第4話:涙の一滴すら流れない
大広間に満ちていた耳をつんざくような嘲笑のざわめきが、波が引くように微かな静寂へと収束していった。
誰もが、息を呑んでその瞬間を待っていた。
数百人もの王侯貴族たちが、円形劇場の観客のように冷酷な好奇の瞳を凝らし、中央に立ち尽くす一人の惨めな令嬢の一挙手一投足を見つめている。
次期侯爵たるユリウスから下された、あまりにも無慈悲で公開処刑のごとき婚約破棄の宣告。
色褪せた古着のドレスを纏い、ろくに手入れもされていない髪を小さく結わえただけの地味な女。後ろ盾もなく、美貌もなく、誰からも愛されずに使い潰されてきた哀れな生贄。
ならば、この後に続く光景は一つしかないはずだった。
恥辱と絶望に顔を歪め、涙で頬を濡らしながら床に崩れ落ちること。
あるいは、見捨てないでくれと醜く取り乱し、かつての婚約者の足元にすがりついて許しを乞うこと。
そして、冷酷に蹴り飛ばされ、警備の兵士たちによって犬のように引きずり出されていくこと――。
ユリウスは、まさにその「見せ場」を心待ちにしていた。
胸を大きく反らし、顎を傲慢に突き出し、薄い唇の端をこれ見よがしに吊り上げている。
すがりつかれたら、どのような言葉で罵倒してやろうか。どれほど冷徹な眼差しで見下ろし、自らの正しさと高潔さを周囲に知らしめてやろうか。
彼の頭の中には、己が悲劇の被害者であり、同時に悪しき過去を断ち切る英雄として喝采を浴びる筋書きが、完璧に出来上がっていた。
その隣で、ティファーヌはレースの手巾を口元に当てながら、瞳の奥底でどす黒い愉悦の炎をギラつかせていた。
――さあ、泣きなさい、お姉様。
――惨めに叫び、床に這いつくばって、わたくしの引き立て役になりなさい。
幼い頃から常に「出来損ない」「陰気」と蔑まれながらも、なぜか屋敷の重要な書類仕事を任され、どこか自分とは違う空気を纏っていた姉。そのプライドが粉々に砕け散り、泥に塗れる瞬間を、ティファーヌは何よりも待ち望んでいたのだ。
しかし――。
十秒が過ぎ、二十秒が過ぎても、広間に泣き声が響くことはなかった。
「…………」
エリアーナ・ヴァン・ベルクは、静止していた。
震えてすらいなかった。膝を屈することもなく、顔を手で覆うこともなく、ただ静かに、雪のように白い息を吐き出していた。
周囲の者たちには、彼女が突然の宣告にショックを受け、感情を麻痺させて立ち尽くしているように見えたかもしれない。
だが、違った。
エリアーナの胸の内に広がっていたのは、絶望でも、怒りでも、屈辱でもなかった。
――それは、広大で、果てしなく深い、底知れないほどの「安堵」だった。
(……ああ。終わったのだわ)
心の中で、その言葉がふわりと浮かび上がった瞬間、エリアーナの胸の奥底を何年にもわたってギリギリと締め付け続けていた見えない鎖が、パチンと音を立てて弾け飛んだ。
終わったのだ。
あの、凍えるような冬の夜も、息が詰まるような夏の盛りも、一日たりとも休まることのなかった地獄のような日々が。
脳裏をよぎるのは、数え切れないほどの記憶の断片だった。
暖炉の薪すら与えられず、指先の感覚がなくなるほど冷え切った真夜中の執務室。蝋燭の芯が尽きてもなお、机の上にうずたかく積まれた帳簿と睨み合い、悪質な代官たちが懐に入れた使途不明金の辻褄を合わせ続けた徹夜の記憶。
わずかでも計算が遅れれば「役立たず」「手際が悪い」と怒鳴り散らされ、何十枚もの書類を顔に投げつけられたあの日々。
領民たちが飢えぬよう、痩せ細った土地に一人で足を運び、誰にも知られぬよう地面に両手を押し当てて土壌を最適化し続けたこと。
領地の境界にそびえる結界石に、自らの命そのものである魔力を注ぎ込み続け、全身の血が凍るような激痛と吐き気に耐えながら、魔獣の侵入を防ぎ止めてきたこと。
どれほど身を粉にして尽くしても、得られたのは「地味で無能な雑用係」という蔑称と、すり切れた布切れのような古着だけだった。
(もう……あの部屋で、夜を明かさなくていいのね)
その事実が、乾ききった砂漠に染み渡る清らかな水のように、彼女の魂を潤していく。
(もう、理不尽な怒声に怯えながらペンを走らせる必要もない。合わない数字の辻褄を合わせるために頭を痛めることもない。命を削って、私の存在すら否定する人たちのために、結界を張り続ける必要すらない……)
なんという解放感だろう。
かつて母を亡くし、父から冷遇され、このロシュ侯爵邸に押し込められてからというもの、彼女の人生は常に重苦しい義務と搾取で塗りつぶされていた。
生きている心地など、とうの昔に失っていたのだ。
自分はいつか、あの冷たい執務室の机の上で、誰にも看取られることなく過労で倒れて死ぬのだろう――本気でそう思っていた。
だが、目の前に立つ傲慢な婚約者は、自らの愚行によって、その呪縛を断ち切ってくれたのだ。
「お前などいらない」と。
「私の前から消え失せろ」と。
(……ありがとう、ユリウス様。あなたが私を捨ててくださって、本当によかった)
それは、周囲の誰一人として想像すらできない、純度百パーセントの感謝と歓喜だった。
失うものなど、最初から何一つ持ち合わせていなかったのだ。
名誉も、贅沢な暮らしも、侯爵夫人という地位も、彼女が望んだものではなかった。彼女がただ欲しかったのは、誰の役にも立たなくとも、穏やかに息をして眠ることができる、ささやかな自由だけだったのだから。
エリアーナの胸の奥から、冷たい灰色の霧が晴れ渡っていく。
それと同時に、彼女の身体に奇跡のような変化が訪れていた。
領地全土の結界へと垂れ流しにされ続けていた膨大な魔力の供給が、婚約破棄という魂の契約の破棄によって、無意識のうちに細まり始めていたのだ。
これまで彼女の生命力を蝕んでいた過剰な負荷が緩み、澄み渡った魔力が、本来あるべき持ち主の肉体へと還流し始める。
すうっ、と深く息を吸い込んだ。
その仕草だけで、大広間の空気がわずかにざわめいた。
伏せられていた栗色の長い睫毛が、ゆっくりと持ち上がる。
現れた瞳は、涙に濡れるどころか、夜空の星のように清冽で、曇りのない輝きを湛えていた。
慢性的な過労によって猫背になりかけていた華奢な背筋が、すっと一本の美しい槍のようにしなやかに伸びる。
みすぼらしいモスグリーンの古着を纏っているはずなのに、その立ち姿は、まるで神殿の奥深くに佇む聖女のように凛として、神々しいまでの気品に満ちあふれていた。
「な……?」
ユリウスの眉が、ピクリと跳ね上がった。
彼が思い描いていた「惨めな敗北者」の姿が、そこには影も形もなかったからだ。
すがりつくどころか、エリアーナはユリウスの顔を、まるで道端に転がる小石でも眺めるかのような、静かで透明な眼差しで見つめ返していた。
そして、彼女は動いた。
乱れのない優美な所作で、古びたドレスの裾をわずかに持ち上げる。
指先の角度、首筋の傾き、膝を折る深さ――そのすべてが、王宮のいかなる礼法指南役すら感嘆のため息を漏らすであろう、完璧にして非の打ち所のない宮廷式の一礼。
静寂に包まれた大広間に、鈴を転がすような澄んだ、透き通った声が凛然と響き渡った。
「――かしこまりました、ユリウス・ド・ラ・ロシュ様」
取り乱す様子など微塵もない。
声の震えも、涙の気配も、悔恨の響きすら存在しない。
ただただ平穏で、春の小川のように穏やかな声音だった。
「私のような至らぬ身では、高貴なるロシュ侯爵家の名にふさわしくないとのこと、重々承知いたしました。本日、この場における婚約破棄の宣言、謹んでお受けいたします」
シン……と、大広間が水を打ったように静まり返った。
誰もが耳を疑っていた。
いま、何が起きたのか?
なぜ、この女は泣かないのか?
なぜ、名門侯爵家から追放されるという絶望的な宣告を突きつけられておきながら、これほどまでに晴れやかな顔をしているのか?
「な……っ!?」
一番に動揺を露わにしたのは、他ならぬユリウスだった。
胸を張っていた姿勢が不恰好に崩れ、端正な顔立ちが醜く歪む。
彼が期待していたのは、足元にすがりつき、泣き叫び、哀れに許しを乞うエリアーナの姿だった。それを冷酷に踏み躙ることで、自らの優越感を満たし、周囲の貴族たちに己の威厳を誇示するはずだったのだ。
それなのに、返ってきたのは「謹んでお受けいたします」という、あまりにも淡々とした、事務的な受諾の言葉。
まるで、最初からこんな男など眼中にありませんでしたと、そう言わんばかりの態度ではないか。
(なんなのだ、この女は……!? なぜ泣かない!? なぜ絶望しない!? この私が、次期侯爵たる私が捨ててやったのだぞ!?)
完全に肩透かしを食らったユリウスの胸中に、強烈な苛立ちと居心地の悪さが急速に膨れ上がっていく。
隣のティファーヌもまた、手巾を握りしめたまま、その愛らしい顔をひきつらせていた。
「お、お姉様……? 何を強がっていらっしゃいますの……? 本当は悲しくてたまらないのでしょう? 素直にお泣きになればよろしいのに……! わたくし、お姉様のお気持ちを思うと胸が張り裂けそうですわ!」
ティファーヌは必死に嘲笑の筋書きを取り戻そうと、わざとらしい同情の言葉を投げかける。
だが、エリアーナはそんな妹の芝居がかった言葉にも、微動だにしなかった。
ただ穏やかに首を横に振る。
「いいえ、ティファーヌ。強がりなどではありませんよ。私はただ、ユリウス様のご判断に従い、身を引くと言っているだけです。あなたのように美しく、華やかで、殿方の心を明るく照らすことができる女性こそが、ロシュ侯爵家にふさわしいのでしょう。……どうぞ、お二人でお幸せになってくださいね」
その言葉には、皮肉の色すら混ざっていなかった。
あまりにも本心からの、濁りのない「お譲りします」という響き。
面倒な押し付け合いの末に、厄介な荷物を引き取ってくれた相手に対する、純粋な労いのような響きすらあった。
「ぐっ……お前、ふざけるなよ……!」
ユリウスのこめかみに青筋が浮かぶ。
周囲の貴族たちの視線が、痛いほど自分たちに突き刺さっているのが分かったからだ。
先ほどまでの「無能な令嬢を切り捨てた英断」への賛同の空気はどこへやら、いまや広間を支配しているのは、「なぜ振られた側の方が堂々としているのか」「ロシュ侯爵令息の方が取り乱しているではないか」という、居心地の悪い困惑と失笑の気配だった。
「虚勢を張るのも大概にしろ、エリアーナ! 我が家を追い出されたお前のような無能な女が、市井で生きていけると思っているのか!? 路頭に迷い、野垂れ死にするのが関の山だぞ! 今なら、床に頭を擦り付けて謝罪するならば、下女として雇い直してやらんこともないのだぞ!?」
ユリウスは思わず、自ら追放を撤回しかねないような愚かな脅し文句を口走っていた。
何としてでも、この女を屈服させたかった。
その澄み切った瞳を絶望に染め上げ、泣き崩れさせなければ、己の肥大化したプライドが保てなかったのだ。
だが、エリアーナはその見苦しい恫喝に対しても、ただふわりと、この上なく美しい微笑みを返しただけだった。
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、その温情には及びませんわ。私は、私の足で生きてまいりますので」
その毅然とした返答に、ユリウスは完全に言葉を失った。
喉が引き攣り、顔が真っ赤に鬱血していく。
誰もが息を呑み、みすぼらしいドレスを着たはずの令嬢から目を離せなくなっていた。
宝石を散りばめたティファーヌのドレスよりも、胸元を勲章で飾ったユリウスの正装よりも、ただ背筋を伸ばして微笑むエリアーナの姿の方が、何倍も気高く、高貴に見えていた。
絶望の底に突き落とされたはずの人間が、なぜこれほどまでに輝くことができるのか。
愚かな元婚約者たちには、知る由もなかった。
そして、エリアーナは再び優雅に頭を下げると、静かに顔を上げた。
その瞳に、ほんのわずかな、しかし取り返しのつかない決意の光を宿しながら。
「――では、ユリウス様。お暇の前に、一つだけご挨拶を」
彼女の指先が、胸元へとゆっくりと持ち上げられた。
それは、この愚行の報いとなる「終わりの始まり」を告げる仕草であった――。




