第23話: エミルの腕の中
その男の靴音を、私は布の音だと思った。
市場の喧騒のなかに、ひとつだけ外れた足音が混じっていた。砂利の上を歩いているのに、靴底が砂利の声を立てていない。革が新しく底が薄く、そして歩幅が一定だった。辺境の人間の足は、荷の重さや坂の傾きで歩幅が崩れる。けれどその足音は定規で測ったように、まっすぐだった。
私は店先で、市長夫人の繕い物の寸法を確かめていた。指が、止まった。
顔を上げると、噴水の向こうに、見慣れぬ旅装の男が立っていた。
くたびれた外套を着ている。けれど、くたびれ方が嘘だった。
私には分かる。布の擦れ方には、歩いた道のりが残る。本当に七日の街道を旅した外套なら、肩と裾に泥が跳ね、内側の縫い目に汗の塩が浮く。けれどあの外套は、肩だけが意図して汚され、裾は新品のように張りがあった。誰かがわざと古びさせた布だ。
そして、襟。
遠目にも分かった。あの均一な襟の通り方は、辺境の仕立てではない。王都の御用達工房の、いちばん腕の立つ職人の手だ。何度も見た。私が、その内側の最後の一針を、十年縫っていたのだから。
男は、店を一軒ずつ尋ねて歩いていた。
パン屋のハンナに何かを問い、井戸端の女たちに頭を下げ、また次の店へ。けれど、買い物をする様子はなかった。荷も持たない。布を見もしない。辺境に来た商人ならまず布を見る。料理人なら鍋を見る。あの男は何も見ていなかった。
人を、探していた。
パンの匂いを連れて、ハンナが、私の店先まで小走りで寄ってきた。
「ねえ、ティナさん」と、彼女は声を潜めた。「あの旅の人、変よ。パンも買わずに、人のことばかり聞くの」
「……何を、聞いてました?」
「腕のいい仕立て屋はいないか、って。王都の言葉でね」
「王都の?」
「ええ。あたしらの訛りとは全然ちがう」とハンナは言った。「ねえ、ティナさんって、王都にいたことあるの?」
「……いいえ」と、私は答えた。喉が、渇いた。
「そう? なんだか、あの人の言葉づかいと、ティナさんのと、似てる気がしたから」
胸の奥が、すっと冷えた。
「ティナさんのこと、教えてあげようかと思ったけど」とハンナは首をかしげた。「なんだか、やめときなって、勘が言うのよ。だから、知らないって答えといた」
「……ハンナさん。その人、どこへ行きました?」
「噴水のほうへ戻っていったわ。次はカミラさんの店かしらね」とハンナは肩をすくめた。「あたしは、もう戻るね。窯のパンが焦げちゃう」
「……ありがとう」と、私は言うのがやっとだった。
返事を書いて、まだ五日だった。マリエッタへ宛てた、あの一通。百十九着は私の手、一着だけが別の手、と。布だけが私のもとへ参ります——とあの人は書いてくれた。私を辺境から離さぬように。
それなのに——王都のほうが、私のところへ来た。
また、だ、と思った。
私の指が、勝手に繕い物を畳んでいた。十年、屋敷で身につけた手だった。何かが来る予感がすると、私の手はまず布を片づける。証拠を残さぬように。とがめられぬように。声を立てず目立たず、ただ縫っていた者の顔をして。
半年前、あの雨の裏門で、私は何も持ち出さなかった。署名も怒りも、置いてきた。それで終わったはずだった。終わったと、自分に言い聞かせてきた。
けれど、王都は終わらせてくれない。
あの男が私を見つければ、また何かが始まる。連れ戻されるのか。問い詰められるのか。それとも、私が一着だけ見つけた、あの偽物のことで——私が偽造を疑われるのか。私の署名を着た、私ではない誰かの手。あれを王宮はどう読むのだろう。
考えるほど、手の先が冷たくなった。布のなかへ入りすぎた朝と、同じ冷たさだった。
男がこちらを向いた。
噴水を回り込んで、まっすぐ、私の店の樫の看板を見た。「ファブリツィア仕立て店」。私が初めて出した、自分の名前の看板を。
男の足が、こちらへ向いた。
私は、動けなかった。逃げる場所など辺境にはない。山に囲まれた盆地で、街道は一本きり。あの男はその一本を、わざわざ七日かけて来たのだ。私のために。
布を片づけた手が、行き場をなくして、エプロンの裾を握っていた。
その時だった。
影が私の前に立った。
エミルだった。
いつの間に来たのか、足音も聞こえなかった。彼はいつもそうだ。気づいた時には隣にいる。けれど今日は隣ではなかった。彼は、私と近づいてくる男のあいだに、体ひとつぶん割って入っていた。
背中しか見えなかった。日に灼けた革のジャケット。胸ポケットからいつも覗いている色見本のリボンが、私の目の高さで、わずかに揺れた。
彼は、何も言わなかった。
ただ、男のほうを見ていた。布を見る時の、あの鋭い目で——いや、もっと鋭い目で。私には見えなかったけれど、男の足がふっと止まったのが分かった。砂利の声が、ようやく立った。
次の瞬間、エミルの腕が、私の背に回った。
引き寄せられた。
布越しに、彼の胸に、頬が触れた。
——硬い。
それが、最初に来た言葉だった。布の話ではないのに、私の頭は布の言葉でしか考えられなかった。エミルの胸は硬かった。革のジャケットの下に、私の知らない厚みがあった。商人だと思っていた。布を運ぶ男だと。けれど、毎日重い荷を担ぐ腕と胸は、私が縫ってきたどの貴公子のローブの下にもなかった、別の硬さを持っていた。
そして、温かかった。
春先の市場は、まだ風が冷たい。私の手はずっと冷えていた。それなのに、頬の触れた彼の胸だけが、暖炉のように温かかった。布が、湯気の立つ椀のそばで温まるように、私の頬がゆっくりと熱を分けてもらっていた。
心臓の音が、聞こえた。
彼のものか、私のものか、分からなかった。
布越しの、彼の胸の奥で、何かが規則正しく打っていた。速くなかった。彼は慌てていなかった。ただ一定の、深い音だった。あの男の足音とは違う。あれは作られた一定さだった。これは——生きている一定さだった。
私の鼓動のほうが、ずっと速かった。恥ずかしいほど、速かった。
彼に、聞こえているだろうか、と思った。
思った瞬間、頬が熱くなった。風のせいではなかった。布のせいでもなかった。私は、自分の頬がなぜ熱いのか、その理由を知らないふりができなかった。十年、布の声は何ひとつ聞き漏らさなかった私が、自分の体の声だけはずっと聞かないふりをしてきた。
今、それが、彼の胸の硬さに触れて、初めてはっきりと聞こえた。
「店は、閉めてる」
エミルの声が、頭の上で響いた。私の頬が彼の胸にあるから、声が骨を伝って届いた。
低い声だった。私に向けたものではない。男に向けた声だった。
「あんた、何の用だ」
男は、しばらく答えなかった。
私は、エミルの腕のなかから、首だけをわずかに動かして男を見た。
近くで見ると、男の顔は穏やかだった。乱暴者ではなかった。歳は四十ほどか。目が静かだった。剣も持っていない。声を荒げる気配もない。ただ、私を——いや、私とエミルのこの姿をじっと見ていた。
「……失礼した」
男が、言った。
王都の言葉づかいだった。辺境の訛りは、欠片もなかった。けれど、丁寧だった。
「人を探していた。布を、よく扱う者を」
エミルの腕が、私の背で、わずかに力を増した。
「布を扱う者なら、辺境にいくらでもいる」とエミルが言った。「向かいのカミラさんの店に行け。三十年の腕だ」
「腕の立つ者、と聞いている」と、男は言った。声を荒げず、急かしもせず、ただ確かめるように。「王都の品を、見慣れた者がいれば、なお」
「ここは辺境だ」と、エミルは言った。「王都の品を見慣れた仕立て屋なんざ、いるわけがない」
「誰に、聞いた」と、エミルが、さらに問うた。「腕の立つ者がいる、と。誰が、そう言った」
「それは、言えない」と、男は言った。「ただ、悪い話ではない。それだけは、伝えておこう」
「悪い話じゃない、ね」とエミルは言った。声に、刃が混じっていた。「探されてるほうが、それを決める」
男は、しばらく黙っていた。それから、店の樫の看板をちらと見た。私の心臓が、跳ねた。
「……そうだな」と、男は言った。「ここは、辺境だ」
妙な言い方だった。否定しているのか、納得しているのか、分からなかった。
「では、そちらの店を訪ねよう」
男は、それ以上店の看板を見なかった。私の名前を、口にもしなかった。「ファブリツィア」とも、「ティナ」とも。
ただ、最後に一度だけ、私のほうを見た。
その目が、何かを確かめたように、ほんのわずかに和らいだ。咎める目ではなかった。連れ戻しに来た目でもなかった。むしろ——安堵したような、奇妙な目だった。私には、その意味が分からなかった。
男は、頭を浅く下げて、踵を返した。
砂利の上を、男の作られた足音が、遠ざかっていった。
噴水を回り、街道のほうへ。本当に、カミラの店を訪ねるのか。それとも、それも嘘なのか。私には分からなかった。
分からないまま、私は、まだエミルの腕のなかにいた。
男が見えなくなっても、彼の腕はすぐにはほどけなかった。私も動かなかった。動けなかった、と言うほうが正しい。市場の喧騒が、少しずつ耳に戻ってきた。ハンナの呼び声。荷車の軋み。子どもの笑い声。世界は、何事もなかったように回っていた。
回っていないのは、私の胸のなかだけだった。
「……エミル」
私が呼ぶと、彼の腕がようやく緩んだ。
離れた。離れた瞬間、頬に触れていた温度がすっと風にさらわれて、私はその冷たさに少しだけ寂しくなった。寂しい、という言葉が自分の中に浮かんだことに、私はうろたえた。
彼は、私と向き合った。灰青色の目がいつもの穏やかさに戻りかけて——けれど、まだ少し底のほうが揺れていた。
「あの男、知ってる顔だったか」と、彼が聞いた。
「いいえ。初めて見ました」
「だが、お前を見てた」
「……はい」と、私は言った。「最後に、こちらを見た時——咎める目では、ありませんでした。むしろ、安堵したような」
「安堵?」
「私にも、分かりません」と、私は首を振った。「連れ戻しに来た目には、見えませんでした。でも、それなら、何をしに来たのか」
「王都の人間だな」
「……たぶん」と、私は答えた。「歩き方が、街道を七日歩いた足じゃありませんでした。外套も、わざと汚してあって」
「わざと?」
「肩だけが汚れていて、裾は新品のように張りがありました。本当に旅をした布なら、裾から先に傷みます。あれは誰かが古びさせた布です」
「……それも、布で分かるのか」
「襟もです」と、私は言った。「あの均一な通り方は、王都の御用達の手でした。何度も見ました。私が、その内側の最後の一針を、十年、縫っていたので」
「布で分かるのか」と、彼は、もう一度、言った。今度は、呆れたような、感心したような声だった。
「布しか、分かりませんから」
彼はそれを聞いて、口の端をほんの少しだけ動かした。笑ったのか、そうでないのか、分からない動き方だった。それから、ふっと息を吐いて視線を落とした。
「……悪い」と、彼は言った。
ぶっきらぼうな、いつもの言い方だった。けれど、耳のあたりがわずかに赤かった。日焼けの下で、それでも分かるほど。
「考える前に、体が動いた」
私は、少し、間を置いた。
「……重い、ですか」と、私は、小さく聞いた。
「何が」
「私のことを——庇うのが」
彼は、すぐには答えなかった。それから、首を横に振った。
「重いとか、軽いとか。考えてる暇は、なかった」
「考える、暇」
「ああ」と、彼は言った。「あの男が、お前に近づいた。それだけで、もう足が動いてた。重さを量る間なんか、なかった」
考える前に、体が動いた。
その言葉が、私の胸に、まっすぐ落ちた。
私は、布を読む。経糸の張り。緯糸の噛み合わせ。染料の歪み。文字は形でしかない。署名は誰にでも真似られる。けれど、十年毎日繰り返した手だけは、考える前に勝手に出る。真似ようとした時点で手は固くなる。教科書のようにまっすぐになる。あの偽物がそうだった。
考える前に出るものだけが、本物だ。
私は、それを、布で知っていた。
今、私は、それを、人で知った。
エミルの腕は、考えなかった。あの男が危ないかどうか、確かめてからでは間に合わなかった。彼の体は、確かめる前に私の前に立った。私を抱き寄せた。固くなかった。教科書ではなかった。十年——いや、もっと前から彼のなかにあったものが、考える前に出たのだ。
あれは、本物だった。
私には、それが、布を読むより確かに分かった。
「……いいえ」
私は、首を振った。
「謝らないでください」
「だが、急に、抱き寄せたりして」
「驚きました」と、私は言った。「でも、嫌では、なかったです」
「……そうか」
「はい。むしろ——」
言いかけて、私は口をつぐんだ。むしろ、温かかった、と言いそうになった。
「むしろ?」
「……なんでもありません」
「そうか」
「いいんです」と、私は言った。言葉が、また短くなっていた。布の話なら、私は少し饒舌になれる。けれど、これは、布の話ではなかった。喉のところで、言いたいことが、たくさん痩せて、ほどけて、結局、ひとつしか出てこなかった。
「……怖くなかったです」
言ってから、これでは足りない、と思った。けれど、足りない言葉のほうが本当だった。
「あの男が来た時は、怖かったんです。連れ戻されるんだ、と思って。でも、エミルが前に立った時には——もう、怖くありませんでした」
「俺は、何もしてない」と、彼は言った。「ただ、立っただけだ」
「それが、よかったんです」
「立っただけで?」
「立っただけで、十分でした」と、私は言った。「私、誰かが前に立ってくれたのは、初めてだったので」
「初めて、か」
「はい。屋敷でも、誰も。私は、布の裏にいる人間でしたから」
彼は、何も言わなかった。ただ、灰青色の目が私を見ていた。
エミルの腕のなかに入った瞬間、怖さは、消えていた。胸の硬さと、温度と、規則正しい鼓動のなかで、私は、十年ぶりに——いや、生まれて初めて、守られていた。
守られる、ということを、私は知らなかった。
「私、ずっと、誰かを美しくする側だったんです」と、気づくと、私は言っていた。「布の裏で、息を潜めて。守る側ですら、ありませんでした」
「知ってる」と、エミルは言った。
「知ってる、って」
「お前の手を見れば分かる」と、彼は言った。「裏方の手だ。表に出ようとしてない手だ」
「……エミルも、布で分かるんですか」
「布じゃない。お前を見てれば、分かる」
その言い方が、さっき私が言った「布しか分かりません」とよく似ていた。私は、少しだけ笑いそうになった。
「誰かが、私の前に立ってくれるなんて——思ったこと、ありませんでした」
「そうか」
彼は、それ以上は言わなかった。けれど、その「そうか」は、突き放す言い方ではなかった。布が濡れぬ場所に椀を置く、あの声と同じ温度だった。
エミルは、私の「怖くなかった」を聞いて、しばらく黙っていた。
それから、視線を、私の手元に落とした。
「……手、まだ冷たいな」
私の手は、たしかに冷えていた。けれど、それはもう恐れの冷たさではなかった。男が去ってからの、ただの春先の風の冷たさだった。
「湯を沸かすか」と、彼は言った。
「いえ。大丈夫です」
「大丈夫って顔じゃない」
「……エミルは、いつもそう言いますね」
「お前が、いつも大丈夫だって言うからだ」
「言ってますか」
「言ってる。布の山に埋もれてる時も、指から血が出てる時も」と、彼は言った。「だから、お前の『大丈夫』は、もう信じないことにしてる」
「……ひどい言い方です」
「お前を見てればな」
いつものやりとりだった。布が濡れぬ場所に椀を置く、あの夜と同じ。言葉ではなく、手のひらで示す彼のやり方。
けれど、今日は——彼の手が、半分だけ上がって、止まった。
あの夜、私の冷たくなった手に重ねかけて、寸前で止めた、あの手だった。
今度も、止まりかけた。
止まりかけて——けれど、彼は、その手を、私の手の上に、そっと置いた。
今度は、止めなかった。
大きな手だった。布の擦れた跡のある、温かい手だった。私の冷えた手を、すっぽりと包んだ。
私は、その手を、振りほどかなかった。
布越しではなかった。直に、彼の体温が、私の手のひらに伝わってきた。さっき胸で感じた、暖炉のような温かさが、今度は、手から、私のなかへ流れ込んできた。
私たちは、何も言わなかった。
言うことが、なかったのではない。言えないほど、たくさんあった。けれど、私たちはどちらも、言葉が下手だった。私は針で、彼は布で、いつも代わりに語ってきた。今は、針も布もなかった。あるのは、重ねた手だけだった。
それで、十分だった。
手のひらが、語っていた。布よりも、ずっと正直に。
「あの男、また来ると思いますか」と、私は、小さく聞いた。
「来るかもな」とエミルは言った。「だが、来ても、同じだ」
「同じ?」
「お前は、俺の後ろにいる」と、彼は言った。「それで、同じだ」
「後ろ、ですか」
「俺が、前に立つ」
「……毎回、ですか」
「毎回だ」
ぶっきらぼうだった。けれど、その短い言い方のなかに、たくさんのものが詰まっているのが、私には分かった。
「……重く、ないですか」と、私は、もう一度、さっきの問いを、繰り返した。
「軽い」と、彼は言った。「お前が思ってるよりは、ずっと」
私は、頷いた。何も言えずに、ただ、頷いた。
ふと、向かいのカミラの店のほうから、戸の開く音がした。
私は、はっとして、エミルの手から、自分の手を引いた。引いてから、また、少し寂しくなった。
カミラが、店先に出てきていた。腕を組んで、こちらを、じっと見ていた。茶色の髪に白いものが混じった、辛口の老仕立て屋。彼女の店に、さっきの男が、本当に入っていったのだろうか。
カミラは、私とエミルを順に見て、それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……お邪魔だったかね」
私の頬が、また熱くなった。
「ち、ちがいます」と、私は言った。声が、裏返った。
「ちがう、ねえ」
「ちがいます。あの、人が——」
「変な男が、来たんだろう」と、カミラは私の言葉をさえぎった。「知ってるよ。うちにも、寄ったからね」
「カミラさんの店にも?」
「ああ。だが、その話は、あとだ」とカミラは言った。「ふうん。私の目は、三十年、布の良し悪しを見てきた目だよ。布の良し悪しが分かるなら、人の良し悪しくらい、分かるさ」
「カミラさん」と、エミルが、低い声で割って入った。
「分かった分かった」とカミラは手を振った。それがかえって、こたえた。
「カミラさん」と、エミルが声を低くした。「さっきの男、来たか」
カミラの顔から、からかいの色が消えた。
「ああ。来たよ」と、彼女は言った。「布の話を、いくつか聞いていった。私の三十年のことを。ずいぶん、丁寧な男だったよ。王都の言葉だった。買い物はしなかった」
「何を聞いた」
「この町に、王都帰りの仕立て屋はいないか、ってね」
私の、息が、止まった。
「私は、いないって答えたよ」とカミラは言った。私の目を、まっすぐ見て。「この町にいるのは、辺境の仕立て屋だけだ。三十年の私と——半年前に店を開いた、ファブリツィアのお嬢さんだけだ。王都帰りなんて、いやしないってね」
「……それで、あの人は」
「すんなり、引き下がったよ」とカミラは言った。「妙な男さ。本当に探してるなら、もっと食い下がるだろう。あれは、確かめに来ただけって顔だった」
「確かめに?」
「さあね。私が知るかい」とカミラは肩をすくめた。「ただ、帰り際に、こう言ったよ。『その人が、達者でいるなら、それでいい』ってね」
その人、が誰を指すのか、カミラは言わなかった。私も、聞けなかった。
カミラは、知っている。私の十年を。彼女は、私の縫い目を一目見た日から、全てを察していた。それでも、男には何も言わなかった。
「……ありがとう、ございます」と、私は頭を下げた。
「礼を言われる筋じゃないよ」とカミラは言った。「私は、本当のことを言っただけさ。あんたは、王都帰りじゃない。この町の、ファブリツィア仕立て店の店主だ。それ以上でも、それ以下でもない。違うかい」
「……違いません」
「だろう」とカミラは言った。「だったら、堂々としてな。隠れるみたいに繕い物を畳むのは、もうおよし。見てて、こっちが寒くなる」
見ていたのか、と思った。私が、布を片づけたのを。
違わなかった。
私は、首を振った。涙がにじみそうになって、慌てて繕い物を握り直した。十年、私の手は、何かが来る予感がすると布を片づけた。今も、布を握った。けれど今度は、隠すためではなかった。布が、こぼれそうな何かを受け止めてくれていた。
カミラは、それ以上何も言わずに、店のなかへ戻っていった。戸が、閉まった。
エミルが、街道のほうへ、目をやった。
「……あの男、今夜どこに泊まるか、確かめてくる」
「大丈夫ですか?」
「お前が心配するな」と、彼は言った。「夜には、戻る」
彼は、それだけ言って、街道のほうへ歩いていった。その背中を、私は見送った。色見本のリボンが、胸ポケットでまたひとつ揺れた。
その夜、私は、店の窓辺に座って街道のほうを見ていた。
男は、もう町を出ただろうか。それとも、宿に泊まって、明日もまた誰かを探すのだろうか。
あの男は、何者だったのだろう。
乱暴者ではなかった。私の名を口にもしなかった。連れ戻そうとも、咎めようともしなかった。最後の、安堵したような目。あれがずっと引っかかっていた。布を読める者を探していた、と男は言った。私は、五日前に返事を書いた。マリエッタへ。あの返事とこの男と、何か繋がっているのだろうか。
分からないことが、増えていく。布のように、ほどけば、また別の糸が出てくる。
けれど、ひとつだけ、ほどけなかった糸が、私のなかに残っていた。
それは、王都のことでも、男のことでも、なかった。
エミルの胸の、硬さだった。
手のひらに残った、彼の体温だった。
考える前に、体が動いた——彼のあの一言が、私のなかで何度も繰り返し聞こえていた。
私は、自分の右手をひらいた。十年分の針穴と、糸切りの跡。美しいと言われたことのない手だ。誰も、この手を温かいとは思わなかった。針を持つ道具としか見なかった。エミルだけが、この手をただの手として包んだ。
私は、その手のひらを、もう一度握った。温度は、もう残っていなかった。けれど、覚えていた。布が覚えるように、私の手のひらが覚えていた。
戸を叩く音がした。
開けると、エミルが立っていた。夜気で、肩が少し冷えていた。
「男は」と、私は聞いた。
「宿に泊まった。街道沿いの、あの宿屋だ」と、彼は言った。「明日の朝には、出るらしい。あそこの主人が、そう言ってた」
「……様子は」
「飯を食って、寝ただけだ。妙な動きはない」と、彼は言った。「お前をどうこうする気配は、なかった」
「そうですか」
その「そうですか」に、自分でも分かるほど、安堵が滲んでいた。エミルは、それを聞いて、わずかに頷いた。
「明日、また見張る。心配するな」
「……はい」と、私は言った。「ありがとう、ございます」
彼は、何か言いかけて、やめた。それから「じゃあな」とだけ言って、夜のなかへ戻っていった。
窓の外で、樫の看板が、夜風にひとつ軋んだ。
いつもの音だった。けれど今夜は、その音がなぜか優しく聞こえた。
私は、まだ、たくさんのことを知らない。あの男が誰なのか。返事が王宮で何を動かすのか。私の署名を着た、見知らぬ手の正体は何なのか。それらは、これからゆっくりとほどけていくのだろう。
怖くないと言えば、嘘になる。
けれど——もう、ひとりではなかった。
考える前に、私の前に立ってくれる人が、いた。
それだけで、明日の街道のほうを向ける気がした。何が来ても、彼が隣にいる。気づいた時には、隣に。いや、今日は、前に。
私は、窓の硝子に映った自分の頬に、そっと触れた。
まだ、少し、熱かった。




