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未来の夫が映る鏡に、明日処刑される男が映りました。罪状は「私を殺した罪」だそうです

掲載日:2026/10/21


 病気が治ったお礼参りに、私は神殿を訪れていた。


 祈祷のあと、神官様が「花嫁の鏡」を見せてくださった。

 将来結婚する相手の、いまの姿が、一度だけ映る鏡だという。


 ところが、鏡に現れたのは婚約者のギルベルト様ではなかった。

 驚いたのに、どこかでほっとしている自分がいた。


 石壁の牢屋で、黒髪の青年が座っている。

 両手首には、鎖でつながれた手枷があった。


「神官様。この方は?」

「ノエルという医師です。明日の朝、処刑されます」

「……何をなさったのですか」

「伯爵令嬢のエルナ様を、毒で殺したのです」


 私は神官様を見た。


「……そのエルナ、私です」


     ◇


 神官様は私の顔を見て、付き添いの侍女マルタを見た。


 私が姓名を名乗り直し、マルタも身元を説明すると、ようやく椅子を勧めてくださった。


「ご容体は、もうよろしいのですか」

「昨日から普通に起きております。ただ、ひどい熱だったとは聞きましたが、毒を盛られたとは……」


 神官様の顔が曇った。


「七日前、あなたは一度亡くなられています」

「でも、私は」

「蘇生石が使われたのです。死の直後だったので、間に合ったと」


 鏡の中の青年の姿が薄れ、私の顔が戻ってきた。

 赤茶色の髪も、少し痩せた頬も、いつもと同じだ。


「裁判では、ギルベルト様がご自分の石を使わせて、あなたを救ったと証言しています。お祖母様から受け継いだ、青い首飾りの石を」

「……ずいぶん、お詳しいのですね」

「死刑囚の最後の祈りは、この神殿の務めです。昨日、牢で彼の話を聞き、裁判の記録も確かめました」


 神官様は、少し声を落とした。


「ギルベルト様は侯爵家のご嫡男です。その目撃証言が重く見られ、平民の医師の訴えは退けられました。あなたには、まだ証言できないという届けが出ていました」


 私はマルタを見た。

 彼女も、首を横に振った。


 私たちは二人とも、ただの高熱だと聞かされていた。

 危ないところだったのを、ギルベルト様が付きっきりで救ってくださったのだ、と。


 ギルベルト様は毎日、見舞いに来ていた。

 領地にいる両親に代わり、私の療養の世話を引き受けていた彼は、見舞い客も手紙も断っていた。両親には、熱は下がりつつあると知らせていたという。


 ずいぶん親切に、私の死まで伏せてくださったらしい。


「その裁判は、いつ終わったのですか」

「あなたが意識を取り戻される前です」


 私は膝の上で手を握った。


 私の知らないところで、私を殺した人が決まり、明日には処刑される。


「その医師に、会わせていただけませんか」


     ◇


 その日の午前、神官様の紹介で、私は司法宮の面会室へ通された。


 看守が壁際に立つなか、私はノエル先生と机を挟んで向き合った。

 ノエル先生の手には、鏡で見たのと同じ手枷がついている。


 間近で見ると、ずいぶん若い人だった。

 黒い髪は乱れ、頬は痩せている。


 けれど、私を見た灰色の目が、はっきり見開かれた。


「……よかった」


 最初に、そう言った。


 鏡のことが頭をよぎって、私は急いで用件を口にした。


「エルナです。あの日のことを伺いに来ました」

「息苦しさはありませんか」

「あなた、明日処刑されるのですよね」

「それは知っています。息苦しさは?」


 知っているなら、もう少しそちらを気にしてほしい。


「いまは、ありません」

「喉は?」

「少し痛みます。唇も荒れていて」

「口元を見せていただけますか。窓のほうへ、少し顔を」


 私は顔を上げた。


 先生は身を乗り出したけれど、勝手に触れてはこなかった。

 机の上に両手を置いたまま、私の唇を見ている。


「水は飲めていますか」


 その言葉を聞いて、看守が水差しを持ち上げた。


 杯の触れ合う音がした。


 私は思わず肩を揺らした。

 倒れる前にも、その音を聞いた気がした。


「いまは、結構です」


 私が断ると、先生はすぐに看守を制した。


「無理に飲まなくて大丈夫です」


 飲んだほうがいいと説得されるかと思った。

 断っただけでやめてもらえたので、少し驚いた。


「……私を殺したのは、あなたなのですか」


 先生は私を見た。


「いいえ」

「では、何があったのでしょう」

「お屋敷に呼ばれて伺ったとき、あなたはもう、喉の痛みと渇きを訴えていました。応接間には、あなたとギルベルト様だけ」

「マルタは?」

「寝室を整えに行かれました。そのあいだに、僕が水差しから杯へ水を注いで、お渡ししました」


 そのあたりから、私の記憶は途切れている。


「あなたは一口飲んで、すぐに倒れました。呼吸も心臓も止まったので、持っていた蘇生石を使いました」

「ギルベルト様の石を?」

「いいえ。僕のものです。医師になったとき、師匠が持たせてくれました。使えば黒く砕けるので、残った欠片と台座は鞄に戻しました」


 神殿で聞いた話と違う。


 あの方は、自分が救ったと言った。

 この人も、自分が救ったと言っている。


「そのことは、裁判で?」

「話しました。でも、平民の医者が蘇生石など持っているはずがない、と。鞄の欠片も、あの方の首飾りも、調べてもらえませんでした。僕の渡した杯から毒が出た、そればかりで」

「薬や、水差しからは?」

「出ませんでした。毒が残っていたのは、杯だけです。そこへギルベルト様が、僕が杯に何かを入れるのを見た、と」


 先生は、そこで少し言葉を探した。


「もう一つ、ずっと気になっていることがあります。あなたが倒れたあと、ギルベルト様がまず、ハンカチであなたの口元を拭きました。僕が石を出す前に」

「口元を?」

「吐いたものを拭くのかと思いました。でも、あなたは何も吐いていなかった」


 私は自分の唇に触れた。

 荒れて、まだ少しひりひりする。


「それに、診ているあいだも、あなたは何度も唇に触れていました。僕が来る前、何が口に触れたか、覚えていませんか。食べ物でも、薬でも」


 私は思い出そうとした。


 倒れる直前の記憶は、途切れ途切れだ。

 杯の音。息苦しさ。それから、誰かの声。


 先生は、急かさずに待っていた。


 けれど、その指は机の上で小さく震えていた。


「寒いのですか」


 私が尋ねると、先生は両手を握り合わせた。


「それもあります」

「それも?」

「……怖いんです」


 先生は、初めて私から目をそらした。


「診察をしている間は、少し忘れていられるので」


 私は何も言えなくなった。


 この人は、明日死ぬかもしれない。

 それでも、ここへ来た私の息苦しさを、最初に確かめた。


「屋敷で、調べてきます」


 私が言うと、先生は顔を上げた。


「マルタも、あの日のことを見ています。二人で、順番に思い出してみます」


 先生は何か言いかけて、一度やめた。

 それから、手枷のついた手を、机の上でゆっくり開いた。


「……来てくださって、よかった」


     ◇


 昼前に屋敷へ戻ると、私はマルタに尋ねた。


「あの日、私の唇に、何か塗られていなかった?」


 何も吐いていなかったのに、あの方は何を拭き取ろうとしたのだろう。


 マルタは少し考えて、はっとした顔をした。


「ギルベルト様がお持ちになった、口紅です」


 マルタが自分の部屋から、小さな箱を持ってきた。

 中には、薔薇の模様が彫られた銀の筒が入っていた。


「なぜ、あなたが?」

「倒れた騒ぎで、応接間の長椅子の下に転がっていたのを、翌朝見つけました。ギルベルト様には、店に返すから渡してほしいと二度言われましたが……」


 マルタは少し言いにくそうに続けた。


「お嬢様への贈り物ですから。お嬢様に直接お返ししますと、お断りしたのです」


 私は銀の筒を見た。


 それを渡されたときのことなら、覚えていた。


『仲直りのしるしだよ』


 ギルベルト様は、そう言った。


 けれど、私は仲直りを頼んでいなかった。

 頼んだのは、婚約の解消だった。


 着る服も、付き合う友人も、あの方の気に入るものでなければならなかった。

 先月の夜会では、幼なじみと話しているところへ来て、黙って私の手からグラスを取り上げた。

 意見を言えば、まだ世間を知らないから、と笑われた。


 この先もずっと、何をするにも許可をもらうのか。


 そう思ったら、もう嫌になった。


 口では最後まで聞いてもらえなかったので、手紙を書いた。

 その返事として持ってこられたのが、この口紅だった。


「私、使いたくないと申し上げましたよね」

「はい。好みの色ではないと」


 中身は、紫がかった濃い赤だった。


 マルタが包みを開けても、私は手を出さなかった。

 するとギルベルト様は、自分で蓋を開け、私の顎に指を添えて塗った。


『君にはこれが似合う。僕が選んだのだから』


 塗られたあと、唇がひりひりした。


「マルタ。私、そのとき痛がっていませんでしたか」

「おっしゃっていました。そのうち喉まで痛くなられて、ギルベルト様がお医者様を呼ばせたのです」


 マルタは、膝の上でエプロンを握った。


「私が寝室から戻ったときには、お医者様はもういらっしゃいませんでした。発作は治まったから帰した、と。今朝まで、ずっとお屋敷で看病をしておりました」


 私は銀の筒から手を離した。


 口紅を塗られたのが先だ。

 先生が来たのは、そのあと。


「これを、神官様へ届けてください。私の手紙も添えます。毒が入っていないか、司法宮で調べてもらいたいのです」


 マルタの顔が引き締まった。


 私は、あの日の出来事を書いた。

 婚約の解消を求めた手紙の控えも、取り出した。


 マルタはそれらを受け取ると、箱を抱えて屋敷を出ていった。


 それから間もなく、ギルベルト様が訪ねてきた。


「エルナ。神殿へ行ったそうだね」


 金色の髪をきれいに整え、淡い青の上着を着ている。

 私が寝込んでいる間も、この方はいつも、何の乱れもない姿で現れた。


「まだ休んでいなければ駄目だろう」

「少し、外へ出たかったので」

「君のために言っているんだよ」


 私は返事をしなかった。


 ギルベルト様は化粧台へ目を向けた。


「ところで、贈った口紅はどこかな。君の肌には合わなかったようだ。店に調べさせるから、僕が引き取ろう」

「マルタに預けています」

「彼女は?」

「いま、外へ出ております」


 彼の視線が、化粧台から私へ戻った。


「戻ったら、渡すように言っておいてくれ。君は、もう触らなくていい」


 私は膝の上で指を重ねた。


 口紅は、もう神官様のところへ向かっている。

 そのことは、言わなかった。


 ギルベルト様がかがみ、私の頬へ手を伸ばした。


 襟元から、首飾りがこぼれた。

 銀の枠にはめられた、青い石。


 神官様が話していた、お祖母様の蘇生石だった。


 黒くもなっていない。

 砕けてもいない。


「……その石、大事になさっているのですね」

「ああ。家に伝わる品だからね」


 彼はすぐに、首飾りを服の中へ戻した。


 私を救うために使ったと、証言した石を。


 誰も確かめはしないと、この方は信じているのだ。


 知らないふりをするのに、こんなに力が要るとは思わなかった。


     ◇


 午後、司法宮の役人が屋敷へ来て、私とマルタから話を聞いていった。首飾りの石が無傷だったことも、伝えた。


 夕方、知らせが届いた。

 翌朝、再審理を行う。処刑は、審理が終わるまで延期される。


 ただ、判決が取り消されたわけではなかった。


 私は、そのことを伝えに、もう一度先生に会いに行った。


「口紅を塗られたあと、唇が痛くなったんです。マルタも覚えていました」


 先生は黙って聞き、ゆっくり頷いた。


「それなら、僕がお渡しした水を飲む前に、何かが起きています」


 机の上にある彼の手を見た。

 まだ、手枷は外されていなかった。


「私、ギルベルト様にお礼を言いました」


 気づいたら、口から出ていた。


「危ないところを救ってくださったと聞いて。婚約を解消してほしいと頼んだのに、毎日看病に来てくださったので。もう一度、考え直さなければいけないのかと思って」


 先生は、私の話が終わるまで待った。


「助けてくれたと聞かされて、信じたんでしょう」

「はい」

「では、嘘をつかれたあなたが、ご自分を責めることはありません」


 私は膝の上の手を見た。


 先生は、それ以上何も言わなかった。

 何か返さなければと焦っていた気持ちが、少しずつ静かになった。


「……明日、あの方に確かめたいことがあります」


 私は顔を上げた。


「もし口紅から毒が出ても、あの方は、知らなかったと言うはずです」

「そうかもしれません」

「だから、確かめます」


 先生の表情が変わった。


「危ないことではありませんね」

「危険なものは使いません。必ず、安全だと確かめてもらいます」

「必ず、ですよ」

「はい」


 念を押す声が真剣だったので、私も、はっきり答えた。


 帰り際、先生に尋ねた。


「ここを出たら、何をなさりたいですか」


 先生は考えた。


「昼まで寝たいです」


 たいへん率直な希望だった。


「では、無事に出られたら、たくさん寝てください」

「エルナ様は?」

「私は……あなたと、もう少しお話ししたいです。事件以外のことを」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 先生は、私を見たまま瞬きをした。

 それから、目元がゆっくり緩んだ。


「では、昼過ぎでもいいですか」

「はい。十分に寝てからで」


     ◇


 翌朝、私は口紅を塗って司法宮へ行った。


 紫がかった、濃い赤。


 審理室の判事の机には、布をかけた杯と、封をされた小箱が二つ置かれていた。

 そのそばで、薬師が封をした報告書を判事に渡している。


 看守に付き添われたノエル先生が入ってきた。


 私と目が合うと、彼の視線が一瞬だけ口元へ落ちた。

 私は小さく頷いた。


 約束は、守っている。


 審理が始まった。


 まず、ギルベルト様が前の裁判と同じ説明をした。


 先生が杯に何かを入れるところを見た。

 私が倒れたので、自分の蘇生石を使わせた。

 愛する婚約者を救うためなら、惜しくはなかった。


「君が助かった。それだけで、僕は十分なんだ」


 ギルベルト様は、私に微笑んだ。


 私は判事に、婚約者へ確かめたいことがあると申し出た。

 許可を得て、彼の隣へ進む。


「では、回復したお礼をさせてください」


 彼が、わずかに目を見開いた。


 私は片手をその肩に添え、口づけるために顔を近づけた。


 ギルベルト様の視線が、私の唇に止まった。


「待て!」


 肩をつかまれた。


 視界の端で、ノエル先生が椅子から腰を浮かせ、看守に止められた。


 私は足を戻した。


「どうなさいました?」

「先に、それを拭け!」

「口紅を?」

「いいから!」


 部屋が静かになった。


 彼の指が、私の肩に食い込んでいた。

 看守が近づくと、ギルベルト様はようやく手を離した。


「……まだ病み上がりだろう。口づけなど」

「口紅を拭けば、よいのですか」


 彼は答えなかった。


「ご自分で選んでくださった色です。私に似合うと、おっしゃいました」


 私は鞄から、口紅を取り出した。

 昨夜、マルタに買ってきてもらい、薬師様にも確かめていただいたものだ。


「ご安心ください。いま塗っているのは、別のものです。あなたがくださったのと、同じお店の、同じ品です」


 ギルベルト様は私の手元を見た。

 それから、判事の机の小箱を見た。


 判事が薬師を呼んだ。


「検査の結果を」


 薬師が小箱の封を切り、薔薇の模様が彫られた銀の筒を取り出した。

 私への贈り物だった。


 私は、知らずに息を止めていた。


「提出された口紅から、毒物が検出されました。杯から検出されたものと一致します。杯の毒は、縁についた口紅の跡からも出ています」


 隣で、ギルベルト様が小さく息を吸った。


 マルタと私も、あの日の順番を証言した。

 口紅を塗られ、唇と喉が痛み、医師が呼ばれた。水を飲んだのは、そのあとだった。


 判事が、杯と口紅を見比べた。


「毒は水に入れられたのではなく、被害者の唇から杯へ移った可能性がある、ということですね」

「はい。症状が出た時刻と、検査の結果は、その説明に合致します」


 先生の渡した杯に、毒があった。


 その事実は、変わらない。

 でも、毒がそこへ来た順番が、違っていた。


「知らなかったんだ」


 ギルベルト様が言った。


「毒が入っていたなんて、僕も知らなかった。店の不手際だろう」

「では、危ないものだとは知らなかったのですね」

「当たり前だ」

「それなのに、なぜいま、拭けとおっしゃったのですか」


 彼の目が、私の手元へ落ちた。


「肌に合わなかったから、心配しただけだ」

「なら、あの日も先生にそう伝えてくださればよかったのに」


 私はノエル先生を見た。

 先生は判事に向き直り、私が倒れた直後、ギルベルト様が口元を拭いたことを証言した。


「口紅のことは伺っていません。水を飲んだ途端に倒れた、と繰り返されただけです」


 ギルベルト様は、先生から顔をそらした。


「しかし、彼女を救ったのは僕です! 自分の蘇生石まで使って!」


 判事が書記に、前の証言を読み上げさせた。


「祖母から受け継いだ、青い蘇生石を使った。銀の蔓草模様の枠にはめられた、一族の品である」


 判事が言った。


「その首元のものを、出してください」


 ギルベルト様は動かなかった。


 看守が一歩近づいた。


 彼はようやく、服の中から首飾りを取り出した。


 青い石は、無傷だった。


「蘇生石は、使えば黒く砕けます」


 薬師が言った。


「こちらの石には、使われた形跡がありません」


 続いて、薬師はもう一つの小箱を開けた。


 入っていたのは、黒い欠片と銀の台座だった。

 先生の鞄に残っていたものだ。


 台座の裏の刻印は、師匠の名だと先生が説明した。


「これは、あなたの石ですか」


 判事に聞かれ、ノエル先生が頷いた。


「はい。あの日、エルナ様を救うために使いました」


 ギルベルト様が、先生を睨んだ。


「お前が、あそこで余計なことをしなければ――」


 言いかけて、彼は口を閉じた。


 私はギルベルト様を見た。


「私が、生き返らなければよかったのですか」


 彼は答えなかった。

 青い石を、手の中で強く握っていた。


「助からないと思って、先生を呼んだのですか」

「医者が、あんな石まで持っているとは思わないだろう!」


 声が、審理室に響いた。


 ギルベルト様は、判事ではなく私を見ていた。


「君が別れようなどと言わなければ、毒を入れる必要なんかなかったんだ!」


 私は一度、目を閉じた。


 もう、聞き違える余地はなかった。


 判事が確認した。


「自分で毒を入れたと、認めるのですね」


 そこで初めて、ギルベルト様は周囲を見た。

 書記の手は、止まっていなかった。


 看守が彼の両脇に立った。


「エルナ」


 ギルベルト様が、私へ手を伸ばした。


「僕たちは結婚するんだろう?」


 私は、その手を取らなかった。


「いいえ。あの日も、そう申し上げました」


     ◇


 ノエル先生の有罪判決は取り消された。


 手枷を外された先生は、しばらく自分の手首を見ていた。

 そのあと、私が待つ廊下へ出てきた。


「……帰って、いいそうです」


 まだ信じられないような声だった。


「はい」

「本当に」

「昼まで、寝られます」


 先生はそこで、ようやく笑った。


 私も笑おうとしたけれど、胸がいっぱいになって、息を吸うだけになってしまった。


 間に合った。


 この人は明日も、その次の日も、生きていていい。


 先生は私を見て、少し表情を変えた。


「大丈夫ですか」

「大丈夫です。いま、安心しただけです」


 彼は頷いたあと、私の口元へ目を向けた。


「あなたが倒れるところは、もう見たくありません」


 私は笑うのをやめた。


「……私も、あなたが処刑されるところは、見たくありませんでした」


 先生が、ゆっくり息を吐いた。


「助けてくださって、ありがとうございます」


 私は彼の目を見た。


「こちらこそ。私を助けてくださって、ありがとうございました」


 今度は、間違えずに言えた。


「師匠から頂いた、大切な石だったのでしょう」

「使うために、頂いたものですから」


 惜しくはなかった、と言った人がいた。

 この人は、何も言わずに使ったのだ。


 司法宮を出ると、空はよく晴れていた。


 階段を下りるとき、先生が手を差し出した。

 私は、自分からその手を取った。


     ◇


 ギルベルト様には毒殺と偽証の罪で、北の監獄での終身の労役が言い渡された。

 侯爵家は彼を廃嫡し、青い首飾りは、一度も使われないまま神殿に納められた。

 婚約は、正式に解消された。


 先生の名誉が回復されたという告示は、処刑の知らせがあったのと同じ掲示板に貼られた。


 私はそれを見に行った帰りに、先生と会った。


 約束どおり、昼過ぎ。


 待ち合わせに来た先生は、以前より少しだけ頬の色がよかった。


 私たちは歩きながら、互いの好きなものを話した。

 先生は本が好きだというので、途中にあった古書店へ寄った。


 そこで知った。


 この人は、本棚の前からなかなか動かない。


「あと一冊だけ」

「先ほども、それでした」

「……そうでしたか」


 そうでしたとも。


 先生は困った顔をしたあと、手に取った冒険小説の話を、診察のときより少し早口で始めた。

 私は、結末の手前で止めた。


「そこから先は、読んで確かめたいです」


 先生が嬉しそうに笑った。


 事件以外のことで、この人を知ることができた。

 それが、私も嬉しかった。


 店を出ると、先生は少し歩いてから足を止めた。


「エルナ様。次も、お会いできますか」


 私は彼を見た。


「本の感想をお話しするために?」

「それも、聞きたいです。でも、読み終わる前でも」


 先生は一度言葉を切った。


「あなたに聞いてもらえると、もう一つ話したくなるんです。今日は、帰るのが惜しくて」


 私は、買ったばかりの本を胸に抱え直した。


 何か気の利いた返事をしたかった。

 けれど、顔が熱くなるほうが先だった。


「……私も、まだ帰りたくありません」


 先生の目元が、ゆっくり緩んだ。


「では、もう少し歩きませんか」


 そうして、次の約束ができた。


 数日後、領地から父と母が駆けつけた。

 二人は私を抱きしめたあと、先生の手を長いこと握っていた。


 その夜の食卓で、父が杯を掲げた。

 杯の触れ合う音に、私の手が一瞬止まった。


 向かいの先生が、こちらを見た。

 私は小さく頷いて、自分の杯を持ち上げた。


 何度か会ううちに、私は彼をノエルと呼ぶようになった。


 神殿の鏡について話したのも、そのころだった。

 ノエルは、しばらく黙っていた。


「……手枷のところから?」

「はい」

「ほかに映す場面は、なかったんでしょうか」

「私も、そう思いました」


 彼は少し赤くなって、それから言った。


「あなたが来てくれてから、牢を出たあとのことを考えるようになったんです」

「昼まで眠ることですか」

「そのあと、あなたに会うことです」


 今度は、私のほうが赤くなる番だった。


 その帰り道、初めて彼のほうから、手をつないでもいいかと聞かれた。


     ◇


 結婚式を挙げたのは、季節が一つ変わってからだった。


 私は支度の最後に、口紅を選んだ。


 紫がかった赤ではない。

 明るい木苺の色。


 自分で選んで、自分で塗った。

 鏡が決めたから、ここにいるのではない。


 礼拝堂へ向かうと、ノエルが待っていた。

 黒髪はいつもより丁寧に整えられ、手首には白い袖口が覗いている。


 私を見つけると、緊張していた顔が、ゆっくり笑顔になった。


 誓いの言葉を交わしたあと、彼が少しかがんだ。


「口づけても?」


 私は頷いた。


 けれど、彼が近づくより先に、私からつま先を上げた。


 今度は、肩を押し戻されなかった。

 背中に回った手が、倒れないように支えてくれた。


 離れると、彼の唇に少しだけ色が移っていた。


 私が笑うと、ノエルも笑った。


 口紅を拭うのは、もう少しあとでいい。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


エルナとノエルの物語を楽しんでいただけましたら、評価やご感想をいただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
ギルベルトはここで身分剥奪して罪に相応なとこにぶち込まないとこの先ずっと気に入らないことがある度に毒に頼りそうだから良かった。
調査もまともにせずに医者を捕まえた人物にも何らかの処罰する必要があると思われるが何らかの処罰はあったのだろうか?表記が無かったので気になりました。
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