて、それでも布のそばで生きることを選んだ。その痛みが、痛いほど分かった。
「お祖父様は」と、私は聞いた。「今は」
「もういない」と、エミルは言った。「俺が、十五の時に。布の山のなかで、眠るみたいに」
「……そうですか」
「縫いたかったろうな」と、彼は言った。「最期まで」
「縫いたかった、と思います」と、私は言った。「布のそばを、離れられなかったのなら」
「最期まで、布を触ってた」と、彼はすこし笑った。淋しい笑い方だった。「目はもう見えなくなってたのに、指だけはまだ読めるって。北方の双糸羊毛と南方の絹を、触っただけで言い当てた。死ぬ三日前にな」
指だけは、まだ読める。
私は、その言葉を長く胸に置いた。目が見えなくなっても、指は布を覚えている。署名は消えても、糸は覚えている。半世紀を隔てて、レナルド・ソーヤーと私は、同じことを布から教わっていた。
「祖父は、よく言ってた」と、エミルは言った。「いつか、自分と同じ目に遭った職人が、この辺境に流れてくるかもしれないって」
彼は、机の上の反物に目を落とした。
「名を奪われて、布から引き剥がされて、それでも布を捨てきれない奴が。王都の華やかさの裏で息を潜めて、人を美しくし続けた奴が。いつかここへ——逃げてくるかもしれないって」
私の息が、止まった。
「だから用意しておけって」と、エミルは言った。「布見本を多めに。いつ誰が来てもいいように。その人が自分の手で、自分の布を選べるように。祖父はそう言って死んだ」
「来ると、信じていたんですか」と、私は聞いた。「会ったこともない人を」
「信じてたんだろうな」と、彼は言った。「布を捨てきれない奴は、必ずどこかにいるって。そういう奴は、いつか、まともに布を売る町を探し当てるって」
「探し当てる」
「ああ」と、彼は言った。「お前が、ここを探し当てたみたいにな」
半年前のことが、急に別の色に見えた。
ファーデンに着いた最初の日。看板も出していない、空っぽの店先。私が繕った旅人の外套を、たった一枚、軒に干していた、あの日。
誰も来ないと思っていた。私はただ、布の裏で生きてきた人間だ。表に出る資格などないと思っていた。
それなのに、その日のうちに、一人の男が布見本をひと抱え持って、私の店先に立った。何も言わずに最高級の絹を置いていった。
あれは、偶然ではなかったのだ。
「……エミル」と、私は言った。声が、震えていた。「あなたが、初日に、布を持ってきてくれたのは」
「ああ」と、彼は言った。「お前の繕った外套を見て、分かった。これは王都の手だって。それも、ただの王都じゃない。御用達の、いちばん奥の手だって。祖父が待ってろって言ってた——その人が、来たんだって」
彼は、すこし目を伏せた。
「半世紀越しの、予感だった」
私は、何も言えなかった。
言いたいことがたくさんあった。けれど喉のところで全部が痩せて、ほどけて、結局ひとつも出てこなかった。
布の話なら、私は饒舌になれる。けれどこれは、布の話ではなかった。これは——五十年前から続く、一人の少年が祖父から受け継いだ、長い長い、待つ時間の話だった。そして、その待つ相手が私だった、という話だった。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
私は、もう一度、机の上の反物の端を指で押さえた。針穴ふたつぶんの、小さな二重縫い。E.S.
「これは」と、私は、その文字を、指でなぞった。「エミル・ソーヤーの、E.S.ですか」
「ああ」と、彼は言った。
「全部の布に、付けてるんですか」
「……俺が選んだ布、全部に」と、彼は言った。耳のあたりが、また、すこし赤くなっていた。「祖父から教わった。布を売るなら、自分の選んだ布だってわかるように、端に印を残せって」
「誰にも、見えない場所に」と、私は言った。
「ああ。裁ち切りの隅だ。客は、まず気づかない」と、彼は言った。「名を奪われた一族の、せめてもの——意地、みたいなもんだ」
意地、と彼は言った。
けれど、それは意地という言葉では足りなかった。
名を奪われた職人が、二度と縫わぬと決めて、それでも布の端に自分の名のしるしを残し続けた。誰も見ない裁ち切りの隅に。表からは絶対に見えない場所に。洗っても擦れても残るように。
私が十年、裏地に「T.F.」を二重縫いし続けたのと、まったく同じだった。
誰にも見つけられなくても。誰にも気づかれなくても。それでも、ここに私がいた。私の手がこれを縫った。私がこれを選んだ。布だけがそれを覚えている——
半世紀の隔たりも、王都と辺境の距離も、針と布の違いも越えて。
ソーヤー家の「E.S.」と、ファブリツィア家の「T.F.」は、同じ祈りを布の隅に縫い込んでいた。
「ティナ」と、エミルが言った。
私が顔を上げると、彼は机の上の反物を私のほうへすこし押した。
「お前に渡した布、覚えてるか」と、彼が言った。「半年前の最初の絹から、今まで俺が持ってきた布——全部に」
「……はい」
「全部に、これが付いてる」と、彼は端の小さな印を指で示した。「お前は、たぶん気づいてなかったろうけど」
私の胸が、ひとつ大きく鳴った。
私は、立ち上がった。店の隅の、布の棚へ。半年分の、彼が持ってきた布が、そこに積んであった。最初の絹も。あの日の、最高級の一反も。
私は、いちばん古い、最初の絹を、手に取った。
端を、手繰った。裁ち切りの、いちばん隅。灯りに、近づけた。
あった。
E.S.
針穴ふたつぶんの、小さな小さな二重縫いが、たしかに、そこにあった。
「……ありました」と、私は、声を震わせた。「最初の絹にも。エミル」
「全部に、ある」と、彼は、暖炉の前から言った。「言ったろう」
「気づきませんでした」と、私は言った。「布の声は、何ひとつ聞き漏らさなかったのに」
「お前は、表を読むからな」と、彼は言った。「端っこの隅までは、見ない」
半年前から、ずっと。私が気づきもせずに、毎日触れていた布の隅に。
私は、その文字を指でなぞった。撚りの向き。針の傾き。私の「T.F.」とは違う癖だ。けれど、同じ祈りで縫われた針目だと、私の指がはっきりと読んだ。
手のひらが、温かくなった。
あの夜、彼の胸に触れて初めて聞こえた、自分の体の声と同じ温かさだった。あれは布越しだった。けれど今、私の指が触れているのは布そのものだった。布の端の、彼の祈りだった。
半年間、私は自分が、たった一人で辺境へ流れ着いたと思っていた。看板も出さず、誰にも望まれず、ただ逃げてきたのだと。
ちがった。
私が辺境へ着くより、ずっと前から。五十年も前から。一人の職人が、いつか来る私のために、布を多めに用意して待っていた。その孫が、私の繕った一枚の外套を見て「やっと見つけた」と直感した。そして、私に渡す布のすべての端に、自分のしるしをそっと縫い込んでいた。
俺が選んだ布だって、わかるように。
私は、絹を胸に抱えたまま、彼のほうを振り返った。
「エミル」と、私は言った。涙がにじんでいた。隠そうとして、隠しきれなかった。
「私の裏地の署名を」と、私は言った。「『T.F.』を、知っていますか」
「……ああ」と、彼は言った。「百二十着の、あれだろう。裏地に、二重縫いの」
「あれと、これは」と、私は絹の端の「E.S.」を指で押さえた。「同じです」
「同じ?」
「同じ祈りで縫われています」と、私は言った。「誰にも見つけられなくても、ここに私がいた、って。誰にも気づかれなくても、これは私の手だ、って。あなたのお祖父様も——あなたも、同じことを布の端に縫い込んでいたんです」
エミルは、しばらく黙っていた。それから、ふっと口の端をすこしだけ動かした。あの、笑ったのか、そうでないのか分からない、彼の動かし方だった。
「……そうか」と、彼は言った。「お前と、俺の祖父は。会ったこともないのに、同じ手だったんだな」
「布の隅で」と、私は言った。「ずっと、繋がっていました」
彼は、立ち上がって、私のそばへ来た。
私が抱えた絹の、その端の「E.S.」を、彼の指が、そっと押さえた。私の指の、すぐ隣に。
二つの指が、布の端の同じ二文字の上で、触れそうで触れなかった。
「これから渡す布にも」と、彼は言った。「全部、付ける」
「はい」
「お前が、その隣に」と、彼は言った。すこし、言いよどんだ。「……お前の『T.F.』を、縫ってくれてもいい」
私の息が、止まった。
彼が何を言ったのか。布の端に、彼の「E.S.」と私の「T.F.」を並べて縫う。それが、どういう意味なのか。
「……それは」と、私は声を絞り出した。「どういう、意味ですか」
彼は、答えなかった。耳のあたりが、また赤くなっていた。
答えないのが、答えだった。彼は不器用な男だ。自分の感情を言葉にするのが、いちばん下手な男だった。代わりに最高の布を持ってくる。今、彼は布の端の二文字で、言葉にできないものを私に手渡していた。私は、それを布を読むより確かに受け取った。
「……縫います」と、私は言った。声が、震えた。「あなたの『E.S.』の隣に。私の『T.F.』を」
「いいのか」と、彼は言った。
「はい」と、私は言った。「ずっと、ひとりの署名でした。誰にも見つからないように、隠して。でも——隣に、もうひとつあるなら」
言葉が、また、喉で痩せた。布の話なら饒舌になれるのに、これは布の話ではなかった。
「隠さなくても、いい気がします」と、私は言った。「ふたつなら」
暖炉の火が、また、ぱちりと爆ぜた。
私たちは、しばらく何も言わなかった。布の端の二文字の上で、触れそうで触れない二つの指をそのままにして。言葉が下手な二人だった。私は針で、彼は布で、いつも代わりに語ってきた。今、私たちの間にあるのは一反の絹と、その端の、二つの符号の予感だけだった。
それで、十分だった。
いや——十分以上だった。
半年前、私は王都にすべてを置いてきたつもりだった。署名も怒りも、もう消したつもりでいた。けれど布は、置いてこなかった。そして布の端で、私を待っていた人がいた。五十年も前から。会ったこともない一人の老職人の祈りが、孫の手を通して、私の布の隅にずっと縫い込まれていた。
私は、ひとりではなかった。
ずっと、前から。
戸の外で、夜風が、樫の看板を、ひとつ揺らした。
エミルが、帰りがけに、ふと、戸口で足を止めた。
「……そういえば」と、彼は言った。「カミラさんが、祖父を知ってる」
「カミラさんが?」
「ああ」と、彼は言った。「祖父の古い知り合いだ。王都の修業時代に一度、針を並べたことがあるらしい。カミラさんがなんで辺境にいるか——たぶん、お前が思ってるのと近い話だ」
私は、向かいのカミラの店のほうを思わず見た。夜の闇に、戸が閉じている。三十年この街で針を握ってきた、辛口の老仕立て屋。彼女が私の縫い目を一目見た日から全てを察していたのは——彼女も、王都のあの闇を知っていたからだったのか。
「いつか、聞いてみるといい」と、エミルは言った。「カミラさんも、たぶん、待ってた一人だ」
「待ってた」
「お前みたいなのが来るのを」と、彼は言った。「祖父と、同じように」
「だから、私の縫い目を見て」と、私は言った。「一目で、全部、察したんですね」
「そういうことだ」と、彼は言った。「あの人も、王都の闇を知ってる。だから、辛口なんだろ」
辛口の裏に、何があったのか。三十年、この街で針を握り続けた、その始まりに。私は、まだ、それを知らない。けれど、いつか聞ける気がした。布のように。傷んだところから、ほどけるように。
彼が夜のなかへ帰っていったあと、私は店の窓辺に座った。
膝の上に、最初の絹。その端の、針穴ふたつぶんの「E.S.」を、私は何度も指でなぞった。
明日の朝、あの男は町を出る。けれど、それで終わりではないことを、私はもう知っていた。布のほうが私を放してくれない。王宮は百二十着を調べている。私の署名を着た見知らぬ一着が、まんなかにまだ残っている。あれが、いつ、何を動かすのか。
怖くないと言えば、嘘になる。
けれど今夜の私は、ひとつ、確かなものを膝の上に抱えていた。
布の端で、五十年前から私を待っていた、二つの符号。「E.S.」と、いつか私が縫う「T.F.」。誰にも見えない裁ち切りの隅で、これからずっと並んで生きていく、二人だけの祈り。
王都が私の十年をどう読むのかは、まだ分からない。
けれど、布の隅の符号は、もう私だけのものではなかった。
私は、窓の硝子に映った自分の頬に、そっと触れた。
昨夜と同じ場所が、また、すこし熱かった。




