第11話:目覚めは天蓋付きベッドと甘美な芳香
深い、深い、温かな海の底から浮上するように、エリアーナの意識はゆっくりと覚醒へと向かっていた。
まず意識を覚醒させたのは、鼻腔をくすぐる甘やかで気品に満ちた香りだった。
白檀と乾いた針葉樹の清涼な香気に、熟したベリーと淡い蜂蜜を思わせる、甘美なアロマがふわりと混ざり合っている。これまで嗅いだこともないほど濃厚で、しかし決して鼻につかない、魂の奥底まで解きほぐされるような芳香だった。
次に肌を満たしたのは、信じられないほどの極上の温もりと柔らかさだった。
頭を乗せている枕は、まるで摘みたての雲をそのまま集めたかのようにふわりと沈み込み、後頭部を優しく包み込んでいる。
身体の上に掛けられた布団は驚くほど軽く、それでいて春の陽だまりをそのまま縫い留めたかのような完璧な熱を放っていた。肌に触れるシーツは、吸い付くように滑らかな最高級のシルク。擦れるたびに微かな心地よい音を立て、硬い藁や麻のシーツに慣れきっていた彼女の肌を、どこまでも甘やかしてくる。
(……ここは、天国……? それとも、死後の世界なのかしら……)
ぼんやりとした思考のなかで、エリアーナはそんな突拍子もないことを考えていた。
彼女の記憶にある「目覚め」といえば、いつだって凍えるような寒さと、全身を苛む激痛とセットだった。
ロシュ侯爵邸の最上階、北向きの冷え切った物置部屋。
隙間風が容赦なく吹き抜け、薄い麻布を何枚重ねても寒さに歯の根が合わず、鉛のように重い身体を引きずって起き上がるのが常だった。
明け方の冷気に手足の感覚を奪われながら、激しい偏頭痛に耐え、薄暗い執務室へと向かって山積みの書類を前にペンを握る――それが、彼女にとっての「日常の朝」だったのだ。
だが、今ここにあるのは、指先一つすら凍えることのない完璧な温もり。
部屋のどこかから、パチパチと心地よく薪が爆ぜる音が聞こえる。壁面に埋め込まれた魔導暖炉が、部屋の隅々にまで一定の快適な室温を均一に行き渡らせているのだ。
ゆっくりと、重い瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、見上げるほど高い天井と、息を呑むほど豪奢な天蓋だった。
深藍色の重厚なベルベットに、銀糸で精緻な星々の軌道が刺繍された天蓋のドレープ。透かし彫りの細工が施された四本の天蓋柱は、樹齢数百年の銘木を磨き上げたものだろう。
ステンドグラスが嵌め込まれたアーチ状の巨大な窓からは、柔らかく加工された陽光が差し込み、磨き上げられた大理石の床に七色の光の帯を落としている。
「…………っ」
夢ではない。
幻覚でも、死後の世界でもない。
ここは、どこかの豪奢な城の、それも並大抵の身分では足を踏み入れることすら許されない最上級の寝室だった。
記憶の奔流が、突如として脳裏に蘇った。
王宮の大広間で突きつけられた、ユリウスからの冷酷な婚約破棄。
妹ティファーヌの嘲笑。
指を鳴らして【万物最適化】を解除し、身一つで屋敷を抜け出した夜。
国境の「魔の樹海」で遭遇した、数十頭の凶悪なシャドウウルフの群れ。
そして――白銀の竜を駆り、猛吹雪と共に舞い降りてきた、あの青年。
(あの、大公閣下……!)
他国で「氷の死神」と恐れられる男、クロード・ディス・アルジェント。
彼が自らの豪奢な黒狐の外套を掛けてくれ、甘く激しい声で「ずっと探していた」と囁き、自分を腕の中に抱きしめてくれたこと。
彼の胸の中で、張り詰めていた糸が切れ、泣きながら意識を手放してしまったこと――。
そこまで思い出し、エリアーナはカッと顔に血が上るのを感じた。
なんという無作法をしてしまったのだろう。他国の最高権力者の前で泣き崩れ、あまつさえその腕の中で眠りこけてしまうなど、貴族の令嬢として……いや、一人の人間としてもあってはならない大失態だ。
一刻も早く起き上がらなければと、シーツから手を引き抜こうとした。
しかし――その右手が、びくとも動かなかった。
「……え?」
違和感を覚えて視線を巡らせたエリアーナは、息を呑んで硬直した。
自分の右手は、温かく、大きな「誰かの両手」によって、隙間なく、大切そうに包み込まれていたのだ。
寝台のすぐ脇。
最高級の革張りの肘掛け椅子に腰掛け、エリアーナの手を胸元に引き寄せるようにして握りしめていた人物。
――クロードだった。
彼は、国境の森で纏っていた重厚な軍礼装の上着を脱ぎ、胸元のボタンをいくつか外した上質な白いシルクシャツ姿だった。鍛え上げられた広い胸板と鎖骨が覗き、無防備な色香を漂わせている。
月光を紡いだような美しい白銀の髪は少し乱れ、彫刻のように整った美貌には、隠しきれない色濃い疲労の色が滲んでいた。
そして何より――その切れ長の、吸い込まれそうなほど澄み切った氷青色の瞳が、瞬きひとつせずに、じっとエリアーナの顔を見つめていたのだ。
「あ…………」
声が出なかった。
目が合っている。
至近距離で、それも手を取り合われた状態で。
エリアーナが瞬きをした、まさにその刹那だった。
「――っ、エリアーナ……!」
息を呑むような掠れた声が、青年の唇から漏れた。
その瞬間、彼の端正な顔立ちを支配していた疲労と張り詰めた気配が、春の陽光を浴びた残雪のように一瞬で霧散した。
氷青色の瞳が大きく見開かれ、まるで暗闇の中に灯火が灯ったかのように、眩いばかりの歓喜と情熱の光で満ちあふれる。
クロードは椅子から身を乗り出し、彼女の手を包み込んだまま、額を彼女の手の甲に押し当てるようにして、深く、震える安堵の息を吐き出した。
「ああ……神よ……。目が覚めたのか……! よかった、本当によかった……!」
その声音は、甘く蕩けるほど優しく、そして泣き出しそうなほど切実に震えていた。
大陸最強と恐れられる「氷の魔将」が、目の前の少女が目を開けたというただそれだけの事実に対して、魂の底から神に感謝を捧げているのだ。
「か、閣下……?」
掠れた声で名を呼ぶと、クロードは弾かれたように顔を上げた。
そして、包み込んでいた彼女の手をそっと離すと、躊躇うことなく、自らの大きく温かな素手を、エリアーナの額へとそっと当ててきた。
ひやり、としない。
熱すぎず、冷たすぎず、心地よい微熱を帯びた彼の掌が、エリアーナの前髪を優しくかき分け、額の温度を確かめる。
至近距離に迫った美貌。通った高い鼻梁から漏れる温かな吐息が、エリアーナの頬をくすぐった。
「気分はどうだ? 頭痛や吐き気はしないか? どこか痛むところはないだろうか。身体の節々が軋んだりはしていないか?」
立て続けに投げかけられる、切迫した気遣いの言葉。
クロードの視線は、壊れやすい最高級の硝子細工の傷を探す職人のように、真剣そのものだった。
「それから、喉は渇いていないか? ずっと何も口にしていなかったから、乾いているだろう。今、すぐに水を――いや、白湯の方が胃に優しいか? 身体を温める果実水もあるが、何がいい?」
「あ、あの……閣下、落ち着いてくださいませ……!」
あまりの怒涛の過保護ぶりに、エリアーナは思わず小さな声を上げた。
額に当てられた彼の手の温もりが心地よすぎて、それ以上に恥ずかしさで心臓が破裂しそうだったのだ。
「私なら、大丈夫です……。どこも痛くありませんし、熱もございません。……ただ、少し喉が渇いているくらいで……」
「そうか。すぐ用意する。動かないでくれ」
クロードはサイドテーブルに置かれていた、白銀の水差しとクリスタルグラスに手を伸ばした。
手際よく注がれたのは、澄み切った水に、ほのかに甘い香りのする薬草の葉が一枚浮かべられた白湯だった。
彼が指先をかざすと、水面からふわりと心地よい湯気が立ち上る。冷えすぎず、熱すぎず、人が口にするのに最も適した完璧な温度へと、魔力で調整されたのだ。
クロードはグラスを手に取ると、再びベッドサイドへと腰を落とした。
そして、エリアーナの背中にそっと左腕を回し、彼女の華奢な上半身を優しく抱き起こした。
「あっ、閣下、自分で持てます……!」
「だめだ。まだ指先に力が入らないだろう。甘えてくれ」
有無を言わせぬ、しかし蕩けるように甘い声音。
クロードの逞しい腕に支えられ、エリアーナは彼の広い胸元に背中を預ける形になってしまった。
背中越しに伝わってくる、力強く規則正しい心臓の鼓動。
クロードは右手でグラスを掲げ、エリアーナの桜色の唇へと、ゆっくりと傾けた。
「少しずつ、ゆっくり飲むんだ」
「……は、はい……」
観念して口をつけると、ほんのりとした甘みと、爽やかなミントに似た香りが喉を滑り落ちていった。
乾ききっていた食道と胃袋が、温かな水分によって優しく潤されていく。全身の細胞に染み渡るような、滋養に満ちた極上の味わいだった。
一口、また一口と飲み干し、エリアーナは小さく息をついた。
「……ごちそうさまでした。とても、美味しいです」
「そうか。身体に合うようでよかった」
クロードは心底満足そうに微笑むと、グラスをテーブルに戻し、枕元の柔らかなリネンの布で、エリアーナの口元をそっと拭った。
その手つきのあまりの丁寧さと過保護さに、エリアーナの首筋まで朱が差していく。
「あ、あの……閣下。お伺いしてもよろしいでしょうか……」
エリアーナは身動ぎをして、クロードの腕の中から少しだけ距離を取ろうとした。
だが、クロードは彼女を無理に引き留めこそしなかったものの、彼女の背中にふわりと大きな羽根毛布を掛け直し、風が入らないよう細心の注意を払って端を整えた。
「何でも聞いてくれ。君の疑問には、すべて答えよう」
「ここは……一体どこなのでしょうか? それに、私はどれくらい眠っていたのですか……?」
クロードは氷青色の瞳を柔らかく細め、静かに答えた。
「ここはアルジェント帝国の中枢、アルジェント大公城だ。……そして、この部屋は私の私室――主寝室だよ」
「へ……? だ、大公閣下の、私室……!?」
エリアーナは目を白黒させた。
客間や賓客用の離宮などではなく、一国の最高権力者のプライベートな主寝室に、他国の、それも追放された身元不明の令嬢が寝かされているというのか。
「そ、そんな……! 滅相もございません! 私のような者が、閣下の神聖な寝室を使うなど、不敬にも程があります! すぐに別の部屋へ――」
「エリアーナ」
立ち上がろうとする彼女の肩を、クロードの大きな手が優しく、しかし確固たる力で制止した。
「君を他の部屋へ移すつもりはない。この部屋が、城の中で最も防壁が厚く、最も暖かく、そして何より私の目が常に届く場所だからだ」
「し、しかし……」
「それに」と、クロードは言葉を続けた。
その瞳に、ほんのわずかな痛ましさと、自己嫌悪の色が宿る。
「君は、丸二日間、一度も目を覚まさずに眠り続けていたんだ」
「丸二日……!?」
衝撃の事実に、エリアーナは息を呑んだ。
あの国境の樹海で意識を失ってから、丸二日もの時間が流れていたというのか。
「衰弱が酷かった。……君の身体を診た宮廷医師が言っていたよ。長年にわたる極度の過労と睡眠不足、そして魔力の異常な消耗によって、君の身体はいつ命を落としてもおかしくない限界状態にあったと」
クロードの声が、微かに低く沈んだ。
彼の脳裏には、エリアーナを診察した医師の青ざめた顔と、「よくぞ今日まで生きておられました」という戦慄の報告が焼き付いていたのだ。
「君が眠っている間、私は生きた心地がしなかった。……もし、このまま君が目覚めなかったらどうしようかと、神を呪うことしかできなかったよ」
「閣下……」
エリアーナは言葉を失った。
彼がなぜ、これほどまでに疲弊した顔をしているのか。
なぜ、上着を脱ぎ捨て、乱れた髪のまま、このベッドサイドに座り込んでいるのか。
その理由が、一気に氷解した。
ふと視線を部屋の奥へと向けると、暖炉の脇に置かれた巨大な黒檀の執務机が目に入った。
そこには、天井に届かんばかりの公文書や羊皮紙の束が山積みにされ、羽ペンとインク壺、そして幾重にも捺された帝国の公印が散乱していた。
まるで、城の執務室から書類の山をそのまま引き抜いて、この寝室へと持ち込んできたかのような異様な光景だった。
(まさか……)
エリアーナの胸を、恐ろしいほどの戦慄と恐縮が貫いた。
「か、閣下……。まさか、閣下はずっと……この二日間、つきっきりで私の看病を……?」
「当然だ」
クロードは何の気負いもなく、さも当たり前のことのように即答した。
「君が一人で見知らぬ土地で目覚めた時、心細い思いをさせたくなかったからな。熱が上がるたびに氷嚢を取り替え、うなされるたびに手を握っていた。……本当は、君が目覚めるまで一睡もするつもりはなかったのだが、少しだけ意識が飛んでしまっていたようだ。不甲斐ないところを見せてすまない」
「ふ、不甲斐ないだなんて、とんでもございません……!!」
エリアーナはあまりの事態の重さに、目眩を覚えそうだった。
帝国の大公といえば、一国の軍事と政治の最高責任者だ。数万の軍勢を動かし、広大な領地と数百万の民を統べる雲の上の絶対者。
その男が、他国の見ず知らずの女の看病のために、二日二晩にわたって寝室に缶詰になり、睡眠すら削って手を握り続けていたというのだ。
「閣下、帝国の公務はどうされたのですか!? 閣下がいらっしゃらなければ、城の執務が滞ってしまうではありませんか! 私などのために、そのような職務怠慢をされては、帝国の皆様に申し訳が立ちません……!」
取り乱して訴えかけるエリアーナ。
常識的に考えれば、彼女の言う通りだった。いかなる理由があろうと、国家の元首たる者が私情で公務を放り出すなど許されるはずがない。
だが――。
その必死の訴えを聞いたクロードは、怒るどころか、眉一つ動かさなかった。
彼は氷青色の瞳をすっと細め、あまりにも真剣な、非の打ち所のない真顔のまま、平然と言い放ったのだ。
「職務怠慢などしていない。緊急を要する書類は、すべて側近たちにここまで運ばせて、君の寝顔を見ながらこの部屋で決済した」
「えっ……」
「それに、エリアーナ。よく聞いてくれ」
クロードは彼女の細い指先を再び自らの大きな両手で優しく包み込み、引き寄せて、その甲に熱い吐息を落とした。
その眼差しには、冗談や誇張の気配など微塵も存在しなかった。
「この世界のいかなる公務も、帝国のいかなる利権も――君の命と、君の穏やかな目覚めに比べれば、塵芥に等しい。もし君が『傍にいてほしい』と望むなら、私は今すぐにでも、城の執務室の机と椅子を丸ごとこの寝室へ移転させる」
「じ、執務室ごと……!?」
「ああ。書類仕事など、君の息遣いを聞きながらでも十分にこなせるからな」
真顔だった。
完璧な、一点の曇りもない本気だった。
大陸全土を震え上がらせる「氷の魔将」が、一人の少女の安寧のためなら、国家機能の中枢を個人の寝室へと物理的に引っ越しさせることすら厭わないと、平然と宣言しているのだ。
「な……っ、何を仰っているのですか……!?」
エリアーナの顔は、もはや林檎のように真っ赤に沸騰していた。
呆れを通り越して、胸の奥底が甘く、激しく締め付けられる。
これまでの人生で、「お前の存在など無価値だ」「代わりはいくらでもいる」と否定され続けてきた彼女にとって、この男の注ぎ込んでくる愛情の質量は、あまりにも重く、あまりにも規格外すぎた。
だが、クロードの蕩けるような過保護は、まだほんの序章に過ぎなかった。
コンコン、と。
控えめだが、洗練されたノックの音が主寝室の重厚な扉に響いたのは、まさにその時であった。
「――失礼いたします、閣下。お目覚めの気配を察知いたしましたので、お食事をお持ちいたしました」
扉の向こうから聞こえてきたのは、凛とした女性の声。
クロードの腹心にして大公城のメイド長――ミレイユの来訪を告げる合図であった。




