未来の夫が映る鏡に、明日処刑される男が映りました。罪状は「私を殺した罪」だそうです
病気が治ったお礼参りに、私は神殿を訪れていた。
祈祷のあと、神官様が「花嫁の鏡」を見せてくださった。
将来結婚する相手の、いまの姿が、一度だけ映る鏡だという。
ところが、鏡に現れたのは婚約者のギルベルト様ではなかった。
驚いたのに、どこかでほっとしている自分がいた。
石壁の牢屋で、黒髪の青年が座っている。
両手首には、鎖でつながれた手枷があった。
「神官様。この方は?」
「ノエルという医師です。明日の朝、処刑されます」
「……何をなさったのですか」
「伯爵令嬢のエルナ様を、毒で殺したのです」
私は神官様を見た。
「……そのエルナ、私です」
◇
神官様は私の顔を見て、付き添いの侍女マルタを見た。
私が姓名を名乗り直し、マルタも身元を説明すると、ようやく椅子を勧めてくださった。
「ご容体は、もうよろしいのですか」
「昨日から普通に起きております。ただ、ひどい熱だったとは聞きましたが、毒を盛られたとは……」
神官様の顔が曇った。
「七日前、あなたは一度亡くなられています」
「でも、私は」
「蘇生石が使われたのです。死の直後だったので、間に合ったと」
鏡の中の青年の姿が薄れ、私の顔が戻ってきた。
赤茶色の髪も、少し痩せた頬も、いつもと同じだ。
「裁判では、ギルベルト様がご自分の石を使わせて、あなたを救ったと証言しています。お祖母様から受け継いだ、青い首飾りの石を」
「……ずいぶん、お詳しいのですね」
「死刑囚の最後の祈りは、この神殿の務めです。昨日、牢で彼の話を聞き、裁判の記録も確かめました」
神官様は、少し声を落とした。
「ギルベルト様は侯爵家のご嫡男です。その目撃証言が重く見られ、平民の医師の訴えは退けられました。あなたには、まだ証言できないという届けが出ていました」
私はマルタを見た。
彼女も、首を横に振った。
私たちは二人とも、ただの高熱だと聞かされていた。
危ないところだったのを、ギルベルト様が付きっきりで救ってくださったのだ、と。
ギルベルト様は毎日、見舞いに来ていた。
領地にいる両親に代わり、私の療養の世話を引き受けていた彼は、見舞い客も手紙も断っていた。両親には、熱は下がりつつあると知らせていたという。
ずいぶん親切に、私の死まで伏せてくださったらしい。
「その裁判は、いつ終わったのですか」
「あなたが意識を取り戻される前です」
私は膝の上で手を握った。
私の知らないところで、私を殺した人が決まり、明日には処刑される。
「その医師に、会わせていただけませんか」
◇
その日の午前、神官様の紹介で、私は司法宮の面会室へ通された。
看守が壁際に立つなか、私はノエル先生と机を挟んで向き合った。
ノエル先生の手には、鏡で見たのと同じ手枷がついている。
間近で見ると、ずいぶん若い人だった。
黒い髪は乱れ、頬は痩せている。
けれど、私を見た灰色の目が、はっきり見開かれた。
「……よかった」
最初に、そう言った。
鏡のことが頭をよぎって、私は急いで用件を口にした。
「エルナです。あの日のことを伺いに来ました」
「息苦しさはありませんか」
「あなた、明日処刑されるのですよね」
「それは知っています。息苦しさは?」
知っているなら、もう少しそちらを気にしてほしい。
「いまは、ありません」
「喉は?」
「少し痛みます。唇も荒れていて」
「口元を見せていただけますか。窓のほうへ、少し顔を」
私は顔を上げた。
先生は身を乗り出したけれど、勝手に触れてはこなかった。
机の上に両手を置いたまま、私の唇を見ている。
「水は飲めていますか」
その言葉を聞いて、看守が水差しを持ち上げた。
杯の触れ合う音がした。
私は思わず肩を揺らした。
倒れる前にも、その音を聞いた気がした。
「いまは、結構です」
私が断ると、先生はすぐに看守を制した。
「無理に飲まなくて大丈夫です」
飲んだほうがいいと説得されるかと思った。
断っただけでやめてもらえたので、少し驚いた。
「……私を殺したのは、あなたなのですか」
先生は私を見た。
「いいえ」
「では、何があったのでしょう」
「お屋敷に呼ばれて伺ったとき、あなたはもう、喉の痛みと渇きを訴えていました。応接間には、あなたとギルベルト様だけ」
「マルタは?」
「寝室を整えに行かれました。そのあいだに、僕が水差しから杯へ水を注いで、お渡ししました」
そのあたりから、私の記憶は途切れている。
「あなたは一口飲んで、すぐに倒れました。呼吸も心臓も止まったので、持っていた蘇生石を使いました」
「ギルベルト様の石を?」
「いいえ。僕のものです。医師になったとき、師匠が持たせてくれました。使えば黒く砕けるので、残った欠片と台座は鞄に戻しました」
神殿で聞いた話と違う。
あの方は、自分が救ったと言った。
この人も、自分が救ったと言っている。
「そのことは、裁判で?」
「話しました。でも、平民の医者が蘇生石など持っているはずがない、と。鞄の欠片も、あの方の首飾りも、調べてもらえませんでした。僕の渡した杯から毒が出た、そればかりで」
「薬や、水差しからは?」
「出ませんでした。毒が残っていたのは、杯だけです。そこへギルベルト様が、僕が杯に何かを入れるのを見た、と」
先生は、そこで少し言葉を探した。
「もう一つ、ずっと気になっていることがあります。あなたが倒れたあと、ギルベルト様がまず、ハンカチであなたの口元を拭きました。僕が石を出す前に」
「口元を?」
「吐いたものを拭くのかと思いました。でも、あなたは何も吐いていなかった」
私は自分の唇に触れた。
荒れて、まだ少しひりひりする。
「それに、診ているあいだも、あなたは何度も唇に触れていました。僕が来る前、何が口に触れたか、覚えていませんか。食べ物でも、薬でも」
私は思い出そうとした。
倒れる直前の記憶は、途切れ途切れだ。
杯の音。息苦しさ。それから、誰かの声。
先生は、急かさずに待っていた。
けれど、その指は机の上で小さく震えていた。
「寒いのですか」
私が尋ねると、先生は両手を握り合わせた。
「それもあります」
「それも?」
「……怖いんです」
先生は、初めて私から目をそらした。
「診察をしている間は、少し忘れていられるので」
私は何も言えなくなった。
この人は、明日死ぬかもしれない。
それでも、ここへ来た私の息苦しさを、最初に確かめた。
「屋敷で、調べてきます」
私が言うと、先生は顔を上げた。
「マルタも、あの日のことを見ています。二人で、順番に思い出してみます」
先生は何か言いかけて、一度やめた。
それから、手枷のついた手を、机の上でゆっくり開いた。
「……来てくださって、よかった」
◇
昼前に屋敷へ戻ると、私はマルタに尋ねた。
「あの日、私の唇に、何か塗られていなかった?」
何も吐いていなかったのに、あの方は何を拭き取ろうとしたのだろう。
マルタは少し考えて、はっとした顔をした。
「ギルベルト様がお持ちになった、口紅です」
マルタが自分の部屋から、小さな箱を持ってきた。
中には、薔薇の模様が彫られた銀の筒が入っていた。
「なぜ、あなたが?」
「倒れた騒ぎで、応接間の長椅子の下に転がっていたのを、翌朝見つけました。ギルベルト様には、店に返すから渡してほしいと二度言われましたが……」
マルタは少し言いにくそうに続けた。
「お嬢様への贈り物ですから。お嬢様に直接お返ししますと、お断りしたのです」
私は銀の筒を見た。
それを渡されたときのことなら、覚えていた。
『仲直りのしるしだよ』
ギルベルト様は、そう言った。
けれど、私は仲直りを頼んでいなかった。
頼んだのは、婚約の解消だった。
着る服も、付き合う友人も、あの方の気に入るものでなければならなかった。
先月の夜会では、幼なじみと話しているところへ来て、黙って私の手からグラスを取り上げた。
意見を言えば、まだ世間を知らないから、と笑われた。
この先もずっと、何をするにも許可をもらうのか。
そう思ったら、もう嫌になった。
口では最後まで聞いてもらえなかったので、手紙を書いた。
その返事として持ってこられたのが、この口紅だった。
「私、使いたくないと申し上げましたよね」
「はい。好みの色ではないと」
中身は、紫がかった濃い赤だった。
マルタが包みを開けても、私は手を出さなかった。
するとギルベルト様は、自分で蓋を開け、私の顎に指を添えて塗った。
『君にはこれが似合う。僕が選んだのだから』
塗られたあと、唇がひりひりした。
「マルタ。私、そのとき痛がっていませんでしたか」
「おっしゃっていました。そのうち喉まで痛くなられて、ギルベルト様がお医者様を呼ばせたのです」
マルタは、膝の上でエプロンを握った。
「私が寝室から戻ったときには、お医者様はもういらっしゃいませんでした。発作は治まったから帰した、と。今朝まで、ずっとお屋敷で看病をしておりました」
私は銀の筒から手を離した。
口紅を塗られたのが先だ。
先生が来たのは、そのあと。
「これを、神官様へ届けてください。私の手紙も添えます。毒が入っていないか、司法宮で調べてもらいたいのです」
マルタの顔が引き締まった。
私は、あの日の出来事を書いた。
婚約の解消を求めた手紙の控えも、取り出した。
マルタはそれらを受け取ると、箱を抱えて屋敷を出ていった。
それから間もなく、ギルベルト様が訪ねてきた。
「エルナ。神殿へ行ったそうだね」
金色の髪をきれいに整え、淡い青の上着を着ている。
私が寝込んでいる間も、この方はいつも、何の乱れもない姿で現れた。
「まだ休んでいなければ駄目だろう」
「少し、外へ出たかったので」
「君のために言っているんだよ」
私は返事をしなかった。
ギルベルト様は化粧台へ目を向けた。
「ところで、贈った口紅はどこかな。君の肌には合わなかったようだ。店に調べさせるから、僕が引き取ろう」
「マルタに預けています」
「彼女は?」
「いま、外へ出ております」
彼の視線が、化粧台から私へ戻った。
「戻ったら、渡すように言っておいてくれ。君は、もう触らなくていい」
私は膝の上で指を重ねた。
口紅は、もう神官様のところへ向かっている。
そのことは、言わなかった。
ギルベルト様がかがみ、私の頬へ手を伸ばした。
襟元から、首飾りがこぼれた。
銀の枠にはめられた、青い石。
神官様が話していた、お祖母様の蘇生石だった。
黒くもなっていない。
砕けてもいない。
「……その石、大事になさっているのですね」
「ああ。家に伝わる品だからね」
彼はすぐに、首飾りを服の中へ戻した。
私を救うために使ったと、証言した石を。
誰も確かめはしないと、この方は信じているのだ。
知らないふりをするのに、こんなに力が要るとは思わなかった。
◇
午後、司法宮の役人が屋敷へ来て、私とマルタから話を聞いていった。首飾りの石が無傷だったことも、伝えた。
夕方、知らせが届いた。
翌朝、再審理を行う。処刑は、審理が終わるまで延期される。
ただ、判決が取り消されたわけではなかった。
私は、そのことを伝えに、もう一度先生に会いに行った。
「口紅を塗られたあと、唇が痛くなったんです。マルタも覚えていました」
先生は黙って聞き、ゆっくり頷いた。
「それなら、僕がお渡しした水を飲む前に、何かが起きています」
机の上にある彼の手を見た。
まだ、手枷は外されていなかった。
「私、ギルベルト様にお礼を言いました」
気づいたら、口から出ていた。
「危ないところを救ってくださったと聞いて。婚約を解消してほしいと頼んだのに、毎日看病に来てくださったので。もう一度、考え直さなければいけないのかと思って」
先生は、私の話が終わるまで待った。
「助けてくれたと聞かされて、信じたんでしょう」
「はい」
「では、嘘をつかれたあなたが、ご自分を責めることはありません」
私は膝の上の手を見た。
先生は、それ以上何も言わなかった。
何か返さなければと焦っていた気持ちが、少しずつ静かになった。
「……明日、あの方に確かめたいことがあります」
私は顔を上げた。
「もし口紅から毒が出ても、あの方は、知らなかったと言うはずです」
「そうかもしれません」
「だから、確かめます」
先生の表情が変わった。
「危ないことではありませんね」
「危険なものは使いません。必ず、安全だと確かめてもらいます」
「必ず、ですよ」
「はい」
念を押す声が真剣だったので、私も、はっきり答えた。
帰り際、先生に尋ねた。
「ここを出たら、何をなさりたいですか」
先生は考えた。
「昼まで寝たいです」
たいへん率直な希望だった。
「では、無事に出られたら、たくさん寝てください」
「エルナ様は?」
「私は……あなたと、もう少しお話ししたいです。事件以外のことを」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
先生は、私を見たまま瞬きをした。
それから、目元がゆっくり緩んだ。
「では、昼過ぎでもいいですか」
「はい。十分に寝てからで」
◇
翌朝、私は口紅を塗って司法宮へ行った。
紫がかった、濃い赤。
審理室の判事の机には、布をかけた杯と、封をされた小箱が二つ置かれていた。
そのそばで、薬師が封をした報告書を判事に渡している。
看守に付き添われたノエル先生が入ってきた。
私と目が合うと、彼の視線が一瞬だけ口元へ落ちた。
私は小さく頷いた。
約束は、守っている。
審理が始まった。
まず、ギルベルト様が前の裁判と同じ説明をした。
先生が杯に何かを入れるところを見た。
私が倒れたので、自分の蘇生石を使わせた。
愛する婚約者を救うためなら、惜しくはなかった。
「君が助かった。それだけで、僕は十分なんだ」
ギルベルト様は、私に微笑んだ。
私は判事に、婚約者へ確かめたいことがあると申し出た。
許可を得て、彼の隣へ進む。
「では、回復したお礼をさせてください」
彼が、わずかに目を見開いた。
私は片手をその肩に添え、口づけるために顔を近づけた。
ギルベルト様の視線が、私の唇に止まった。
「待て!」
肩をつかまれた。
視界の端で、ノエル先生が椅子から腰を浮かせ、看守に止められた。
私は足を戻した。
「どうなさいました?」
「先に、それを拭け!」
「口紅を?」
「いいから!」
部屋が静かになった。
彼の指が、私の肩に食い込んでいた。
看守が近づくと、ギルベルト様はようやく手を離した。
「……まだ病み上がりだろう。口づけなど」
「口紅を拭けば、よいのですか」
彼は答えなかった。
「ご自分で選んでくださった色です。私に似合うと、おっしゃいました」
私は鞄から、口紅を取り出した。
昨夜、マルタに買ってきてもらい、薬師様にも確かめていただいたものだ。
「ご安心ください。いま塗っているのは、別のものです。あなたがくださったのと、同じお店の、同じ品です」
ギルベルト様は私の手元を見た。
それから、判事の机の小箱を見た。
判事が薬師を呼んだ。
「検査の結果を」
薬師が小箱の封を切り、薔薇の模様が彫られた銀の筒を取り出した。
私への贈り物だった。
私は、知らずに息を止めていた。
「提出された口紅から、毒物が検出されました。杯から検出されたものと一致します。杯の毒は、縁についた口紅の跡からも出ています」
隣で、ギルベルト様が小さく息を吸った。
マルタと私も、あの日の順番を証言した。
口紅を塗られ、唇と喉が痛み、医師が呼ばれた。水を飲んだのは、そのあとだった。
判事が、杯と口紅を見比べた。
「毒は水に入れられたのではなく、被害者の唇から杯へ移った可能性がある、ということですね」
「はい。症状が出た時刻と、検査の結果は、その説明に合致します」
先生の渡した杯に、毒があった。
その事実は、変わらない。
でも、毒がそこへ来た順番が、違っていた。
「知らなかったんだ」
ギルベルト様が言った。
「毒が入っていたなんて、僕も知らなかった。店の不手際だろう」
「では、危ないものだとは知らなかったのですね」
「当たり前だ」
「それなのに、なぜいま、拭けとおっしゃったのですか」
彼の目が、私の手元へ落ちた。
「肌に合わなかったから、心配しただけだ」
「なら、あの日も先生にそう伝えてくださればよかったのに」
私はノエル先生を見た。
先生は判事に向き直り、私が倒れた直後、ギルベルト様が口元を拭いたことを証言した。
「口紅のことは伺っていません。水を飲んだ途端に倒れた、と繰り返されただけです」
ギルベルト様は、先生から顔をそらした。
「しかし、彼女を救ったのは僕です! 自分の蘇生石まで使って!」
判事が書記に、前の証言を読み上げさせた。
「祖母から受け継いだ、青い蘇生石を使った。銀の蔓草模様の枠にはめられた、一族の品である」
判事が言った。
「その首元のものを、出してください」
ギルベルト様は動かなかった。
看守が一歩近づいた。
彼はようやく、服の中から首飾りを取り出した。
青い石は、無傷だった。
「蘇生石は、使えば黒く砕けます」
薬師が言った。
「こちらの石には、使われた形跡がありません」
続いて、薬師はもう一つの小箱を開けた。
入っていたのは、黒い欠片と銀の台座だった。
先生の鞄に残っていたものだ。
台座の裏の刻印は、師匠の名だと先生が説明した。
「これは、あなたの石ですか」
判事に聞かれ、ノエル先生が頷いた。
「はい。あの日、エルナ様を救うために使いました」
ギルベルト様が、先生を睨んだ。
「お前が、あそこで余計なことをしなければ――」
言いかけて、彼は口を閉じた。
私はギルベルト様を見た。
「私が、生き返らなければよかったのですか」
彼は答えなかった。
青い石を、手の中で強く握っていた。
「助からないと思って、先生を呼んだのですか」
「医者が、あんな石まで持っているとは思わないだろう!」
声が、審理室に響いた。
ギルベルト様は、判事ではなく私を見ていた。
「君が別れようなどと言わなければ、毒を入れる必要なんかなかったんだ!」
私は一度、目を閉じた。
もう、聞き違える余地はなかった。
判事が確認した。
「自分で毒を入れたと、認めるのですね」
そこで初めて、ギルベルト様は周囲を見た。
書記の手は、止まっていなかった。
看守が彼の両脇に立った。
「エルナ」
ギルベルト様が、私へ手を伸ばした。
「僕たちは結婚するんだろう?」
私は、その手を取らなかった。
「いいえ。あの日も、そう申し上げました」
◇
ノエル先生の有罪判決は取り消された。
手枷を外された先生は、しばらく自分の手首を見ていた。
そのあと、私が待つ廊下へ出てきた。
「……帰って、いいそうです」
まだ信じられないような声だった。
「はい」
「本当に」
「昼まで、寝られます」
先生はそこで、ようやく笑った。
私も笑おうとしたけれど、胸がいっぱいになって、息を吸うだけになってしまった。
間に合った。
この人は明日も、その次の日も、生きていていい。
先生は私を見て、少し表情を変えた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。いま、安心しただけです」
彼は頷いたあと、私の口元へ目を向けた。
「あなたが倒れるところは、もう見たくありません」
私は笑うのをやめた。
「……私も、あなたが処刑されるところは、見たくありませんでした」
先生が、ゆっくり息を吐いた。
「助けてくださって、ありがとうございます」
私は彼の目を見た。
「こちらこそ。私を助けてくださって、ありがとうございました」
今度は、間違えずに言えた。
「師匠から頂いた、大切な石だったのでしょう」
「使うために、頂いたものですから」
惜しくはなかった、と言った人がいた。
この人は、何も言わずに使ったのだ。
司法宮を出ると、空はよく晴れていた。
階段を下りるとき、先生が手を差し出した。
私は、自分からその手を取った。
◇
ギルベルト様には毒殺と偽証の罪で、北の監獄での終身の労役が言い渡された。
侯爵家は彼を廃嫡し、青い首飾りは、一度も使われないまま神殿に納められた。
婚約は、正式に解消された。
先生の名誉が回復されたという告示は、処刑の知らせがあったのと同じ掲示板に貼られた。
私はそれを見に行った帰りに、先生と会った。
約束どおり、昼過ぎ。
待ち合わせに来た先生は、以前より少しだけ頬の色がよかった。
私たちは歩きながら、互いの好きなものを話した。
先生は本が好きだというので、途中にあった古書店へ寄った。
そこで知った。
この人は、本棚の前からなかなか動かない。
「あと一冊だけ」
「先ほども、それでした」
「……そうでしたか」
そうでしたとも。
先生は困った顔をしたあと、手に取った冒険小説の話を、診察のときより少し早口で始めた。
私は、結末の手前で止めた。
「そこから先は、読んで確かめたいです」
先生が嬉しそうに笑った。
事件以外のことで、この人を知ることができた。
それが、私も嬉しかった。
店を出ると、先生は少し歩いてから足を止めた。
「エルナ様。次も、お会いできますか」
私は彼を見た。
「本の感想をお話しするために?」
「それも、聞きたいです。でも、読み終わる前でも」
先生は一度言葉を切った。
「あなたに聞いてもらえると、もう一つ話したくなるんです。今日は、帰るのが惜しくて」
私は、買ったばかりの本を胸に抱え直した。
何か気の利いた返事をしたかった。
けれど、顔が熱くなるほうが先だった。
「……私も、まだ帰りたくありません」
先生の目元が、ゆっくり緩んだ。
「では、もう少し歩きませんか」
そうして、次の約束ができた。
数日後、領地から父と母が駆けつけた。
二人は私を抱きしめたあと、先生の手を長いこと握っていた。
その夜の食卓で、父が杯を掲げた。
杯の触れ合う音に、私の手が一瞬止まった。
向かいの先生が、こちらを見た。
私は小さく頷いて、自分の杯を持ち上げた。
何度か会ううちに、私は彼をノエルと呼ぶようになった。
神殿の鏡について話したのも、そのころだった。
ノエルは、しばらく黙っていた。
「……手枷のところから?」
「はい」
「ほかに映す場面は、なかったんでしょうか」
「私も、そう思いました」
彼は少し赤くなって、それから言った。
「あなたが来てくれてから、牢を出たあとのことを考えるようになったんです」
「昼まで眠ることですか」
「そのあと、あなたに会うことです」
今度は、私のほうが赤くなる番だった。
その帰り道、初めて彼のほうから、手をつないでもいいかと聞かれた。
◇
結婚式を挙げたのは、季節が一つ変わってからだった。
私は支度の最後に、口紅を選んだ。
紫がかった赤ではない。
明るい木苺の色。
自分で選んで、自分で塗った。
鏡が決めたから、ここにいるのではない。
礼拝堂へ向かうと、ノエルが待っていた。
黒髪はいつもより丁寧に整えられ、手首には白い袖口が覗いている。
私を見つけると、緊張していた顔が、ゆっくり笑顔になった。
誓いの言葉を交わしたあと、彼が少しかがんだ。
「口づけても?」
私は頷いた。
けれど、彼が近づくより先に、私からつま先を上げた。
今度は、肩を押し戻されなかった。
背中に回った手が、倒れないように支えてくれた。
離れると、彼の唇に少しだけ色が移っていた。
私が笑うと、ノエルも笑った。
口紅を拭うのは、もう少しあとでいい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
エルナとノエルの物語を楽しんでいただけましたら、評価やご感想をいただけると嬉しいです。




