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「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


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20/30

第20話: 返事の書けない一行

 知らせというものは、たいてい大きな音を立てて来ない。


 私――アガタ・ランドルフは、四十年の社交界で、そのことを骨の髄まで知っている。


 本当に終わりを告げる知らせは、紙一枚で、音もなく届く。




 その朝、私は自室の窓辺に座っていた。


 冬の大舞踏会のあの夜から、私はもう何週も、この部屋から出ていない。出る理由が見つからなかった。出れば、誰かの目に晒される。その目が何を語るかを、私はもう知っている。だから出なかった。


 窓の外には、屋敷の庭が見えた。冬に伸びすぎた枝はもう刈り込まれ、新しい芽の出る場所だけが空けてある。春先の白い光が、空いた地面に長く落ちていた。庭師は仕事を続けている。庭は、私の事情とは関わりなく、次の春を待っている。


 その律儀さが、なぜか今朝の私には堪えた。




 扉が、軽く叩かれた。


 いつもの侍女ではなかった。入ってきたのは、夫だった。


 アルベールが私の部屋に来ること自体、めったにない。四十年連れ添って、互いの部屋を訪ねる回数など数えるほどだった。私たちはそういう夫婦だ。同じ家の格を背負い、同じ嘘を見て見ぬふりをして、それぞれの部屋で別々に老いてきた。


 夫は黒の正装のまま、手に一枚の紙を持っていた。


 私はその紙を見た瞬間、胸の奥が、かすかに沈んだ。半年前、冬の舞踏会で王妃に問われたあの時と、同じ沈み方だった。重さの名前を、私はもう知っていた。知っていて、知らないふりをしたかった。


 「どうなさったの」


 私はできるだけ、いつもの声で言った。いつもの声で言えば、いつものことになる気がした。


 夫は答えなかった。すぐには答えない。長い沈黙の後に短い一言を置く。それが夫の四十年の流儀だった。




 夫は、その紙を私の小卓の上に置いた。


 風刺画の写しを置いた、あの夜と同じ手つきだった。怒りでも嘆きでもない。ただ、置いた。


 私はそれを見た。見たくなかったが、見ないわけにはいかなかった。


 王家の封蝋だった。グラシア王家の紋。その下に、整った筆跡で、宛名が書かれていた。ランドルフ公爵家。御当主、ならびに御夫人へ。


 封はもう切られていた。夫が先に読んだのだろう。私は紙を手に取った。指先が、ほんの少し冷たかった。


 文面は短かった。短い文ほど、重い。それも四十年で覚えたことだった。




 王宮からの、正式な問い合わせだった。


 貴家が長年「専属職人」と称してきた者について、その姓名、雇い入れの年月、給金支給の記録、現在の所在を、書面にて回答されたし。先王妃陛下御遺品の整理に際し、確認の必要が生じた。御回答は、しかるべき期日までに。王妃陛下のお名前で。


 私は、その紙を二度読んだ。


 二度読んでも、書いてあることは変わらなかった。むしろ二度目の方が、一行ずつが重くなった。


 姓名。雇い入れの年月。給金の記録。所在。


 その四つを、私たちは、一つも紙に残していない。




 私は紙を小卓に戻した。


 戻した手が、小さく震えていた。扇を握る時には震えない手だった。茶器を持つ時にも震えない手だった。針を握ったことのないこの手が、王家の紙一枚の前で、震えていた。


 夫は窓の外を見ていた。空いた庭を。私の方は見なかった。


 「お返事は」


 私は言った。声が、いつもより細かった。


 夫は窓の外を見たまま、低く言った。


 「書けるなら、もう書いている」


 短い一言だった。怒鳴りではなかった。怒鳴られた方が、まだ私は楽だった。書けるなら、もう書いている。その言葉の意味するところを、私は読み取ってしまった。読み取りたくなかったのに、読み取ってしまった。


 書けないのだ。私たちは。


 あの者の姓名を、私たちは紙に書けない。書けるだけのものを、十年で一つも残さなかった。




 私は、その先を考えまいとした。


 考えまいとして、考えた。


 あの者の名。十二で我が家に来た娘。私が「専属職人」と社交界に言い続けた手。私はあの娘を何と呼んでいただろう。「お前」と呼んでいた。あるいは呼びかけすらしなかった。用があれば侍女を介した。名で呼ぶ必要を、私は感じたことがなかった。感じる必要を、自分に許さなかった。


 雇い入れの年月。あれは雇い入れではなかった。借金の代わりだった。ファブリツィア家が領地の不振で我が家から借りた金。その返済の代わりに、娘を。礼儀作法の修養という名目で。修養。私はその言葉を社交界で何度も使った。使うたびに、本当のことになる気がした。


 給金の記録。


 私は、その短い一語の前で、思考を止めた。


 止めなければならなかった。その先を辿れば十年が、一本の糸になってしまう。私が見ないふりをしてきたものが、王家の紙の上で姓名の形を取ってしまう。


 帳面に名がなければ、その者は我が家の体面の外にいる。外にいる者のために、ランドルフの紙が汚れることはない。私は四十年、そういう線の引き方で家の格を守ってきた。今もその線の内側に、自分を置こうとした。




 「ヴィクトルは」


 私は話題を変えようとした。変えれば、今の重さから逃げられる気がした。


 夫は窓の外を見たまま、ほんの少し首を振った。


 「あれは、答えられなかった」


 私は息を呑んだ。


 答えられなかった。何を、とは夫は言わなかった。言わなくても分かった。先日、夫が書斎で息子に問うたという。あの者の名を。息子は、答えられなかったという。


 私は、それを意外だとは思わなかった。


 思えなかった。息子があの娘の名を知らないのは、当たり前のことだった。私が知らないように。息子も知らない。家中の誰も、あの娘を名で呼ばなかった。呼ばなくて済むように、十年、皆でそうしてきた。そうしてきたのは、私だ。表署名を禁じたのも、最初に「専属職人」と社交界に言い始めたのも、私だった。


 息子が答えられなかったのは、息子の罪ではない。私が、息子に名を教えなかった。教えるべき名だと、思わせなかった。


 その付けが今、王家の紙の上に集まっていた。




 夫が、私の部屋を出ていった。


 出ていく時、夫は私と目を合わせなかった。風刺画の夜も、夫は私と目を合わせなかった。あの時はまだ、合わせないのは疲労のせいだと思えた。今朝は、そう思えなかった。


 扉が閉まった。


 私室に、私一人が残った。小卓の上に、王家の紙が一枚。それと、私だけだった。


 私は窓の外を見た。


 庭師が、刈り込んだ枝を束ねて運び出していた。手入れの行き届いた生垣の足元に、土だけが整えられて残っている。来る春のための場所が、手順どおりに空けられていた。手をかけられた庭は、私の事情とは関わりなく、きちんと次の季節を待っている。庭は、待てる。


 私たちは、何を待てばいいのか分からなかった。




 その日の午後から、屋敷の空気が、少しずつ変わり始めた。


 誰も大きな声を立てなかった。それがかえって、はっきりと分かった。


 まず、午後の招待状が、いつもより薄かった。


 毎日、決まった時刻に、侍女が銀盆に招待状を載せて運んでくる。四十年、その盆の重さで、私は自分が社交界のどの位置にいるかを量ってきた。盆が重い日は、私が中心にいる日だった。


 今日の盆は、軽かった。


 春の茶会の招待が、一通。観劇の誘いが、一通。それだけだった。去年の今ごろなら、同じ盆に十通は載っていた。私はその数を、わざわざ数えたことなどなかった。数えなくても、当たり前にそこにあったから。


 当たり前にあったものが、今日、当たり前ではなくなっていた。




 私は、その二通を手に取った。


 一通目を開けた。茶会の招待だった。差出人は長年の知り合いの伯爵夫人だった。文面はいつも通り丁寧だった。けれど末尾に、いつもなら必ずあった一行が無かった。「奥様のお召し物を、また拝見できますことを」——その一行が、無かった。


 たった一行。


 その一行が無いということが、何を意味するか。私には、分かった。


 彼女はもう、私のドレスを楽しみにしていない。楽しみにしていないと、書きはしない。書かないが、書かないことで、はっきりと伝えてくる。それが社交界の手紙というものだった。四十年、私もそうしてきた。誰かを切る時、私は決して切るとは書かなかった。ただ、いつもの一行を、書かなかった。


 今、私が、その側にいた。




 二通目を開けた。


 観劇の誘いだった。差出人は、若い侯爵夫人。社交界に出てまだ数年の、勢いのある人だった。文面は明るかった。明るすぎた。そして、誘っている日付が、ずいぶん先だった。来月の、さらに先。


 社交界で、ずいぶん先の日付で誘うのは、断られても痛くない誘い方だった。あるいは、その日付までに、こちらの事情がどう転ぶかを見ている誘い方だった。


 私は、その二通を小卓に戻した。


 戻した小卓の上に、王家の紙が、まだあった。三枚の紙が、並んでいた。王家の問い合わせ。来ない一行。先送りの日付。三枚とも、誰も大声で何も言っていない。言っていないからこそ、確かに、何かが私から離れていこうとしていた。




 夕方、私は侍女に社交界の様子をそれとなく尋ねた。


 四十年、私はこういう尋ね方を身につけてきた。直接は聞かない。聞けば、聞いたことが噂になる。だから、世間話のふりをして、欲しいものだけを取り出す。侍女もそれを心得ていて、世間話のふりをして、私に必要なものだけを差し出す。


 侍女は、目を伏せたまま言った。


 「……街で、少しお話が出ているようでございます」


 「どんな話」


 「ランドルフ家の専属職人が消えたきり戻らない、と。それと——王妃陛下が古いドレスをお調べになっていると」


 私の指が、そっと小卓の縁を辿った。布目を確かめる時の癖だった。木の縁に布目はない。それでも指は何かを辿っていた。


 専属職人が消えた。王妃が古いドレスを調べている。その二つが、街の口の上で、近づきつつあった。私の中でも、近づいていた。近づくのを、私はまだ押し止めていた。押し止めていられる気がしなかった。


 「……もう、いいわ」


 私は言った。それ以上、聞きたくなかった。聞けば、二つが繋がってしまう。繋がれば、その先に、私がまだ見たくないものが待っている。


 侍女は深く頭を下げて、静かに下がった。




 夜になった。


 私は、王家の紙を、もう一度手に取った。


 返事を書かなければならない。しかるべき期日までに。それは分かっていた。四十年、私は社交界の手紙を何千通と書いてきた。どんな相手にも、いつもなめらかに隙なく書けた。返事を書くことだけは、私の得意なことだった。


 私は、机に向かった。


 紙を広げた。羽根ペンを取った。インクに浸した。


 王妃陛下に申し上げます。御問い合わせの件——。


 そこまでは、書けた。


 その先で、ペンが、止まった。




 姓名を、と問われている。


 私は、書こうとした。書けなかった。書くべき名を、私は知らない。知らないというより、知ろうとしなかった。十年、知らずに済むようにしてきた。今、その十年の上に、ペンの先が浮いていた。


 いっそ嘘の名を書こうかと、一瞬思った。


 思って、すぐに、その考えを退けた。王妃は、もう知っている。冬の舞踏会で私の前に立った時、王妃の目は、もう知っていた。半年前に辞めた職人の名を。半年間、我が家が誰の名でドレスを納めてきたかを。あの目の前で、嘘の名を書いた紙を出せば、それは嘘を一つ重ねるだけだった。


 嘘を一つ重ねるたびに、足元の床が、薄くなっていく。それは半年前から、私がずっと感じてきたことだった。


 私は、ペンを置いた。


 白い紙の上に、書きかけの一行だけが残った。御問い合わせの件——。その先が、無かった。




 私は、その白い紙を長く見ていた。


 四十年、私は手紙を書く女だった。社交界の格を、紙の上で操る女だった。誰を立て、誰を切るか。どの一行を書き、どの一行を書かないか。それを四十年、私は思いのままにしてきた。


 今、私は、たった一行が書けずにいた。


 書けない理由は、ペンのせいではなかった。インクのせいでもなかった。書くべき名が、私の中に無いからだった。十年そばに置いた者の名が、私の中に無い。無いのではない。私が、入れなかった。入れる場所を、自分の中に、作らなかった。


 その空白が今、王家の紙の上で形を取っていた。




 私は窓辺に戻った。


 夜の庭が、窓の外にあった。整えられた生垣の輪郭が、闇の中にきちんと並んでいる。手入れの跡だけが残った地面に、月の光が薄く敷かれていた。


 あの娘は、どこにいるのだろう。


 冬の舞踏会の夜、私は初めてその娘の名を、自分の口の中で無音に転がした。ティナ。ティナ・ファブリツィア。あの夜、その名は私が思っていたよりも、ずっと軽くて強かった。


 今夜も、私はその名を、無音で繰った。


 今夜は、軽くなかった。


 その名は、王家の紙の上に書かれるべき名だった。書けば、十年が公になる。書かなければ、返事が遅れる。返事が遅れれば、それもまた、王宮に伝わる。伝われば、社交界に回る。回れば、また招待状が薄くなる。一行が来なくなる。日付が先送りになる。


 どちらを選んでも、終わりへ向かう道だった。


 誰も騒いでいないのに。誰も怒鳴っていないのに。私の家は紙一枚と来ない一行と無音の名前の重さで、確かに終わりへ向かっていた。




 私は、その予感を、振り払おうとした。


 振り払えなかった。


 半年前、私は窓の外の冬の風を見ながら、止める力はもう私には無い、と思った。あの時はまだ、それは社交界の格の話だった。今夜、それは別の重さになっていた。


 その娘の名を、私たちは紙に書けない。私たちが十年、その娘を名のない手として扱ってきた。ただそれだけのことが、ようやく我が家に返ってきただけだった。


 返ってきただけのことを、私はまだ、自業自得だとは思いたくなかった。


 思いたくないという、その気持ちの薄さを、私は窓の外の暗がりの中で、自分でも持て余していた。




 月の光が、整えられた庭を、静かに照らしていた。


 昼間、庭師が束ねて運んでいった枝は、もうどこにも見当たらなかった。手をかけられた土だけが、来る春のために、きちんと均されて残っていた。庭は待てる。手当てをすれば芽吹く。


 私たちが十年、刈り取り続けたものは、芽吹かない。


 その違いを、私は今夜初めて、はっきりと感じた。感じて、すぐに、その感覚を奥へ押し込めた。考え続けてはならない。考え続ければ、その先に、私がまだ直視したくないものが待っている。


 あの俯いた背中。針を動かす手。私が「専属職人」と呼び続けた、名のない——。


 いえ。


 私は、そこで思考を切った。切らなければならなかった。その先を繋いでしまえば、もう元には戻れない気がした。




 春先の風が、窓硝子のへりを、すうと撫でて通った。


 手入れの行き届いた庭の上を渡ってきた、まだ冷たい風だった。その風が、閉てた窓の隙間から細く忍び込んで、私の襟元を一度だけ過ぎていった。


 同じ風が、王宮の窓辺にも届いているのだろう。同じ風が——その先の、どこか遠い場所にも。


 私が名を書けなかった、その娘のいる、どこかを。


 私はその予感を、もう一度、振り払おうとした。


 振り払えなかった。


 小卓の上には、まだ、王家の紙があった。書きかけの一行のまま、夜の中で、白く光っていた。御問い合わせの件——。その先は、まだ、空いていた。


 その先は明日も書けないだろうと、私には分かっていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第20話、第2アーク「承」の二話目です。前話でヴィクトルが父に問われて名を答えられませんでした。今回はその帰結として、王宮から公爵家へ「正式な問い合わせ」の書状が届きます。視点は、第13話以来の公爵夫人アガタです。


この回でいちばん書きたかったのは、「終わりは大きな音を立てて来ない」ということでした。断罪も、怒鳴り合いも、暴露もありません。届くのは紙一枚。来なくなるのは、招待状のいつもの一行。先送りになる、観劇の日付。誰も大声で何も言わない。言わないからこそ、確実に、何かが終わりへ向かっている——その「もう遅い」の足音を、派手な事件ではなく、社交界の手紙の温度だけで描きたかったのです。四十年、手紙で人を立てたり切ったりしてきた女が、今、たった一行を書けずにいる。その皮肉を、書斎ではなく、彼女が出てこられなくなった自室の沈黙に置きました。


アガタを擁護する気はありません。けれど、薄っぺらな悪役にもしたくありませんでした。彼女は名を書けない。書くべき名を、十年、自分の中に入れなかったからです。彼女自身、それが自業自得だと、まだ思いたくない。その「思いたくなさ」の薄さを、自分でも持て余している——加害した側の生々しさは、たぶんそういうところに出ます。彼女はまだ「あの娘=ティナ」だと直視できていません。庭は手当てをすれば芽吹く。十年刈り取り続けたものは芽吹かない。その違いだけは、今夜、彼女もうっすら感じています。


次話、第21話「一着だけ、私の手じゃない」。場面はようやく辺境ファーデンへ移ります。王都が答えを出せずにいる間、ティナのほうが先に動き始めます。王都の窮地と、辺境の手が、ここから交差します。


第2アーク「裏地の真実編」、引き続き、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。

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