第9話:溶ける氷と、熱を帯びた瞳
凍てついた樹海の静寂を破るものは、もはや何一つとして存在しなかった。
先ほどまで森を埋め尽くしていた三十頭余りの凶悪なシャドウウルフの群れは、一欠片の肉片すら残さず、美しく煌めくダイヤモンドダストへと還元されて虚空へと溶け去っていた。
宙を舞う無数の氷の結晶が、木漏れ日を浴びて七色の燐光を放ち、まるで神話の聖域のように幻想的な光の雨となって降り注いでいる。
背後に佇む巨大な氷竜は、巨躯を低く沈めて翼を畳み、青白い水晶の瞳で主の背中を静かに見守っていた。荒々しかった鼻息は穏やかな霧となり、巨竜ですらその場の静謐を乱さぬよう、息を殺しているかのようだった。
――そして、エリアーナの目の前には。
巨大な城壁のように彼女を護り、魔獣の脅威から遮断していた、一人の男の背中があった。
深藍色の軍礼装に、黒狐の豪奢な毛皮をあしらった重厚な外套。
肩幅は広く、引き締まった長身からは、他国のいかなる武将をも平伏させるであろう絶対強者の覇気が立ち上っていた。
アルジェント帝国の大公――クロード・ディス・アルジェント。
「氷の死神」「歩く天災」と大陸全土に恐れられる男。
(……この方は、本当にあの噂の……?)
エリアーナは、胸の奥で早鐘を打つ心臓の音を必死に宥めながら、その逞しい背中を見上げていた。
命を救われたのは紛れもない事実だった。もしこの青年が現れなければ、自分は今頃、影の狼たちの牙に喉笛を裂かれ、冷たい土の上で息絶えていたはずだ。
だが、安堵と同時に、底知れない緊張が彼女の華奢な身体を縛りつけていた。
なぜ、帝国の若き最高権力者が、自ら伝説の竜を駆って、このような国境の樹海に現れたのか。
そして――魔獣を塵一つ残さず氷砕したあの冷酷無比な長剣が、もし次に自分へと向けられたなら。身一つで逃げ出してきた名ばかりの伯爵令嬢など、瞬きする間に消し飛んでしまうに違いない。
身を竦ませ、薄手の外套をぎゅっと握りしめた、その時だった。
衣擦れの微かな音がして、クロードがゆっくりと身を翻した。
――ザッ。
凍てついた大地を踏みしめ、彼が振り返る。
エリアーナの息が、喉の奥で詰まった。
間近で見るその貌は、息を呑むほどに美しく、そして恐ろしかった。
月光をそのまま紡いだような白銀の短髪が、冷たい風にさらりと揺れる。
刃物のように鋭く通った鼻梁、彫刻家が血を吐く思いで刻み上げたかのような完璧な輪郭。
そして――何人をも寄せ付けぬ絶対零度の冷気を湛えた、氷青色の双眸。
その瞳に、エリアーナの姿が映り込んだ。
――刹那。
世界が一変した。
「…………っ!」
クロードの端正な顔立ちから、先ほどまでの冷酷無比な氷の仮面が、音を立てて剥がれ落ちた。
切れ長の氷青色の双眸が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれる。
冷徹に引き結ばれていた薄い唇が微かに震え、喉仏がごくりと大きく上下した。
彼が纏っていた、触れるものすべてを死に至らしめるような絶対零度の殺気。
一国の軍勢すら恐怖で平伏させる「氷の死神」のオーラが――まるで、暖かな春の陽だまりに触れた残雪のように、跡形もなく、一瞬にして霧散したのだ。
代わりにその瞳を満たしたのは、言葉を失うほどの驚愕と、張り詰めていた糸が切れたような切実な安堵。
そして――見る者の胸を焦がすほどに熱く、深く、狂おしいまでの激情の光であった。
「……あ……」
クロードの口元から、掠れた吐息が漏れた。
その眼差しは、あまりにも熱を帯びていた。氷の魔将と呼ばれた男の瞳とは到底思えない、まるで長年探し求めていた魂の半身をようやく見つけ出したかのような、切なさと愛惜に満ちあふれた光。
だが、その熱視線に射抜かれたエリアーナは、事態をまったく理解できず、思わずびくりと肩を跳ねさせて一歩後退してしまった。
あまりの威圧感と、眼前の男から放たれる激情の強さに、本能的な恐怖を覚えてしまったのだ。
その、わずかな後退。
怯えたように身を引いたエリアーナの仕草を目にした瞬間、クロードの顔に、胸を刃物で抉られたかのような苦悶と痛切な色が走った。
(――ああ、いけない。私としたことが、彼女を怯えさせてしまった……!)
クロードは自らの両手を素早く見つめた。
右手には、先ほどまで魔獣を屠っていた黒革の手袋が嵌められている。
氷砕したため血の一滴すら付着してはいなかったが、それは紛れもなく、人を殺め、戦場を駆けるための冷徹な武具の皮だった。
こんな血生臭い姿で、殺気立った風貌で近づけば、か弱い彼女が怯えるのは当然ではないか――そう己を激しく断罪するように、クロードの眉根が痛ましげに寄せられた。
彼は迷うことなく、左手で右の手袋の指先を摘まんだ。
シュッ、と擦れる音を立てて、黒革の手袋を脱ぎ捨てる。
続いて左の手袋も乱暴に引き抜き、惜しげもなく凍てついた足元の土の上へと投げ捨てた。
現れたのは、剣ダコこそあるものの、抜けるように白く、骨ばった、無駄のない美しい青年の素手だった。武器も、防具も持たない、完全なる無防備の証明。
そして――。
エリアーナの常識を、世界の理を根底から覆すような行動を、青年は取った。
――トン。
漆黒の軍靴が、冷たい大地を静かに踏みしめる。
次の瞬間、クロード・ディス・アルジェントは、何のためらいもなく、泥と氷にまみれた地面の上に、自らの右膝を折り曲げてついたのだ。
「え……?」
エリアーナの喉から、掠れた声が零れ落ちた。
目の前で起きている光景が、信じられなかった。
片膝をつく――それは、騎士が主君に対して絶対の忠誠を誓う「臣従の礼」。
あるいは、神殿の奥深くに座す神仏に対してのみ捧げられる、最上級の敬礼。
帝国の最高権力者であり、皇帝の甥にして大公の位にある男が、他国の貴族……それも、みすぼらしい古着を纏い、荷物一つで逃げ出してきた名ばかりの令嬢に対して、決して見せてはならない姿勢だった。
もしこの場に帝国の貴族や諸侯が居合わせれば、間違いなく卒倒し、天変地異でも起きたかと騒ぎ立てるであろう光景。
だがクロードは、自らの豪奢な軍礼装の裾が冷たい泥で汚れようと、そんなことには微塵の頓着も示さなかった。
彼はただ、エリアーナを見上げていた。
見下ろすのではなく、自らの視線の高さを、彼女の瞳よりも遥かに低い位置へと落として。
彼女にこれ以上の威圧感を与えないよう、決して恐怖を抱かせないよう、細心の注意を払いながら、壊れやすい硝子細工を見つめるかのように、そっと視線を合わせてきたのだ。
至近距離で交錯する視線。
見上げるクロードの顔立ちは、先ほどの冷酷な死神とは完全に別人のようだった。
薄い唇は固く結ばれ、眉は哀しげに下がり、その大きな氷青色の瞳には、今にも零れ落ちそうなほどの慈しみと、切実な情愛が揺らめいている。
そして――彼が口を開いた。
「……怪我はないか?」
その声を聞いた瞬間、エリアーナの全身が粟立った。
それは、他国で噂されていたような、氷を擦り合わせたような冷徹な声音などでは断じてなかった。
低く、深みがありながらも、まるで上質な蜂蜜を温かなミルクに溶かしたかのように甘美で、どこまでも柔らかく、そして――。
震えていた。
大陸最強と謳われる男の声が、目の前の少女を失わずに済んだという、純粋な安堵と畏敬によって、微かに震えていたのだ。
「怖がらせて、すまなかった。……もっと早く駆けつけるべきだったのに、私の到着が遅れたばかりに、君をこんな危険な目に遭わせてしまった」
クロードは苦しげに息を吐き出し、己の無力を恥じるように頭を垂れかけた。
その仕草は、あまりにも痛々しく、そして過剰なまでに誠実だった。
「あ、あの……っ」
エリアーナは混乱の極みに達していた。
頭の中が真っ白になり、言葉がうまく紡げない。
(どうして……? なぜ、この尊貴な方が、私のような者に跪いていらっしゃるの……? それに、怪我はないかって……遅れたって、どういうこと……?)
自分はただの、婚約破棄されて国を追われた無能な令嬢のはずだ。
実の父親からも、婚約者のユリウスからも、妹のティファーヌからも、屋敷の使用人たちからすら、「地味で役立たずの雑用係」として扱われてきた。
誰からも心配されたことなどなかった。
どれほど徹夜で過労に倒れかけても、「手際が悪い」と罵倒されるのが常だった。
誰かが自分のために膝をつき、自分の身を案じて声を震わせるなどという経験は、二十年間の人生において、一度たりとも存在しなかったのだ。
「あ、あの……閣下、お立ちになってください! 私のような者の前で、そのような礼をお取りになるなど、滅相もございません……! それに、私なら怪我など一つもしておりませんから……!」
エリアーナは慌てて両手を振り、恐縮して身を引こうとした。
だが、その拍子に、彼女の外套の袖がわずかに捲れ上がった。
すり切れた灰色の木綿ドレス。
長年の過労と冷えによって痛々しいほど細くなった手首。
そして、何日も歩き続けたことで、冷たい秋風に晒されて赤くかじかんだ、小さな指先。
クロードの視線が、その痛ましい手元へと吸い寄せられた。
――ピキリ。
青年の喉の奥から、歯を食いしばる微かな軋み音が漏れた。
彼の氷青色の瞳の奥底で、一瞬、先ほどの魔獣に向けられたものとは比べ物にならないほど禍々しく、底知れない「殺意」の炎が爆発的に燃え上がったのを、エリアーナは見逃さなかった。
それは、エリアーナに向けられた怒りではない。
彼女をここまで痛めつけ、こんな粗末な服を着せ、痩せ細らせ、一人で国境の危険な森を彷徨うまでに追い詰めた――王国の愚か者どもに対する、地獄の業火のごとき憎悪と憤怒。
(……この手で、奇跡を起こし続けた彼女を……あの豚どもは、どれほど酷使していたというのだ……!)
クロードの胸中で、狂おしいほどの怒りが渦巻いていた。
だが、彼はその殺気を決して表には漏らさなかった。
眼前の繊細な少女を怯えさせないために、自らの激情を強靭な意志の力で力づくでねじ伏せ、再びその貌に、蕩けるような優しい光を取り戻す。
クロードは、そっと自らの素手を持ち上げた。
手袋を脱ぎ捨てた彼の掌。
大剣を振るうために鍛え上げられたその逞しい手は、しかし、羽毛に触れるかのように慎重に、壊れやすい宝物に触れるかのように躊躇いながら、エリアーナの赤く冷え切った指先へと近づけられた。
「……触れても、いいだろうか?」
伺いを立てるような、許しを乞うような、甘く切ない問いかけ。
断ることなど、到底できないほどの熱量が、その低い声音には宿っていた。
エリアーナが呆然と頷くこともできずに立ち尽くしていると、クロードの温かな指先が、彼女の冷たい指の甲に、ふわりと触れた。
――あたたかい。
エリアーナの背筋を、心地よい戦慄が駆け抜けた。
「氷の魔将」と呼ばれる男の手は、氷などでは決してなかった。
冷え切った彼女の血液をじんわりと溶かしていくような、陽だまりのように力強く、圧倒的な生命力に満ちた体温。
クロードは、彼女の細い指先を自らの両手でそっと包み込んだ。
まるで、凍える小鳥を慈しむように。
ふう、と温かな息を彼女の指先に吹きかけ、自分の体温を分け与えるように優しく包み込む。
その瞳は、やはりどこまでも熱く、濡れていた。
膝をついたまま、エリアーナを見上げるその姿は、まるで長年の過酷な巡礼の果てに、ようやく唯一無二の神仏へと巡り逢えた信徒のようでもあり――。
あるいは、愛しい飼い主の帰りをずっと待ち焦がれていた、大型犬のようでもあった。
「……よかった。無事で、本当によかった……」
クロードの口から零れ落ちたのは、魂の底からの祈りのような言葉だった。
彼の大きな掌の中で、エリアーナの冷え切っていた手が、みるみるうちに温もりを取り戻していく。
見つめ合う二人の間に、甘く、濃密な沈黙が流れた。
森を吹き抜ける風が止まり、舞い散るダイヤモンドダストの輝きの中で、二人の世界だけが切り取られたかのように静まり返っている。
なぜ、この人はこれほどまでに、自分を愛おしそうに見つめるのか。
なぜ、これほどまでに、自分の無事を喜んでくれるのか。
戸惑いと、胸の奥底から込み上げてくる正体不明の熱さに、エリアーナの頬がぽっと赤く染まった。
そして――クロードは、彼女の指先を包み込んだまま、さらに深く、決定的な言葉を紡ぎ出そうと唇を開いたのだった――。




