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「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


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第21話: 一着だけ、私の手じゃない

 その布片を指に挟んだ瞬間、十年前の冬の夜が、私の指先によみがえった。


 まだ夜も明けきらぬ店の作業机だった。私は届いたばかりの木箱の蓋を開け、一番上に重ねられていた古い裏地の切れ端を、ほとんど考えもせずに摘み上げた。摘み上げて、息が止まった。


 北方の双糸羊毛。三年寝かせて織った一級品。緯糸の張りが、左に向かってほんのわずかに強い。私が十七の冬、かじかむ指で縫った癖だ。


 この布を、私は知っている。




 外はまだ暗かった。


 ファーデンの朝は遅い。山に囲まれた盆地だから、東の峠の縁が白むまで、町は薪の煙の匂いの底に沈んでいる。窓の硝子には私の手燭の灯りだけが映って、その向こうの闇は墨を流したようだった。


 木箱は昨夜、市場の閉まる頃に届いた。馬で街道を駆けてきた使いが、息を切らして店の戸を叩いた。荷の上には王家の封蝋も差出人の名もなく、ただ古びた行商の梱包に紛らせてあった。


 けれど箱の底に、一通の書状が忍ばせてあった。


 筆跡を、私は知っていた。屋敷の十年、唯一私の名を知っていた人の、年を経て少し震えるようになった字だった。


 マリエッタからだった。




 書状は短かった。


 お嬢様。どうかこの布片を、御自分の手で確かめてくださいまし。王宮の蔵から運ばれた古き御衣装の、裏地と署名だけを、切らせていただきました。御本体は王宮に。どうか辺境を離れずに。布だけが、お嬢様のもとへ参ります。


 そして末尾に、一行。


 お嬢様の十年が、本当に、お嬢様お一人の手であったのか。それを確かめられるのは、この世にお嬢様お一人でございます。


 私はその一行を、二度読んだ。


 二度読んでも、意味は同じだった。けれど二度目のほうが、胸の底に重く沈んだ。


 王宮が、私の布を、確かめている。十年、誰の目にも触れぬはずだった裏地の署名を、誰かが見つけて、辿りはじめている。


 私はもう、王都には戻らない。署名も、怒りも、もう消したつもりでいた。それなのに——布のほうが、私を呼び戻そうとしていた。




 箱の中には、布片が、紙に挟まれて重ねられていた。


 一片ずつ、薄い羊皮紙に番号が打たれている。本体は王宮に残し、裏地と署名の縫われた部分だけを、傷めぬよう四角く切り取って送ってきたのだ。マリエッタの手だと、切り口を見ればわかった。布の目に沿って、糸を一本も毛羽立たせずに鋏を入れている。五十年針を握った人の鋏だった。


 私は手燭を布片のそばに寄せた。


 火を近づけすぎると染料が灼ける。私は灯りを布から指三本ぶん遠ざけ、そのかわりに目を布に近づけた。十年、私はいつもこうしてきた。布を見るのではない。布のなかへ入っていくのだ。


 最初の一片を、両手のひらに載せた。




 指が、勝手に動いた。


 襟元の裏。署名の二重縫いに、まず触れた。「T.F.」。私の文字だ。けれど私は署名で布を見分けるのではない。署名は誰にでも真似られる。文字は形でしかない。私が読むのは、文字の下にある、布そのものの記憶だった。


 経糸を、爪の腹でそっと押した。張りが返ってくる。緯糸を撫でて、噛み合わせの深さを測る。染料の沈み方を斜めの光で見る。針の刺さった穴の、ほんのわずかな傾き。糸を引き締めたときの力の、揺らぎの幅。


 それらが、ひとつの声になって、私の指から上ってきた。


 ——これは、私の手。


 十九の春に縫ったものだ。先王妃ヴィオレッタ様の、薄萌黄の昼の御衣装。あの春、私は熱を出して三日寝込み、起き上がってすぐにこの裾を縫った。だから裾の縫い目だけ、ほかより半針ぶん、目が大きい。指に力が戻りきっていなかった。私だけが知っている、私の不出来だった。


 私は、その布片を、机の右側にそっと置いた。




 二片目。


 南方の絹。染料は紅花を三度重ねた、あの深い赤。これも私の手だ。二十の冬、夜会の三日前に染め直しを命じられて、徹夜で襟を付け替えた。襟の内側に、糸の継ぎ目が一箇所だけある。継いだ糸の撚りの向きが、私のものだ。私は左へ撚る癖がある。母から教わったのではない。誰にも教わらなかったから、自己流で、左へ撚った。


 ——これも、私の手。


 右側に、重ねた。


 三片目。四片目。五片目。


 布が、私に語った。どの一片も、私の指が覚えていた。熱を出した春。徹夜の冬。指が腫れて針が持てず、唇で糸を引いた夜。給金は一度も出なかったけれど、布だけは、私の十年を一片も忘れずに抱えていた。


 私は、自分が泣いているのかと思って、頬に触れた。乾いていた。


 泣いてはいなかった。ただ、指先だけが、熱かった。




 外が、薄く白んできた。


 峠の縁が灰色になり、町の薪の煙が、青みを帯びはじめた。


 戸が、軽く叩かれた。


 「……ティナ」


 エミルの声だった。私が顔を上げると、戸の隙間から朝の冷気と一緒に、彼が入ってきた。胸ポケットにいつもの色見本のリボンが数本、覗いていた。


 彼は机の上の布片の山を見て、それから、机の右側に積み上がった、私が読み終えた片を見た。


 布を見る瞬間だけ、彼の穏やかな目が、すっと鋭くなる。


 「……これ、全部か」


 「百二十片だそうです」


 「裏地だけ切って送ってきたのか。誰が」


 「言えません」


 彼は、私の顔を見た。それから、それ以上は聞かなかった。


 「お前一人で読むのか」


 「私にしか、読めませんから」


 「徹夜したな」


 「……してません」


 「手燭の油が、ほとんど残ってない」


 私は、手燭を見た。彼の言うとおりだった。私は、布のなかへ入っていると、火の減りも、夜の明けるのも、わからなくなる。屋敷の十年、ずっとそうだった。誰も、それを気にしなかった。


 彼はそれ以上、止めなかった。止めても無駄だと、彼は知っている。かわりに、火の落ちかけた暖炉に薪を足し、湯を沸かしに立った。何も言わずに。気づいた時には隣にいる、いつものやり方で。




 湯気の立つ椀を、彼は机の端に置いた。


 私の手の届く場所、けれど布片には湯気のかからない場所。布が濡れれば目が狂う。それを彼は言われなくても分かっている。布を分かる人だった。


 「読めるのか。古い布だろう。傷んでるやつもある」


 「傷んでいるほうが、よく語ります」


 私は六片目を取り上げた。虫食いの多い、最も古い断片だった。


 「新しい布は、まだ自分のことを話したがりません。固くて、よそよそしくて。けれど、年を経た布は——」


 私は指を、虫食いの縁にそっと沿わせた。


 「ほどけかけた糸の一本一本が、自分がどう縫われたかを、もう隠さなくなります。誰がどんな夜に、どんな指で縫ったか。傷んだ布ほど、正直なんです」


 エミルは、椀を両手で包んだまま、私を見ていた。


 「祖父も、同じことを言ってた」


 ぽつりと、彼が言った。


 「お祖父様も、布を読む方だったんですか」


 「……昔な」


 彼は、それだけ言った。昔な、の一言に、何か重いものが沈んでいるのが分かった。けれど彼はそれ以上は語らず、ただ椀の縁に唇をつけた。私も、それ以上は聞かなかった。聞かなくても、いつか彼が話してくれる気がした。布のように。傷んだところから、ほどけるように。




 日が、峠を越えた。


 窓から差し込む光が、机の上を斜めに渡っていった。私はその光を頼りに、染料の歪みを見た。手燭よりも、朝の斜光のほうがよく見える。布の地色に沈んだ二重縫いが、光の角度を変えるたびに、糸の影でわずかに浮き上がる。


 三十片を読み終えた。すべて、私の手だった。


 五十片。やはり、私の手。


 私は途中から、声に出して数えるのをやめた。声に出せば、十年が、数字になってしまう気がした。四百三十二着。年に四十三着。ほぼ毎週、一着。その数を、私は屋敷で一度も誇りに思わなかった。誇るような余裕はなかった。ただ、次の一着があるから、次の一着を縫っていた。


 それだけの十年が、今、私の手のひらの上を、一片ずつ通り過ぎていく。


 昼を過ぎても、エミルは帰らなかった。


 市場へ出る刻限はとうに過ぎていた。彼は店の戸に「本日休み」の札を下げ、私の向かいに座って、読み終えた布片を番号順に並べ直していた。手伝うとも言わず、邪魔だとも言わせず、ただ、私の手が散らかさないように、机の端で静かに片づけていた。


 手を止めて茶を含んだとき、彼がふいに口を開いた。


 「これ、何のための調べだ」


 「……たぶん、誰が縫ったかを、確かめたいんだと思います」


 「今さらか」


 「今さら、です」


 私は、自分の声が少し笑ったのに気づいた。笑うようなことではないのに。


 「十年、誰も問いませんでした。誰が縫ったか。貴族は、美しい結果だけを欲しがります。作った手の名前は、欲しがらない」


 「辺境は逆だ」と、エミルが言った。「ここじゃ、まず誰が作ったかを聞く。布も、料理も、家も」


 「はい。それが——嬉しかったんです。ここに来て」


 言ってから、私は少し、恥ずかしくなった。布の話以外で、自分の気持ちを口にするのは、苦手だった。エミルは、それ以上踏み込まなかった。ただ、机の端の布片を、また一片、まっすぐに直した。




 八十片。九十片。


 指が、痺れはじめていた。


 「指、止まってきたな」と、エミルが言った。


 「少し、鈍っています」


 「半年、派手なドレスを縫ってないからか」


 「分かるんですね」


 「お前を見てればな」


 布目読みは、修練しないと衰える。屋敷を出てから半年、私は派手なドレスを縫っていない。辺境の繕い物と、市長夫人のローブが数着。指の感覚は、十年の頃より、少しだけ鈍っている。それが分かるのは、私だけ——のはずだった。今は、向かいに、もう一人いた。


 けれど、鈍った指でも、自分の手だけは、まちがえようがなかった。


 子は親の声を、どんな雑踏のなかでも聞き分ける。私にとって、布は子だった。十年、自分のためには一着も縫わず、人を美しくするためだけに縫った、声を持たない子たちだった。


 ——これは、私の手。


 ——これも、私の手。


 百片。百十片。


 もう、迷いはなかった。一片を取り上げ、指を沿わせ、置く。取り上げ、沿わせ、置く。私の十年が、間違いなく、私一人の手だったことが、布のほうから、次々と証されていった。


 誰も信じてくれなくても、布は知っていた。署名は消えない。糸は覚えている。


 私は、百十八片目を、右側に置いた。


 残りは、二片。




 百十九片目。


 私は、その布片を取り上げた。


 取り上げて——指が、止まった。


 最初は、自分の痺れのせいだと思った。一日中、布を読み続けて、指の感覚が狂ったのだと。私は息をひとつ吐き、椀の冷めた茶を一口含んで、もう一度、その布片を両手に載せた。


 署名は、「T.F.」。私の文字だ。襟元右下、二重縫い。位置も、太さも、角度も、私のものと寸分違わない。


 けれど。


 経糸を押した。張りが——返ってこない。私の縫いなら、ここでもう半分ぶん、糸が深く食い込んでいるはずだった。緯糸の噛み合わせが、浅い。


 私は、針穴を見た。


 針の傾き。私は布に対して、ほんのわずか、左へ倒して刺す。左へ撚る癖と同じ、私の手の傾きだ。けれどこの布の穴は——まっすぐだった。几帳面に、教科書のように、まっすぐ。


 糸の撚りを、爪で割いた。


 右へ撚られていた。


 私の糸は、左へ撚る。




 手のひらが、冷たくなった。


 暖炉は燃えている。湯気も立っている。それなのに、その布片を持つ手だけが、すっと温度を失った。


 「……ティナ」


 エミルが、私の顔を見て、立ち上がりかけた。


 「どうした。顔が——」


 「この一着は」


 声が、短くなっていた。布の話なら、私は少し饒舌になる。けれど今は、言葉が喉で痩せていった。


 「私の手じゃ、ありません」


 エミルが、動きを止めた。


 「署名は、私の『T.F.』です。位置も、形も、私のものを、よく真似てあります。よく——本当によく、真似てあります」


 私は、その布片を、机の中央に、そっと置いた。右でも、左でもない、まんなかに。


 「でも、縫ったのは別の人です。糸の撚りが逆です。針の傾きが違います。布の張りの食い込ませ方が、私の半分しかありません。これは——私の手を知っている誰かが、私の署名だけを真似て縫ったものです」




 店のなかが、静かになった。


 外の風が、樫の看板を軽く揺らした。革紐の軋む音が、やけにはっきりと届いた。


 エミルは、机の中央の布片を、しばらく見ていた。それから、低く言った。


 「百二十着、全部お前の手だと、王宮は思ってるんだろう」


 「……はい」


 「だが、一着だけ、お前の手じゃない」


 「はい」


 私は、最後の一片——百二十片目を、まだ読んでいないことに気づいた。手を伸ばし、それを取り上げる。ひと触れで分かった。経糸の食い込みが深い。糸は左へ撚られている。針の傾きは、左へほんのわずか。これは、私の手だ。私は静かに、それを右側の山へ重ねた。


 これで、すべて読み終えた。机の右側に、百十九。まんなかに、一。


 百十九着が、私の手。


 一着だけが、私の手を真似た、別人の手。




 私は、まんなかの布片を、もう一度、指でなぞった。


 なぞるほどに、不気味だった。下手な偽物なら、私はひと目で笑い飛ばせる。けれど、これは違う。


 「この人は」と、私はエミルに言った。「二重縫いの角度まで、知っていました。襟元右下、袖口の縫い代、裾の内側、指三本。私が誰にも教えず、息を潜めて十年、残し続けた場所です。私だけの場所を」


 「偶然、当たったとかじゃないのか」


 「三箇所とも、です。偶然では、当たりません」


 私は、布片を、もう一度なぞった。


 「この人は、私の縫い方を、間近で見ていたか——私が縫った本物を、何着も、手に取って調べた。そうでなければ、ここまで真似られません」


 「誰が」


 私は、首を振った。


 「誰が、何のために、私の署名を、偽ったんでしょう」


 エミルは、答えなかった。答えられる問いではなかった。彼は、ただ、私の冷たくなった手の上に、自分の手を重ねかけて——けれど、寸前で止めた。胸ポケットの色見本のリボンが、わずかに揺れた。


 「……いまは、いい」と、彼は低く言った。「誰がやったかは、あとだ」


 「でも」


 「お前、丸一日、布のなかにいた。いったん出てこい」


 そのかわりに、彼は冷めた茶の椀を取り、新しい湯を注ぎに立った。


 「飲め」と、ぶっきらぼうに。


 「冷えてる。手が」




 窓の外で、ファーデンの一日が暮れようとしていた。


 峠の向こうに日が落ちて、町の薪の煙が、また青みを帯びはじめた。市場はとうに閉まり、戸口に下げた「本日休み」の札が、夜風に小さく鳴っていた。


 私は、温かい椀を両手で包んだ。手のひらに、ゆっくりと温度が戻ってきた。


 「署名って、誰でも真似られるんだな」


 暖炉の前に戻ったエミルが、ぽつりと言った。


 「文字ですから」と、私は答えた。「形を覚えれば、誰でも書けます。私の『T.F.』も、二重縫いの角度も、間近で見れば、真似られる」


 「お前の縫い目は、真似られないのか」


 「真似られません」


 私は、まんなかの布片を、もう一度、見た。


 「糸を引き締める力。針の倒し方。布をどう食い込ませるか。それは、文字みたいに形がありません。十年、毎日繰り返した手だけが、勝手に出るものです。真似ようとしても——真似ようと思った時点で、手が固くなる。教科書みたいに、まっすぐになる。この布が、そうです」


 「だから、見抜けた」


 「私だから、見抜けました」


 エミルは、それを聞いて、しばらく火を見ていた。それから、灰青色の目を、私に戻した。


 「なら、お前を呼んだ奴は、正しかったわけだ」


 私は、答えに詰まった。マリエッタの名は、言えない。けれど、彼の言うとおりだった。布を読める者でなければ、この一着は見つからなかった。私を辺境まで探した手は——正しかった。


 机の右側に、百十九。私の十年。私一人の手。


 まんなかに、一。私の手を真似た、見知らぬ手。


 王宮は、百二十着すべてを私の手だと思っている。けれど、ちがう。一着だけ、まぎれている。私の署名を着た、私ではない誰かの仕事が。


 その一着が、いつ、どこで、王宮の蔵に紛れ込んだのか。誰の手が、何のために、私の名を借りたのか。


 私には、まだ、何も分からなかった。


 分からないのに、ひとつだけ、はっきりと感じていた。


 ——この一片は、私が読んだから、見つかった。


 もし王宮が、布を読めぬ者ばかりで百二十着を数えていたら、この一着は永遠に、私の手として、私の十年に紛れたままだったろう。私の署名を着たまま。私の名で。


 誰かが、それを望んでいたのかもしれない。




 私は、まんなかの布片を、丁寧に羊皮紙に包み直した。


 百十九片とは、別にした。混ぜてはならないと思った。これは、私の十年の山に、加えてはならない一片だった。


 「返事を、書かないと」


 私は、声に出していた。


 「百二十着のうち、百十九着は私の手。でも、一着だけ、別の手が紛れている、と」


 「書くと、また王都が動くぞ」


 エミルの声は、責めてはいなかった。ただ、確かめていた。


 「動きます」と、私は言った。「半年前、王都を出たとき、私は何も持ち出しませんでした。署名も、怒りも、置いてきたつもりでした。それなのに——布のほうが、私を放してくれません」


 「放さなくていいだろ」


 彼は、暖炉の火に、最後の薪を足した。


 「お前の手だったんだ。十年。布が、それを覚えてた。お前が置いてきても、布は置いてこなかった。それだけだ」


 私は、その言葉を、長く胸に置いた。


 布は置いてこなかった。十年、私が自分のためには一着も縫わなかった、その手の仕事を。布だけが、私の代わりに、覚えていてくれた。


 窓の硝子に、灯りを灯した店のなかが映っていた。机の右に積まれた、私の十年。まんなかに、ひとつだけ別にされた。私の名を着た、誰かの嘘。


 その正体を、私はまだ知らない。


 けれど——糸は、覚えている。撚りの向きも、針の傾きも、布の食い込ませ方も。署名は真似られても、布そのものの記憶までは、真似られない。だから、いつか、たどり着く。この一片を縫った、見知らぬ手に。


 外で、樫の看板が、夜風にひとつ、大きく軋んだ。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第21話、場面はようやく辺境ファーデンへ戻り、視点もティナへ戻りました。第19・20話で、王都の人々は「答えられない名前」の前で立ち尽くしていました。その間に、ティナのほうが先に、布のなかへ手を伸ばします。


この回でいちばん書きたかったのは、「布目読みの大実演」です。ティナの能力は魔法ではありません。十年、毎日針を握り続けた指の記憶——熱を出した春の、半針大きい裾。徹夜の冬の、左へ撚った継ぎ糸。給金は一度も出なかったけれど、布だけが、彼女の十年を一片も忘れずに抱えていた。その静かな高揚を、百十九片を一片ずつ読み進める時間として描きたかった。


そして、最後の一着。署名は「T.F.」を寸分違わず真似ているのに、糸の撚りが逆、針の傾きが違う、布の食い込ませ方が半分しかない。ティナにしか見抜けない、たった一着の嘘。「百二十着、全て同じ手」と王宮が信じていたものに、彼女が触れて初めて、ひびが入ります。私の署名を着た、私ではない誰かの手。誰が、何のために——その問いだけを残して、今回は引きます。


エミルは、今回は少しだけ言葉が増えました。とはいえ、語るのは布のことと、ティナの手の調子のことばかり。湯を沸かし、布が濡れぬ場所に椀を置き、店に休みの札を下げて、ただ向かいに座っている。「気づいた時には隣にいる」彼のやり方です。冷たくなった手に重ねかけた手を寸前で止めるところは、二人の距離が、まだ恋人未満であることの、私なりの線引きです。それでも、「分かるんですね」「お前を見てればな」——あの数語のやりとりだけは、少しだけ、二人の温度が近づいた瞬間のつもりで書きました。


「裏地の署名」のモチーフが、ここで一度ねじれます。十年、ティナを守り続けた署名が、今度は、誰かに着られて彼女を脅かす側に回る。次話、第22話【アデリーナ視点章】「妹からの告発書状」。王都の側でも、もう一つの「もう遅い」が動き出します。


第2アーク「裏地の真実編」、引き続き、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。

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