第5話:指先ひとつで終わる恩恵
静まり返った大広間の中心で、エリアーナ・ヴァン・ベルクは静かに右手を持ち上げた。
すり切れた袖口から覗く手首は、長年の過労によって痛々しいほど細く、白かった。だが、その指先の佇まいは、泥濘から清らかに咲き誇る水蓮のように凛として、汚れのない美しさを宿している。
大広間に集う数百の貴族たちが、息を呑んでその一挙手一投足を見つめていた。
先ほどまでの冷酷な嘲笑のざわめきはどこへやら、誰もが、目の前の惨めなはずの令嬢から漂う、得体の知れない神聖な気迫に呑まれていたのだ。
ユリウスは眉をひそめ、苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。
「……何の真似だ、エリアーナ。負け惜しみの戯言なら聞き苦しいぞ。見苦しく悪足掻きなどせず、さっさとその貧相な姿を我が前から消せと言ったはずだ」
その隣で、ティファーヌがわざとらしく絹の手巾を揺らし、嘲るような小鳥のさえずりのごとき笑い声を漏らす。
「まあ、ユリウス様。お姉様ったら、最後になにか殿方の気を引くような愛嬌でも見せようとしていらっしゃるのかしら? いくらそんな小細工を弄したところで、ユリウス様のお心はもうわたくしのものなのに……。本当に哀れで見ていられませんわ」
二人の侮蔑に満ちた言葉が、冷たい矢となって投げつけられる。
しかし、エリアーナの瞳には、さざ波ひとつ立たなかった。
怒りも、憎しみも、悔しさすらも、そこにはない。ただ、春の雪解け水を思わせる澄み切った双眸で、かつて自分のすべてを捧げて仕えた男を、そして己の血を分けた妹を、穏やかに見つめているだけだった。
「いいえ。悪足掻きなどいたしませんわ」
鈴を転がすような、清らかな声が大広間に染み渡る。
「ただ――去り行く者としての、最後のご挨拶と『ご報告』です。ユリウス様、ティファーヌ。私はこれまで、ヴァン・ベルク伯爵家の娘として、そしてロシュ侯爵家の次期夫人となるべき者として、誠心誠意、私のできる限りの務めを果たしてまいりました」
「務めだと? ふん、帳簿の数字を少し弄った程度の雑務を、大層に語るな!」
ユリウスが鼻を鳴らす。
その愚かな遮りに対しても、エリアーナは微動だにせず、ただ淡々と、しかし決定的な宣告を紡ぎ出した。
「ええ、あなた様にとっては、取るに足らない雑務だったのでしょう。……ですから、私がこれまでロシュ侯爵領の屋敷、農地、水源、そして境界の結界に施していた『ささやかな付与魔法』は、すべて解除して出ていくことにいたします」
「……は?」
ユリウスの顔に、間抜けな疑問符が浮かんだ。
「付与魔法……? 何を訳の分からない妄想を口走っているのだ」
「お言葉通りですわ。私が勝手に良かれと思って施していた、余計なお節介でしたもの。私が去る以上、本来の状態にお戻しするのが筋というものでしょう。……これからは、私のような地味で無能な雑用係の手を煩わせることなく、優秀で素晴らしいあなた方お二人で、どうぞ力を合わせて頑張ってくださいね」
ふわりと、エリアーナの唇が優雅な弧を描いた。
それは、地獄の底へと突き落とされた者が浮かべるべき絶望の表情では断じてなかった。
悪夢のような重荷から解放された者が、新たな旅立ちの空を仰ぐときに見せる――どこまでも無垢で、残酷なまでに美しい微笑みだった。
「それでは――さようなら」
エリアーナの親指と中指が、胸の前で擦り合わされた。
――パチン。
静寂の大広間に、小さく、しかし驚くほど澄み渡った硬質な音が響き渡った。
誰の耳にも、ただ指を鳴らしただけの、他愛のない音に聞こえたはずだった。
だが、その瞬間。
世界の理が、不可視の境界線を引き直すかのような劇的な変化が、音もなく幕を開けた。
ズズ……ン、と。
大広間にいた何人かの高位魔導士の足裏にだけ、大地を伝う微かな衝撃波が感じられた。
それは、エリアーナの魂からロシュ侯爵領全土へと四方八方に張り巡らされていた、無数の見えない「魔力の糸」が、一斉に断ち切られた音だった。
(……ああ。還ってくる……)
エリアーナは、胸の奥で何かが温かく満ち溢れていくのを感じていた。
これまで何年にもわたり、ロシュ家の広大な領地を維持するために垂れ流しにされ続けていた彼女自身の生命力。作物を実らせ、水源を清め、屋敷の空気を整え、魔物除けの結界を限界突破させていた膨大な魔力――そのすべてが、契約の解除と共に、彼女の華奢な肉体へと怒涛の勢いで逆流してきたのだ。
カサついていた肌に、みずみずしい潤いが瞬く間に蘇る。
目の下に張り付いていた暗い隈が薄れ、血の気のなかった唇が桜色の輝きを取り戻していく。
慢性的な頭痛と倦怠感で鉛のように重かった身体が、まるで羽が生えたかのように軽くなった。
すうっと深く吸い込んだ空気は甘く、彼女の体内を巡る魔力回路が、本来の澄み切った光を放ち始めていた。
そして――恩恵を奪い去られた世界には、即座にその「反動」が牙を剥いた。
「……ん? なんだ……?」
広間の隅にいた貴族が、不審そうに天井を見上げた。
頭上に輝いていた豪奢なクリスタル・シャンデリアの光が、ふっと一瞬、電圧が落ちたかのように翳ったのだ。
先ほどまで虹色に乱反射し、大理石の床を黄金に染め上げていた神々しい輝きが、どこか煤けたような、くすんだ鈍い黄色へと変色していく。
エリアーナが先ほどまで柱の陰で施していた【万物最適化】による魔力循環の補助が、完全に消失した証拠だった。
異変は、それだけに留まらなかった。
大広間を満たしていた、春風のように心地よく清涼だった空気が、急速に重苦しく澱み始めた。
数百人もの人間が放つ熱気と汗の匂い、香水の濃厚すぎる脂の香りが逃げ場を失い、換気装置の魔導具がギシギシと悲鳴を上げながら目詰まりを起こす。
「な、なんだか急に息苦しくなってこないか……?」と、胸元を緩める紳士があちこちで現れ始めた。
さらに、テーブルの上の華やかな宴席にも、決定的な崩壊が訪れる。
大皿に盛られていた極上のローストビーフの表面から、みるみるうちに瑞々しい肉汁の輝きが失われ、冷え固まった白い脂がべっとりと浮き上がった。
焼きたてのパイは湿気を含んで無残にへたり、氷で冷やされていたはずの果物はぬるく濁り始める。
「きゃっ!? な、何これ……!?」
悲鳴を上げたのは、壁際のテーブルで談笑していた伯爵夫人だった。
彼女が手に取ろうとした銀の花瓶――そこには、今朝摘み取られたばかりの、ロシュ侯爵領名産の「奇跡の深紅の薔薇」が生けられていた。
花びらの一枚一枚が朝露を宿し、ベルベットのような艶を誇っていたその薔薇が、見ている前で急速に水分を失い、花弁の端からじわじわと茶色く変色し始めたのだ。
ボロボロと、乾いた花びらが無残にテーブルクロスへと散り落ちていく。
「まあ! 花が枯れていくわ……!?」
「おい、このワインはどうなっているんだ!?」
別のテーブルでは、恰幅のいい侯爵がグラスを床に叩きつけそうになっていた。
「銘酒ロシュ・ルージュ」――一口含めば芳醇な果実味が口いっぱいに広がり、王室御用達とまで讃えられていた特産の赤ワインである。
だが今、男が口にしたワインは、まるで腐った酢のように舌を刺し、えぐみと渋みだけが口内にへばりつく最低の安酒へと成り果てていた。
「ペッ、ペッ! なんだこの泥水のような味は! 給仕、貴様、我々に傷んだワインを出したのか!?」
「め、滅相もございません! 先ほどまでは最高級の樽から注いでおりましたのに……!」
大広間のあちこちで、小さなざわめきと混乱が波紋のように広がっていく。
視覚、嗅覚、味覚――そのすべてにおいて、この空間を支配していた「完璧な美」が、砂の城のように音を立てて崩れ去りつつあった。
それは、広間の中だけに起きた現象ではない。
ここから数十キロメートル離れた、ロシュ侯爵領の全土において。
屋敷の温室で誇らしげに咲いていた珍奇な花々が一斉に首を垂れ、
豊作を約束されていたはずの麦畑の穂先が微かに黄ばみ始め、
そして――森の境界にそびえ立つ、領民たちの命綱であった「大結界石」の深部に、ピシリと、新たな亀裂が音を立てて走った。
エリアーナというたった一人の少女が、その身を削って支え続けていた「奇跡の土台」が、完全に引き抜かれたのだ。
――しかし。
この決定的な世界の変容の真ん中にいながら、その原因を作った張本人であるユリウスとティファーヌの二人は、何一つとして気づいていなかった。
「……ぷっ、あっはははは!」
ユリウスは腹を抱えて大笑いした。
彼はグラスの酒の味の変化にも、足元で枯れ落ちた薔薇の花びらにも目もくれず、ただエリアーナを嘲笑うことだけに夢中になっていた。
「指を鳴らして『付与魔法を解除した』だと!? おいおい、どこまで惨めなハッタリをかませば気が済むのだ、エリアーナ! 何も起きていないではないか! 風ひとつ吹かんぞ!」
「そうですわ、お姉様ったら本当に滑稽!」
ティファーヌもまた、扇で口元を隠しながら甲高い笑い声を響かせた。
「魔法使いの真似事なんてして、一体何の意味がありますの? 『私が抜けた途端に困るはず』だなんて、思い上がりも甚だしいですわ! ご覧なさい、ユリウス様もわたくしも、何一つ困ってなどいませんことよ!」
ユリウスは卓上のワイングラスを乱暴に煽り、直後に「ゲホッ、なんだこの不味い酒は! 給仕め、気の抜けた安酒を紛れ込ませおって、後で首にしてやる!」と喚き散らした。
自らの舌で「劣化」を味わいながらも、その原因がエリアーナの恩恵の消失にあるとは、夢にも思わない。すべて他人の不手際、周囲の落ち度だと決めつけて疑わないのだ。
「フン、負け惜しみを吐いて逃げ出すのが、お前のような無能にできる唯一の抵抗というわけだな」
ユリウスは唾を飛ばしながら、冷酷な嘲笑を浴びせかけた。
「せいぜい、そのみすぼらしい体一つで野垂れ死ぬがいい! 我がロシュ侯爵家は、お前のようなお荷物が消えたことで、明日からティファーヌと共にさらなる栄華を極めるのだからな!」
周囲の貴族たちも、会場の異変に戸惑いながらも、ユリウスのあまりに堂々とした態度を見て、「やはりあの令嬢のハッタリだったのか」「失恋のショックでおかしくなってしまったのだな」と、事態を矮小化して受け止めていた。
真実を見抜く目を持たぬ者たちにとって、目に見えぬ「最適化」の価値など、失われて地獄を見るまで理解できるはずもなかったのだ。
「…………」
エリアーナは、騒ぎ立てる二人を前に、もう二度と口を開くことはなかった。
憐れみすら、湧かなかった。
自分にできる警告は、すべて与えた。恩恵を解いたことも、はっきりと伝えた。
それを「虚勢」と笑い捨てたのは、彼ら自身の選択だ。
ならば、この後に訪れる結末のすべてを、彼ら自身の手で刈り取ればいい。
エリアーナは静かにドレスの裾を整え、完璧な所作で最後の一礼を捧げた。
そして、一度も振り返ることなく、大広間の出口へと向かって歩き出した。
カツン、カツン、と。
大理石の床を叩く彼女の靴音が、静まり返った広間に澄み切って響く。
背中には、ユリウスの勝ち誇った嘲笑と、ティファーヌの冷酷な笑い声が浴びせられ続けていた。
だが、エリアーナの歩調は乱れなかった。
一歩、また一歩と進むごとに、彼女の足取りは驚くほど軽くなり、その背筋は誇り高く伸びていく。
誰の目にも触れぬよう、大広間の巨大な扉を押し開けた瞬間。
夜の冷気が、彼女の火照った頬を心地よく撫でた。
頭上には、吸い込まれそうなほど深い紺青の夜空が広がり、無数の星々がダイヤモンドのように瞬いている。
泥沼のような社交界の悪意も、息の詰まる執務室の暗闇も、もうここにはない。
「……自由、だわ」
零れ落ちた呟きは、夜風に溶けて消えた。
エリアーナの唇に宿ったのは、生まれて初めて心からの、偽りのない安らかな笑みだった。
大広間の中では、腐りかけたワインと枯れゆく薔薇に囲まれながら、愚かな道化たちがなおも己の勝利を信じて笑い合っている。
だが、彼らはまだ知らない。
エリアーナが指を鳴らしたあの瞬間から、ロシュ侯爵家の破滅への砂時計が、凄まじい勢いで砂を落とし始めているということを――。




