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第8話:氷の死神、降臨

肺腑を貫くような絶対零度の冷気が、樹海の濃密な闇を一瞬にして塗り替えていた。


大気を震わせていた凶暴な獣たちの息遣いも、枯葉を踏みしめる音も、すべてが死に絶えたかのように途絶えている。

先ほどまで初秋の湿り気を帯びていた大気は、針の筵のように肌をチクチクと刺す極限の寒冷へと反転し、吐き出した息は白く濁るどころか、細かな氷の結晶となってきらきらと宙に散った。


空中で完全に凍結されたシャドウウルフのリーダー。

その巨大な氷像の背後から、大気を切り裂く轟音とともに舞い降りたのは、天を覆い尽くすほどの偉容を誇る神話の幻獣――純白の鱗を持つ「氷竜」であった。


樹齢数百年の巨大な黒松をものともせず薙ぎ払い、地響きを立てて雪煙を巻き上げながら着地したその巨体は、優に三十メートルを超えている。青白い燐光を宿した水晶のような双眸が、眼下にひれ伏す魔獣の群れをゴミ屑でも見るかのように冷たく見下ろしていた。竜の荒い鼻息が吹き抜けるたび、周囲の地面は瞬く間に白銀の永久凍土へと姿を変えていく。


そして――。

その天災のごとき巨竜の頭上から、羽毛のように音もなく滑り降りてきた一人の青年。


――カツン。


漆黒の革ブーツが、凍てついた大地を澄んだ硬質な音を立てて踏みしめた。

舞い散る白銀の霧の中から現れたその姿に、エリアーナは息をすることすら忘れて、ただ呆然と立ち尽くした。


月光をそのまま細く紡ぎ出したかのような、透明感のある白銀の短髪。

吹雪に晒されても乱れぬその髪の下から覗くのは、彫刻家が一生を賭けて彫り上げたかのように完璧で、同時に刃物のように鋭く研ぎ澄まされた美貌だった。

通った高い鼻梁、引き結ばれた薄い唇。そして何より、見る者の魂を芯まで凍てつかせるような、研ぎ澄まされた氷青色の双眸。


身に纏っているのは、深藍色の布地に豪奢な銀糸の刺繍が施された、アルジェント帝国の最高格式を示す軍礼装。

肩からは豪奢な黒狐の毛皮をあしらった重厚な外套が翻り、胸元には帝室の血筋のみに許されるという、白銀の竜を象った勲章が燦然と輝いている。


アルジェント帝国大公――クロード・ディス・アルジェント。


大陸全土にその武名を轟かせ、戦場に立てば一瞬にして敵軍ごと大地を凍土へと変えることから、「氷の魔将」「歩く天災」「氷の死神」と畏怖される、帝国最強にして若き最高権力者その人であった。


(……どうして、帝国の高貴な方が、このような国境の樹海に……?)


混乱するエリアーナの思考を置き去りにし、森の空気はさらに一段、深い殺気へと沈み込んでいく。


グルル……ッ、キャウン……ッ!


リーダーを瞬時に氷像に変えられ、さらに伝説の竜と死神の如き青年の降臨を目の当たりにしたシャドウウルフたちから、情けない悲鳴が漏れ始めた。

三十頭を超える獰猛な獣たち。飢餓に狂い、先ほどまではエリアーナの極上の魔力に目を血走らせていたはずの捕食者たちが、いまや全員、腹を地べたに擦りつけ、耳を後ろに倒して激しく震えていた。


獣としての本能が、全身の毛を逆立てて警鐘を乱打していたのだ。

目の前に立つ存在は、戦う対象などではない。

抗うことすら許されない、絶対的な死そのものであると。


一頭の狼が、恐怖に耐えかねて背を向け、脱兎の如く森の奥へと逃げ出そうと大地を蹴った。

それを合図に、残された群れのすべてが一斉に蜘蛛の子を散らすように四方八方へと走り出す。


だが――。


「――どこへ行く?」


低く、地底の底から響くような静謐な声が、凍てついた森に落ちた。

その声には、怒りも、高揚も、焦りすらも混ざっていなかった。

ただ、羽虫を踏み潰すことに対する無感動な宣言。


クロードが、腰に佩いた白銀の長剣の柄に、黒革の手袋に包まれた右手を添えた。


シャラン、と。

澄み渡る鈴の音に似た抜刀音が鳴り響いた、刹那。


ゴオオオオオオッ!!


青年を中心に、視界のすべてを白く染め上げる暴風雪が爆発的に吹き荒れた。

ただ剣を抜いただけ。呪文の詠唱も、魔法陣の展開すらもない。

にもかかわらず、彼が纏う魔力量は、一国の宮廷魔導士団が総掛かりで放つ戦略級魔法を遥かに凌駕していた。


エリアーナの肌を刺すのは、殺意ではない。

あまりにも強大で、純粋で、触れるものすべてを物理的にも魔力的にも停止させる、絶対的な「冷気」の津波。


逃げ去ろうとしていたシャドウウルフたちの足元から、地割れの音とともに、無数の青白い氷の結晶が針山のように噴出した。


ギャインッ――!?


断末魔の叫びすら、途中で凍りついた。

大地を蹴った姿勢のまま、跳躍した軌道のまま、振り返った顔のまま――森の全方位へ逃げ惑っていた三十数頭の巨大な狼たちが、爪の先から毛並みの一本一本に至るまで、瞬きひとつの間に完全に凍結されたのだ。

森の広場一帯が、一瞬にして幻想的で不気味な「氷の彫刻群」へと変貌を遂げる。


だが、冷酷なる大公の処刑は、それでは終わらなかった。


クロードは抜いた長剣を、まるで舞踏会のステップでも踏むかのように、優雅に、無造作に一閃させた。

刃先が虚空を切り裂き、鋭い風切り音が響く。


――砕けろ。


パリンッ……!!


最初の音は、あまりにも静かで、繊細な硝子が割れるような音だった。

しかし次の瞬間、三十数頭の氷像のすべてに、同時に幾何学模様の亀裂が走り抜けた。


ピキピキピキ、ドォォォォンッ!!


爆発的な轟音とともに、巨大な狼の群れが、粉々になった氷の飛沫となって一斉に四散した。

血の一滴、肉片の一片すら残らない。

凶悪な魔獣たちは、ただ美しく煌めくダイヤモンドダストへと還元され、冷たい風に乗って森の虚空へと掻き消えていったのだ。


残されたのは、凍てついた大地と、舞い散る光の粒子。

そして、静寂。

あまりにも圧倒的な、文字通り次元の違う蹂躙劇だった。


「…………っ」


エリアーナは、喉の奥から小さな息を漏らすのが精一杯だった。

恐怖よりも先に、あまりの光景の凄絶さと美しさに、全身の感覚が麻痺してしまっていた。


ロシュ侯爵領で耳にしていた「アルジェント帝国の氷の魔将」という悪名。

血も涙もなく、敵対する者を城ごと氷漬けにして滅ぼす冷酷無比な怪物。

その噂が、決して誇張などではなかったことを、今この目で証明されたのだ。


もし、この男が自分をも「王国の不審者」と見なし、剣を向けてきたなら――。

自分など、先ほどの狼たちと同様に、瞬きする間に氷の塵となって消え去るだろう。


震える足を押さえ、エリアーナは身構えようとした。

だが、その時。


ザッ、と凍った土を踏みしめ、クロードが身を翻した。


剣を鞘へと戻す動作は流麗そのものだった。カチリと鍔が納まる音が響く。

そして彼は、ゆっくりと、しかし迷いのない大股の足取りで、エリアーナの元へと近づいてきた。


近づいてくるにつれて、男の長身が放つ凄まじい威圧感が、エリアーナの視界を覆っていく。

身長は優に百八十センチを超えているだろう。引き締まった強靭な肉体、黒狐の毛皮の外套が夜風に揺れ、銀の短髪が月光を浴びて冷たく光る。

その顔には、先ほどまでの虐殺の余韻のような、冷徹で峻烈な気配が張り付いていた。


(……来る……)


エリアーナは心臓が早鐘を打つのを感じながら、胸元の母の形見のペンダントを強く握りしめた。

命乞いをするべきか、それとも名乗りを上げるべきか。

だが、声が出ない。凍てつくような冷気の残滓と、男が放つ覇気によって、喉が完全に塞がれてしまっていた。


――ザッ。


クロードが、エリアーナのわずか数歩手前で足を止めた。

見上げるほど高い位置にある、氷青色の瞳。

その冷たく透き通った双眸が、みすぼらしい灰色の木綿ドレスを着た、薄汚れた旅姿のエリアーナを真っ直ぐに射抜く。


殺される――そう覚悟して、エリアーナが思わずぎゅっと目を閉じかけた、その時だった。


バサァッ!


重厚な布の擦れ合う音が響いた。

クロードが、自らの身体をエリアーナの前へと割り込ませるようにして、半歩踏み出したのだ。


彼はエリアーナに刃を向けるどころか、彼女を完全に自らの背後に隠すようにして、樹海の奥――まだ魔獣の気配が残っているかもしれない闇の方向へと、鋭い眼差しを向け直した。


広い肩。

黒狐の毛皮が夜風に揺れる、逞しく、そして信じられないほど大きな背中。

その背中が、まるで難攻不落の城壁のように、エリアーナの視界をすっぽりと覆い隠していた。


「…………え?」


エリアーナの唇から、間抜けな声が零れた。


庇われている?

この、他国の最高権力者であり、大陸中から恐れられる「氷の死神」が。

素性も知れぬ、薄汚れた他国の平民のような自分を、自らの背中に庇っているというのか?


クロードの全身から放たれている冷気は、依然として周囲の木々を凍てつかせ、近づく魔獣を拒絶する絶対的な結界を形成していた。

しかし――不思議なことに。

その背中に守られているエリアーナの元へは、あの凍えるような寒さが、一切届いてこなかった。


彼が放つ凍気は、エリアーナの肌を避けるように、彼女の周囲だけを穏やかな温風のように包み込んでいたのだ。

まるで、壊れやすい硝子細工を冷気から守るために、あらかじめ計算し尽くされた結界であるかのように。


「…………」


クロードは森の奥を鋭く睨み据え、周囲に潜むすべての魔獣が絶滅したか、あるいは逃げ去ったことを完全に確認するまで、微動だにしなかった。

その背中は、かつてロシュ侯爵領でエリアーナを罵倒し、理不尽に仕事を押し付け、自分だけが安全な場所で贅沢を貪っていたユリウスのそれとは、何もかもが根本から異なっていた。


本物の強者だけが持つ、揺るぎない庇護の姿勢。

他者を踏み躙るための傲慢さではなく、守るべき者のために振るわれる、圧倒的な武と意志の証明。


沈黙の中、風が止み、樹海に完全な静寂が戻った。

背後で翼を休める巨大な氷竜が、主の行動を見守るように、低く喉を鳴らしている。


やがて、クロードが周囲の安全を完全に確かめ終えたのか、ふうと微かな息を吐き出した。

そして――。


彼はゆっくりと、エリアーナの方へと振り返った。


その瞬間、エリアーナは信じられないものを見ることになる。

先ほどまで世界を滅ぼすかのような冷酷さを湛えていたその氷青色の瞳から、嘘のように鋭利な光が抜け落ちていたのだ。

そこに宿り始めていたのは――他国の民はおろか、帝国の重臣たちですら一度たりとも目にしたことのない、あまりにも深く、熱く、狂おしいほどの感情の色であった――。

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