婚約者のもとへ送った身代わり人形が、三日で逃げ帰ってきました
私の代わりに婚約者の屋敷へ送った魔法人形が、三日で帰ってきた。
一週間、頼んだはずだった。
しかも玄関前には、嫁入り道具を山積みにした荷馬車が停まっている。
嫁入り道具が、嫁入り前に出戻ってきた。
「セリア様、帰還いたしました」
私の古着を着た人形は、磨かれた白木の顔を傾け、きちんとお辞儀した。栗色のかつらも、首に結んだ青いリボンも出発したときのまま。ただし、ドレスの裾だけが泥だらけである。
「ベル。……あの、早くない?」
「予定より四日早い帰還です」
「分かってるなら、どうして帰ってきたの!?」
借りた期間を聞き間違えたわけではないらしい。
私より素直で、私より物覚えがよく、私より長く働けるという触れ込みだったのに、見切りをつけるのまで私より早いとは聞いていない。
「エドガー様から、セリア様のご実家へ戻るよう指示を受けました」
ベルが答える横で、御者が馬車の荷台を開いた。
「お荷物は、どちらへ運びましょう」
箱に括られた荷札には、どれも私の名前が書いてある。
結婚したら使う予定の銀食器。寝具。客間に置こうと思っていた椅子掛け。エドガー様の屋敷へ少しずつ運び込んだものが、本当に全部戻ってきたらしい。
「……客間へお願いします」
そう答えたところで、運ばれていく箱の隙間から、見覚えのあるクッションが覗いた。
青い花を刺繍したあと、エドガー様に地味だと言われ、金糸を足したものだ。足しすぎだと言われて、ほどいて、また縫って。
最後には気に入っていただけたと思っていた。
私は箱から目を離し、ベルの顔を見た。
この子は、ずっと同じ顔で笑っている。
いいなあ。顔だけでも。
◇
三日前、ルカさんの工房でベルを借りたときには、こんなことになるとは思っていなかった。
私は子爵家の娘で、エドガー様は伯爵。両家の話し合いで婚約が決まり、最近は結婚準備のため、頻繁に彼の屋敷へ通っていた。
贈答品の確認をしたり、客室に置く布を選んだり、その合間にエドガー様のお茶を用意したり、話し相手になったり、機嫌を損ねたら何が悪かったのか考えたり。
最後の仕事が、いちばん難しい。
「今日は来なくていい」と言われて休んだら、「本当に来ないとは思わなかった」と怒られた。
「好きなものを選べ」と言われて選んだら、「私の好みくらい分かるだろう」と呆れられた。
難しいんだよ、言葉の使い方が!!
いちばん困るのは、何も言わないときだった。
ペンの音が止まると、私は息を止めた。
そういうときは、とりあえず謝る。
「申し訳ございません」
何がだろう。
「申し訳ございません」
茶葉だろうか。
「申し訳ございません」
もう天気でいいか。
しかし、相手は未来の夫である。
上手に合わせられるようになれば、そのうち穏やかに暮らせるのだろうと、私はかなり真面目に考えていた。
そんな私にも、休みたい理由ができた。
刺繍である。
私は以前から、魔法人形師であるルカさんの工房に、人形の衣装を納めていた。男爵家の次男だという彼は、実家から独立して、小さな店を営んでいる。
今度の手工芸市では、私の名前も掲げて展示することになっていた。
初めてだった。
誰かへの贈り物でも、嫁入り道具でもなく、私が作ったものとして、知らない人に見てもらえる。
どうしても、きちんと仕上げたかった。
そこで、一週間だけ屋敷への訪問を休みたいと申し出たのだけれど、エドガー様は書類から顔も上げずに言った。
「刺繍のために? こちらの準備を後回しにするのか」
「先にお約束していたお仕事なので」
「考えるほどのことではないだろう。こちらでは、私の言うとおりにしていればいいんだ」
その言葉で、工房の貸出用人形を思い出した。
療養や旅行中、本人の日課を代行してくれる魔法人形だ。お茶の支度も、品物の整理もできる。もちろん、人間を装って結婚したり、契約を結んだりはできない。
私が提案すると、エドガー様は鼻で笑った。
「君より素直なら、人形の方がいいくらいだ」
それから書類に目を戻し、ついでのように付け足した。
「好きにしろ。どうせ三日で音を上げて、君のほうから戻ってくる」
――というわけで、私はベルを借りることにしたのである。
「普段、何をしているか教えてもらえますか」
工房で、ルカさんが紙に予定を書き留めていく。
黒い髪には、細かな木粉がついていた。袖をまくった腕で机の上の部品を寄せ、私の説明を聞きながら、時々ベルへ短い指示を出す。
「お茶は、部屋へ運ぶ前に一度お声がけを。あと、ご機嫌が悪そうでしたら、先に謝ってください」
「……何について?」
「何が悪かったかは、あとで分かることが多いので」
ルカさんのペンが止まった。
何か変なことを言っただろうか。
彼は私を見て、それから紙へ視線を戻した。
「ベルには、ご機嫌のよしあしは判断できません。口にされた指示のとおりに動くので、『要らない』と言われたら出しませんし、『帰れ』と言われたら帰ります」
「はい」
「本当は引き留めてほしい、とか、謝ってほしいとか。そういう意味では受け取れません」
余計なことを考えない方が、うまくいくかもしれない。
エドガー様はいつも、私が余計なことばかりするとおっしゃるのだから。
念のため、この性質は書面にしてエドガー様にも伝えた。
口にされた指示のとおりに動き、遠回しな言い方は理解できません、と。
返事は短かった。
『それでいい。君も見習うといい』
私への小言を忘れないところ、さすがである。
仕事中はエドガー様の指示を受けること。帰り先は私の実家であること。屋敷へ運び込んだ私の持ち物には、贈答品に混ざらないよう、名前入りの荷札がついていること。
必要な説明を終え、私はベルに古着を着せた。
顔を似せる必要はない。客に私の代理だと分かるよう、服とかつらだけ合わせた。
首に青いリボンを結んで、最後に一度、全身を見る。
私より姿勢がいい。
そこだけでも見習うべきかもしれない。
そして私は、ベルを送り出したのだった。
◇
帰ってきたベルを連れて工房へ行くと、ルカさんは、私と人形を交互に見た。
「早いですね」
「私も、まずそれを言いました」
事情を話すと、彼はすぐ作業台を空けてくれた。
ベルを椅子に座らせ、首の後ろを開き、内部の魔石や関節を確かめる。白木の指を一本ずつ曲げたあと、この三日間のことを順に尋ねた。
ベルは、自分が受けた指示と、自分がした作業を覚えている。
「一日目。エドガー様は『適当にやっておけ』とおっしゃいました。適当の範囲を確認いたしました」
「確認しちゃったの」
「『そのくらい考えろ』とのご指示でしたので、考えました。結論をご報告いたしましたところ、『誰が話せと言った』とおっしゃいました」
聞き覚えのある一日である。
「二日目。『察しろ』とのご指示がありました。察する機能はありません、とお伝えいたしました」
言った。
私が婚約してから一度も言えなかったことを、二日目で言った。
「その後、『もういい』とのご指示でしたので、本日の作業を終了いたしました」
「……それ、何時ごろ?」
「午前中です」
ルカさんが、魔石を持ったまま咳き込んだ。
「三日目。エドガー様は、お客様をお迎えする前に、ご自分のお茶は不要とおっしゃいました。お客様の分だけをご用意いたしました」
「……うん」
「『どうして私の分がないのか』とおっしゃいましたので、不要とのご指示でした、とお答えいたしました」
「お客様の前で?」
「はい。商会の方の前で。『気を利かせろ』とのご指示でしたので、お茶が不要とのご指示でも、お出しするべきか確認いたしました」
「……ああ」
私は、思わず額を押さえた。
それは駄目だ。
それを聞くと怒られる。
何を言っても怒られそうなときは、とりあえず謝って、お茶を淹れて、熱すぎるか冷たすぎるかの判定を待つしかない。
「エドガー様は、その程度のことを尋ねるなとおっしゃいました」
「言いそう……」
「その後、セリア様のお荷物も全部持って、実家へ帰るようにと」
「それで、帰ってきたのね」
「はい。二度と戻るな、とのご指示でした」
家令が一度だけ確かめに行き、「聞こえなかったのか」と怒鳴られて戻ってきたので、あとは誰も止めなかったらしい。
ベルは、家令が呼んだ運送屋と一緒に荷物を積んだそうだ。雨の降る裏口で作業したため、裾が汚れたという。
壊されたわけでも、逃走中に転んだわけでもなかった。
私は、泥のついた裾を摘まんでから、そっと離した。
「故障はありません」
点検を終えたルカさんが、ベルの首の後ろを閉じた。
「受けた指示のとおりに動いています」
私は笑ってしまった。
エドガー様の言うことを、こんなに素直に聞ける子はいないだろう。なのに追い出されたのだ。
素直なのが欲しかったんじゃないのかよ。
「私も、何度か言われたんです」
「何を?」
「帰れって」
ルカさんが、私の方を見た。
「気に入らないなら帰れ、とか。そんな顔をするなら来るな、とか。……でも、帰ったことはなくて」
口にしてから、自分で少し驚いた。
帰りたかった日は、何度もあった。
馬車まで歩けば、家には帰れた。
でも、玄関へ向かう前に呼び止められたら、今度こそ本気で嫌われるような気がした。お前はその程度だったのか、と言われたら、もう何も返せないと思っていた。
だから謝った。
何について謝っているか分からなくても、謝れば、その日はどうにかなった。
私は、ベルの裾の泥を見た。
「ベルは、帰れたんですね」
ルカさんは、私のすぐ横へ椅子を置いた。
「座りませんか」
私は腰を下ろした。
結婚したばかりの友人から、最初は誰だって苦労するのだと聞いたことがある。だから、そういうものかと思っていた。
婚約した頃のエドガー様は、私が焼いた菓子を食べて、嬉しそうに笑ってくれた。
結婚したら、この部屋を二人で使おう。
君の刺繍を飾ってもいい。
そういう話もした。
今でも機嫌のいい日には、同じ顔で笑ってくれる。
その一日があると、次の十日は謝って過ごせた。
金糸をほどきながら、あの部屋にクッションを置くところを想像していたのだ。
「私、楽しみにしていたんです」
声に出した途端、涙が落ちた。
ルカさんは、戸棚から布を取り出して渡してくれた。使っていないものだから、とだけ言って、水の入ったコップを置いた。
私は礼を言おうとして、うまく言えず、頷いた。
泣いていると、エドガー様はいつも、困った顔をした。
また泣くのか、と言われる前に止めようとして、余計に止まらなくなった。
ルカさんは、何も急がせなかった。
少し離れたところで、ベルの泥を拭いている。
木の人形は、綺麗になっても同じ顔で笑っていた。
その顔を見ていたら、また涙が出た。
◇
ようやく鼻をかめるようになった頃、私は作業台の上を見た。
手工芸市に出す小さな人形が、横になっている。
私の縫った上着を着ていたが、片方の袖の縫い目だけ、少しほどかれていた。
「それ、どうしたんですか」
ルカさんが手元を見下ろす。
「肘を直したいんですが、袖を縫い閉じてあるので、修理のたびにほどくことになって。そのままで大丈夫だと言ったのは、僕なんですけど」
「では、ここを開けられるようにしましょう」
私は上着の縫い目を指で辿った。
「袖の内側だけ開けて、細い紐で留めるんです」
「それなら、縫い目をほどかずに済みますね」
「この刺繍のところまでほどいたら、たぶん私、泣きます」
ルカさんは、袖口の小さな花を見た。
「それで、先へ進めなかったんです。ここ、何度も下絵を描き直していたでしょう。勝手に糸を切るのも悪いと思って」
私は黙った。
腕を下ろしているときにも、上げたときにも見える場所を探して、花の位置を何度も変えた。
彼は、完成した上着だけを見ていたのではなかった。
ルカさんが、机から小さな留め具を持ってくる。
「紐を掛ける留め具は、角を丸めておきます。布に引っかかるといけないので」
二人で人形の腕を曲げたり、服を裏返したりしているうち、私のお腹が盛大に鳴った。
やめろ。
今、ようやく仕事のできる女っぽくなってきたところだろうが。
「昼、食べました?」
「……まだです」
「僕もです。何か買ってきます」
ルカさんは本当に簡単なものを買ってきた。肉と野菜を挟んだパンが二つ。
作業台の端で食べ始めると、彼のパンから真っ先に野菜が滑り落ちた。
あんなに小さい部品を扱える手で、どうして葉っぱ一枚押さえられないのか。
思わず笑うと、ルカさんが不満そうに言った。
「これは、挟み方が悪いんです」
「お店のせいにしないでください」
「じゃあ、食べ方が悪い」
「素直ですね」
「パンに怒っても、どうにもならないので」
私は、今度こそ声を出して笑った。
話すうちに、以前受けた無茶な注文の話になった。
私は、袖の長さを指定しないで「もっと優雅に」とだけ言われたときの愚痴をこぼした。
ルカさんは、羽ばたかない鳥の人形を頼まれ、納めたら「元気がない」と言われた話をした。
ひどい。
注文の時点で元気を奪っている。
そう言うと、彼はパンを持ったまま笑った。
帰る頃には、目の腫れが少し引いていた。
ベルの貸出は、まだ四日残っている。この日は私と一緒に帰ってもらうことにした。
あの屋敷へ送り返すつもりにはなれなかった。
「衣装の続き、また相談していいですか」
玄関でルカさんが尋ねた。
「はい。私も、仕上がりを見たいです」
答えてから、手元に借りたままの布があることに気づいた。
「あの、これ、洗ってお返しします」
「急ぎませんよ」
「それは、ちょっと急がせてください。鼻をかんだ布をいつまでも持っているの、嫌です」
「……分かりました」
ルカさんが吹き出した。
私も、少しだけ笑えた。
◇
家へ戻ると、エドガー様から使いが来ていた。
明日、こちらの屋敷へ謝罪に来ること。
人形師も連れてきて、欠陥について説明させること。
それだけだった。
私は部屋へ上がり、便箋を出した。
最初に「このたびは」と書いた。
次に「申し訳」と書きかけて、ペンが止まった。
何についてだろう。
人形が言いつけを守ったこと。
私が仕事のために休んだこと。
それとも、彼の機嫌を損ねない人形を選べなかったこと。
……選べるか、そんなもん。
素直なのがいいと言われて素直なのを送ったら、素直すぎて返品されたんだぞ。
私は、書きかけの便箋を裏返した。
夕方、外出から戻った父に、話を聞いてほしいと頼んだ。
父には今まで、準備は順調です、としか伝えていなかった。人形のことも、仕事の間の代行だとしか話していない。
うまくいかなかった日も、あとで謝って収まったのだから、わざわざ家族を心配させることはないと思っていた。
私がもう少し上手にできれば済む話だと。
客間には、戻ってきた荷物がまだ積まれている。
父は、その前で黙って話を聞いた。
私が言葉に詰まっても、続きを先に言わなかった。
全部話すと、父は尋ねた。
「セリア。お前は、どうしたい」
「でも、伯爵家とのお話ですし、家にご迷惑が」
「それは聞いていない」
私は、膝の上で握っていた指をほどいた。
「結婚したくありません」
一度言ってから、もう一度、父の顔を見た。
「エドガー様とは、結婚したくないです」
父は頷いた。
「分かった」
私は俯いた。
反対されたらどうしようと、そこばかり考えていたのに。
返事は、こんなに短かった。
もっと早く、言えばよかった。
◇
『謝罪には伺いません。婚約についてお話がありますので、お越しください』
父の名でそう返事を送ると、翌日、エドガー様のほうが我が家の応接室へやってきた。
私と父が並んで座り、向かいの席を空けてある。
ルカさんには点検の説明をお願いして、窓際の椅子に座ってもらった。その横に、ベルが立っている。
エドガー様は上等な手袋を外し、私の隣が空いていないことを見て、わずかに眉を寄せた。
それでも父には礼儀正しく挨拶をする。
そういうところは、本当にきちんとしている人だった。
「今回は、行き違いがあったようで」
彼は椅子に座るなり、そう切り出した。
荷馬車一台分の行き違いである。
「セリアが妙な人形を送ってきましてね。あれが言うことを聞かず、客の前で私に恥をかかせたのです」
ルカさんが、窓際で口を開いた。
「点検しましたが、故障はありませんでした」
「故障がないなら、なおさら問題だろう。私は素直に働く人形を頼んだんだ」
「受けた指示は、ベルが覚えています。ベル、三日目に受けた指示を教えてください」
ベルは白木の顔を上げた。
「三日目。『お茶は不要』。『どうして私の分がないのか』。『気を利かせろ』。『その程度のことを尋ねるな』。『セリアの荷物も全部持って、実家へ帰れ』。『二度と戻るな』」
いつもの、きちんとした声だった。
エドガー様が、苛立った顔をした。
「だからといって、本当に帰る奴があるか!」
父が、ゆっくり彼を見る。
ルカさんは声を荒らげなかった。
「口にされた指示に従う人形です。その点は、貸出前にもご確認いただいております」
私は、持ってきた返書を卓に置いた。
指が震えて、紙が小さく鳴った。
『それでいい。君も見習うといい』
エドガー様の字だった。
「このお返事をいただいてから、ベルをお送りしました」
彼は返書を見て、顔をしかめた。
「それが融通が利かないと言っているんだ。普通は、まず謝るだろう!」
エドガー様は、ベルを指さした。
「その人形を下がらせろ。帰れ!」
ベルは、きちんとお辞儀をした。
「承知いたしました。帰り先は、こちらのお屋敷です」
そして、一歩も動かなかった。
笑ってはいけない。
私は、自分の指先を見た。
この指で、何度もカップを持ち直した。
こぼさないように、震えていると気づかれないように。
帰れと言われたあとも、お茶を淹れ直した。
飲んでいただけるまで、横に立っていた。
「私は、何度も残りました」
自分で思っていたより、はっきりした声が出た。
膝の上の手は、震えたままだったけれど。
エドガー様が私を見た。
ようやく分かってくれた、とでも言いたそうに頷く。
「そうだ。君なら、私が本気で言っていないくらい分かるだろう」
私は彼の顔を見たまま、尋ねた。
「本気ではないと、どうして分かるんですか」
「そのくらい、付き合いが長ければ」
「私は、分かりませんでした」
彼の眉が寄った。
「帰っていいのか、残ってほしいのか。来なくていいと言われた日に、本当に休んでいいのか。毎回、分かりませんでした」
「だから、気を遣えばいいだけの話だろう」
だけ。
そうか。
あの時間は、彼にとっては「だけ」で済むものだったのか。
「気を遣って、私は何をすればよかったんですか」
「私が怒っているなら、まず謝って――」
「何について、でしょうか」
エドガー様の言葉が止まった。
私は、答えを待った。
いつもなら、彼が困る前に自分から理由を探していた。
私が余計なことをしたのでしょうか。
お疲れのところ、お邪魔したのでしょうか。
お気に召さないものを選んだのでしょうか。
喉まで「申し訳」が上がってきて、飲み込んだ。
今日は、言わなかった。
エドガー様は小さく息を吐き、声を和らげた。
「セリア。こんなところで意地を張ることはない。明日から、今までどおり来ればいい」
私は首を振った。
「もう伺いません」
「……何?」
「あなたとは、結婚いたしません」
エドガー様が、椅子から腰を浮かせた。
「帰れと言ったのは、人形にだぞ! 君との婚約を解消すると言ったわけではない!」
私は頷いた。
「はい。ですから、私がお断りしています」
彼は口を開けたまま、私を見た。
あんな顔をする人だったのかと思った。
これまでは、彼が怒り始めると、目を合わせないようにしていたから。
「……その男に、何か言われたのか」
エドガー様の視線がルカさんへ向いた。
ルカさんが口を開くより先に、私は答えた。
「いいえ。私が、嫌になったんです」
言ってしまった。
嫌だった。
怒られるたびに謝るのも、帰りたくても帰れないのも、次は何を間違えるだろうと考えながら馬車に乗るのも。
エドガー様は、私が言葉を足すのを待っていた。
いつものように、言いすぎましたと取り消すのを。
私は、取り消さなかった。
父が、卓上へ書状を置いた。
「娘の意思はお聞きいただけたと思います。婚約の解消については、私とお話しください」
エドガー様は父を見て、ルカさんを見て、最後に私を見た。
私は、彼の代わりに何かを説明しようとはしなかった。
お茶は、誰の分も冷めていた。
◇
あとの話は、父が引き受けてくれた。
荷物は伯爵邸へ戻さなかった。
もともと私の持ち物である。ご本人の命令で、綺麗に全部揃っている。運送屋の請求書も、伯爵家宛てだった。
そこは、助かった。
ものすごく腹が立つけれど、荷造りの手際だけは完璧だった。
私は金糸のついたクッションを、自分の部屋へ置いた。
今すぐほどく気にはなれなかったし、捨てる気にもなれなかった。
そのうち、好きなように直せばいい。
翌日、ベルを工房へ返した。借りた布も、洗って持っていった。
ルカさんは布を受け取りながら、なぜか少しだけ残念そうな顔をした。
そして週末、私は予定どおり手工芸市にいた。
ルカさんの作った人形が、台の上で両腕を広げる。
袖口の小さな花が、動きに合わせて揺れた。内側につけた紐の留め具は、外からは見えない。
展示札には、工房名の下に私の名前がある。
衣装・刺繍 セリア。
何度も見た。
自分で書いた札なのに、客が近づくたび、落ちていないか確かめてしまう。
一人の婦人が、人形の袖を覗き込んだ。
「娘の人形にも、こんなお洋服を作っていただける?」
「はい。お人形の大きさを教えていただければ」
そこから、色や布の話になった。
私は説明しながら、途中で一度、ルカさんを振り返った。
彼は別の客へ人形の動かし方を見せていたが、こちらに気づくと、小さく頷いた。
大丈夫、という意味だと思った。
その日は、衣装の注文を二ついただいた。
大口の仕事でも、王宮からの依頼でもない。
けれど、私の作った服を見て、欲しいと言ってくださった人がいる。
片づけのとき、思い切ってルカさんに言った。
「今日、来られてよかったです」
「僕も、来てもらえてよかった」
彼は展示台の反対側を持った。
私も、こちら側を持ち上げた。
◇
婚約が正式に解消されるまでに、ひと月かかった。
荷物の返送を命じたのがエドガー様だと、立ち会っていた商会の客も証言し、父との交渉の末、彼も解消に応じた。
最後まで、大げさだと言っていたそうだ。
けれど、私が何に困っていたのかを尋ねる手紙は、一度も来なかった。
「人形に帰られた伯爵」の噂は商会から広まり、次の縁談も断られたと聞く。
工房にも、「今度は察しのいい人形を」とエドガー様から依頼が届いたそうだ。
ルカさんの返事は、「察する機能はございません」だった。
人形にも断られたわけである。
それで全部、晴れやかになったかというと、そうでもない。
本当に大げさだったのかもしれない、と思う朝があった。
通っていた時刻に目が覚めて、今日は何を持っていこうかと考えてから、もう行かなくていいのだと思い出す。
そういう朝は、そのまま少しだけ寝直した。
誰にも怒られなかった。
工房の仕事は続いた。
衣装を届ける。
次の注文を相談する。
出来上がった人形を見せてもらう。
ルカさんが難しい顔で黙り込むと、最初の何度かは、息を止めた。何を間違えたのだろうと考えた。
「あの……」
「ここの歯車が、一枚足りないんです」
歯車だった。
話しかければ、ちゃんと返事が来る。
ある日、ルカさんにお茶を出して、つい、飲む顔を見てしまった。
判定を待っていたのだ。
「……何かついてますか」
「いえ」
「熱っ」
ルカさんは舌を出して、湯気に文句を言った。
本日の判定。本人の過失。
笑ったら、ちょっとだけ泣きそうになった。
それから数日後、私は納品物を持たずに工房を訪ねた。
川沿いに新しくできた菓子屋で、レモンのパイを食べた帰りだった。
酸っぱかった。
ひと口食べた瞬間、顔の真ん中へ全部の部品が集まった気がした。
食べ終わったあと、まずルカさんに話したくなった。
そこまではよかった。
問題は、工房の扉を開けてから、自分が手ぶらだと気づいたことである。
「あの。今日は、お仕事の用ではないんですけど」
作業台から顔を上げたルカさんが、私を見る。
「はい」
「ちょっと、話したいことがあって」
「あと、この一つだけ仕上げてもいいですか。すぐ終わるので」
彼は椅子の上の箱をどけてくれた。
私は頷いて座り、彼が道具を置くのを待った。
そして、レモンのパイの話をした。
隣の席の老婦人まで同じ顔になっていたと話すと、ルカさんはとうとう笑い出した。
「そんなに酸っぱかったんですか」
「店先には、甘さ控えめと書いてあったんです」
「では、間違ってはいないですね」
「控えめにも限度があるでしょう!」
勢いよく言うと、彼は声を出して笑った。
ひと通り話し終え、私は膝の上で空の手を重ねた。
作った服も、次の注文の見本もない。
今日は、何も役に立っていない。
けれどルカさんは、私が老婦人の顔を真似たところを思い出したらしく、また一人で笑っていた。
私は、来てよかったと思った。
帰り道、ルカさんは酸っぱいものが平気なのだろうかと考えた。
同じ店で、同じものを食べたら、どんな顔をするのか。
見てみたかった。
その数日後、今度は彼から誘われた。
「次の休み、例の店へ行きませんか」
私は、作業台から顔を上げた。
「本当に、あのパイを食べるつもりですか」
「覚悟はしています」
「私は、ちゃんと止めましたからね」
「はい。……それと、ちゃんと言っておこうと思って」
ルカさんは手にしていた道具を置き、少し困った顔をした。
「僕は、セリアさんと二人で出かけたいんです。仕事の用ではなくて」
私は、持っていた糸を落とした。
こういうときくらい、もうちょっと何とかならないのか、私。
糸を拾い上げてから、私は彼を見た。
「私もです」
「……何が?」
「仕事がなくても、会いたいと思っていました」
言い直すと、ルカさんの耳が赤くなった。
私も、たぶん赤かった。
「あの。いつから、ですか」
ルカさんは、部品の箱を意味もなく揃えてから答えた。
「袖の花を三回描き直して、最初の位置に戻していた日です。戻したあと、ようやく納得した顔で笑ったでしょう。あの顔を、また見たいと思って。……婚約が解けるまで、言うつもりはありませんでした」
それから、もっと困った顔をした。
「……あの布も、本当は急いで返してほしくなかったんです」
鼻をかんだ布である。
もうちょっと他になかったのか。
私はとうとう笑ってしまった。笑いながら、少し目の奥が熱くなった。
「行きます。レモンのパイ」
「はい」
彼は今度こそ、まっすぐに笑った。
その夜、私は金糸のクッションを出して、金糸をほどいた。
誰にも言われていない。
青い花だけが残った。
ちょっと地味だった。
私の好みである。
そして迎えた休日。
私は、仕事の包みを持たずに工房を訪ねた。
ルカさんは、いつもの作業着ではなく、きちんと襟のある上着を着ていた。髪にも木粉がついていない。
なんだ、ちゃんとすると、そんな感じなのか。
いや、いつもの袖をまくっている姿も好きなのだけれど、困る。朝からこんなに考えることが多いとは聞いていない。
工房の戸締まりを待つ間、私は受付のベルを見た。
もう私の古着も、栗色のかつらもつけていない。
首の青いリボンだけは、返却のときに私が置いていった。
ベルは、白木の顔をこちらへ向けた。
「お出かけですか。代理は必要ですか?」
いつもの貸出案内だった。
私は笑った。
「今日は、私が行きたいんです」
ベルは、きちんとお辞儀をした。
「承知いたしました」
隣で、ルカさんが手を差し出している。
私はその手を取った。
人形に任せてしまうには、あまりにも惜しい一日になりそうだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
楽しんでいただけましたら、評価やご感想をいただけると嬉しいです。
ほかにも、不思議なきっかけから始まる異世界恋愛の短編を書いています。
「恋文を書いた本当の相手を探すお話」と「未来の夫が、私を殺した罪で処刑されそうなお話」。
気になる方は、このページ下部の作品リンクからどうぞ。




