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婚約者のもとへ送った身代わり人形が、三日で逃げ帰ってきました

掲載日:2026/11/05

 私の代わりに婚約者の屋敷へ送った魔法人形が、三日で帰ってきた。


 一週間、頼んだはずだった。


 しかも玄関前には、嫁入り道具を山積みにした荷馬車が停まっている。


 嫁入り道具が、嫁入り前に出戻ってきた。


「セリア様、帰還いたしました」


 私の古着を着た人形は、磨かれた白木の顔を傾け、きちんとお辞儀した。栗色のかつらも、首に結んだ青いリボンも出発したときのまま。ただし、ドレスの裾だけが泥だらけである。


「ベル。……あの、早くない?」

「予定より四日早い帰還です」

「分かってるなら、どうして帰ってきたの!?」


 借りた期間を聞き間違えたわけではないらしい。


 私より素直で、私より物覚えがよく、私より長く働けるという触れ込みだったのに、見切りをつけるのまで私より早いとは聞いていない。


「エドガー様から、セリア様のご実家へ戻るよう指示を受けました」


 ベルが答える横で、御者が馬車の荷台を開いた。


「お荷物は、どちらへ運びましょう」


 箱に括られた荷札には、どれも私の名前が書いてある。


 結婚したら使う予定の銀食器。寝具。客間に置こうと思っていた椅子掛け。エドガー様の屋敷へ少しずつ運び込んだものが、本当に全部戻ってきたらしい。


「……客間へお願いします」


 そう答えたところで、運ばれていく箱の隙間から、見覚えのあるクッションが覗いた。


 青い花を刺繍したあと、エドガー様に地味だと言われ、金糸を足したものだ。足しすぎだと言われて、ほどいて、また縫って。


 最後には気に入っていただけたと思っていた。


 私は箱から目を離し、ベルの顔を見た。


 この子は、ずっと同じ顔で笑っている。


 いいなあ。顔だけでも。


     ◇


 三日前、ルカさんの工房でベルを借りたときには、こんなことになるとは思っていなかった。


 私は子爵家の娘で、エドガー様は伯爵。両家の話し合いで婚約が決まり、最近は結婚準備のため、頻繁に彼の屋敷へ通っていた。


 贈答品の確認をしたり、客室に置く布を選んだり、その合間にエドガー様のお茶を用意したり、話し相手になったり、機嫌を損ねたら何が悪かったのか考えたり。


 最後の仕事が、いちばん難しい。


「今日は来なくていい」と言われて休んだら、「本当に来ないとは思わなかった」と怒られた。


「好きなものを選べ」と言われて選んだら、「私の好みくらい分かるだろう」と呆れられた。


 難しいんだよ、言葉の使い方が!!


 いちばん困るのは、何も言わないときだった。

 ペンの音が止まると、私は息を止めた。


 そういうときは、とりあえず謝る。


「申し訳ございません」


 何がだろう。


「申し訳ございません」


 茶葉だろうか。


「申し訳ございません」


 もう天気でいいか。


 しかし、相手は未来の夫である。


 上手に合わせられるようになれば、そのうち穏やかに暮らせるのだろうと、私はかなり真面目に考えていた。


 そんな私にも、休みたい理由ができた。


 刺繍である。


 私は以前から、魔法人形師であるルカさんの工房に、人形の衣装を納めていた。男爵家の次男だという彼は、実家から独立して、小さな店を営んでいる。


 今度の手工芸市では、私の名前も掲げて展示することになっていた。


 初めてだった。


 誰かへの贈り物でも、嫁入り道具でもなく、私が作ったものとして、知らない人に見てもらえる。


 どうしても、きちんと仕上げたかった。


 そこで、一週間だけ屋敷への訪問を休みたいと申し出たのだけれど、エドガー様は書類から顔も上げずに言った。


「刺繍のために? こちらの準備を後回しにするのか」

「先にお約束していたお仕事なので」

「考えるほどのことではないだろう。こちらでは、私の言うとおりにしていればいいんだ」


 その言葉で、工房の貸出用人形を思い出した。


 療養や旅行中、本人の日課を代行してくれる魔法人形だ。お茶の支度も、品物の整理もできる。もちろん、人間を装って結婚したり、契約を結んだりはできない。


 私が提案すると、エドガー様は鼻で笑った。


「君より素直なら、人形の方がいいくらいだ」


 それから書類に目を戻し、ついでのように付け足した。


「好きにしろ。どうせ三日で音を上げて、君のほうから戻ってくる」


 ――というわけで、私はベルを借りることにしたのである。


「普段、何をしているか教えてもらえますか」


 工房で、ルカさんが紙に予定を書き留めていく。


 黒い髪には、細かな木粉がついていた。袖をまくった腕で机の上の部品を寄せ、私の説明を聞きながら、時々ベルへ短い指示を出す。


「お茶は、部屋へ運ぶ前に一度お声がけを。あと、ご機嫌が悪そうでしたら、先に謝ってください」

「……何について?」

「何が悪かったかは、あとで分かることが多いので」


 ルカさんのペンが止まった。


 何か変なことを言っただろうか。


 彼は私を見て、それから紙へ視線を戻した。


「ベルには、ご機嫌のよしあしは判断できません。口にされた指示のとおりに動くので、『要らない』と言われたら出しませんし、『帰れ』と言われたら帰ります」

「はい」

「本当は引き留めてほしい、とか、謝ってほしいとか。そういう意味では受け取れません」


 余計なことを考えない方が、うまくいくかもしれない。


 エドガー様はいつも、私が余計なことばかりするとおっしゃるのだから。


 念のため、この性質は書面にしてエドガー様にも伝えた。


 口にされた指示のとおりに動き、遠回しな言い方は理解できません、と。


 返事は短かった。


『それでいい。君も見習うといい』


 私への小言を忘れないところ、さすがである。


 仕事中はエドガー様の指示を受けること。帰り先は私の実家であること。屋敷へ運び込んだ私の持ち物には、贈答品に混ざらないよう、名前入りの荷札がついていること。


 必要な説明を終え、私はベルに古着を着せた。


 顔を似せる必要はない。客に私の代理だと分かるよう、服とかつらだけ合わせた。


 首に青いリボンを結んで、最後に一度、全身を見る。


 私より姿勢がいい。

 そこだけでも見習うべきかもしれない。


 そして私は、ベルを送り出したのだった。


     ◇


 帰ってきたベルを連れて工房へ行くと、ルカさんは、私と人形を交互に見た。


「早いですね」

「私も、まずそれを言いました」


 事情を話すと、彼はすぐ作業台を空けてくれた。


 ベルを椅子に座らせ、首の後ろを開き、内部の魔石や関節を確かめる。白木の指を一本ずつ曲げたあと、この三日間のことを順に尋ねた。


 ベルは、自分が受けた指示と、自分がした作業を覚えている。


「一日目。エドガー様は『適当にやっておけ』とおっしゃいました。適当の範囲を確認いたしました」

「確認しちゃったの」

「『そのくらい考えろ』とのご指示でしたので、考えました。結論をご報告いたしましたところ、『誰が話せと言った』とおっしゃいました」


 聞き覚えのある一日である。


「二日目。『察しろ』とのご指示がありました。察する機能はありません、とお伝えいたしました」


 言った。

 私が婚約してから一度も言えなかったことを、二日目で言った。


「その後、『もういい』とのご指示でしたので、本日の作業を終了いたしました」

「……それ、何時ごろ?」

「午前中です」


 ルカさんが、魔石を持ったまま咳き込んだ。


「三日目。エドガー様は、お客様をお迎えする前に、ご自分のお茶は不要とおっしゃいました。お客様の分だけをご用意いたしました」

「……うん」

「『どうして私の分がないのか』とおっしゃいましたので、不要とのご指示でした、とお答えいたしました」

「お客様の前で?」

「はい。商会の方の前で。『気を利かせろ』とのご指示でしたので、お茶が不要とのご指示でも、お出しするべきか確認いたしました」

「……ああ」


 私は、思わず額を押さえた。


 それは駄目だ。


 それを聞くと怒られる。


 何を言っても怒られそうなときは、とりあえず謝って、お茶を淹れて、熱すぎるか冷たすぎるかの判定を待つしかない。


「エドガー様は、その程度のことを尋ねるなとおっしゃいました」

「言いそう……」

「その後、セリア様のお荷物も全部持って、実家へ帰るようにと」

「それで、帰ってきたのね」

「はい。二度と戻るな、とのご指示でした」


 家令が一度だけ確かめに行き、「聞こえなかったのか」と怒鳴られて戻ってきたので、あとは誰も止めなかったらしい。


 ベルは、家令が呼んだ運送屋と一緒に荷物を積んだそうだ。雨の降る裏口で作業したため、裾が汚れたという。


 壊されたわけでも、逃走中に転んだわけでもなかった。


 私は、泥のついた裾を摘まんでから、そっと離した。


「故障はありません」


 点検を終えたルカさんが、ベルの首の後ろを閉じた。


「受けた指示のとおりに動いています」


 私は笑ってしまった。


 エドガー様の言うことを、こんなに素直に聞ける子はいないだろう。なのに追い出されたのだ。


 素直なのが欲しかったんじゃないのかよ。


「私も、何度か言われたんです」

「何を?」

「帰れって」


 ルカさんが、私の方を見た。


「気に入らないなら帰れ、とか。そんな顔をするなら来るな、とか。……でも、帰ったことはなくて」


 口にしてから、自分で少し驚いた。


 帰りたかった日は、何度もあった。

 馬車まで歩けば、家には帰れた。


 でも、玄関へ向かう前に呼び止められたら、今度こそ本気で嫌われるような気がした。お前はその程度だったのか、と言われたら、もう何も返せないと思っていた。


 だから謝った。


 何について謝っているか分からなくても、謝れば、その日はどうにかなった。


 私は、ベルの裾の泥を見た。


「ベルは、帰れたんですね」


 ルカさんは、私のすぐ横へ椅子を置いた。


「座りませんか」


 私は腰を下ろした。


 結婚したばかりの友人から、最初は誰だって苦労するのだと聞いたことがある。だから、そういうものかと思っていた。


 婚約した頃のエドガー様は、私が焼いた菓子を食べて、嬉しそうに笑ってくれた。


 結婚したら、この部屋を二人で使おう。

 君の刺繍を飾ってもいい。


 そういう話もした。


 今でも機嫌のいい日には、同じ顔で笑ってくれる。

 その一日があると、次の十日は謝って過ごせた。


 金糸をほどきながら、あの部屋にクッションを置くところを想像していたのだ。


「私、楽しみにしていたんです」


 声に出した途端、涙が落ちた。


 ルカさんは、戸棚から布を取り出して渡してくれた。使っていないものだから、とだけ言って、水の入ったコップを置いた。


 私は礼を言おうとして、うまく言えず、頷いた。


 泣いていると、エドガー様はいつも、困った顔をした。

 また泣くのか、と言われる前に止めようとして、余計に止まらなくなった。


 ルカさんは、何も急がせなかった。


 少し離れたところで、ベルの泥を拭いている。


 木の人形は、綺麗になっても同じ顔で笑っていた。


 その顔を見ていたら、また涙が出た。


     ◇


 ようやく鼻をかめるようになった頃、私は作業台の上を見た。


 手工芸市に出す小さな人形が、横になっている。

 私の縫った上着を着ていたが、片方の袖の縫い目だけ、少しほどかれていた。


「それ、どうしたんですか」


 ルカさんが手元を見下ろす。


「肘を直したいんですが、袖を縫い閉じてあるので、修理のたびにほどくことになって。そのままで大丈夫だと言ったのは、僕なんですけど」

「では、ここを開けられるようにしましょう」


 私は上着の縫い目を指で辿った。


「袖の内側だけ開けて、細い紐で留めるんです」

「それなら、縫い目をほどかずに済みますね」

「この刺繍のところまでほどいたら、たぶん私、泣きます」


 ルカさんは、袖口の小さな花を見た。


「それで、先へ進めなかったんです。ここ、何度も下絵を描き直していたでしょう。勝手に糸を切るのも悪いと思って」


 私は黙った。


 腕を下ろしているときにも、上げたときにも見える場所を探して、花の位置を何度も変えた。


 彼は、完成した上着だけを見ていたのではなかった。


 ルカさんが、机から小さな留め具を持ってくる。


「紐を掛ける留め具は、角を丸めておきます。布に引っかかるといけないので」


 二人で人形の腕を曲げたり、服を裏返したりしているうち、私のお腹が盛大に鳴った。


 やめろ。

 今、ようやく仕事のできる女っぽくなってきたところだろうが。


「昼、食べました?」

「……まだです」

「僕もです。何か買ってきます」


 ルカさんは本当に簡単なものを買ってきた。肉と野菜を挟んだパンが二つ。


 作業台の端で食べ始めると、彼のパンから真っ先に野菜が滑り落ちた。


 あんなに小さい部品を扱える手で、どうして葉っぱ一枚押さえられないのか。


 思わず笑うと、ルカさんが不満そうに言った。


「これは、挟み方が悪いんです」

「お店のせいにしないでください」

「じゃあ、食べ方が悪い」

「素直ですね」

「パンに怒っても、どうにもならないので」


 私は、今度こそ声を出して笑った。


 話すうちに、以前受けた無茶な注文の話になった。


 私は、袖の長さを指定しないで「もっと優雅に」とだけ言われたときの愚痴をこぼした。

 ルカさんは、羽ばたかない鳥の人形を頼まれ、納めたら「元気がない」と言われた話をした。


 ひどい。

 注文の時点で元気を奪っている。


 そう言うと、彼はパンを持ったまま笑った。


 帰る頃には、目の腫れが少し引いていた。


 ベルの貸出は、まだ四日残っている。この日は私と一緒に帰ってもらうことにした。

 あの屋敷へ送り返すつもりにはなれなかった。


「衣装の続き、また相談していいですか」


 玄関でルカさんが尋ねた。


「はい。私も、仕上がりを見たいです」


 答えてから、手元に借りたままの布があることに気づいた。


「あの、これ、洗ってお返しします」

「急ぎませんよ」

「それは、ちょっと急がせてください。鼻をかんだ布をいつまでも持っているの、嫌です」

「……分かりました」


 ルカさんが吹き出した。


 私も、少しだけ笑えた。


     ◇


 家へ戻ると、エドガー様から使いが来ていた。


 明日、こちらの屋敷へ謝罪に来ること。

 人形師も連れてきて、欠陥について説明させること。


 それだけだった。


 私は部屋へ上がり、便箋を出した。


 最初に「このたびは」と書いた。

 次に「申し訳」と書きかけて、ペンが止まった。


 何についてだろう。


 人形が言いつけを守ったこと。

 私が仕事のために休んだこと。

 それとも、彼の機嫌を損ねない人形を選べなかったこと。


 ……選べるか、そんなもん。


 素直なのがいいと言われて素直なのを送ったら、素直すぎて返品されたんだぞ。


 私は、書きかけの便箋を裏返した。


 夕方、外出から戻った父に、話を聞いてほしいと頼んだ。


 父には今まで、準備は順調です、としか伝えていなかった。人形のことも、仕事の間の代行だとしか話していない。


 うまくいかなかった日も、あとで謝って収まったのだから、わざわざ家族を心配させることはないと思っていた。

 私がもう少し上手にできれば済む話だと。


 客間には、戻ってきた荷物がまだ積まれている。


 父は、その前で黙って話を聞いた。

 私が言葉に詰まっても、続きを先に言わなかった。


 全部話すと、父は尋ねた。


「セリア。お前は、どうしたい」

「でも、伯爵家とのお話ですし、家にご迷惑が」

「それは聞いていない」


 私は、膝の上で握っていた指をほどいた。


「結婚したくありません」


 一度言ってから、もう一度、父の顔を見た。


「エドガー様とは、結婚したくないです」


 父は頷いた。


「分かった」


 私は俯いた。


 反対されたらどうしようと、そこばかり考えていたのに。


 返事は、こんなに短かった。


 もっと早く、言えばよかった。


     ◇


『謝罪には伺いません。婚約についてお話がありますので、お越しください』


 父の名でそう返事を送ると、翌日、エドガー様のほうが我が家の応接室へやってきた。


 私と父が並んで座り、向かいの席を空けてある。

 ルカさんには点検の説明をお願いして、窓際の椅子に座ってもらった。その横に、ベルが立っている。


 エドガー様は上等な手袋を外し、私の隣が空いていないことを見て、わずかに眉を寄せた。


 それでも父には礼儀正しく挨拶をする。

 そういうところは、本当にきちんとしている人だった。


「今回は、行き違いがあったようで」


 彼は椅子に座るなり、そう切り出した。


 荷馬車一台分の行き違いである。


「セリアが妙な人形を送ってきましてね。あれが言うことを聞かず、客の前で私に恥をかかせたのです」


 ルカさんが、窓際で口を開いた。


「点検しましたが、故障はありませんでした」

「故障がないなら、なおさら問題だろう。私は素直に働く人形を頼んだんだ」

「受けた指示は、ベルが覚えています。ベル、三日目に受けた指示を教えてください」


 ベルは白木の顔を上げた。


「三日目。『お茶は不要』。『どうして私の分がないのか』。『気を利かせろ』。『その程度のことを尋ねるな』。『セリアの荷物も全部持って、実家へ帰れ』。『二度と戻るな』」


 いつもの、きちんとした声だった。


 エドガー様が、苛立った顔をした。


「だからといって、本当に帰る奴があるか!」


 父が、ゆっくり彼を見る。


 ルカさんは声を荒らげなかった。


「口にされた指示に従う人形です。その点は、貸出前にもご確認いただいております」


 私は、持ってきた返書を卓に置いた。

 指が震えて、紙が小さく鳴った。


『それでいい。君も見習うといい』


 エドガー様の字だった。


「このお返事をいただいてから、ベルをお送りしました」


 彼は返書を見て、顔をしかめた。


「それが融通が利かないと言っているんだ。普通は、まず謝るだろう!」


 エドガー様は、ベルを指さした。


「その人形を下がらせろ。帰れ!」


 ベルは、きちんとお辞儀をした。


「承知いたしました。帰り先は、こちらのお屋敷です」


 そして、一歩も動かなかった。


 笑ってはいけない。


 私は、自分の指先を見た。


 この指で、何度もカップを持ち直した。

 こぼさないように、震えていると気づかれないように。


 帰れと言われたあとも、お茶を淹れ直した。

 飲んでいただけるまで、横に立っていた。


「私は、何度も残りました」


 自分で思っていたより、はっきりした声が出た。

 膝の上の手は、震えたままだったけれど。


 エドガー様が私を見た。

 ようやく分かってくれた、とでも言いたそうに頷く。


「そうだ。君なら、私が本気で言っていないくらい分かるだろう」


 私は彼の顔を見たまま、尋ねた。


「本気ではないと、どうして分かるんですか」

「そのくらい、付き合いが長ければ」

「私は、分かりませんでした」


 彼の眉が寄った。


「帰っていいのか、残ってほしいのか。来なくていいと言われた日に、本当に休んでいいのか。毎回、分かりませんでした」

「だから、気を遣えばいいだけの話だろう」


 だけ。


 そうか。

 あの時間は、彼にとっては「だけ」で済むものだったのか。


「気を遣って、私は何をすればよかったんですか」

「私が怒っているなら、まず謝って――」

「何について、でしょうか」


 エドガー様の言葉が止まった。


 私は、答えを待った。

 いつもなら、彼が困る前に自分から理由を探していた。


 私が余計なことをしたのでしょうか。

 お疲れのところ、お邪魔したのでしょうか。

 お気に召さないものを選んだのでしょうか。


 喉まで「申し訳」が上がってきて、飲み込んだ。


 今日は、言わなかった。


 エドガー様は小さく息を吐き、声を和らげた。


「セリア。こんなところで意地を張ることはない。明日から、今までどおり来ればいい」


 私は首を振った。


「もう伺いません」

「……何?」

「あなたとは、結婚いたしません」


 エドガー様が、椅子から腰を浮かせた。


「帰れと言ったのは、人形にだぞ! 君との婚約を解消すると言ったわけではない!」


 私は頷いた。


「はい。ですから、私がお断りしています」


 彼は口を開けたまま、私を見た。


 あんな顔をする人だったのかと思った。

 これまでは、彼が怒り始めると、目を合わせないようにしていたから。


「……その男に、何か言われたのか」


 エドガー様の視線がルカさんへ向いた。


 ルカさんが口を開くより先に、私は答えた。


「いいえ。私が、嫌になったんです」


 言ってしまった。


 嫌だった。

 怒られるたびに謝るのも、帰りたくても帰れないのも、次は何を間違えるだろうと考えながら馬車に乗るのも。


 エドガー様は、私が言葉を足すのを待っていた。

 いつものように、言いすぎましたと取り消すのを。


 私は、取り消さなかった。


 父が、卓上へ書状を置いた。


「娘の意思はお聞きいただけたと思います。婚約の解消については、私とお話しください」


 エドガー様は父を見て、ルカさんを見て、最後に私を見た。


 私は、彼の代わりに何かを説明しようとはしなかった。


 お茶は、誰の分も冷めていた。


     ◇


 あとの話は、父が引き受けてくれた。


 荷物は伯爵邸へ戻さなかった。

 もともと私の持ち物である。ご本人の命令で、綺麗に全部揃っている。運送屋の請求書も、伯爵家宛てだった。


 そこは、助かった。


 ものすごく腹が立つけれど、荷造りの手際だけは完璧だった。


 私は金糸のついたクッションを、自分の部屋へ置いた。

 今すぐほどく気にはなれなかったし、捨てる気にもなれなかった。


 そのうち、好きなように直せばいい。


 翌日、ベルを工房へ返した。借りた布も、洗って持っていった。

 ルカさんは布を受け取りながら、なぜか少しだけ残念そうな顔をした。


 そして週末、私は予定どおり手工芸市にいた。


 ルカさんの作った人形が、台の上で両腕を広げる。

 袖口の小さな花が、動きに合わせて揺れた。内側につけた紐の留め具は、外からは見えない。


 展示札には、工房名の下に私の名前がある。


 衣装・刺繍 セリア。


 何度も見た。

 自分で書いた札なのに、客が近づくたび、落ちていないか確かめてしまう。


 一人の婦人が、人形の袖を覗き込んだ。


「娘の人形にも、こんなお洋服を作っていただける?」

「はい。お人形の大きさを教えていただければ」


 そこから、色や布の話になった。


 私は説明しながら、途中で一度、ルカさんを振り返った。

 彼は別の客へ人形の動かし方を見せていたが、こちらに気づくと、小さく頷いた。


 大丈夫、という意味だと思った。


 その日は、衣装の注文を二ついただいた。


 大口の仕事でも、王宮からの依頼でもない。

 けれど、私の作った服を見て、欲しいと言ってくださった人がいる。


 片づけのとき、思い切ってルカさんに言った。


「今日、来られてよかったです」

「僕も、来てもらえてよかった」


 彼は展示台の反対側を持った。

 私も、こちら側を持ち上げた。


     ◇


 婚約が正式に解消されるまでに、ひと月かかった。


 荷物の返送を命じたのがエドガー様だと、立ち会っていた商会の客も証言し、父との交渉の末、彼も解消に応じた。


 最後まで、大げさだと言っていたそうだ。

 けれど、私が何に困っていたのかを尋ねる手紙は、一度も来なかった。


「人形に帰られた伯爵」の噂は商会から広まり、次の縁談も断られたと聞く。

 工房にも、「今度は察しのいい人形を」とエドガー様から依頼が届いたそうだ。

 ルカさんの返事は、「察する機能はございません」だった。


 人形にも断られたわけである。


 それで全部、晴れやかになったかというと、そうでもない。


 本当に大げさだったのかもしれない、と思う朝があった。

 通っていた時刻に目が覚めて、今日は何を持っていこうかと考えてから、もう行かなくていいのだと思い出す。


 そういう朝は、そのまま少しだけ寝直した。

 誰にも怒られなかった。


 工房の仕事は続いた。


 衣装を届ける。

 次の注文を相談する。

 出来上がった人形を見せてもらう。


 ルカさんが難しい顔で黙り込むと、最初の何度かは、息を止めた。何を間違えたのだろうと考えた。


「あの……」

「ここの歯車が、一枚足りないんです」


 歯車だった。


 話しかければ、ちゃんと返事が来る。


 ある日、ルカさんにお茶を出して、つい、飲む顔を見てしまった。


 判定を待っていたのだ。


「……何かついてますか」

「いえ」

「熱っ」


 ルカさんは舌を出して、湯気に文句を言った。


 本日の判定。本人の過失。


 笑ったら、ちょっとだけ泣きそうになった。


 それから数日後、私は納品物を持たずに工房を訪ねた。


 川沿いに新しくできた菓子屋で、レモンのパイを食べた帰りだった。


 酸っぱかった。


 ひと口食べた瞬間、顔の真ん中へ全部の部品が集まった気がした。


 食べ終わったあと、まずルカさんに話したくなった。


 そこまではよかった。

 問題は、工房の扉を開けてから、自分が手ぶらだと気づいたことである。


「あの。今日は、お仕事の用ではないんですけど」


 作業台から顔を上げたルカさんが、私を見る。


「はい」

「ちょっと、話したいことがあって」

「あと、この一つだけ仕上げてもいいですか。すぐ終わるので」


 彼は椅子の上の箱をどけてくれた。


 私は頷いて座り、彼が道具を置くのを待った。


 そして、レモンのパイの話をした。


 隣の席の老婦人まで同じ顔になっていたと話すと、ルカさんはとうとう笑い出した。


「そんなに酸っぱかったんですか」

「店先には、甘さ控えめと書いてあったんです」

「では、間違ってはいないですね」

「控えめにも限度があるでしょう!」


 勢いよく言うと、彼は声を出して笑った。


 ひと通り話し終え、私は膝の上で空の手を重ねた。


 作った服も、次の注文の見本もない。

 今日は、何も役に立っていない。


 けれどルカさんは、私が老婦人の顔を真似たところを思い出したらしく、また一人で笑っていた。


 私は、来てよかったと思った。


 帰り道、ルカさんは酸っぱいものが平気なのだろうかと考えた。


 同じ店で、同じものを食べたら、どんな顔をするのか。


 見てみたかった。


 その数日後、今度は彼から誘われた。


「次の休み、例の店へ行きませんか」


 私は、作業台から顔を上げた。


「本当に、あのパイを食べるつもりですか」

「覚悟はしています」

「私は、ちゃんと止めましたからね」

「はい。……それと、ちゃんと言っておこうと思って」


 ルカさんは手にしていた道具を置き、少し困った顔をした。


「僕は、セリアさんと二人で出かけたいんです。仕事の用ではなくて」


 私は、持っていた糸を落とした。


 こういうときくらい、もうちょっと何とかならないのか、私。


 糸を拾い上げてから、私は彼を見た。


「私もです」

「……何が?」

「仕事がなくても、会いたいと思っていました」


 言い直すと、ルカさんの耳が赤くなった。


 私も、たぶん赤かった。


「あの。いつから、ですか」


 ルカさんは、部品の箱を意味もなく揃えてから答えた。


「袖の花を三回描き直して、最初の位置に戻していた日です。戻したあと、ようやく納得した顔で笑ったでしょう。あの顔を、また見たいと思って。……婚約が解けるまで、言うつもりはありませんでした」


 それから、もっと困った顔をした。


「……あの布も、本当は急いで返してほしくなかったんです」


 鼻をかんだ布である。


 もうちょっと他になかったのか。


 私はとうとう笑ってしまった。笑いながら、少し目の奥が熱くなった。


「行きます。レモンのパイ」

「はい」


 彼は今度こそ、まっすぐに笑った。


 その夜、私は金糸のクッションを出して、金糸をほどいた。

 誰にも言われていない。


 青い花だけが残った。


 ちょっと地味だった。

 私の好みである。


 そして迎えた休日。


 私は、仕事の包みを持たずに工房を訪ねた。


 ルカさんは、いつもの作業着ではなく、きちんと襟のある上着を着ていた。髪にも木粉がついていない。


 なんだ、ちゃんとすると、そんな感じなのか。


 いや、いつもの袖をまくっている姿も好きなのだけれど、困る。朝からこんなに考えることが多いとは聞いていない。


 工房の戸締まりを待つ間、私は受付のベルを見た。


 もう私の古着も、栗色のかつらもつけていない。

 首の青いリボンだけは、返却のときに私が置いていった。


 ベルは、白木の顔をこちらへ向けた。


「お出かけですか。代理は必要ですか?」


 いつもの貸出案内だった。


 私は笑った。


「今日は、私が行きたいんです」


 ベルは、きちんとお辞儀をした。


「承知いたしました」


 隣で、ルカさんが手を差し出している。


 私はその手を取った。


 人形に任せてしまうには、あまりにも惜しい一日になりそうだった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

楽しんでいただけましたら、評価やご感想をいただけると嬉しいです。


ほかにも、不思議なきっかけから始まる異世界恋愛の短編を書いています。

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― 新着の感想 ―
言った事がコロコロ変わる上司がいると最悪ですよね。 お前のせいで周りの空気が最悪なのを察しろと言ってやりたい。
エドガー、仕事してたらあちこち口を出すわりに指示がコロコロ変わって部下に嫌われるタイプの上司。
感想一覧
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