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婚約者の恋文がすべて代筆だったので、書いた人に会いに行きました

掲載日:2026/10/16

「まさか、本気にしていたのか? あの恋文は全部、書記官に書かせたものだ」


 婚約を解消する、と告げたあとで、アルベルト殿下は笑った。

 よりふさわしい縁談が来たのだそうだ。そちらの説明は一言で済んだのに、笑うほうにはずいぶん時間をおかけになる。


 私は膝の上の箱を見下ろした。

 青いリボンで束ねた、四十七通の手紙。二年間、大切に読み返してきたものだ。


「……全部、ですか」

「全部だ。まさか私が、君の庭に来る雀の話にまで付き合うと思っていたのか」


 思っていた。

 はい、思っておりました。かなり本気で。


 雀が庭師の焼き菓子を盗んだ話には、『犯人はまだお庭に?』と返事が来た。『毎日来ています』と書けば、『現場に戻るとは大胆ですね』と返ってきた。

 第二王子が、こんなくだらないやり取りに付き合ってくださるのが嬉しかった。


 けれど、会ったときにその話をすると、殿下は退屈そうな顔をした。

 お忙しいのだと思っていた。

 お疲れなのだとも。人前では、こういう話をなさらないのだとも。


 二年間、私は殿下の代わりに殿下を弁護していたらしい。

 そちらの仕事も、どなたかに代わっていただきたかった。


「文章を考えたのも、その方ですか」

「ああ。私は署名をしただけだ」


 署名だけ。

 四十七通の、最後の一行だけ。


 箱の縁が、指に食い込んだ。

 私は、その一行に会うために王宮へ通っていたのだ。


 殿下が懐からハンカチを取り出した。

 刺繍入りの、上等なハンカチだった。私が泣くことは、殿下の中ではもう決まっているらしい。

 泣かせる準備だけは、ご自分でなさるのですね。


「婚約の解消は、君の父上にも申し入れてある。泣いてすがられても困るが、手紙ごときで私を引き止めようとは――」

「その方のお名前を教えてください」


 ハンカチが宙で止まった。


「……誰の?」

「手紙を書いた方です」


 殿下は眉を寄せ、それから肩をすくめた。

 出番のなかったハンカチは、そのまま懐へ帰っていった。


「ノア・ベルナー。私付きの書記官だ。文書室にいる」

「ありがとうございます。婚約解消のお返事は、父を通してお届けします」


 箱を抱えて立ち上がる。


「待て。そいつに文句を言いに行くつもりか」

「まだ、何を言うかは決めておりません」

「あまり責めてやるなよ。仕事でやっただけなのだから」


 私の二年間は、ついに業務扱いになった。



   ◇



 ノア・ベルナーは、私を見るなり、引き出しで指を挟んだ。


「……っ」


 右手を左手で包んだまま一礼しようとして、今度は机に肘をぶつける。


「どうぞ、そのままで」

「いえ、お迎えもせず」

「まず、ご自身をお守りください」


 このままでは、文句を言う前に気が済んでしまう。


 私より少し年上だろうか。紺色の制服に、額へかかった柔らかそうな髪。指には、挟んだところの赤みとは別に、インクの染みがあった。


 机の上に、書きかけの紙がある。

 知っている字だった。

 四十七回、受け取った字だった。


「リディア様。どうして、こちらへ」

「殿下から、手紙はすべてあなたが書いたと伺いました」


 彼は私の抱えた箱を見た。

 それから、ぎゅっと目をつむった。


「……お叱りは、覚悟しております」


 なぜか、左の頬がこちらを向いた。

 右手は、まだ左手の中にある。守るところと差し出すところを、分けているらしい。


「叩きに来たのではありません」

「では、何で……」

「何でも叩きません」


 背後で、侍女のマルタがそっと日傘を下ろした。

 そちらも、構えなくていい。


 彼はようやく目を開けると、私とマルタに椅子を勧め、自分は立ったままでいた。


「内容も、あなたが?」

「私が考えました」


 深く頭を下げる。


「申し訳ありませんでした。あなたが殿下のお言葉だと信じていらっしゃることは、わかっていました」


 私は箱を膝に置いた。


「私の手紙も、読んだのですね」

「はい。お預かりしたものは、すべて」


 夜会でうまく踊れなかったこと。

 刺繍を犬に引っ張られたこと。

 祖母が亡くなった夜、泣くより先にお腹がすいてしまったこと。


 婚約者にさえ書くのをためらった話を、知らない人に読まれていた。

 しかも、ためらった末に、全部書いたのだ。


「……恥ずかしいです」

「申し訳ありません」

「謝ってほしくて言ったのではありません。でも、恥ずかしいものは、恥ずかしいです」


 彼は何も言わず、私が次に話すのを待っていた。


 箱から一通、抜き出す。


「このお返事を、覚えていらっしゃいますか」


 去年の冬、祖母の葬儀のあとに届いた手紙だ。


『お祖母様のお話を、また聞かせてください。焼き菓子をつまみ食いしたのは、本当に猫だったのでしょうか。』


 祖母は、料理長の目を盗んで焼き菓子をつまむ人だった。

 見つかると、決まって猫のせいにした。

 口元に食べかすをつけたまま。


 その話は、葬儀よりずっと前に書いたものだった。


「猫は、庭で寝ていたのですよね」


 ノアが言った。


「はい。マルタが見ていました」

「では、お祖母様には不利ですね」

「祖母は『寝たふりよ』と」


 彼の口元が緩んだ。

 私も、つられて笑った。


 葬儀のあと、周りの人は、気を強く持ちなさい、いつまでも悲しんではいけません、と言った。

 でも、この手紙の人は、まだ祖母の話を聞きたいと言ってくれた。


 私はそれを読んで、初めて泣いた。


「仕事だから、覚えていらっしゃるのですか」


 ノアは、すぐには答えなかった。


「最初は、仕事でした」


 机の端に添えた指が動く。


「でも、お手紙が届くのが楽しみになりました。殿下にご署名をいただいて発送すると、次のお返事を待っていました」

「私ではなく、殿下への返事なのに?」

「……はい」


 彼は目を伏せた。


「それがわかっていて、やめられませんでした」


 ずるいと思った。

 そんなことを言われたら、全部嘘だったことにして捨てるのが、難しくなる。


 けれど、捨てずに済むのかもしれないとも思った。


「あなたに怒っています」

「はい」

「あの日、助けてくださった方には、お礼を言いたいです」


 彼が顔を上げる。


「ただ…それが同じ方なので、困っております」


 ノアも、困ったように眉を下げた。

 ようやく、少し同じ気持ちになれた気がした。


 帰る前に、私が出した手紙を返してもらった。

 日付順に揃えられ、リボンが食い込まないよう厚紙が挟んである。


「……仕事の書類も、こうして保管なさるのですか」

「殿下からの指示書は、毎日まとめて宮内府へ納めます。原本はそちらで保管する決まりですので。私の手元には写しだけを」

「大変なのですね」

「あとで『言っていない』となることがありますから」


 そう言って、彼はぴたりと口を閉じた。


 私は何も聞かなかったことにした。

 職場の事情を知るのは、今日だけでもう十分だ。


 受け取った包みは、彼からの手紙よりずっと厚かった。


「……ずいぶん書きましたね」

「どれも、読みました」

「少しは読み飛ばしてくださってもよかったのに」

「できませんでした」


 顔が熱くなったので、箱の蓋を閉めた。

 同じようにパタっと髪の毛で表情を隠せたら良いのに、あいにく私の前髪はそこまで重くはなかった。



   ◇



 父に婚約を解消したいと告げると、「そうか」と頷いてくれた。


「では、そう返事をしよう」


 何があったのか説明するつもりだった。

 でも、先に泣いてしまった。


 父は慌てて机の書類をどけ、それから私を抱き寄せた。

 昔から、父は机を片付けてから人を抱きしめる。


 祖母なら、先に抱きしめなさいよ、と笑っただろう。


 婚約解消が正式に受理された翌日、私はノアに手紙を書いた。


『木曜日の午後、お茶をご一緒しませんか。

 私の話は、ずいぶん聞いていただきました。

 今度は、あなたのお話を聞きたいです。

 リディア・フォルネ』


 返事は、使いの者と一緒に帰ってきた。

 その場で書いたらしい。


『喜んで伺います

 ノア・ベルナー』


 今までで、いちばん短い手紙だった。

 あれだけ書いた人が、たった七文字。

 なのに、最後の名前を何度も読み返してしまった。



   ◇



「昨日、何を召し上がりましたか」

「昨日ですか」

「はい。まずは、お答えしやすいことから」


 喫茶店で向かい合ったノアは、真剣に考えた。


「朝はパンで、昼もパンでした」

「夕食は?」

「……パンです」


 お答えしやすい質問で、問題が発覚した。


「あんなに私に、ちゃんと食事を取るよう書いてくださった方が?」

「種類は違います」

「パンの弁護は結構です」


 近くの席で、マルタが品書きに顔を隠した。肩が震えている。


 ノアは小さな男爵家の次男で、古い本を扱う仕事がしたいのだという。

 文書館への異動願も出しているが、殿下の許可が下りないらしい。


「どうしてでしょう」

「代わりの書記官が来てから、と」

「お早く見つかるとよいですね」

「……ええ」


 私への手紙はもう書かなくていいのに、とは言わなかった。


 本の話になると、ノアの口数が増えた。

 冒険小説のある版では、勇者の剣が一ページだけ大根になっているのだという。


「勇者は、大根で勝てたのですか」

「次のページで剣に戻ります」

「根性のない大根ですね」

「責めるなら、印刷所かと」


 彼が笑った。

 祖母の話をしたときと、同じ笑い方だった。


 その小説なら、私も読んだことがあった。

 ただ、我が家の勇者は最後まで剣を持っていた。


 結末については、意見が合わなかった。

 旅を終えて帰宅したあとも、家族の話が三十ページ続く。ノアは長いと言い、私はもっと読みたかったと言った。


「事件は解決していますよね」

「でも、やっと一緒に暮らせるのですよ。次の日の朝ごはんくらい、知りたいです」

「……ただ、屋根の修理だけで八ページは」

「そこは、私も長いと思いました」


 この人は、私の好きなものを全部好きなわけではない。

 それでも、話が終わらない。


 二度目に会ったとき、彼は大根が登場する版を持ってきた。

 三度目には、続編も。


「まだ続きがあるのですか」

「今度は隣の家の屋根が壊れます」

「この作家、屋根に恨みでも?」

「……私も、それを誰かに言いたかったんです」


 屋根についてよりも、真剣な目をして語るノアがおかしくて私は大笑いをした。


 帰り際、ノアが言った。


「次の木曜日も、お会いしてよいでしょうか」

「本がなくても、いらしてくださいね」


 彼が、抱えた本を見下ろした。


「……お気づきでしたか」

「屋根の話をしにいらしていたのなら、がっかりです」

「あなたに、会いたくて」


 私たちは、揃って黙った。

 マルタが空のカップを片付ける音だけが、やけによく聞こえた。


 その三日後、ノアから手紙が届いた。


 今度は、長かった。



   ◇



『リディア様。


 これまでお会いしていたのは、殿下の元婚約者である貴女に礼を尽くすためです。

 私的な感情は、一切ございません。

 今後のご訪問、お便りはお控えください。

 私は近日中に王都を離れます。


 ご家族ならびにお祖母様の御健勝をお祈り申し上げます。


 ノア・ベルナー』


 知っている字だった。

 署名も、今度こそ本人の名前だった。


 指先が冷たくなった。


 礼を尽くすため。

 私的な感情は、一切ない。


 私が笑うたびに、ほっとした顔をしたことも。

 また会いたいと言ってくれたことも。


 そこまで考えて、最後の行を読み直した。


 お祖母様の御健勝。


 祖母は、去年亡くなった。


 あのとき返事をくれた人が、どうして。


「マルタ。馬車をお願い」

「どちらへ?」

「書いた人に、会いに行くわ」


 マルタは黙って頷き、日傘を取ってきた。

 今度も、叩く予定はない。


 同じ字だから、同じ人の気持ちだとは限らない。

 それだけは、もう知っている。



   ◇



 文書室には、入れてもらえなかった。

 ノアは職務を停止され、外部との面会も禁じられているという。


 帰宅すると、父が宮内府からの通知を読んでいた。


 殿下の指示にない恋文を作成し、王家の名を利用して私に取り入った。

 婚約の解消も、その不適切な関係が原因だった。


 殿下は、そう申し立てているらしい。

 ノアには懲戒免職が検討されていた。文書館への異動も白紙だという。


「殿下の新しいお相手の家が、噂を気になさったそうだ」


 父が言った。


「恋文を書記官に書かせて、令嬢を二年も騙した王子、とな」


 事実である。

 困ったからといって、こちらのせいに書き換えられてはたまらない。


 私は通知を机に置いた。


「お父さま」

「落ち着きなさい」

「その手の中のものは?」


 父は、折れたペンを見下ろした。


「……これは別件だ」


 机の上には、別件がもう二本転がっていた。


 事情を確かめるため、明朝、宮内大臣が関係者を呼んでいる。

 私たちにも出席を求める通知だった。


「お前の知っていることを話せばいい。婚約解消の申し入れも、受理書も残っている」

「私からも、大臣に調べていただきたいことがあります」


 私は、手紙の箱を取り出した。


「手紙か」

「いえ。殿下のお仕事の書類です」


 ノアは言っていた。

 あとで『言っていない』となることがあるのだと。


 今が、そのあとだ。



   ◇



「君も被害者なのだ、リディア」


 応接室で、殿下は親切そうに言った。


「ノアに騙されたのなら、責めるつもりはない」


 被害者であることには異存がなかった。

 加害者の人選で、意見が合わない。


 ノアは窓際に立っていた。

 制服の胸から、書記官を示す銀の飾りが外されている。


 私を見ると口を開きかけたが、宮内大臣が先に紙を差し出した。


「ベルナー。申し立ての内容に、相違はありませんか」


 ノアは最後まで読んで、一呼吸おいて顔を上げた。


「あります。返書の作成は、殿下のご命令でした」

「私の言葉を整えろと言ったのだ。勝手に恋文を書けとは言っていない」


 殿下は、別の紙を取り上げた。

 私に届いた別れの手紙と、同じ文面が見えた。


「本人も、こう書いている。『私的な感情は一切ない』。お前が書いて、署名したものだ。愛情もないのに、王家の名を使って近づいた。取り入るためでなくて何だ」


 ノアの視線が、私に向いた。


 私は待った。

 手紙では、いつも私の話を待ってくれた人だ。


「……あります」

「何?」

「私的な感情は、あります」


 ノアが紙を机に置いた。


「リディア様が好きです。手紙をやり取りしていたころから。お会いして、もっと好きになりました」


 私は、膝の上で握っていた手を開いた。


 こういう言葉を聞けるなら、もう少し違う場所がよかった。

 少なくとも、父が隣にいない場所。


 隣で、ぱきり、と音がした。

 そちらのお話は、あとにしていただきたい。


「その手紙は、殿下から渡された文面を写しました。私の気持ちではありません」

「私に責任を押しつける気か。お前の字で、お前が署名したのだぞ」


 私は箱を開いた。


「では、こちらの四十七通も、ご署名なさった殿下が内容をお認めになった手紙ですね」

「それは、形式上の署名だ」

「ノアさんの署名は本心で、殿下の署名は形式なのですか」


 殿下は答えず、大臣を見た。

 大臣は、手元の書類を一枚めくった。


「まず、返書を命じたかどうかを確認しましょう」


 差し出されたのは、宮内府から取り寄せた二年前の指示書だった。


『返書の内容は一任する。清書後、私の署名を受けて発送すること。』


 殿下の署名がある。

 殿下はそれを、ご自分の字を初めて見るようなお顔で見つめた。


「発送の記録とも一致しています。無断で恋文を送ったとの申し立ては、事実に反します」

「だが、親しくしていたのは事実だろう!」

「二人がお茶をするようになったのは、婚約解消後です」


 父が受理書を置いた。

 続いて、殿下から届いた婚約解消の申し入れも。


「こちらには、新たな縁談を進めるため、とあります。娘の不適切な関係が理由だとは、一言も」


 大臣に求められ、ノアも最初の招待状を出した。

 受理書の翌日の日付がある。


「リディアが書き手を知ったのも、殿下ご自身から解消を告げられたあとですな」

「そうだが、日付の話をしているのではない!」

「婚約解消の原因かどうかを、確かめておりますので」


 殿下が紅茶のカップを持ち上げた。

 飲まずに戻した。


「昨日の手紙についても、伺います」


 私は別れの手紙を広げた。


「最後に、祖母の健康を祈る言葉があります。祖母は、一年前に亡くなりました」

「よくある挨拶だろう」

「そのときに頂いたお返事が、こちらです」


 箱から、角に染みのある一通を抜き出した。


「祖母が猫につまみ食いの罪を着せた話が、書かれています」

「……猫?」


 殿下が眉を寄せた。


「殿下には初めてのお話でしょう。お読みになっていませんから」

「たかが猫の話を――」

「私には、祖母の話です」


 声が、自分でも驚くほどはっきり出た。


「もういない人の話を、まだ聞きたいと言ってくれた手紙です。だから、大切にしていました」


 殿下の言葉が止まった。


 私は、別れの手紙の最後の一行を指で押さえた。


「字はノアさんのものです。でも、この言葉まで、ノアさんご自身のものなのか。どうしても、確かめたかったのです」


 大臣が、二枚目の指示書を出した。


 昨日の日付。

 私に届いたものと同じ別れの文章。

 その下に、殿下の署名。


「『一字も変えず清書し、ノア・ベルナーの名で署名すること』。このように命じられていますね」


 殿下は、ノアを睨んだ。


「なぜ、それを残した」

「指示書の原本は、宮内府へ納める決まりです」

「これは私信だ!」

「届いた手紙は私信です。書かせた命令は、職務上のものです」


 大臣が二枚の紙を並べた。

 ノアの署名がある手紙と、それを書けと命じた殿下の署名。


 二年間、署名だけで済ませてきた殿下は、肝心の一枚にも、いつもどおり署名してしまったのだ。


「……君たちは、何もわかっていない。私はただ、軽率な二人が間違いを犯さぬよう――」

「私の母まで生き返らせて、ですか」


 父が言った。


 大臣が咳払いをした。

 私も慌てて唇を結んだ。

 祖母なら、今の父を褒めたかもしれない。


「ベルナーへの懲戒免職の申し立ては、認められません」


 大臣が書類を閉じる。


「異動願は、宮内府で処理します。殿下が虚偽の説明をされた件については、陛下へ報告いたします」


 殿下が椅子から立ち上がった。


「待て、リディア。そんなに手紙が大切なら、また書かせてやる。これまでどおりでいいだろう」


 ノアも顔を上げた。


「殿下の名で、恋文を書くことは、もういたしません」

「お前には聞いていない!」

「書かせる相手には、お聞きになったほうがよろしいかと」


 私が言うと、ノアがほんの少し笑った。


 殿下は、私たちを交互に見た。


「なぜ、そいつなんだ。君は二年間、私の手紙を大切にしていたではないか!」


 私は箱に蓋をした。


「はい。ですから、書いた方に会いに行きました」


 今度は、返事を待たずに立ち上がった。



   ◇



 部屋を出るとき、大臣が父に小声で言った。


「よいお嬢様をお持ちですな」

「存じております」


 父は、折れたペンをそっと懐にしまった。


 廊下へ出るなり、その父がノアの前に立った。


「さて、先ほどの話だが」

「お父さま」

「まだ何も言っていない」

「顔が言っています」


 父は不満そうに口を閉じ、馬車へ向かった。

 マルタも一礼して、少し離れたところで待ってくれた。


 ノアが頭を下げた。


「昨日の手紙は、申し訳ありませんでした。私が離れれば、あなたを巻き込まずに済むと言われて、それで……」

「私には、何も聞かずに」

「はい」


 私は、祖母の健康を祈る一行を見せた。


「ここは、おかしいと気づいていたのですよね」


 彼は頷いた。


「一字も変えるなという命令でした。でも、あの一行をそのまま残したのは……あなたなら気づいてくださるかもしれないと、期待したからでもあります」


 いなくなると書きながら、見つけてほしいと思っていたのだ。

 私は、その一行をそっと指でなぞった。


「次は、『助けてください』と一行で書いてください」

「……はい」

「お返事が遅かったこと、一度もありませんでしょう?」


 ノアが顔を上げた。

 ようやく、少し血の気が戻っていた。


「助けに来てくださって、ありがとうございました」

「お礼は、次にお会いしたときに」

「また、お会いしても?」

「当然です。続編まで貸しておいて、そのまま行方をくらまさないでください」

「本は、お返しいただかなくても」

「本の話をしているのではありません」


 今度こそ、彼は黙った。


 私は箱を片腕に抱え直して、その手を取った。


「私も、あなたが好きです」


 指に、少しだけ力が返ってきた。


 背後で、父が咳をした。


 馬車へ行ったのではなかったのか。



   ◇



 一週間後、ノアは文書館で働き始めた。


 殿下は公務と新たな縁談を当面見合わせることになり、私たちについて流した誤った説明も、宮内府から訂正された。

 父宛てには、殿下ご本人が書いた謝罪状が届いた。


 短かったそうだ。

 署名だけは、たいへん立派だったという。


 次の日曜日、ノアは我が家にやって来た。

 手にしていたのは本ではなく、白い封筒だった。


『リディア様。


 これは、業務ではありません。


 あなたと一緒に、物語が終わったあとの朝食を食べてみたいです。

 屋根の修理の話も、お聞きします。


 ノア・ベルナー』


 読み終えて顔を上げると、彼は真剣だった。


「これから、いかがですか」

「……え?」

「朝食です。まだでしたら、ご一緒に」

「実は、パンをひとつ」

「足りません。お入りください」


 ノアが笑った。


「ですが、毎朝お邪魔するわけには」


 私は、手紙を封筒へ戻しかけて止まった。


「毎朝のつもりだったのですか」


 彼も止まった。

 耳が、みるみる赤くなる。

 一歩下がろうとしたので、門柱にぶつかる前に袖をつかんだ。


「……今のは、もう少し先に申し上げるつもりでした」

「お手紙でしたら、直せましたのにね」

「はい。できれば、今のは」

「直しません」


 私は手紙を畳んだ。


「覚えておきます」


 彼の手を引いて門をくぐると、庭のテーブルの下で、雀が焼き菓子のかけらをつついていた。


「これが、手紙に書いた焼き菓子です。おいしいんですよ」


 テーブルの皿から一枚取り、ノアの顔を覗き込む。


「毎朝ここに戻るとは、大胆ですね」

「……その言い回し、私が書いたものです」

「存じております」


 玄関の奥で、ごとり、と音がした。

 父が、廊下の小机から花瓶をどけている。


 ノアが、不安そうに私を見た。

 私は知っている。

 昔から、父は机を片付けてから人を抱きしめる。


 案の定、父は近づいてきたノアを両腕で迎えた。


「お、お父上……!?」

「朝食は、毎朝七時だ」


 戸惑いながらもノアが笑うと、父は満足そうに、その背中を叩いた。


 恋文をもらったのは私なのに、先に抱きしめるのは順番が違うと思う。


 焼き菓子が、ぱきりと割れた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


   ◇ おまけ ◇


『リディア様。

 毎朝お会いしているのに、また書いてしまいました。

 今朝も、例の犯人が現場に戻っておりました。

 大胆なのは、私も同じです。明朝も、七時に伺います。

 ノア・ベルナー』


 署名は、今日も本人の字だった。

 廊下の奥で、父がまた机を片付けている。


   ◇


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