↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/60

第6話:身一つの出立と、初めての自由

建国記念夜会が開かれていた王宮の喧騒を背に、エリアーナ・ヴァン・ベルクは夜の帳が下りた王都の石畳を一人静かに歩いていた。


夜風は秋の深まりを告げるように冷たかったが、不思議と凍えるような寒さは感じなかった。むしろ、あの傲慢な嘲笑と偽善、饐えたような香水の匂いが充満していた大広間から抜け出せた清々しさが、彼女の肺腑を心地よく満たしていた。

乗合馬車を拾う金はあったが、あえて使わなかった。自分の足で一歩ずつ大地を踏みしめ、誰の指図も受けずに歩くこと自体が、今のエリアーナにとってはたまらなく愛おしかったからだ。


三十分ほど歩き、見慣れたロシュ侯爵邸の裏門へと辿り着く。

門をくぐり、庭園の小道へと足を踏み入れた瞬間、エリアーナは思わず足を止めた。


「……もう、こんなに始まっているのね」


先ほど大広間で指を鳴らし、【万物最適化】の術式を解除した余波は、すでにこの広大な本邸の敷地にも克明に刻まれ始めていた。

かつては月明かりの下でも純白の花弁を誇らしげに広げていた白薔薇の生け垣が、まるで季節を何ヶ月も巻き戻したかのように精彩を欠き、ぐったりと項垂れている。敷石の隙間からは嫌な湿気が這い上がり、足元を照らすはずの魔導外灯は、術式の循環が途切れたことで弱々しくチカチカと明滅を繰り返していた。

かつてエリアーナが毎夜、敷地を歩きながら何気なく整えていた「調和」が、主の喪失によって急速に崩壊へ向かっているのだ。


だが、その痛ましい変貌を目にしても、エリアーナの心にはさざ波ひとつ立たなかった。

胸を刺すような後悔も、憐憫の情すら湧いてこない。

ただ、冷徹な自然の摂理としてそれを受け止めていた。


勝手口の重い鉄扉を押し開け、屋敷の中へと滑り込む。

邸内は不気味なほど静まり返っていた。

主であるユリウスとティファーヌは、今頃まだ王宮の夜会で、婚約破棄劇の余韻と自分たちの輝かしい未来に美酒を酌み交わしているはずだ。

屋敷に残る使用人たちも、主人の留守をいいことに持ち場を放り出し、地下の従業者サロンに集まっているのだろう。遠くの階段の下から、下品な笑い声と食器のぶつかり合う音が漏れ聞こえていた。


「聞いたか? 王宮で旦那様が、あの陰気なエリアーナ様を叩き出したらしいぞ!」

「あはは、やっぱり! 当然よね、あんな地味女、侯爵夫人にふさわしいわけないもの!」

「これからはティファーヌ様が正妻だ。あの方は見栄っ張りだから、機嫌さえ取れば私たちへの小遣いも弾んでくれるに違いないわ!」

「あの女、今頃どこかで泣き腫らしてんじゃないか? いい気味だ!」


悪意に満ちた言葉の数々が、冷たい廊下に反響する。

普段のエリアーナであれば、胸を刃物で抉られるような痛みを覚えていたかもしれない。

しかし今の彼女には、その嘲笑が遠い異国の獣の遠吠え程度にしか聞こえなかった。


彼らがどれほど自分を愚弄しようと、もう自分には何の関係もない。

そして――エリアーナというたった一つの「防壁」を失ったこの屋敷が、どれほど急速に腐敗し、瓦解していくのかを、彼らは何一つ想像すらできていないのだ。


エリアーナは立ち止まることなく、足音を忍ばせて軋む階段を上った。


二階の豪華な客間や主寝室を通り過ぎ、さらに上へ。

使用人の部屋よりもさらに高い、屋敷の最上階――北側の突き当たりにある自室へと向かう。

かつては壊れた家具や使われなくなった調度品を放り込んでいた物置部屋。そこが、名門侯爵家の「次期夫人」に宛がわれていた部屋だった。


扉の鍵を開けて中に入ると、埃っぽい空気と冷え切った闇が出迎えた。

窓から差し込む青白い月光だけを頼りに、エリアーナは部屋の中を見渡す。

暖炉には火の気など欠片もなく、冷え切った灰が残っているだけ。

置かれている家具は、軋む小さなベッドと、脚の長さが揃わずに傾いた木製の机、そして扉の建付けが歪んだ簡素な衣装棚だけだった。床には絨毯の一枚すら敷かれておらず、隙間風が容赦なく足首を撫でていく。


公爵家や侯爵家の令嬢どころか、裕福な平民の娘ですら泣いて逃げ出すような殺風景な空間。

だが、今のエリアーナにとっては、この何もない部屋こそがありがたかった。


「……荷造りをするほどの物も、最初からなかったのね」


思わず、小さく自嘲の笑みが零れた。

衣装棚を開けても、掛けられているのは日々の激務ですり切れた灰色の木綿ドレスが二着と、先ほど脱ぎ捨てたモスグリーンの古着だけ。

宝石箱の類など一つとして存在しない。三年間の婚約期間中、ユリウスから贈られた装飾品など、ただの安物のガラス玉一つとして存在しなかったのだから。


エリアーナは机の引き出しの奥から、使い古された小さな革の肩掛け鞄を取り出した。

底が擦り切れ、何度も自分で丈夫な麻糸を通して補修した、両手に収まるほどの小さな鞄だ。

その中に、必要最低限の着替えを一組と、硬く焼いた保存用の麦パンを包んだ布袋を詰める。


そして――引き出しの最も深い、隠し底の板をそっと押し上げた。


中から現れたのは、手のひらサイズの古びた小箱だった。

埃を払い、蓋をそっと開ける。

月光を浴びて、淡い瑠璃色の輝きを放つ一つのペンダントが、暗がりの中に浮かび上がった。


銀の繊細な唐草細工に抱かれた、親指の爪ほどの大きさの「蒼い星彩石」。

華美な宝石ではない。だが、それはエリアーナが十歳の時に流行り病で亡くなった、最愛の母が遺してくれた唯一の形見だった。


『エリアーナ、私の愛しい子。聞いて頂戴ね』


薄れゆく記憶の彼方から、母の優しく温かな声が蘇る。

病床の冷たくなっていく手で、母はエリアーナの小さな手を固く握りしめながら、涙を浮かべて語りかけてくれたのだ。


『あなたのその手はね、触れたものを幸せにする神様からの贈り物を宿しているの。でも、決して忘れてはだめよ。その力は、いつか本当にあなたを愛し、大切にしてくれる人のために使いなさい。誰かの身勝手な都合で搾取されるためではなく、あなた自身が幸せになるために……』


母が亡くなって間もなく、父は新しい妻を迎え、妹のティファーヌが生まれた。

それからの日々は、実家でも、このロシュ侯爵邸でも、ひたすら己の異能を吸い尽くされ、存在を否定され続ける日々に塗りつぶされてしまった。

母の遺言を守るどころか、誰かの身勝手な欲望を満たすためだけに、すり減るように生きてきたのだ。


「お母様……ごめんなさい。私、ずっと約束を守れなかったわ」


冷たい星彩石をそっと胸元に押し当てると、石の奥底から微かな、懐かしい温もりが伝わってくるようだった。

エリアーナはペンダントを首にかけ、ドレスの襟の内側へと滑り込ませた。肌に触れる冷たさが、徐々に自分の体温と混ざり合っていく。


鞄に詰めたのは、それだけだった。

あとは、日々の生活費を極限まで切り詰めて、万が一の逃走資金として密かに蓄えていた小さな革袋――わずかな銀貨と銅貨が入ったそれだけを腰のポケットに収めた。

王都を出て、隣国との国境へ向かうための路銀としては、あまりにも心許ない額だった。

だが、エリアーナの胸には何の不安もなかった。


机の上には、未処理の書類や領地経営の帳簿が、うずたかく積まれたままになっている。

本来なら明日処理しなければならなかったはずの、商業ギルドとの契約更新書類、鉱山労働者への賃金台帳、そして西部の治水工事計画書。

エリアーナはそれらに一度だけ視線を落とし、そして、静かに背を向けた。


(もう、私の仕事ではないわ。ユリウス様とティファーヌが、お二人で立派に片付けてくださるはずだもの)


ペン一本、紙一枚すら持たない。

自分がこの部屋に存在していた証など、最初から何もなかったかのように、ただ身一つで立ち去る。


革鞄の金具をしっかりと留め、肩にかけた。

薄手の旅行用外套を羽織り、フードを目深に被る。


部屋を出る直前、エリアーナは一度だけ振り返り、三年間の苦痛と過労の記憶が染み付いた冷たい部屋を見つめた。


「……さようなら」


声に出して呟き、静かに扉を閉めた。

カチリ、と錠が落ちる音が、過去との完全な決別を告げていた。


足音を忍ばせ、薄暗い廊下を下りていく。

玄関ホールを通り抜ける際、サロンの方からは相変わらず使用人たちの下品な笑い声が聞こえていたが、もはや視線を向けることすらなかった。


重厚な正面玄関の扉に手をかける。

油の切れた蝶番がわずかに軋む音を立て、外の冷気がすき間から滑り込んできた。

音もなく外へ抜け出し、敷石を踏みしめて前庭を進む。


前庭の中央にある大理石の噴水は、すでに水が止まり、澱んだ水面に枯葉が浮いていた。

見上げる本邸の窓は、どの部屋も死んだように暗い。

エリアーナは一度も振り返ることなく、屋敷を囲む巨大な鉄格子の正門へと向かった。


門番の詰め所からは、地響きのような高い鼾が聞こえていた。門番すら持ち場を離れ、酒を飲んで眠りこけているのだ。

施錠されていない通用口の小さな鉄扉を、指先で押す。

キィ、と小さな金属音が夜気に溶けた。


そして――。


エリアーナの右足が、ロシュ侯爵邸の敷地境界線を越え、外の公道へと一歩を踏み出した、その瞬間だった。


――ドクンッ!!


まるで、胸の奥深くに打ち込まれていた巨大な楔が、根こそぎ引き抜かれたかのような衝撃が走った。


「……っ!? あ……っ!?」


エリアーナは思わず息を呑み、胸元を強く押さえてその場に立ち止まった。

頭の天辺から爪先にかけて、全身の毛穴という毛穴から、何かが一気に吹き抜けていく。


これまで何年もの間、彼女の背骨を押し潰し、内臓を締め付け、呼吸すら浅くさせていた「鉛のような重圧」。

朝起きた瞬間から頭を締め付けていた偏頭痛、手足の先を苛んでいた慢性的な冷え、関節の軋み、そして絶え間ない微熱と倦怠感。

そのすべてが、まるで朝霧が陽光を浴びて跡形もなく消え去るかのように、一瞬にして雲散霧消したのだ。


(な……に、これ……? 身体が……こんなに、軽い……?)


それは、気の迷いや錯覚などでは断じてなかった。

ロシュ侯爵領の全土――屋敷、農地、水源、そして境界の結界石。

何年にもわたり、エリアーナの身体から無意識に吸い取られ、領地を維持するために垂れ流され続けていた膨大な「魔力」と「生命力」。

夜会で指を鳴らして術式を解除し、そして今、ロシュ家の土地を物理的に完全に離脱したことによって、その「最後の契約の枷」が完全に千切れ飛んだのだ。


奪われていたすべての力が、怒涛の濁流となって本来の持ち主へと還流してくる。


ドクン、ドクン、と力強く、規則正しく脈打つ心臓。

冷え切っていた手足の先まで、温かく澄み切った魔力が勢いよく巡り始める。

血の巡りが劇的に改善し、かさついていた肌には瞬く間に吸い付くような潤いが戻り、荒れていた指先には桜色の健康的な光沢が宿る。

目の下に張り付いていた濃い隈は綺麗に消え去り、乱雑に束ねられていただけの栗色の髪は、月光を浴びて艶やかな絹糸のように輝きを取り戻して夜風にふわりと揺れた。


重く濁っていた視界が、信じられないほどクリアに晴れ渡る。

夜の闇の中にある木々の葉の一枚一枚、遠くの街並みの輪郭、空を渡る雲の細かなグラデーションまでもが、鮮やかに瞳に映し出された。


ただ歩いているだけなのに、まるで大地からふわりと押し上げられるかのように足取りが軽い。

これが、本来の彼女の肉体だった。

これほどまでに強大で、純粋で、生命力に満ちあふれた魔力を、自分はずっと他人のために無償で削り削られ、捧げ続けていたのだ。


エリアーナは立ち止まり、ゆっくりと夜空を見上げた。


頭上には、雲一つない満天の星空が広がっていた。

銀色に輝く三日月が、冷たく、しかしどこまでも優しく世界を照らしている。

遮るものの何もない、どこまでも広がる無限の夜空。


すうっ――と、エリアーナは胸いっぱいに夜気を吸い込んだ。


冷たい空気が、気管を通って肺腑の隅々にまで満ちていく。

それは、埃っぽい執務室の匂いでもなく、偽善に満ちた香水の匂いでもない。

夜露の湿り気を含んだ、大地の匂い。木々の葉擦れの匂い。

そして――何ものにも縛られていない、世界そのものの匂いだった。


「……美味しい」


零れ落ちた一言に、自分でも驚いてしまった。

空気が美味しいなんて、生まれて二十年間、一度たりとも感じたことのない感覚だった。

息を吸うことが、ただ息を吐き出すことが、こんなにも心地よく、全身を満たしてくれるものだなんて知らなかった。


涙は出なかった。

泣く理由など、どこにもない。

今、自分の胸を満たしているのは、純粋な歓喜と、生の実感だけだったのだから。


(私は、自由なんだわ)


もう、誰の指図も受けなくていい。

明日、朝早く起きて怒鳴られることもない。

合わない数字の帳尻を合わせるために徹夜する必要も、誰かのために自分の命をすり減らす必要も、もう二度とないのだ。

お腹が空いたらパンを食べ、眠くなったら眠り、歩きたい方へ歩いていけばいい。


エリアーナは首元の外套の紐をキュッと結び直し、肩の革鞄の重みを確かめた。

行く先は、北。

この王国を出て、隣国であるアルジェント帝国との国境を目指す。

帝国は厳冬の地であり、険しい国境の山々が連なる厳しい土地だと聞く。

だが、今のエリアーナにとっては、あの息の詰まる屋敷以外の場所であれば、世界のどこだって楽園に思えた。


「行きましょう」


誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。

その声は、かつての怯えた過労令嬢のものではなかった。

自分の足で運命を切り開くことを決意した、一人の強い女性の凛とした声だった。


月明かりに照らされた街道を、エリアーナは軽やかな足取りで歩き始めた。

背後に残してきた愚かな屋敷を、もう二度と振り返ることはない。


夜の静寂の中、彼女が踏みしめる足跡の周りにだけ、微かな光の粒子が春の陽だまりのように静かに舞い散っていた――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。