第19話: 答えられない名前
名前など覚える必要のないものだと、俺はずっと思っていた。
俺——ヴィクトル・ランドルフは、覚えるべき名前と覚えなくていい名前をきちんと選り分けて生きてきた。
その選り分けがまさか俺の足元を崩すとは、思ってもいなかった。
その朝、父の書斎に呼ばれた。
父が俺を書斎に呼ぶこと自体めったになかった。父は俺に多くを語らない。語らないことで威厳を保つ種類の人だ。だから呼ばれたと聞いた時、俺は半分、面倒だと思った。
もう半分は、聞かなかったふりをしたいと思った。
ここ数週間、屋敷の空気がよくなかった。母は自室から出てこない。妹のアデリーナは、俺と廊下ですれ違っても前のように笑わなくなった。使用人たちの足音が妙に静かだった。
その理由を、俺は知っているつもりで知らないふりをしていた。
書斎の扉を開けると、父は窓辺の椅子に座っていた。
黒の正装に銀の装飾。白髪混じりの髪をきちんと整え、膝の上で手を組んでいる。表情は変わらない。父はいつも事態を量り終えてから口を開く。今もそうだ。窓の外の、芽吹きを待つ庭の木を見ていた。春先の白い光が父の横顔の半分に当たっていた。
「お呼びでしょうか、父上」
俺はできるだけ落ち着いた声で言った。貴族の嫡男らしく。
父はすぐには答えなかった。父の沈黙は長い。長い沈黙の後に短い一言を置く。それが父の流儀だと、俺は二十四年で知っている。けれど今朝のその沈黙は、いつもより重かった。
「座れ」
俺は向かいの椅子に腰を下ろした。父の机の上に一枚の紙が伏せて置かれていた。何の紙かは見えなかった。見えないことが、なぜか俺を落ち着かなくさせた。
「社交界で、妙な噂が回っているそうだ」
父はそう切り出した。窓の外を見たままだった。
「ランドルフ家の専属職人が消えた、と」
俺の喉が、わずかに詰まった。
その噂なら知っていた。冬の大舞踏会で王妃陛下が母上の前で問うたという。お宅の専属職人はどこへ行ったのか。あの一件以来、社交界の風向きが変わった。俺の友人と称する者たちが俺を集まりに呼ばなくなった。理由は誰も口にしない。口にしないからこそ、はっきりと分かる。
俺は唇を湿らせた。
「父上。社交界の噂などいちいち取り合うものではないでしょう。あの種の話は、放っておけば次の話題に押し流されます」
俺は努めて軽く言った。軽く言えば軽い話になる。俺はそういうふうに、これまで多くのことを処理してきた。
父は俺の方を見なかった。
「もう一つ、聞いている」
父は同じ調子で続けた。
「王妃陛下が、古いドレスを調べておられるそうだ」
その一言が、俺の胸の奥で妙な音を立てた。何かが軋むような音だった。
古いドレス。先王妃の遺品とやらだろう。それが、なぜ我が家に関わる。関わるはずがない。俺はそう思おうとした。思おうとして、思いきれなかった。
なぜ思いきれないのか。その理由を、俺はやはり知らないふりをした。
「王妃陛下が何を調べておられようと、我が家には関わりのないことです」
俺は言った。声が少しだけ高くなったのが、自分でも分かった。
「先王妃陛下の御遺品を整理なさっているという話なら、私も小耳に挟みました。崩御から五年の節目です。ただの蔵の片付けでしょう。それが、なぜ我が家の話になるのです」
父は窓から目を離した。
俺の方を見た。父の目は責めていなかった。責めていれば、まだ楽だった。父はただ量っていた。俺が何を知り、何を知らないふりをしているかを。
「ヴィクトル」
父が俺の名を呼んだ。
「あの専属職人は、いつ辞めた」
俺は答えに詰まりかけた。詰まりかけて、慌てて言葉を継いだ。
「半年ほど前です。家にそぐわない女でしたので、私が暇を出しました。よくある話です。職人の入れ替えなど、どの家でもあることでしょう」
よくある話。俺はその言葉を二度使った。二度使えば、本当によくある話になる気がした。
父は頷かなかった。頷きもせず、否定もせず、ただ次を問うた。
「その女は、誰の専属だった」
簡単な問いだった。簡単なはずだった。
「もちろん、母上の専属の職人です」
俺は即座に答えた。これは嘘ではない。少なくとも十年間、社交界に向かってそう言い続けてきた。母上の専属職人。ランドルフ公爵家が抱える腕の立つ針仕事の女。それが我が家の対外的な言い分だった。俺はその言い分を自分の口でも何百回も繰り返してきた。繰り返したものは、もう真実と区別がつかない。
だから今も、迷わず言えた。母上の専属の職人です、と。
父はしばらく、黙っていた。
窓の外で、春先の風が庭の木をわずかに揺らした。その音が、静まった書斎にやけにはっきりと届いた。
父が、口を開いた。
「では」
短い一言だった。父の長い沈黙の後の、いつもの短い一言。けれど今朝のそれは、命令でも嘆きでもなかった。
問いだった。
「その者の名は」
俺は——口を、開いた。
開いたまま、何も出てこなかった。
名前。
その女の、名前。
俺は記憶を探った。当然すぐ出てくるものだと思って探した。十年だ。十年、我が家にいた女だ。母上の専属職人。社交界に向かってその針仕事を我が家の誇りのように語り続けた女の——名前。
出てこなかった。
俺は探し続けた。屋敷の仕立て室。窓際の作業台。布の山。針を動かす俯いた背中。亜麻色の髪を一本に編んで、布の埃よけの巻きで覆っていた。俯いていた。いつも俯いていた。
顔は——思い出せなかった。
いや、思い出せなくはなかった。地味な顔だ。貴族令嬢らしくない淡い目の色をした女だった。俺はその目の色を「令嬢らしくない地味な色」だと言ったことがある。言った記憶はある。
言った記憶はあるのに、名前の記憶がなかった。
俺は焦った。
焦りを父に見せてはならない。それだけは分かっていた。俺は表情を作ろうとした。考えているふりをした。すぐに思い出せないのは、ただ多忙だからだ。家には使用人が大勢いる。その一人ひとりの名など、嫡男たる者がいちいち覚えている方がおかしい。そうだ。覚えていないのではない。覚える必要がなかっただけだ。
俺は自分にそう言い聞かせた。言い聞かせながら、まだ記憶を探っていた。
あの女を母上は何と呼んでいた。「お前」と呼んでいた気がする。あるいは呼びかけすらしなかった。用があれば侍女を介して伝えていた。父も名では呼ばなかった。妹のアデリーナは——アデリーナは、何と呼んでいた。
俺は、思い出せなかった。
家中の誰も、その女を名で呼ぶ場面を俺は一度も見ていなかった。いや、見ていなかったのではない。見ようとしなかったのだ。あの女は名のない手だった。針を動かすための俯いた背中だった。俺にとってそれで十分だった。十分だったはずだった。
十分だったはずのものが、今、書斎の真ん中で俺の喉を塞いでいた。
「ヴィクトル」
父の声が、もう一度した。
急かす声ではなかった。父は急かさなかった。ただ待っていた。アデリーナが俺を見る時のあの目に少し似ていた。責めるのではなく、待つ。待たれることは、責められるよりもずっと答えにくかった。
「名だ」
父は繰り返した。
「十年、我が家にいた者だろう。お前が暇を出した者だろう。その名を聞いている」
俺は何か言わねばならなかった。沈黙が長すぎた。沈黙そのものが、答えになってしまう。それだけは分かっていた。
「……それは——」
俺の声は、いつもの俺の声ではなかった。
「職人の名など……当家には針仕事の者が何人も出入りしておりますので……どの者かと特定するには……」
言いながら、俺は自分の言葉が崩れていくのを聞いていた。敬語が混じり始めていた。父の前で敬語が混じるのは、俺が追い詰められた時の癖だった。自分でも止められなかった。
何人も出入りしている。それは嘘だった。十年、母上の専属職人はただ一人だった。社交界の華やぎを支えたのもその一人だった。俺はそれを知っていた。知っていて今、何人もいるかのように言った。
嘘を一つ重ねるたびに、足元の床が、わずかに薄くなっていく気がした。
父は、何も言わなかった。
父は俺の崩れた言い訳を最後まで黙って聞いた。途中で遮りもせず、頷きもせず。ただ聞いた。聞き終えて視線を俺から外し、また窓の外の庭へ戻した。
その、視線を外す動きが——怖かった。
父が俺を見ているうちは、まだ俺は問われている側だった。問われている間はまだ繋がっている。父が視線を外した瞬間、俺は問うに値しない何かに変わったような気がした。
俺は思わず言葉を継ぎ足した。
「父上。名はすぐに調べさせます。屋敷の帳面を見れば雇い入れの記録が残っているはずです。母上にお尋ねになれば、すぐにでも——」
言いかけて、俺は止まった。
母上に尋ねれば。
その先を俺は言えなかった。母上は自室から出てこない。冬の大舞踏会のあの夜から、母上は人前に出なくなった。父はそれを知っている。俺がそれを知っていることも父は知っている。母上に尋ねれば、という言葉がこの書斎でどれほど空々しく響くか。言ってしまってから気づいた。
父は窓の外を見たまま、低く言った。
「帳面に、その者の名は無い」
俺は息を呑んだ。
「無い、とは……」
「無いのだ」
父はそれ以上説明しなかった。父の流儀だ。けれど、その短い言葉の下にあるものを俺は読み取ってしまった。読み取りたくなかったのに、読み取ってしまった。
帳面に名が無い。雇い入れの記録が無い。給金の記録もおそらく無い。十年、我が家の社交界での格を支えた手の名が、我が家のどの紙の上にも残っていない。
それはつまり——我が家はその女を、最初から名のない手として扱ってきたということだった。
俺がそうしてきた。母上がそうしてきた。父もそれを知りながら止めなかった。家中の誰も、その女に名を返さなかった。返さなくて済むように、十年そうして皆で見ないふりをしてきた。
その十年の付けが今朝、父の書斎で俺一人の喉に集まっていた。
俺は唇を噛んだ。
書斎の扉が、軽く叩かれた。
「失礼いたします」
アデリーナだった。妹は父に何か書面を届けに来たらしい。扉を開けて入ってきた妹は、書斎の空気を一目で読んだようだった。父がいて俺がいて、机の上には伏せた紙。誰も口を開いていない。妹はその場の何かを瞬時に量った。
妹は俺を見た。
責める目ではなかった。アデリーナは俺を声高に責めたことが一度もない。だからこそ、その目は俺にこたえた。妹の目は知っていた。俺が今、何を問われて何を答えられずにいるのか。廊下から入ってきたばかりの妹がそれをもう知っているように見えた。
あるいは——妹は、ずっと前から知っていたのかもしれない。俺が見ないふりをしてきたものを。あの女の名を。あの女が、ただの針仕事の女ではなかったということを。
妹は何も言わなかった。書面を父の机にそっと置いて、軽く頭を下げ、静かに書斎を出ていった。
出ていく時、妹は俺ともう一度、目を合わせなかった。
合わせなかったことが、合わせられるよりも、痛かった。
書斎に、また俺と父だけが残った。
俺は、まだ名を言えずにいた。
言えないのではない。知らないのだ。俺は十年そばに置いた女の名を知らない。覚えようとしなかった。覚える価値のないものだと思っていた。地味な針仕事の女。誰でもできる仕事をしていた女。俺はあの女に確かそう言った。お前の針仕事など誰でもできる、と。
その言葉を、俺は今、はっきりと思い出した。
名前は思い出せないのに、その言葉だけは、よく思い出せた。
俺はそれを自分でも嫌だと感じた。なぜそんな言葉ばかりこうもはっきり出てくるのか。なぜ名前は出てこないのに、あの女を切り捨てた言葉だけがこうも鮮明に喉まで上がってくるのか。
俺はその問いを、いつものように、奥へ押し込めた。
考えてはならない。考え始めると、その先に、俺がまだ直視したくない何かが待っている気がした。あの俯いた背中。名のない手。あれが——もし。
いや。
俺はそこで思考を切った。切らなければならなかった。その先を繋いでしまえば、もう元には戻れない気がした。
父が、椅子から立ち上がった。
窓辺に立ち、空いた庭を見下ろした。冬に伸びすぎた枝はもう片付けられ、新しい芽の出る場所だけが空けてあった。父はその庭を長く見ていた。
「ヴィクトル」
父は背を向けたまま言った。
「お前は、十年そばにいた者の名を知らんのだな」
俺は答えられなかった。
知っていると言えば、では言ってみろと返される。知らないと認めれば——認めれば、何かが決定的に変わる。俺はそのどちらの言葉も口に出せなかった。
俺の沈黙が、書斎に長く伸びた。
その沈黙が、答えだった。俺が言わなかったことそのものが、何を言えなかったかを父に告げていた。父はそれを聞き取った。父の背中の線がわずかに変わったのが俺の場所からでも分かった。
父は振り返らなかった。
「もうよい」
短い一言だった。怒鳴りではなかった。怒鳴られた方が、まだ俺は楽だった。「もうよい」——その言葉の冷たさが、書斎の床から俺の足元へゆっくりと這い上がってきた。
俺は書斎を出た。
廊下は静かだった。春先の白い光が、磨かれた床に長く伸びていた。使用人の足音もしなかった。屋敷全体が、何かを息を潜めて待っているようだった。
俺は自室へ戻る途中、廊下の窓の前で足を止めた。
窓の外に、庭が見えた。空いた庭。芽吹きを待つ木々。父があの窓から見ていたのと、同じ庭だった。
俺は自分の右手を見た。
最高級の生地の袖口から出た白い手だ。剣を握ったことはある。杯を持ったこともある。書状に印を押したこともある。けれど、針を握ったことは一度もなかった。布を縫ったことも繕ったことも、一度もなかった。
俺が着ているこの服も、俺が一針も縫っていない。
誰が縫ったのか。
俺はその問いの前で、また足元が薄くなる感覚を覚えた。十年、社交界に向かって我が家の格を語ってきたその服を誰が縫っていたのか。母上の専属の職人です——俺はそう言い続けた。その職人の名を俺は知らない。
知らないものに、俺は十年、支えられていた。
俺は、その考えを振り払った。
振り払って、自室の扉を開けようとした。開けようとして、手が止まった。
扉の前で、俺はもう一度あの女の背中を思い浮かべてしまった。窓際で俯いて針を動かす、亜麻色の髪の女。母上が「お前」としか呼ばなかった女。俺が「地味な針仕事」と切り捨てた女。
その女に、名があった。
当たり前のことだった。人には名がある。あの女にもあったはずだ。十年、我が家にいたのだから。我が家に来る前にもその女には家があったはずだ。家があったなら家の名もあったはずだ。
俺は、その家の名を、聞いた覚えがあるような気がした。
ほんの一瞬、記憶の縁に何かが触れた。借金。返済。どこかの伯爵家。貧しい領地の。父か母がずっと昔そういう話をしていたのを、俺は確かに聞いた——気がした。
俺は、その記憶をそれ以上たぐらなかった。
たぐれば、繋がってしまう。あの俯いた背中。俺が切り捨てた言葉。今朝答えられなかった名前。それらが一本の糸になってしまう。その糸の先に何があるのか。俺はまだ見たくなかった。
見たくないものは、見なければ、まだ無いのと同じだ。俺はそう思おうとした。
自室に入り、俺は窓辺の椅子に腰を下ろした。
手が、わずかに震えていた。剣を握る時には震えない手だった。杯を持つ時にも震えない手だった。針も握れないその手が今、震えていた。
俺は窓の外を見た。
空いた庭。芽吹きを待つ木々。何も遮るものの無い場所を、春先の風が通り抜けていった。
その風の向こうに、王宮があった。
王妃陛下が古いドレスを調べておられる。その話を、俺は今朝まで我が家には関わりのないことだと思おうとしていた。今は思いきれなかった。母上の専属職人。王妃陛下の古いドレス。社交界の噂。父の書斎の問い。それらが俺の中でゆっくりと近づきつつあった。近づくのを俺はまだ押し止めていた。押し止めていられる気がしなかった。
風が、屋敷の窓を、かたりと鳴らした。
俺は窓の外を見たまま、動けなかった。
あの風が、今朝この書斎の窓を鳴らした。同じ風が王宮の窓も鳴らしている。そして——その風は、まだ俺の知らないどこかの場所からこちらへ向かって吹いてきている気がした。
俺が名を答えられなかった、その女のいる、どこかから。
俺はその予感を、振り払おうとした。
振り払えなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第19話、第2アーク「承」の起点であり、ヴィクトル断章の一回目です。これまでマリエッタ、王妃、カミーロ、アガタといった人々の視点で「裏地の名前」を見てきましたが、今回初めて、ティナを切り捨てた当人——ヴィクトルの内側に入りました。
この回でいちばん書きたかったのは、「その者の名は?」に答えられない沈黙そのものです。十年そばに置いた人間の名前を、彼は知りません。覚えようとしなかったからです。地味な針仕事の女、誰でもできる仕事をしていた女——その評価だけは鮮明に思い出せるのに、名前は出てこない。この皮肉を、説明ではなく、書斎の沈黙として突きつけたかった。
ヴィクトルを薄っぺらな悪役にはしたくありませんでした。けれど同情を引かせる気もありません。彼の焦り、敬語が崩れる癖、見たくないものから目を逸らし続ける弱さ——それは生々しいけれど、決して「かわいそう」ではない。十年分の付けが、今、彼一人の喉に集まっている。それは自業自得です。彼はまだ「あの女=ティナ」だと直視できていません。記憶の縁に触れても、糸を繋がせない。凋落はこれから毎週、少しずつ進みます。
父アルベールの「もうよい」、妹アデリーナが目を合わせずに去る背中。社会・家庭・内面の三方向から、彼の足元はもう薄くなっています。次話、第20話「王宮からの正式問い合わせ」。嘘が、外からの圧でいよいよ追い詰められます。「もう遅い」の足音は、まだ止まりません。
第2アーク「裏地の真実編」、引き続き、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。
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