婚約者の恋文がすべて代筆だったので、書いた人に会いに行きました
「まさか、本気にしていたのか? あの恋文は全部、書記官に書かせたものだ」
婚約を解消する、と告げたあとで、アルベルト殿下は笑った。
よりふさわしい縁談が来たのだそうだ。そちらの説明は一言で済んだのに、笑うほうにはずいぶん時間をおかけになる。
私は膝の上の箱を見下ろした。
青いリボンで束ねた、四十七通の手紙。二年間、大切に読み返してきたものだ。
「……全部、ですか」
「全部だ。まさか私が、君の庭に来る雀の話にまで付き合うと思っていたのか」
思っていた。
はい、思っておりました。かなり本気で。
雀が庭師の焼き菓子を盗んだ話には、『犯人はまだお庭に?』と返事が来た。『毎日来ています』と書けば、『現場に戻るとは大胆ですね』と返ってきた。
第二王子が、こんなくだらないやり取りに付き合ってくださるのが嬉しかった。
けれど、会ったときにその話をすると、殿下は退屈そうな顔をした。
お忙しいのだと思っていた。
お疲れなのだとも。人前では、こういう話をなさらないのだとも。
二年間、私は殿下の代わりに殿下を弁護していたらしい。
そちらの仕事も、どなたかに代わっていただきたかった。
「文章を考えたのも、その方ですか」
「ああ。私は署名をしただけだ」
署名だけ。
四十七通の、最後の一行だけ。
箱の縁が、指に食い込んだ。
私は、その一行に会うために王宮へ通っていたのだ。
殿下が懐からハンカチを取り出した。
刺繍入りの、上等なハンカチだった。私が泣くことは、殿下の中ではもう決まっているらしい。
泣かせる準備だけは、ご自分でなさるのですね。
「婚約の解消は、君の父上にも申し入れてある。泣いてすがられても困るが、手紙ごときで私を引き止めようとは――」
「その方のお名前を教えてください」
ハンカチが宙で止まった。
「……誰の?」
「手紙を書いた方です」
殿下は眉を寄せ、それから肩をすくめた。
出番のなかったハンカチは、そのまま懐へ帰っていった。
「ノア・ベルナー。私付きの書記官だ。文書室にいる」
「ありがとうございます。婚約解消のお返事は、父を通してお届けします」
箱を抱えて立ち上がる。
「待て。そいつに文句を言いに行くつもりか」
「まだ、何を言うかは決めておりません」
「あまり責めてやるなよ。仕事でやっただけなのだから」
私の二年間は、ついに業務扱いになった。
◇
ノア・ベルナーは、私を見るなり、引き出しで指を挟んだ。
「……っ」
右手を左手で包んだまま一礼しようとして、今度は机に肘をぶつける。
「どうぞ、そのままで」
「いえ、お迎えもせず」
「まず、ご自身をお守りください」
このままでは、文句を言う前に気が済んでしまう。
私より少し年上だろうか。紺色の制服に、額へかかった柔らかそうな髪。指には、挟んだところの赤みとは別に、インクの染みがあった。
机の上に、書きかけの紙がある。
知っている字だった。
四十七回、受け取った字だった。
「リディア様。どうして、こちらへ」
「殿下から、手紙はすべてあなたが書いたと伺いました」
彼は私の抱えた箱を見た。
それから、ぎゅっと目をつむった。
「……お叱りは、覚悟しております」
なぜか、左の頬がこちらを向いた。
右手は、まだ左手の中にある。守るところと差し出すところを、分けているらしい。
「叩きに来たのではありません」
「では、何で……」
「何でも叩きません」
背後で、侍女のマルタがそっと日傘を下ろした。
そちらも、構えなくていい。
彼はようやく目を開けると、私とマルタに椅子を勧め、自分は立ったままでいた。
「内容も、あなたが?」
「私が考えました」
深く頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。あなたが殿下のお言葉だと信じていらっしゃることは、わかっていました」
私は箱を膝に置いた。
「私の手紙も、読んだのですね」
「はい。お預かりしたものは、すべて」
夜会でうまく踊れなかったこと。
刺繍を犬に引っ張られたこと。
祖母が亡くなった夜、泣くより先にお腹がすいてしまったこと。
婚約者にさえ書くのをためらった話を、知らない人に読まれていた。
しかも、ためらった末に、全部書いたのだ。
「……恥ずかしいです」
「申し訳ありません」
「謝ってほしくて言ったのではありません。でも、恥ずかしいものは、恥ずかしいです」
彼は何も言わず、私が次に話すのを待っていた。
箱から一通、抜き出す。
「このお返事を、覚えていらっしゃいますか」
去年の冬、祖母の葬儀のあとに届いた手紙だ。
『お祖母様のお話を、また聞かせてください。焼き菓子をつまみ食いしたのは、本当に猫だったのでしょうか。』
祖母は、料理長の目を盗んで焼き菓子をつまむ人だった。
見つかると、決まって猫のせいにした。
口元に食べかすをつけたまま。
その話は、葬儀よりずっと前に書いたものだった。
「猫は、庭で寝ていたのですよね」
ノアが言った。
「はい。マルタが見ていました」
「では、お祖母様には不利ですね」
「祖母は『寝たふりよ』と」
彼の口元が緩んだ。
私も、つられて笑った。
葬儀のあと、周りの人は、気を強く持ちなさい、いつまでも悲しんではいけません、と言った。
でも、この手紙の人は、まだ祖母の話を聞きたいと言ってくれた。
私はそれを読んで、初めて泣いた。
「仕事だから、覚えていらっしゃるのですか」
ノアは、すぐには答えなかった。
「最初は、仕事でした」
机の端に添えた指が動く。
「でも、お手紙が届くのが楽しみになりました。殿下にご署名をいただいて発送すると、次のお返事を待っていました」
「私ではなく、殿下への返事なのに?」
「……はい」
彼は目を伏せた。
「それがわかっていて、やめられませんでした」
ずるいと思った。
そんなことを言われたら、全部嘘だったことにして捨てるのが、難しくなる。
けれど、捨てずに済むのかもしれないとも思った。
「あなたに怒っています」
「はい」
「あの日、助けてくださった方には、お礼を言いたいです」
彼が顔を上げる。
「ただ…それが同じ方なので、困っております」
ノアも、困ったように眉を下げた。
ようやく、少し同じ気持ちになれた気がした。
帰る前に、私が出した手紙を返してもらった。
日付順に揃えられ、リボンが食い込まないよう厚紙が挟んである。
「……仕事の書類も、こうして保管なさるのですか」
「殿下からの指示書は、毎日まとめて宮内府へ納めます。原本はそちらで保管する決まりですので。私の手元には写しだけを」
「大変なのですね」
「あとで『言っていない』となることがありますから」
そう言って、彼はぴたりと口を閉じた。
私は何も聞かなかったことにした。
職場の事情を知るのは、今日だけでもう十分だ。
受け取った包みは、彼からの手紙よりずっと厚かった。
「……ずいぶん書きましたね」
「どれも、読みました」
「少しは読み飛ばしてくださってもよかったのに」
「できませんでした」
顔が熱くなったので、箱の蓋を閉めた。
同じようにパタっと髪の毛で表情を隠せたら良いのに、あいにく私の前髪はそこまで重くはなかった。
◇
父に婚約を解消したいと告げると、「そうか」と頷いてくれた。
「では、そう返事をしよう」
何があったのか説明するつもりだった。
でも、先に泣いてしまった。
父は慌てて机の書類をどけ、それから私を抱き寄せた。
昔から、父は机を片付けてから人を抱きしめる。
祖母なら、先に抱きしめなさいよ、と笑っただろう。
婚約解消が正式に受理された翌日、私はノアに手紙を書いた。
『木曜日の午後、お茶をご一緒しませんか。
私の話は、ずいぶん聞いていただきました。
今度は、あなたのお話を聞きたいです。
リディア・フォルネ』
返事は、使いの者と一緒に帰ってきた。
その場で書いたらしい。
『喜んで伺います
ノア・ベルナー』
今までで、いちばん短い手紙だった。
あれだけ書いた人が、たった七文字。
なのに、最後の名前を何度も読み返してしまった。
◇
「昨日、何を召し上がりましたか」
「昨日ですか」
「はい。まずは、お答えしやすいことから」
喫茶店で向かい合ったノアは、真剣に考えた。
「朝はパンで、昼もパンでした」
「夕食は?」
「……パンです」
お答えしやすい質問で、問題が発覚した。
「あんなに私に、ちゃんと食事を取るよう書いてくださった方が?」
「種類は違います」
「パンの弁護は結構です」
近くの席で、マルタが品書きに顔を隠した。肩が震えている。
ノアは小さな男爵家の次男で、古い本を扱う仕事がしたいのだという。
文書館への異動願も出しているが、殿下の許可が下りないらしい。
「どうしてでしょう」
「代わりの書記官が来てから、と」
「お早く見つかるとよいですね」
「……ええ」
私への手紙はもう書かなくていいのに、とは言わなかった。
本の話になると、ノアの口数が増えた。
冒険小説のある版では、勇者の剣が一ページだけ大根になっているのだという。
「勇者は、大根で勝てたのですか」
「次のページで剣に戻ります」
「根性のない大根ですね」
「責めるなら、印刷所かと」
彼が笑った。
祖母の話をしたときと、同じ笑い方だった。
その小説なら、私も読んだことがあった。
ただ、我が家の勇者は最後まで剣を持っていた。
結末については、意見が合わなかった。
旅を終えて帰宅したあとも、家族の話が三十ページ続く。ノアは長いと言い、私はもっと読みたかったと言った。
「事件は解決していますよね」
「でも、やっと一緒に暮らせるのですよ。次の日の朝ごはんくらい、知りたいです」
「……ただ、屋根の修理だけで八ページは」
「そこは、私も長いと思いました」
この人は、私の好きなものを全部好きなわけではない。
それでも、話が終わらない。
二度目に会ったとき、彼は大根が登場する版を持ってきた。
三度目には、続編も。
「まだ続きがあるのですか」
「今度は隣の家の屋根が壊れます」
「この作家、屋根に恨みでも?」
「……私も、それを誰かに言いたかったんです」
屋根についてよりも、真剣な目をして語るノアがおかしくて私は大笑いをした。
帰り際、ノアが言った。
「次の木曜日も、お会いしてよいでしょうか」
「本がなくても、いらしてくださいね」
彼が、抱えた本を見下ろした。
「……お気づきでしたか」
「屋根の話をしにいらしていたのなら、がっかりです」
「あなたに、会いたくて」
私たちは、揃って黙った。
マルタが空のカップを片付ける音だけが、やけによく聞こえた。
その三日後、ノアから手紙が届いた。
今度は、長かった。
◇
『リディア様。
これまでお会いしていたのは、殿下の元婚約者である貴女に礼を尽くすためです。
私的な感情は、一切ございません。
今後のご訪問、お便りはお控えください。
私は近日中に王都を離れます。
ご家族ならびにお祖母様の御健勝をお祈り申し上げます。
ノア・ベルナー』
知っている字だった。
署名も、今度こそ本人の名前だった。
指先が冷たくなった。
礼を尽くすため。
私的な感情は、一切ない。
私が笑うたびに、ほっとした顔をしたことも。
また会いたいと言ってくれたことも。
そこまで考えて、最後の行を読み直した。
お祖母様の御健勝。
祖母は、去年亡くなった。
あのとき返事をくれた人が、どうして。
「マルタ。馬車をお願い」
「どちらへ?」
「書いた人に、会いに行くわ」
マルタは黙って頷き、日傘を取ってきた。
今度も、叩く予定はない。
同じ字だから、同じ人の気持ちだとは限らない。
それだけは、もう知っている。
◇
文書室には、入れてもらえなかった。
ノアは職務を停止され、外部との面会も禁じられているという。
帰宅すると、父が宮内府からの通知を読んでいた。
殿下の指示にない恋文を作成し、王家の名を利用して私に取り入った。
婚約の解消も、その不適切な関係が原因だった。
殿下は、そう申し立てているらしい。
ノアには懲戒免職が検討されていた。文書館への異動も白紙だという。
「殿下の新しいお相手の家が、噂を気になさったそうだ」
父が言った。
「恋文を書記官に書かせて、令嬢を二年も騙した王子、とな」
事実である。
困ったからといって、こちらのせいに書き換えられてはたまらない。
私は通知を机に置いた。
「お父さま」
「落ち着きなさい」
「その手の中のものは?」
父は、折れたペンを見下ろした。
「……これは別件だ」
机の上には、別件がもう二本転がっていた。
事情を確かめるため、明朝、宮内大臣が関係者を呼んでいる。
私たちにも出席を求める通知だった。
「お前の知っていることを話せばいい。婚約解消の申し入れも、受理書も残っている」
「私からも、大臣に調べていただきたいことがあります」
私は、手紙の箱を取り出した。
「手紙か」
「いえ。殿下のお仕事の書類です」
ノアは言っていた。
あとで『言っていない』となることがあるのだと。
今が、そのあとだ。
◇
「君も被害者なのだ、リディア」
応接室で、殿下は親切そうに言った。
「ノアに騙されたのなら、責めるつもりはない」
被害者であることには異存がなかった。
加害者の人選で、意見が合わない。
ノアは窓際に立っていた。
制服の胸から、書記官を示す銀の飾りが外されている。
私を見ると口を開きかけたが、宮内大臣が先に紙を差し出した。
「ベルナー。申し立ての内容に、相違はありませんか」
ノアは最後まで読んで、一呼吸おいて顔を上げた。
「あります。返書の作成は、殿下のご命令でした」
「私の言葉を整えろと言ったのだ。勝手に恋文を書けとは言っていない」
殿下は、別の紙を取り上げた。
私に届いた別れの手紙と、同じ文面が見えた。
「本人も、こう書いている。『私的な感情は一切ない』。お前が書いて、署名したものだ。愛情もないのに、王家の名を使って近づいた。取り入るためでなくて何だ」
ノアの視線が、私に向いた。
私は待った。
手紙では、いつも私の話を待ってくれた人だ。
「……あります」
「何?」
「私的な感情は、あります」
ノアが紙を机に置いた。
「リディア様が好きです。手紙をやり取りしていたころから。お会いして、もっと好きになりました」
私は、膝の上で握っていた手を開いた。
こういう言葉を聞けるなら、もう少し違う場所がよかった。
少なくとも、父が隣にいない場所。
隣で、ぱきり、と音がした。
そちらのお話は、あとにしていただきたい。
「その手紙は、殿下から渡された文面を写しました。私の気持ちではありません」
「私に責任を押しつける気か。お前の字で、お前が署名したのだぞ」
私は箱を開いた。
「では、こちらの四十七通も、ご署名なさった殿下が内容をお認めになった手紙ですね」
「それは、形式上の署名だ」
「ノアさんの署名は本心で、殿下の署名は形式なのですか」
殿下は答えず、大臣を見た。
大臣は、手元の書類を一枚めくった。
「まず、返書を命じたかどうかを確認しましょう」
差し出されたのは、宮内府から取り寄せた二年前の指示書だった。
『返書の内容は一任する。清書後、私の署名を受けて発送すること。』
殿下の署名がある。
殿下はそれを、ご自分の字を初めて見るようなお顔で見つめた。
「発送の記録とも一致しています。無断で恋文を送ったとの申し立ては、事実に反します」
「だが、親しくしていたのは事実だろう!」
「二人がお茶をするようになったのは、婚約解消後です」
父が受理書を置いた。
続いて、殿下から届いた婚約解消の申し入れも。
「こちらには、新たな縁談を進めるため、とあります。娘の不適切な関係が理由だとは、一言も」
大臣に求められ、ノアも最初の招待状を出した。
受理書の翌日の日付がある。
「リディアが書き手を知ったのも、殿下ご自身から解消を告げられたあとですな」
「そうだが、日付の話をしているのではない!」
「婚約解消の原因かどうかを、確かめておりますので」
殿下が紅茶のカップを持ち上げた。
飲まずに戻した。
「昨日の手紙についても、伺います」
私は別れの手紙を広げた。
「最後に、祖母の健康を祈る言葉があります。祖母は、一年前に亡くなりました」
「よくある挨拶だろう」
「そのときに頂いたお返事が、こちらです」
箱から、角に染みのある一通を抜き出した。
「祖母が猫につまみ食いの罪を着せた話が、書かれています」
「……猫?」
殿下が眉を寄せた。
「殿下には初めてのお話でしょう。お読みになっていませんから」
「たかが猫の話を――」
「私には、祖母の話です」
声が、自分でも驚くほどはっきり出た。
「もういない人の話を、まだ聞きたいと言ってくれた手紙です。だから、大切にしていました」
殿下の言葉が止まった。
私は、別れの手紙の最後の一行を指で押さえた。
「字はノアさんのものです。でも、この言葉まで、ノアさんご自身のものなのか。どうしても、確かめたかったのです」
大臣が、二枚目の指示書を出した。
昨日の日付。
私に届いたものと同じ別れの文章。
その下に、殿下の署名。
「『一字も変えず清書し、ノア・ベルナーの名で署名すること』。このように命じられていますね」
殿下は、ノアを睨んだ。
「なぜ、それを残した」
「指示書の原本は、宮内府へ納める決まりです」
「これは私信だ!」
「届いた手紙は私信です。書かせた命令は、職務上のものです」
大臣が二枚の紙を並べた。
ノアの署名がある手紙と、それを書けと命じた殿下の署名。
二年間、署名だけで済ませてきた殿下は、肝心の一枚にも、いつもどおり署名してしまったのだ。
「……君たちは、何もわかっていない。私はただ、軽率な二人が間違いを犯さぬよう――」
「私の母まで生き返らせて、ですか」
父が言った。
大臣が咳払いをした。
私も慌てて唇を結んだ。
祖母なら、今の父を褒めたかもしれない。
「ベルナーへの懲戒免職の申し立ては、認められません」
大臣が書類を閉じる。
「異動願は、宮内府で処理します。殿下が虚偽の説明をされた件については、陛下へ報告いたします」
殿下が椅子から立ち上がった。
「待て、リディア。そんなに手紙が大切なら、また書かせてやる。これまでどおりでいいだろう」
ノアも顔を上げた。
「殿下の名で、恋文を書くことは、もういたしません」
「お前には聞いていない!」
「書かせる相手には、お聞きになったほうがよろしいかと」
私が言うと、ノアがほんの少し笑った。
殿下は、私たちを交互に見た。
「なぜ、そいつなんだ。君は二年間、私の手紙を大切にしていたではないか!」
私は箱に蓋をした。
「はい。ですから、書いた方に会いに行きました」
今度は、返事を待たずに立ち上がった。
◇
部屋を出るとき、大臣が父に小声で言った。
「よいお嬢様をお持ちですな」
「存じております」
父は、折れたペンをそっと懐にしまった。
廊下へ出るなり、その父がノアの前に立った。
「さて、先ほどの話だが」
「お父さま」
「まだ何も言っていない」
「顔が言っています」
父は不満そうに口を閉じ、馬車へ向かった。
マルタも一礼して、少し離れたところで待ってくれた。
ノアが頭を下げた。
「昨日の手紙は、申し訳ありませんでした。私が離れれば、あなたを巻き込まずに済むと言われて、それで……」
「私には、何も聞かずに」
「はい」
私は、祖母の健康を祈る一行を見せた。
「ここは、おかしいと気づいていたのですよね」
彼は頷いた。
「一字も変えるなという命令でした。でも、あの一行をそのまま残したのは……あなたなら気づいてくださるかもしれないと、期待したからでもあります」
いなくなると書きながら、見つけてほしいと思っていたのだ。
私は、その一行をそっと指でなぞった。
「次は、『助けてください』と一行で書いてください」
「……はい」
「お返事が遅かったこと、一度もありませんでしょう?」
ノアが顔を上げた。
ようやく、少し血の気が戻っていた。
「助けに来てくださって、ありがとうございました」
「お礼は、次にお会いしたときに」
「また、お会いしても?」
「当然です。続編まで貸しておいて、そのまま行方をくらまさないでください」
「本は、お返しいただかなくても」
「本の話をしているのではありません」
今度こそ、彼は黙った。
私は箱を片腕に抱え直して、その手を取った。
「私も、あなたが好きです」
指に、少しだけ力が返ってきた。
背後で、父が咳をした。
馬車へ行ったのではなかったのか。
◇
一週間後、ノアは文書館で働き始めた。
殿下は公務と新たな縁談を当面見合わせることになり、私たちについて流した誤った説明も、宮内府から訂正された。
父宛てには、殿下ご本人が書いた謝罪状が届いた。
短かったそうだ。
署名だけは、たいへん立派だったという。
次の日曜日、ノアは我が家にやって来た。
手にしていたのは本ではなく、白い封筒だった。
『リディア様。
これは、業務ではありません。
あなたと一緒に、物語が終わったあとの朝食を食べてみたいです。
屋根の修理の話も、お聞きします。
ノア・ベルナー』
読み終えて顔を上げると、彼は真剣だった。
「これから、いかがですか」
「……え?」
「朝食です。まだでしたら、ご一緒に」
「実は、パンをひとつ」
「足りません。お入りください」
ノアが笑った。
「ですが、毎朝お邪魔するわけには」
私は、手紙を封筒へ戻しかけて止まった。
「毎朝のつもりだったのですか」
彼も止まった。
耳が、みるみる赤くなる。
一歩下がろうとしたので、門柱にぶつかる前に袖をつかんだ。
「……今のは、もう少し先に申し上げるつもりでした」
「お手紙でしたら、直せましたのにね」
「はい。できれば、今のは」
「直しません」
私は手紙を畳んだ。
「覚えておきます」
彼の手を引いて門をくぐると、庭のテーブルの下で、雀が焼き菓子のかけらをつついていた。
「これが、手紙に書いた焼き菓子です。おいしいんですよ」
テーブルの皿から一枚取り、ノアの顔を覗き込む。
「毎朝ここに戻るとは、大胆ですね」
「……その言い回し、私が書いたものです」
「存じております」
玄関の奥で、ごとり、と音がした。
父が、廊下の小机から花瓶をどけている。
ノアが、不安そうに私を見た。
私は知っている。
昔から、父は机を片付けてから人を抱きしめる。
案の定、父は近づいてきたノアを両腕で迎えた。
「お、お父上……!?」
「朝食は、毎朝七時だ」
戸惑いながらもノアが笑うと、父は満足そうに、その背中を叩いた。
恋文をもらったのは私なのに、先に抱きしめるのは順番が違うと思う。
焼き菓子が、ぱきりと割れた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
◇ おまけ ◇
『リディア様。
毎朝お会いしているのに、また書いてしまいました。
今朝も、例の犯人が現場に戻っておりました。
大胆なのは、私も同じです。明朝も、七時に伺います。
ノア・ベルナー』
署名は、今日も本人の字だった。
廊下の奥で、父がまた机を片付けている。
◇
少しでも楽しんでいただけましたら、このすぐ下の【☆☆☆☆☆】から評価をいただけると、とても励みになります。
ブックマークや感想も、大切に読ませていただきます。
次の短編も準備中です。
作者をお気に入り登録していただけると、新しい作品も見つけやすくなります。




