第7話:国境への旅路と、迫り来る脅威
ロシュ侯爵邸の門をくぐり抜け、自由の夜風に身を投じてから、およそ五日が過ぎていた。
王都を遥か南に臨む幹線街道を抜け、北へと延びる小道をひたすら歩き続けたエリアーナ・ヴァン・ベルクは、すでに王国の北端――峻険な連峰が視界を遮る国境地帯へと足を踏み入れていた。
道すがら、乗合馬車を乗り継ぐこともできたはずだった。だが、彼女はわずかな銀貨を懐に忍ばせたまま、自らの足で大地を踏みしめて進むことを選んだ。
朝露に濡れた草を踏む感触、木漏れ日が肌を温める心地よさ、梢を揺らす風のささやき。
その一つひとつが、かつて薄暗い執務室で冷たい石壁に囲まれ、果てのない数字と格闘していた日々には決して味わえなかった、生きている実感そのものだったからだ。
「……ふう。少し、陽が高くなってきましたね」
街道の脇に広がる緩やかな丘の上で足を止め、エリアーナは被っていた外套のフードをそっと外した。
初秋の爽やかな風が、ふわりと彼女の髪を撫でていく。
その姿には、わずか数日前まで王宮の大広間で「地味で薄汚れた雑用係」と嘲笑われていた面影など、もはや微塵も残っていなかった。
何年にもわたり、ロシュ侯爵領全土の結界や農地、水源へと無尽蔵に吸い取られ続けていた膨大な魔力。それが主の元へと完全に還流した恩恵は、彼女の肉体へ劇的な奇跡をもたらしていた。
慢性的な過労で土気色に淀んでいた肌は、白磁の陶器のように透き通るみずみずしさを取り戻し、朝陽を浴びて淡い真珠のような光沢を放っている。
手入れもされずにパサついていた栗色の髪は、豊かな潤いを湛えて滑らかに波打ち、歩くたびに陽光を跳ね返して黄金の輝きを散らしていた。
そして何より、絶え間ない偏頭痛と睡眠不足に曇っていた琥珀色の瞳が、夜明けの湖水のようにどこまでも澄み渡り、凛とした気品を宿している。
身に纏っているのは、相変わらず仕立ても簡素な灰色の木綿ドレスだった。
だが、中身がこれほどまでに神々しく磨き上げられた今となっては、その飾り気のなさがかえって彼女の清廉な美しさを際立たせ、まるで俗世を離れた高貴な貴婦人が忍び歩きをしているかのような風情を醸し出していた。
通りすがる行商人の男たちが、荷馬車を止めて思わず見惚れ、挨拶すら忘れてぽかんと口を開けてしまうほどだったが、当のエリアーナ自身は自分の容貌の変化にまったく気づいていない。
「歩き続けているせいかしら。最近、とても身体が軽くて、息切れもしないわ。やっぱり、規則正しく歩くのは健康にいいのね」
自らの美の覚醒すら「散歩による健康効果」と片付けてしまうほど、彼女の自己評価の低さは相変わらず筋金入りだった。
道端の大きな切り株に腰を下ろし、肩から下ろした革鞄を開ける。
取り出したのは、二日前に途中の宿場町で買った、硬く焼き固められた黒パンの欠片だ。旅人の携帯食として作られたそれは、本来なら歯が立たないほど硬く、酸味が強くて喉を通すのも一苦労する代物である。
エリアーナは両手でそのパンを包み込むと、小さく微笑みかけた。
「――美味しくなってね」
カサリ、と微かな魔力の粒子が指先からこぼれ落ちる。
無意識の【万物最適化】。
その瞬間、石のように硬かったパンが、まるで今朝ほど窯から焼き上がったばかりのように、ふっくらと柔らかな弾力を取り戻した。香ばしい小麦の甘い香りが湯気と共に立ち上り、鼻腔をくすぐる。
一口かじれば、外はパリッと香ばしく、中はモチモチとした極上の食感とともに、濃厚な穀物の甘みが口いっぱいに広がった。
「ん……美味しい。王都のパン屋さんで買ったものより、ずっと風味豊かだわ。旅の途中で食べるものは、どうしてこんなに美味しく感じるのかしら」
続いて、腰に提げた革の水筒の栓を抜く。
途中の小川で汲んだただの冷水だったが、エリアーナが口をつけるだけで、雪解けの湧水のように雑味が消え、身体の隅々まで染み渡るまろやかな霊水へと変わる。
質素極まりない昼食。
だが、冷たい視線に晒されながらユリウスやティファーヌの残飯のような冷えた食事を流し込んでいたあの屋敷の日々に比べれば、この道端での一口は、王侯貴族の豪奢な晩餐よりも何倍も贅沢で、幸福に満ちていた。
食事を終えたエリアーナは、ドレスの襟元から、母の形見である「蒼い星彩石」のペンダントを引き出した。
親指の腹で、冷たく滑らかな宝石の表面をそっと撫でる。
「お母様……私、ちゃんと自分の足で歩いているわ」
胸の奥で、母の優しい微笑みが浮かぶ。
この石を握りしめていると、かつて自分を縛り付けていたすべての悪夢――理不尽な怒声、すり切れるような過労、誰からも愛されなかった孤独が、遠い過去の幻影のように思えた。
だが、感慨に浸っていられる時間もそこまでだった。
顔を上げたエリアーナの視線の先には、街道の終わりと、その先に広がる異様な光景が横たわっていたからだ。
――「魔の樹海」。
王国と、隣国アルジェント帝国とを隔てる広大な原生林。
年中立ち込める濃密な霧と、天を突くように生い茂る黒々とした針葉樹が、外界からの光を完全に拒絶している。
古くから「一度迷い込めば二度と生きては出られない」と恐れられ、街道沿いを行く商人たちですら、大金を払って熟練の護衛騎士を雇わなければ近づくことすら避ける、大陸有数の危険地帯であった。
「……ここを抜ければ、アルジェント帝国ですね」
エリアーナは立ち上がり、外套の紐をしっかりと結び直した。
北の帝国へ向かうには、この樹海を縦断する古道を通るしかない。
肌を刺す空気は、街道のそれとは明らかに異なっていた。木々の間から吹き下ろしてくる風には、冷涼な湿り気とともに、鼻をつくような獣の気配と、澱んだ魔力の匂いが混ざり合っている。
普段の彼女であれば、魔物が出没するような場所に自ら足を踏み入れることなどなかっただろう。
しかし、エリアーナには一つの奇妙な確信があった。
(ロシュ侯爵領にいた頃、森の近くへ行っても、魔物なんて一度も見かけなかったもの。きっと、街道の噂が大袈裟なだけね。静かに歩いていれば、何事もなく通り抜けられるはずだわ)
それこそが、彼女の最大の「無自覚」が生んだ誤算だった。
かつてロシュ侯爵領において、彼女の周囲に魔物が寄り付かなかったのは、決して森が安全だったからではない。
彼女が常に無意識に垂れ流していた【万物最適化】の波動が、周囲の空間を「絶対的な神聖領域」へと浄化し続けていたため、不浄の存在である魔獣たちは、その眩しすぎる霊気に恐れをなして半径数キロメートル以内へ近寄ることすらできなかったのだ。
しかし――今のエリアーナは、あの夜会で指を鳴らし、領地へ注いでいた術式をすべて解除している。
魔力を無差別に放射して周囲を浄化するのをやめ、自らの肉体の内側へと収めているのだ。
そして、それ以上に致命的な事実があった。
領地を支えるという巨大な重圧から解放され、本来の持ち主へと還流したエリアーナの魔力は、一国の宮廷魔導士団全体をも凌駕するほどに濃密で、純粋で、生命力に満ちあふれていた。
周囲を威圧する結界の棘を持たず、ただ無垢な少女の身に宿る、規格外の純粋な魔力。
それは、樹海に潜む凶暴な魔獣たちにとって、何よりも甘美で、理性を狂わせるほどの「至高の獲物」の匂いに他ならなかった。
ざわり、と。
エリアーナが一歩、樹海の薄暗い木立の中へと足を踏み入れた瞬間、森の空気が不気味に凍りついた。
頭上を覆う巨大な黒松の枝葉が陽光を完全に遮り、周囲は一瞬にして夕暮れ時のような深い薄闇に包まれる。
足元には幾重にも重なった枯葉が敷き詰められ、踏みしめるたびに湿った重い音を立てた。
風がぴたりと止む。
先ほどまで遠くで聞こえていた小鳥のさえずりも、草むらで跳ねていた小動物の気配も、まるで世界から消え失せたかのように、完全な沈黙が森を支配した。
「……ずいぶん、静かな森ですね」
エリアーナは首を傾げながら、苔むした獣道を進んでいく。
だが、歩を進めるにつれて、彼女の鋭敏な感覚が、肌をチクチクと刺すような違和感を捉え始めていた。
空気が、重い。
まるで、粘り気のある冷水の中に沈められたかのような圧迫感。
そして――何百もの見えない視線が、闇の奥底から自分の一挙手一投足に注がれているような、強烈な悪寒。
パキリ。
後方の藪の中で、乾いた小枝が折れる音がした。
エリアーナは足を止め、恐る恐る振り返った。
「……どなたか、いらっしゃるのですか?」
返答はない。
ただ、黒々とした木の幹の影から、ゆらりと、黒い煙のようなものが立ち上った。
――グルルルル……。
地を這うような、低く湿った唸り声が響いた。
次の瞬間、闇の中から、爛々と赤く光る二つの光点が浮かび上がった。
一つ、二つ、三つ――いや、十、二十。
木々の隙間、岩陰、頭上の太い枝の上から、無数の赤い光点が、星空のように一斉に瞬き始めた。
「あっ……」
エリアーナの喉から、掠れた息が漏れた。
闇の中から姿を現したのは、巨大な狼の姿をした異形の魔獣だった。
体長は優に大人の背丈を超え、漆黒の毛並みは影そのもののように輪郭を曖昧に揺らめかせている。裂けた口からは白濁した唾液が滴り落ち、刃物のように鋭い牙が覗いていた。
国境の樹海に巣食う最凶の肉食魔獣――「シャドウウルフ」。
通常は単独、あるいは数頭の小規模な群れで獲物を狩るはずの獰猛な捕食者が、いま、目視できるだけでも三十頭を超える巨大な群れを形成し、エリアーナを完全に包囲していた。
彼らの赤い瞳は、飢えと狂気に血走っていた。
眼前に立つ華奢な人間の娘から漂う、これまで嗅いだこともないほど甘く、濃厚で、一口喰らい付くだけで数段階上の魔獣へと進化できるであろう、至高の魔力の芳香。
獣たちの本能が、理性を完全に焼き切っていた。
ガチリ、ガチリと、牙を鳴らす音が四方から包囲の輪を縮めてくる。
逃げ場は、どこにもなかった。
前も、後ろも、左右も、すべて影の狼たちによって塞がれている。
「……こんなに、たくさん……」
エリアーナの小さな手が、無意識に胸元のペンダントを握りしめた。
足が竦み、冷たい汗が背筋を伝い落ちる。
魔導士の戦闘訓練など一度も受けたことのない彼女に、この凶悪な群れを撃退する術などあるはずもなかった。彼女の【万物最適化】は、触れたものの性能を極限まで引き出す力であって、敵を焼き尽くす火炎魔法でも、薙ぎ払う雷撃魔法でもない。
シャドウウルフの群れの先頭に立つ、ひときわ巨大な銀の毛混じりの個体――群れのリーダーが、ゆっくりと前足を一歩踏み出した。
喉の奥から、獲物を仕留める歓喜の咆哮が漏れ出す。
絶体絶命。
誰が見ても、無力な令嬢が無残に食い殺されるだけの、あまりにも残酷な結末。
だが――。
死の淵に立たされたその瞬間、エリアーナの胸の内に湧き上がったのは、見苦しい取り乱しでも、天を呪う絶望でもなかった。
(……ああ。ここで、終わるのかしら)
心の中は、驚くほど静まり返っていた。
不思議なほど、恐怖が薄れていく。
脳裏をよぎったのは、あのロシュ侯爵邸の冷たい執務室だった。
誰からも顧みられず、理不尽に罵倒され、ただ命を削り取られるためだけに生きていた、あの暗黒の日々。
もしあのままあの屋敷に留まっていたら、自分は心も魂も殺され、抜け殻のようになって、冷たい床の上で誰にも知られず息絶えていたはずだ。
それに比べれば――。
(私は、自分の足でここへ来た)
誰の命令でもなく、自分の意志で歩き、美味しい空気を吸い、自由の空を見上げることができた。
わずか数日間だったかもしれないけれど、自分は確かに、自分の人生を生きたのだ。
(誰かの便利な道具として死ぬのではなく……私は、自由な人間として、ここで命を終えることができる)
その確信が、彼女の心を芯から支えていた。
エリアーナは震える膝に力を込め、すっと背筋を伸ばした。
逃げ惑うことも、泣き叫ぶこともなく、ただ毅然として、迫り来る死の影を真っ直ぐに見据える。
すり切れた灰色の木綿ドレスを纏ったその佇まいは、まるで運命の審判を静かに受け入れる、誇り高き聖女のようだった。
「――お母様。私、最後まで逃げずに、ちゃんと生きたわよ」
心の中で母へ語りかけ、エリアーナは静かに瞼を閉じた。
グオオオオオッ!!
リーダーのシャドウウルフが、大地を蹴って跳躍した。
巨大な影が陽光を完全に遮り、血塗られた鋭利な爪が、エリアーナの無防備な喉元を目がけて一直線に振り下ろされる――!
その刹那。
ピキィィィィィンッ――!!
大気を切り裂くような、聞いたこともないほど鋭利で澄み渡る「氷結の音」が、樹海の全域を揺るがした。
振り下ろされようとしていた狼の爪が、空中でピタリと静止した。
いや、静止したのではない。
狼の爪の先から、腕、胴体、そして飛び散っていた唾液の飛沫に至るまでが、瞬きひとつの間に――青白く輝く分厚い永久氷壁によって、完全に凍結されていたのだ。
「……え?」
訪れるはずの痛みが訪れず、エリアーナは驚愕して目を見開いた。
視界に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
先ほどまで初秋の湿り気を含んでいた森の気温が、測り知れない速度で急降下している。
吐き出す息が一瞬で凍りつき、周囲の巨大な針葉樹が、草葉が、足元の土壌に至るまでが、白銀の霜に覆われ、巨大な氷の彫刻へと姿を変えていく。
そして――頭上から、樹海全体を押し潰さんばかりの、凄まじい風圧と轟音が叩きつけられた。
バサァッ!! バサァッ!!
空を覆っていた鬱蒼とした枝葉が乱暴にへし折られ、木漏れ日を突き破って、天から巨大な「影」が舞い降りてくる。
純白の吹雪を纏い、月光よりも冷徹な白銀の鱗を輝かせた、神話に語られる伝説の幻獣。
――巨大な、氷の竜。
残された三十頭余りのシャドウウルフたちが、獲物のことなど完全に忘れ去り、恐怖のあまり喉を鳴らして大地にへばりついた。失禁し、全身を激しく痙攣させながら、現れた絶対強者の気圧に平伏している。
地響きとともに氷竜が樹海の広場へ着地し、巻き起こった白銀の突風が、エリアーナの栗色の髪を激しく揺らした。
そして。
その巨大な竜の頭上から、音もなく軽やかに大地へと舞い降りた、一つの影があった。
――カツン。
凍てついた大地を踏みしめた漆黒の革ブーツ。
月光をそのまま紡ぎ出したかのような、冷涼な白銀の短髪。
彫刻のように完璧に整いながらも、触れるものすべてを死に至らしめるかのような、峻烈にして冷酷無比な貌。
そして――何人をも寄せ付けぬ絶対零度の冷気を宿した、鋭い氷青色の双眸。
他国において「氷の魔将」「歩く天災」と恐れられる男。
アルジェント帝国の若き最高権力者――大公クロード・ディス・アルジェントが、いま、白銀の吹雪を背負い、静かにその姿を現したのだった。




