第10話:ずっと君を探していた
凍てついた国境の樹海に、静かな風が渡っていた。
木々の枝先を覆う無数の氷晶がカサカサと微かな音を立て、舞い散るダイヤモンドダストが、月光と木漏れ日を浴びて淡い虹色の煌めきを散らしている。
泥と氷にまみれた大地の上に片膝をつき、素手を差し出して自らの冷え切った指先を包み込んでいる青年――アルジェント帝国の大公、クロード・ディス・アルジェント。
彼の大きな両手から伝わってくる体温は、驚くほど力強く、温かかった。
「氷の魔将」という大陸中に轟く冷酷な二つ名からは想像もつかない、まるで陽だまりの毛布に包まれたかのような優しい熱。長年の過労と、この数日間の逃避行で芯まで冷え切っていたエリアーナの指先から、じんわりと凍てつきが溶かされていく。
だが、そのあまりの心地よさと温もりに対して、エリアーナの理性は激しい戸惑いの警鐘を乱打していた。
(どうして……? どうして、この尊貴な方が、私のような者に……?)
混乱で思考が追いつかない。
エリアーナの記憶にある貴族の男たち――父や元婚約者のユリウスは、いつだって彼女を顎で使い、冷たい視線で見下ろすばかりだった。
彼らにとって、エリアーナが寒さに震えていようと、指先が凍えてペンを握れなくなっていようと、そんなことは視界の端にも入らない瑣末事に過ぎなかったのだ。ましてや、身を屈めて相手の体温を気遣うなど、天地がひっくり返ってもあり得ない振る舞いだった。
それなのに、目の前にいる男は、帝国でも皇帝に次ぐ権力と地位を持つ若き大公なのだ。
そんな雲の上の存在が、泥の上に膝をつき、手袋を脱ぎ捨て、まるで壊れやすい硝子細工の宝物でも扱うかのように、彼女の指先を両手で包み込んで温めている。
「あ、あの……閣下……」
エリアーナは震える声で、必死に言葉を絞り出した。
「お戯れは、おやめください……。私のような、他国の……しかも婚約破棄されて家を追われた身元も定かでない女に、そのような温情をいただいても、お返しできるものなど何もございません。どうか、お立ちになってくださいませ」
身を引こうとして、わずかに指先に力を込める。
だが、クロードの手は、決して彼女を痛めつけることのない絶妙な力加減で、しかし確固たる意志を持って、その細い手を離そうとはしなかった。
クロードは、ゆっくりと顔を上げた。
至近距離で交錯する視線。
彼の氷青色の双眸は、どこまでも澄み渡り、そして痛々しいほどの熱情に潤んでいた。
拒絶されたことに対する怒りなど微塵もない。そこにあるのは、ただ己の言葉足らずを悔いるような、切ない色だけだった。
「戯れなどではない」
低く、深く、胸の奥底に直接響くようなバリトンの声だった。
喉の奥で押し殺された感情の波が、その短い一言に濃密に凝縮されている。
「お返しなど、最初から求めていない。……いや、違うな。私が君に乞いたいものがあるとするなら、それは君の許しと、君の存在そのものだけだ」
「え……?」
意味が分からず、エリアーナは目を丸くした。
私の存在……? 誰からも「無能で地味な雑用係」としてしか必要とされず、妹の引き立て役として捨てられた、この私を?
呆然と立ち尽くす彼女の姿を見つめながら、クロードは静かに息を吸い、そしてゆっくりと立ち上がった。
――ザッ。
長身が持ち上がった瞬間、エリアーナの視界は再び青年の逞しい影に覆われた。
百八十センチを優に超える見事な体躯。軍礼装に包まれた引き締まった胸板と、広い肩幅。
やはり見上げるほどに高く、圧倒的な威圧感を放っているはずなのに、先ほどまでの恐怖は不思議と湧いてこなかった。彼から放たれる気配のすべてが、自分を守るためだけに向けられていることを、本能が理解していたからだ。
立ち上がったクロードは、自らの首元へと手を伸ばした。
そして、胸元を留めていた白銀の竜の留め具を、迷うことなく外した。
バサリ、と重厚な衣擦れの音が響く。
彼が肩から脱ぎ払ったのは、深藍色の最高級羅紗に、漆黒の極上黒狐の毛皮をふんだんにあしらった、大公専用の防寒外套だった。
帝国の国宝級の職人が仕立て上げ、一着で小国の城が一棟買えるほどの価値を持つ至高の外套。冷気を完全に遮断し、内側に巡らされた温熱の魔導回路が常に春のような暖かさを保つという、天上の贅沢品。
クロードはその豪奢な外套を広げると、躊躇うことなく、エリアーナの華奢な肩の上へとふわりと掛けた。
「あっ……!」
思わず短い悲鳴が喉から零れた。
ずしりとした心地よい重みとともに、信じられないほどの熱気が、エリアーナの全身を一瞬にして包み込んだのだ。
冷たい風が、完全に遮断される。
首元を包む黒狐の毛皮は、まるで生まれたての小動物の産毛のように柔らかく、滑らかで、一切のチクチクとした刺激を与えない。
そして――外套の内側に残っていた、クロード自身の強い体温と、冷涼な針葉樹と白檀を思わせる高貴な香りが、エリアーナの感覚を優しく満たしていった。
「か、閣下!? このような高価なものを……! 私などの古着の上に羽織るなど、恐れ多すぎます! 汚れてしまいます!」
エリアーナは青ざめて外套を押し戻そうとした。
自分が着ているのは、何日も歩き通して埃をかぶり、袖口のすり切れた安物の灰色の木綿ドレスだ。こんな豪奢な外套を掛ければ、内側の最高級の絹布が汚れてしまう。
だが、クロードの手が、外套の襟元を整えるようにして、彼女の華奢な肩の上にそっと添えられた。
「汚れてなどいない」
クロードの声は、どこまでも優しく、そして有無を言わせぬ響きを帯びていた。
「君の身を温めること以上に、この外套に価値のある使い道など存在しない。……それとも、私の匂いがついた布地は不快だろうか?」
「そ、そんなことありません! とても……とても、良い香りで、温かくて……」
反射的に本音を口にしてしまい、エリアーナは自らの失言に気づいてカッと顔を赤らめた。
他国の高貴な殿方に向かって「匂いが温かい」などと口走るなど、淑女としてあるまじき失態だ。恥ずかしさのあまり俯こうとする。
だが、その言葉を聞いた瞬間、クロードの氷青色の瞳に、蕩けるような甘い光が灯った。
冷徹無比と恐れられる男の唇が、わずかに緩み、歓喜に震える。
「そうか。……なら、よかった」
クロードは呟くと、添えられていた両手に、ゆっくりと力を込めた。
外套越しに伝わる、抗いようのない力強い牽引。
エリアーナの華奢な身体が、ふわりと前へと引き寄せられる。
「え……?」
驚いて顔を上げた瞬間、彼女の視界は、深藍色の軍礼装の胸板で完全に塞がれていた。
――ぎゅっ、と。
息が詰まるほどの強さで、しかし骨の一本も痛めぬよう細心の注意を払われた腕が、エリアーナの背中に回された。
クロードが、彼女を自らの胸の中へと、すっぽりと抱き寄せたのだ。
「あ……閣、下……?」
耳元に、トクン、トクンと力強く脈打つ鼓動が直接響いてくる。
それはクロード自身の心臓の音だった。大陸最強の男の心臓が、まるで戦場を駆け抜けているかのように激しく、早く、高鳴っている。
逃げ場のない腕の檻。
頭の上から、首筋から、背中から、彼が全身で放つ圧倒的な体温と、包容力が雪崩のように押し寄せてくる。
冷え切っていたエリアーナの身体を、自らの熱で完全に溶かし尽くし、上書きしてしまおうとするかのような、激しくも切実な抱擁。
そして、クロードは彼女の栗色の髪に自らの頬を寄せ、深く、震える呼気を漏らした。
長年、胸の奥底に押し込め、凍りつかせていた激情のすべてを、絞り出すように。
「――ずっと、探していた」
耳朶を打つその声は、甘く、熱く、切実に震えていた。
「三年だ、エリアーナ。あの夜会で君に命を救われてから、私は一日たりとも君のことを忘れたことはなかった。……だが、君にはすでに婚約者がいた。名門侯爵家の跡取りという壁があり、他国の私が強引に奪えば、君を政治の泥沼に巻き込んでしまうと……そう自分に言い聞かせて、耐え続けていたのだ」
クロードの腕が、さらに一段と強く、彼女の身体を抱きしめる。
まるで、二度とこの腕から逃がさないと誓うように。
「だが、あの愚か者どもは……君のその至高の尊さを理解するどころか、地味だと罵り、搾取し、あまつさえ捨てただと……?」
青年の声音に、一瞬だけ、地獄の業火のような禍々しい怒りが混ざった。
しかし、その怒りはすぐに消え去り、再びエリアーナへの狂おしいほどの愛惜へと塗り替えられる。
「あの報せを聞いた瞬間、私はすべての理性をかなぐり捨てて竜を走らせた。……神に祈ったよ。どうか間に合ってくれと。私の命を救ってくれた、世界でただ一人の愛しい人を、二度と見失わせないでくれと……!」
クロードの大きな手が、外套越しにエリアーナの後頭部を優しく包み込み、自らの首筋へと深く埋めさせた。
肌と肌が触れ合う距離で、彼の熱い吐息が、彼女の耳元を甘く撫でる。
「もう二度と、離さない」
それは、神仏に対する祈りなどではない。
絶対強者が下した、絶対の決定事項としての宣告。
「君をあの愚か者たちの元へなど、天地が裂けても帰しはしない。君が自分をどれほど無価値だと思い込んでいようと、関係ない。君はこの私のすべてであり、我が帝国の命そのものだ。……これからは、私が君を守る。誰にも君を傷つけさせない。私の命と魂のすべてを賭けて、君を幸せにしてみせる」
「…………っ!」
エリアーナの胸の奥で、何かが激しく音を立てて崩れ去った。
――君はこの私のすべてだ。
――君を幸せにしてみせる。
そんな言葉を、かつて誰が自分にかけてくれただろうか。
父は「お前は出来損ないだ」と冷笑した。
義母は「ティファーヌの足元にも及ばない」と蔑んだ。
婚約者のユリウスは「地味で無能な雑用係」と罵倒し、妹は「引き立て役」と嘲笑った。
誰からも愛されず、誰からも認められず、ただ便利な道具としてすり減らされることだけが、自分の生きる理由なのだと信じ込んできた。
泣くことすら許されず、痛みを訴えることも忘れ、心に幾重もの分厚い氷の壁を張り巡らせて、耐え忍んできた二十年間。
その氷が。
目の前の男の、あまりにも無条件で、圧倒的な肯定の言葉によって――跡形もなく、一瞬にして融解していく。
(ああ……)
じわりと、視界が歪んだ。
熱いものが、目頭の奥から溢れ出してくる。
泣かないと決めていたはずだった。あの夜会でも、屋敷を出た時も、涙の一滴すら流さなかったのに。
悲しみでも、悔しさでもない。
ただ、凍えきっていた魂の芯に、あたたかな春の光が差し込んできたことに対する――魂そのものの歓喜の涙が、頬を伝い落ちて、クロードの深藍色の胸元を濡らしていく。
「あ……ぁ……」
声にならない小さな嗚咽が、エリアーナの唇から漏れた。
クロードは何も言わず、ただ彼女の背中を、大きな掌でゆっくりと、子供をあやすように優しく撫で続けた。
その温もりに包まれているうちに、エリアーナの全身から、急速に力が抜けていった。
張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れたのだ。
三年間にわたる不眠不休の過労。
領地の結界を一人で支え続けていた極限の消耗。
そして、この五日間にわたる国境越えの逃避行と、先ほどの魔獣との遭遇による極限の精神的重圧。
そのすべてが、彼という「絶対的な安全地帯」を手に入れた瞬間、怒涛の眠気と疲労感となって彼女の意識を呑み込み始めた。
(もう……頑張らなくて、いいの……?)
(もう、一人で戦わなくても……いいのかしら……)
瞼が、鉛のように重くなる。
視界がふわりと暗転していく中で、最後に耳に届いたのは、クロードのこの上なく優しく、蕩けるような囁き声だった。
「眠るといい、エリアーナ。……目覚めた時、君の世界はすべて新しくなっている」
その言葉を最後に、エリアーナは心地よい闇の中へと沈んでいった。
かつて経験したことのないほどの深い安らぎと、甘やかな温もりの中で、彼女は静かに意識を手放した。
「…………」
ぐったりと自らの胸の中に身を預けてきたエリアーナの重みを感じ、クロードはふっと息を呑んだ。
彼女の寝息は穏やかで、小さく規則正しく胸を上下させている。
長い睫毛には、まだ涙の名残の雫がキラリと光っていた。
クロードの表情から、先ほどの切迫した色は消え失せていた。
そこに残っていたのは、世界中のどんな宝物を手に入れた王よりも深く、満ち足りた、至高の笑み。
「……本当にお前は、無防備で、愛らしいな」
クロードは愛おしげに囁くと、彼女の膝裏と背中に腕を回し、ふわりと軽やかに抱き上げた。
大人の男とは思えないほどの軽さ。長年の激務で痩せ細ってしまったその華奢な肉体に、再び胸の奥で怒りが燻りそうになるが、今は眠る彼女を起こさないことが最優先だった。
壊れやすい宝物を運ぶように、クロードは慎重に歩みを進めた。
向かう先は、広場で静かに待機していた巨大な白銀の巨躯――氷竜の元へ。
グルル……と、氷竜が青白い瞳を細め、主の腕の中の小柄な少女を興味深そうに見つめながら、乗りやすいようにその巨大な前足を低く折り曲げた。
「我が友よ、静かにな。彼女が眠っている」
クロードが低く命じると、竜は理解したように小さく鼻を鳴らし、息を潜めた。
クロードはエリアーナを腕の中にしっかりと抱きかかえたまま、軽やかな跳躍で氷竜の頑丈な背中へと飛び乗った。
鞍の前に座り込み、自らの腕の中に彼女の身体をすっぽりと収める。
外れた外套の端をしっかりと引き寄せ、冷たい風が彼女の肌に触れぬよう、自らの身体で前からの風を完全に遮る姿勢を取った。
「アルジェントへ戻るぞ。……全速力だ」
グオオオオオッ!!
主の命を受け、氷竜が雄叫びを上げた。
巨大な白銀の翼が大きく広げられ、樹海に凄まじい突風が吹き荒れる。
雪煙を巻き上げながら、巨竜が力強く大地を蹴った。
一瞬の浮遊感の後、視界が一気に開ける。
鬱蒼とした「魔の樹海」の黒々とした天蓋を突き破り、氷竜は一気に青空の彼方へと急上昇していった。
眼下に広がるのは、先ほどまで彷徨っていた王国の陰鬱な原生林。
そして――行く手の彼方にそびえ立つのは、白銀の雪を戴く峻険な連峰と、その向こうに広がる雄大な大地。
アルジェント帝国。
世界で最も過酷で、最も美しく、そしてこれからエリアーナの新たな故郷となる、約束の地。
冷涼な高高度の風がクロードの白銀の髪を激しく揺らす。
だが、彼の腕の中に抱かれたエリアーナは、大公の完璧な防護と温もりに守られ、微動だにせず穏やかな寝息を立て続けていた。
クロードは眠る彼女の額に、慈しむようにそっと唇を落とした。
その双眸に宿るのは、絶対的な愛と、揺るぎなき誓いの光。
「――ようこそ、我が愛しき妃。君に、世界で一番甘やかな幸せを与えよう」
白銀の竜は蒼穹を切り裂き、光の中を翔けていく。




