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「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


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18/18

第18話: これはティナ嬢の手

 名前というものは、口に出すまで本当には存在しない。


 私——エレオノーラ・グラシアは、その朝、ひとつの名前が世に生まれる瞬間に立ち会おうとしていた。


 十年以上、布の裏側で息を潜めていた名前が。




 春先の朝だった。私室の窓の外で、芽吹きを待つ庭の木々が白い光の中に細い影を落としていた。


 冬に伸びすぎた枝はもう片付けられている。庭は新しい芽の伸びる場所だけを空けて、静かに次の春を待っていた。


 私は窓辺に立ってその空いた庭を見ていた。指が無意識に窓枠の縁を撫でていた。布目を確かめるときの私の癖だ。木の窓枠に布目はない。それでも指は何かを辿っていた。


 昨日、蔵を閉じた。百二十着。すべて同じ手。その数を私は一晩、胸の底に沈めて眠れなかった。


 今朝、マリエッタが来る。


 彼女に確かめなければならないことが、私にはあった。




 扉が軽く叩かれた。


 「お入りなさい」


 ローザが扉を開け、一人の老女を私室に通した。


 マリエッタ・コルッツィ。ランドルフ公爵家の老いた侍女頭。小柄で背筋がまっすぐに伸びている。白髪を素朴な木のかんざしでまとめた、針を五十年握ってきた女だ。


 彼女は私の前で深く頭を下げた。荒れた手が控えめに前で重ねられていた。その手だけは年齢に似合わず微塵も揺れていなかった。


 「マリエッタ。二度も呼び立てて悪く思っています」


 「いいえ。陛下の御召しとあらば何度でも」


 古風な言い回しだった。けれど声には芯があった。




 ローザが私の合図で、一着のドレスを長机に広げた。


 蔵の一番奥にあった、最も古い断片だ。虫が食い、染みが出て、もう色も分からなくなった布。先々代よりさらに前の王妃のものだと、台帳の端にかろうじて読めるだけの一着。


 昨日、私はこの裏地に指を当て、二重縫いの署名を見つけた。「T.F.」。けれど、その確かさを断ずる材料を私は持っていなかった。一番古い断片の手が本当に同じ一人なのか。それとも——その問いの先を、私は昨日、口にできずにいた。


 その先を確かめられるのは、この国でただ一人だった。


 「マリエッタ。この布の裏地を確かめてほしいの」


 彼女は顔を上げ、長机の上の古い布を見た。


 その目がほんの一瞬、止まった。布を見たのではない。布の向こうの、もっと遠い何かを見たような目だった。私にはそう見えた。


 「畏まりました、陛下」


 彼女は長机に進み出た。荒れた手を古い布の上にそっと置いた。




 彼女の指が布の上を動いた。


 遅い動きだった。けれど迷いはなかった。襟元の裏。袖口の縫い代。裾の内側。私が昨日、母の見方で辿った場所と寸分違わぬ位置に、彼女の指は迷わず届いた。


 私はそれを黙って見ていた。


 彼女の指が裾の内側の一点で止まった。糸の上を二度撫でて、それからわずかにずらした。


 地色に沈んだ二重縫いが、虫食いの隙間に現れた。


 マリエッタの手が止まった。


 彼女はその糸を長く見ていた。背を屈め、白髪のかんざしが朝の光をひとつ受けた。私のいる場所からは、彼女の横顔の半分だけが見えた。


 その横顔がわずかに強張ったように見えた。あるいはほどけたのかもしれない。私にはどちらとも断じられなかった。五十年針を握った人の表情は、布のように簡単には読ませてくれなかった。


 ただ、その荒れた手が古い布の縁をほんの少し握り直した。微塵も揺れなかったあの手が、布をつかんで自分を支えているように見えた。


 彼女は何も言わなかった。


 私も急かさなかった。急かしてはならないと思った。今、彼女の中で動いているものは、私が言葉で引き出してよいものではない。




 窓の外で春先の風が、空いた庭の木々をわずかに揺らした。


 その音が、静まった私室にやけにはっきり届いた。


 マリエッタがゆっくりと背を起こした。


 彼女は長机の古い布から手を離さなかった。離さないまま私の方へ向き直った。


 その目が私を見た。


 もう遠くを見てはいなかった。今度ははっきりと私を見ていた。十年以上、何かを抱え続けてきた人が、それをようやく手放してよいと自分に許した目だった。私はそう感じた。


 「陛下」


 彼女の声は低かった。


 「申し上げます」


 私は頷いた。先を促す頷きだった。胸の奥で何かがゆっくりと張りつめていた。私はそれを王妃の顔の下に押さえた。


 マリエッタが息をひとつ吸った。


 「これは……ファブリツィア家の、ティナ嬢の手でございます」




 私室が静かになった。


 風の音も、その一瞬だけ止んだように聞こえた。


 私はその名をすでに知っていた。昨日、衣装室で声に出した名だ。マリエッタの報告書に書かれていた名だ。私はもう何度も、胸の中でその名を繰っていた。


 それでも——彼女の口からその名が出た瞬間は、まるで違っていた。


 報告書の上の文字は、紙の上で眠っている。私が声に出した名は、私が私の中で繰っていただけのものだ。けれど今、五十年針を握ってきた人が、自分の指で署名を辿った後で、自分の声でその名を告げた。


 それは生まれたのだ。今、この私室で。


 名前というものは、誰かがその名を背負う重さごと口に出して、初めて本当に存在する。私は今それを知った。


 私はすぐには言葉を返せなかった。


 返す前に、胸の張りつめたものが喉のあたりまで上がってきていた。私はそれをゆっくりと押し戻した。私は王妃だ。今ここで私の表情が崩れることは許されなかった。この名を、王妃の崩れた顔で受け取ってはならない。それでは、この名に向かって礼を欠く。


 私は息を整えた。




 「マリエッタ」


 私は努めて静かに言った。声が半分だけ戻った。


 「もう一度、聞かせてもらえますか」


 彼女は私の目を見たまま答えた。


 「ファブリツィア家のティナ嬢でございます。十二の年にランドルフ公爵家へ貸与されました。十年、御家の専属職人と偽られてまいりました。給金は一度も」


 彼女はそこで言葉を切った。


 切った言葉の先を、彼女は言わなかった。言わずに、ただ古い布の上の二重縫いをもう一度、指でそっと辿った。


 言わなかった先を、私は報告書で知っていた。給金支給の記録なし。あの一行が紙の上でわずかに重く沈んで見えた、あの一行だ。彼女は今それを声に出さなかった。出さずに布を辿った。その仕草が、どんな言葉よりもあの一行の重さを語っていた。


 私は頷いた。


 「その手が、この古い断片にもある」


 「ございます」


 彼女は即座に答えた。迷いはなかった。


 「この縫い目を私は知っております。お嬢様が十三の冬に初めてこの二重縫いを身につけた、その日から。どの位置にどの太さの糸を入れるか。どの角度で刺すか。お嬢様の手は年を追っても決して場所を変えませんでした。襟の右下。袖口の縫い代。裾の内側、指三本」


 私は息を止めた。


 昨日、蔵で私が辿った場所と一字一句同じだった。署名の場所を私は誰にも言っていない。ローザにもカミーロにも。検分を見た侍女たちにも口外を禁じた。それを、マリエッタは布を見もせずに先に言った。


 言ったのではない。彼女は五十年、その手の隣にいたのだ。




 「マリエッタ。あなたは、いつから知っていたのです」


 彼女は長机の古い布からようやく手を離した。離した手をまた控えめに前で重ねた。


 「お嬢様が十二でランドルフ家へ来られた頃から」


 「十年」


 「は。十年でございます」


 彼女は私の目を見ていた。


 「私はその十年を、誰にも申しませんでした。御家の取り決めでございました。職人の名は決して明かさぬ。明かせばお嬢様がもっと縛られる。私が口を開けばお嬢様を守れなくなる。だから黙っておりました」


 彼女の声は淡々としていた。


 淡々としているからこそ、その下にあるものが私にはいっそう重く感じられた。十年。一人で。黙って。誰にも言わずに。一人の人間の労働を、自分の胸ひとつに十年抱えて。


 「それを今、私の前で口にした」


 私は静かに言った。


 マリエッタはわずかに頭を下げた。下げたまま答えた。


 「お嬢様はもう、ランドルフ家にはおられません。守るために黙る理由は、もうございません。今、黙っておれば——」


 彼女はそこで顔を上げた。


 「お嬢様の十年が、誰にも知られぬまま布の裏で朽ちてしまいます。それだけは、私が生きているうちにさせたくなかったのでございます」




 私は彼女の言葉を、長く胸に置いた。


 させたくなかった。彼女はそう言った。十年は黙ることで守り、今は語ることで守ろうとしている。黙ることも語ることも、彼女にとっては同じ一つのことだった。一人の人間の十年を、誰かに見届けさせること。


 私は母を思い出していた。


 母——先王妃ヴィオレッタは布を読む人だった。晩年、ランドルフ家のドレスを着て「あの子は布と話している」と言った。母はその「あの子」の名を生涯知らずに逝った。


 母の最期の言葉を、私はまだ覚えている。布だけは覚えている。誰の手で縫われたかを。


 私は長くそれを別れの詩としてしまい込んでいた。違った。あれは宿題だった。母から娘への。


 今、その宿題の最後の一行が埋まった。


 布が覚えていた手の名前が、五十年針を握った人の口から生まれた。


 母はその名を知らずに逝った。けれど母の遺品の七十二着が、その名を十年、裏地に抱いていた。母は知らずにその手の布を纏い、王妃として四十年を生きた。


 その名が今ようやく、母の娘の前に届いた。


 私の指がまた窓枠の縁を撫でていた。布目を探していた。木の枠に布目はない。それでも指は何かを辿っていた。母が私の手を取って、裏地の縫い目をゆっくり辿らせた、あの幼い日の感触を。




 私は窓の外を見た。


 空いた庭。芽吹きを待つ木々。風が何も遮るものの無い場所を通り抜けていった。


 私の中で張りつめていたものは、もう喉のところで止まっていなかった。それはゆっくりと、別の場所へ降りていた。胸の、もっと深い、決めるための場所へ。


 知ってしまった、と私は思った。


 昨日、私は蔵を閉じながら、知ってしまった以上もう戻れないと感じていた。今朝、その名が生まれて、私はもう一段戻れなくなった。名を知った。背景を知った。その手が十年以上、王宮の蔵を一人で支えていたことを、私はすべて知ってしまった。


 知った者には、知った後で何をするかという一つの問いだけが残る。それは昨日、私が蔵でローザに言ったことだった。気づいた後で何をするか。それだけは私たちが選べる。


 私は選ぶときだった。




 「ローザ。カミーロを」


 ローザが頷いて、控えの間の扉から侍従長を呼んだ。


 ほどなくカミーロが私室に入ってきた。白い髭の老紳士。黒い侍従服に銀の鎖飾り。その手にはいつもの古い革表紙の台帳が抱えられていた。四十年、王宮を支えてきた背筋がまっすぐに伸びていた。


 彼は私室にいるマリエッタを見た。それから長机の上の古い布を見た。


 彼の表情はほとんど変わらなかった。けれど台帳を抱える腕がわずかに深くなった。四十年の経験が、この部屋で何が起きたかをすでに量っているのが私には分かった。


 「陛下。お呼びでございますか」


 「カミーロ。マリエッタが確かめてくれました」


 私は長机の古い布に目を向けた。それからカミーロに向き直った。


 「蔵の手の名が分かりました」


 カミーロはわずかに目を上げた。先を待つ目だった。問わずに待つ。それが四十年、彼が身につけた作法だった。


 私はその名を口に出した。


 「ファブリツィア家のティナ嬢。十二でランドルフ公爵家に貸与され、十年も専属職人と偽られていた伯爵令嬢です。半年前に追われた」


 カミーロの背筋が、ほんの一瞬止まったように見えた。


 二つの半年が今、彼の中で繋がったのだろう。御用達工房の止まった半年と、社交界の凍った半年。彼が昨日まで二つの偶然と呼ぶことを四十年の勘で拒んでいた、その結び目に、今、名前が入った。


 彼は深く頭を下げた。




 「カミーロ。先日、私は辺境への捜索団をと言いました。あれは名も所在も確かでないままの言葉でした。今は違います」


 私は一拍置いた。胸の深い場所で、決めるものが形になった。


 「正式な調査隊を編成してください」


 カミーロは頭を下げたまま答えた。


 「畏まりました、陛下。調査の対象は」


 「ファブリツィア家のティナ嬢。十二で公爵家に貸与され、半年前に追放された伯爵令嬢」


 「その所在は」


 私はマリエッタの報告書を思い出していた。辺境ファーデンの仕立て屋。馬車で七日。北東。けれど、それは半年前の記録だ。彼女が今、本当にそこにいるかは私にも分からなかった。分からないからこそ、調査隊を送るのだ。


 「辺境ファーデン。報告書にはそう記されています。馬車で七日の北東。ただし、その記録は半年前のもの。彼女が今もそこにいるとは限りません。それを確かめるための調査隊です」


 「畏まりました」


 「彼女がどこにいて、何をしているのか。それを確かめるだけ。手出しは無用です」


 私はそこで声をわずかに落とした。


 「呼びつけてはなりません。縛ってもなりません。ただ見つけるだけ。それが、王宮がこの十年に対してできる最初の礼です」


 カミーロは頭を上げた。彼の目がわずかに何かを問うていた。けれど彼は問わなかった。問うのは私の役目ではない——彼の四十年がいつもそう言うように、今日も言っていた。


 「畏まりました、陛下」


 彼は深く頭を下げ、台帳を胸に抱え直した。




 私はローザにも向き直った。


 「ローザ。調査隊には布を読める者を一人、必ず加えてください」


 ローザはわずかに首を傾けた。


 「布を読める者を、でございますか」


 「ええ」


 私は長机の古い布を見た。地色に沈んだ二重縫いを。


 「言葉は嘘がつけます。報告は書き直せます。けれど布は嘘がつけません。母がそう言いました。彼女が今、何を縫っているか。それを見れば、彼女が無事に針を握っていられるかが分かります。私が知りたいのは所在だけではないの。彼女が今も自分の手で生きていられているか。それが知りたい」


 ローザはしばらく私を見ていた。それから深く頭を下げた。


 「畏まりました、陛下。布を読める者を、慎重に選びます」


 「お願い。それと——」


 私は三人を順に見た。マリエッタ。ローザ。カミーロ。


 「ティナ・ファブリツィアの名は、まだ外に出してはなりません。調査隊にも目的は伝えても、名は伏せます。この名は王宮の中だけで、まだ預かっておきます。彼女の名が社交界の風刺画の上でもう一度消費されることだけは——させません」


 三人は、それぞれの礼の形で頭を下げた。




 カミーロが台帳を抱えて退き、ローザが侍女たちへの段取りに下がった後、私室には私とマリエッタだけが残った。


 春先の光が、長机の古い布の上をゆっくりと移っていた。光が動くだけ時が進む。けれど今朝の光は、昨日の蔵の光のように時を減らしてはいなかった。今朝の光は、何かがようやく始まる方へ机の上を渡っていた。


 「マリエッタ。あなたは十年以上、その名を一人で抱えていた」


 マリエッタは、控えめに前で重ねた手をほどかなかった。


 「……いいえ、陛下」


 彼女は首をわずかに振った。


 「私はただ、針と糸を渡しただけでございます。それを十年、布の裏で抱え続けたのは——お嬢様ご自身でございます。私が抱えていたのは、ほんのその端でございました」


 私はその言葉を、長く胸に置いた。


 彼女は報告書を提出したあの日も同じことを言ったと、ローザから聞いていた。私はただ、針と糸を渡しただけ。彼女は自分を証言者とも英雄とも呼ばない。針と糸を渡す者。それが彼女が五十年、自分に許したただ一つの役目だった。


 「マリエッタ。あなたが渡した針と糸が十年、布の裏で生きていました。それが今朝ここで名前になったのです。あなたが渡さなければ、その名は生まれなかった。端を抱えていたとあなたは言う。けれど、その端を十年離さなかったのはあなただけです」


 マリエッタは何も言わなかった。


 ただ、その荒れた手が前で重ねられたまま、ほんの少し強く握られた。微塵も揺れなかったあの手が。私はそれを見なかったふりをした。彼女が私のそういう優しさを望むだろうと思ったから。それは昨日、私がローザにしてもらったことのお返しのようなものだった。




 マリエッタが退いた。


 私室には私だけが残った。


 私は窓辺に立って、空いた庭を見た。


 冬に伸びすぎた枝はもう片付けられている。庭は新しい芽の伸びる場所を空けて、静かに待っていた。庭は待てる。手当てをすれば来年また芽吹く。


 蔵は待っても来ない。十年以上、署名を足し続けた手は、半年前に止まっていた。百二十着が最後の山だった。


 けれど——今朝、私はもう一つのことを知った。


 その手は止まったのではなかった。止められたのだ。半年前、雨のランドルフ公爵家の裏門から追われた。手はまだ生きている。辺境のどこかで。私の声の届かない遠い場所で。針を握っているかもしれない。握れずにいるかもしれない。それはまだ分からない。


 だから調査隊を送る。確かめるために。


 私は自分の右手を見た。


 白い手だ。布を吟味することはあっても、布を縫ったことはない。母から布の見方は教わった。けれど針の握り方は教わらなかった。それは私の手のできることの外にあった。


 その、私の手の外にある一本の手が、十年以上、王宮の蔵を一人で支えていた。


 今朝、その手に名前がついた。


 名前がついた以上、それはもう布の裏側の秘密ではない。動き出すものだ。王宮が動く。調査隊が北東へ、馬車で七日の道を行く。


 私はそれが彼女にとってどういうことになるのか、まだ分からなかった。


 彼女はまだ、王宮が動き始めたことを知らないだろう。辺境の小さな仕立て屋で、自分の手の名が王の膝元で生まれたことを、知らないだろう。


 けれど——王宮が動けば、その振動は必ず別の場所にも届く。


 その名を十年、明かさずに偽り続けたあの家にも。


 私は窓の外の、空いた庭を長く見ていた。


 春先の風が、何も遮るものの無い場所を通り抜けていった。


 その風は北東へ向かっていた。馬車で七日の、その方角へ。


 そして同じ風が、王都の貴族街の、ある屋敷の窓もいずれ叩く。


 その家の者が、まだ何も知らずにいる、その窓を。


 私にはその音が、もう聞こえる気がした。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第18話、第2アーク「裏地の真実編」の「起」の締めくくりです。第14話でマリエッタが報告書を提出し、第15・16話で王妃が百二十着を検分し、第17話で外交の場にその不在が出ました。そして今回、ようやく「これは……ファブリツィア家の、ティナ嬢の手でございます」——マリエッタが、十年以上、誰にも明かさず守ってきた名を、王宮の主の前で正式に告げます。


この回でいちばん書きたかったのは、「名前は、口に出すまで本当には存在しない」ということでした。報告書の文字でも、王妃が独りで繰った名でもなく、五十年針を握ってきた人が、自分の指で署名を辿った後、自分の声で告げて、初めてその名は世に生まれる。だから王妃の視点を選びました。マリエッタの内心は書かず、その手の震えや沈黙を、外から王妃に見させたかったのです。


マリエッタの「私はただ、針と糸を渡しただけ」——第14話と同じ言葉を、もう一度置きました。彼女にとって、黙ることも語ることも同じ一つのことです。一人の人間の十年を、誰かに見届けさせること。


王妃の決断は、怒鳴りでも号令でもありません。「呼びつけてはなりません。ただ見つけるだけ」。亡き母ヴィオレッタの遺言を「宿題」として受け取った娘の、静かな礼の形です。布を読める者を調査隊に、というのも、所在ではなく「彼女が今も自分の手で生きていられているか」を知りたいから。


そして、王宮が動き出した振動は、必ず別の窓も叩きます。次話、第19話【ヴィクトル断章①】「答えられない名前」。父に問われ、答えられない男の番です。「もう遅い」のカタルシスが、ここから本格的に回り始めます。


第2アーク「裏地の真実編」、引き続き、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。

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