第12話:過剰すぎる「普通のおもてなし」
控えめでありながら、規則正しい三拍子のノック音が主寝室の静寂を揺らした。
「入れ」
クロードが低く通る声で短く応じると、重厚な彫刻が施された黒檀の扉が音もなく滑らかに内側へと開いた。
現れたのは、深い群青色の布地に純白のエプロンを纏った、一人の凛とした佇まいの女性だった。
年齢は二十代前半。艶やかな黒髪をきっちりと後頭部で夜会巻きにまとめ、切れ長の琥珀色の瞳は理知的で冷徹な光を湛えている。背筋は定規を当てたように真っ直ぐに伸び、裾を踏まぬ完璧な足取りで銀色のワゴンを押しながら入室してきた。
メイド長としての完璧な身嗜みでありながら、腰の帯の内側には護衛用の暗器が忍ばされていることを、その研ぎ澄まされた気配が如実に物語っている。
大公城の家政を取り仕切るメイド長にして、クロード直属の護衛隊長――ミレイユであった。
「失礼いたします、閣下。別室にて待機しておりましたところ、お目覚めの魔力波の安定を確認いたしましたので、仰せの滋養食をお持ちいたしました」
ミレイユは一切の無駄のない優美な動作で一礼した。
その声音は氷のように冷ややかで、完璧な礼節の裏に、一切の感情を挟まない鉄の意志が宿っていた。
実のところ、ミレイユの胸の内は、数刻前まで激しい警戒心と疑念によって渦巻いていたのだ。
大陸全土に「氷の魔将」と恐れられ、他国のいかなる美女の誘惑にも眉一つ動かさず、感情を殺して帝国のために剣を振るい続けてきた若き大公が、である。
ある日突然、単身で国境を越えて伝説の氷竜を走らせ、見知らぬ他国の令嬢を腕に抱えて帰還したのだ。しかも、城内で最も防護の厚い自らの主寝室に彼女を寝かせ、丸二日二晩にわたって一歩も外に出ず、睡眠すら削って看病に没頭しているという。
(……他国が送り込んできた、主君の心を狂わせる希代の魔性の女か。あるいは、人心を惑わす呪具の使い手か)
主君の身に万が一のことがあってはならない。もしその令嬢が帝国に仇なす間者であるならば、たとえ主君の不興を買おうとも、この手で即座に排除しなければならない――。
ミレイユはそう心に誓い、氷のような瞳でベッドの上に視線を向けた。
しかし。
天蓋付きベッドの豪奢なシルクシーツの上に身を起こしていた少女の姿をその瞳に捉えた瞬間、ミレイユの歩みが、ピタリと止まった。
「…………っ」
息を呑む微かな音が、ミレイユの喉から漏れ出た。
完璧を誇る彼女の仮面が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
そこにいたのは、男を狂わせる妖艶な毒婦などでは断じてなかった。
天蓋の深藍色の影の中に埋もれるようにして座っていたのは、あまりにも儚く、あまりにも小さく、今にも風に吹かれて消えてしまいそうな一人の少女だった。
何よりもミレイユの目を奪い、その胸を激しく締め付けたのは、彼女の痛々しいまでの痩躯だった。
首筋から覗く鎖骨は鋭角に浮き上がり、羽毛毛布から覗く手首は、大人の男の二本の指で容易にへし折れてしまいそうなほど細い。肌こそ透明感を取り戻しつつあるものの、それは長年の過酷な飢餓と激務によって肉を削ぎ落とされた、痛々しい白さであった。
そして――彼女が身に纏っている衣服。
大公城の地下倉庫で雑巾として使われているボロ布ですら、これよりは上等だろうと思わせる、飾り気のない灰色の木綿ドレス。
何度も、何度も、ほつれた糸を自分で縫い直した跡が痛々しく残る袖口。肘のあたりは布地が薄くなって擦り切れ、裾は泥の染みが落ちきらずにくすんでいる。
伯爵家の長女であり、名門侯爵家の次期夫人となるはずだった身分ある令嬢が、このような下女以下のぼろ布を着せられていたというのか。
(な……に、これ……は……?)
ミレイユの背筋に、冷たい戦慄が走った。
プロの暗殺者であり護衛でもあるミレイユの観察眼は、少女の身体に刻まれた無数の「虐待の痕跡」を一瞬で見抜いていた。
指先の細かなペンだこ、重いものを持ち上げ続けたことによる掌の擦り傷、そして何年にもわたってまともな食事を与えられず、睡眠を奪われ続けた者特有の、肉体の衰弱。
魔性の女? 間者?
とんでもない。
目の前にいるのは、他国の強欲な豚どもによって、その魂も肉体も限界まで搾取され、使い潰され、捨て石にされた――あまりにも痛ましい、無垢なる生贄ではないか。
「あ、あの……はじめまして……」
ミレイユの視線に射抜かれ、怯えたように肩を竦めたエリアーナが、消え入りそうな声で小さく会釈した。
敵意など欠片もない。ただ、見知らぬ豪華な部屋と、立派な身なりの侍女を前にして、自分のみすぼらしさを恥じるように、すり切れた袖口を必死に隠そうとしている。
「ごめんなさい、こんな汚い格好で、このような素晴らしいお部屋のベッドを汚してしまって……。すぐに、床に下りますので……」
そう言って、細い足をもつれさせながらベッドから下りようとするエリアーナ。
そのあまりにも卑屈で、自己評価の低い仕草を目にした瞬間――ミレイユの胸の中で、これまで経験したことのないほど巨大な「怒り」と「庇護欲」の奔流が爆発した。
(どこのどいつだ……!? この尊く清らかな方を、ここまで追い詰めた王国の外道どもは……!!)
ミレイユの琥珀色の瞳の奥に、主君クロードに勝るとも劣らない熾烈な殺意の炎が灯った。
もし今、目の前にその元凶である元婚約者や家族がいたならば、即座に喉笛を掻っ切ってミンチにしてやりたいほどの激憤。
だが、プロである彼女は、その煮え滾る感情を瞬時に胸の奥へと押し込め、表情を極上の柔らかな笑みへと塗り替えた。
「――滅相もございません、エリアーナ様」
ミレイユはワゴンの前を離れ、ベッドサイドへと歩み寄ると、エリアーナの足元にそっと両手を差し伸べて制止した。
その手つきは、壊れやすい硝子細工を扱うように、信じられないほど優しかった。
「私は大公城の家政を取り仕切っております、メイド長のミレイユと申します。閣下より、貴女様の身の回りのお世話のすべてを一任されております。どうぞ、足を下ろすなどと仰らず、温かい毛布の中でお寛ぎくださいませ」
「ミレイユ、さん……? で、でも、私のような者が……」
「貴女様のような尊いお方だからこそ、でございます」
ミレイユは断固とした口調で告げると、ワゴンから大きな白樺の化粧箱を恭しく取り出した。
「まずはこちらを。長旅でお召し物もお疲れのようでございましたので、お着替えをご用意いたしました」
箱の蓋が開けられた瞬間、主寝室の中にふわりと、天上の光が零れ落ちたかのような輝きが広がった。
箱の中に収められていたのは、雪のように純白で、真珠のような淡い光沢を放つ長袖の部屋着だった。
極細の絹糸で織り上げられたその布地は、触れる前からその異次元の柔らかさが視覚だけで伝わってくる。胸元や手首には、帝国の最高峰の刺繍職人が何ヶ月もかけて仕立てたであろう、精緻極まりない白銀の百合のレースがあしらわれていた。
「ひゃっ……!?」
エリアーナは目を丸くして息を呑んだ。
「こ、これ……! アルジェント帝国特産の、あの伝説の『白銀蚕』の生糸で作られた絹織物ではありませんか……!? 一反で王都の屋敷が一軒買えるという……!」
長年、ロシュ侯爵領で交易の帳簿を管理していたエリアーナだからこそ、その価値が一瞬で理解できてしまった。
冷涼な高山地帯の霊木にしか生息しない幻の蚕から取れる絹。肌への摩擦係数がほぼゼロであり、着ていることすら忘れるほど軽く、纏う者の体温を自動的に最適な温度へと保つという、帝室専用の国宝級の布地である。
「そ、そんな恐ろしいもの、着られません! 私などの肌が触れたら、罰が当たってしまいます! どうか、雑巾に使うような麻の布で結構ですので、そちらを……!」
必死に首を横に振るエリアーナ。
そのあまりの謙虚さと痛ましさに、ミレイユは胸を痛めながらも、真顔で平然と言い放った。
「いいえ、エリアーナ様。ご安心くださいませ。当アルジェント大公家におきましては、これはただの『普段着』……いえ、平民でいうところの寝間着に過ぎません」
「ね、寝間着……!? 城が一棟建つようなお値段の寝間着があるわけがありません!」
「ございます」
ミレイユは一歩も引かなかった。
「閣下のご命令により、貴女様の肌を絶対に擦れさせず、赤みを一切生じさせない布地として特別に選定されたものでございます。もし貴女様がこれをお召しにならなければ、私は『主君の命を果たせなかった無能』として、メイド長を解任されてしまいますわ」
「ええっ!? そ、そんなの困ります……!」
「では、お召しになっていただけますね?」
プロの完璧な誘導尋問に絡め取られ、エリアーナは「うう……」と言葉を詰まらせるしかなかった。
その隣で、腕組みをして二人のやり取りを見守っていたクロードが、満足げに小さく頷いていた。
「よくやった、ミレイユ。……あとで仕立屋に金一封を与えておけ。エリアーナ、君の柔らかな肌には、その布地すら硬すぎるくらいだ。恥ずかしがらずに受け取ってくれ」
「か、閣下まで……!」
エリアーナの顔は、早くも湯気を上げそうなほど真っ赤になっていた。
だが、過剰すぎるおもてなしの嵐は、これで終わりではなかった。
「着替えは食後にいたしましょう。まずは、お身体を芯から温めていただかなければ」
ミレイユがワゴンの銀のドームカバーを恭しく持ち上げた。
カチャリ、と澄んだ金属音が響くと同時に、主寝室の中に目も眩むような芳醇で甘やかな香気が爆発的に立ち込めた。
運ばれてきたのは、純白の陶磁器に注がれた、黄金色に透き通るスープだった。
ただのスープではない。
表面には細かな油の粒が宝石のように輝き、立ち上る湯気そのものが、まるで高濃度の魔力ポーションのように部屋の空気を浄化していく。
添えられているのは、驚くほどきめ細やかな淡雪のような白身魚のスフレと、色鮮やかな薬草と果実を極限まで滑らかに裏ごしした特製のピューレ。
「こ、これは……?」
「『銀翼雉』の骨と、樹齢五百年の霊木から採取した滋養薬草を、宮廷料理長が三日三晩かけてトロ火で煮出した特製コンソメスープでございます」
ミレイユが流れるような口調で説明する。
「衰弱した胃腸に一切の負担をかけず、吸収された瞬間から全身の魔力回路と血管を補修し、失われた生命力を急速に充填する至高の薬膳料理。……どうぞ、温かいうちにお召し上がりくださいませ」
エリアーナの喉が、思わずごくりと鳴った。
匂いを嗅いだだけで、長年の過労で縮こまっていた胃袋が、キュウと愛らしい音を立てて蠕動を始めたのだ。
ロシュ侯爵邸で与えられていた食事といえば、ユリウスたちが残した冷え切った肉の切れ端か、数日前の硬くなったパンの耳、そして泥水のように濁った出涸らしの茶だけだった。
こんな、神話の神々に捧げるような極上の料理など、生まれて二十年間、見たことすら一度もなかった。
「で、でも……こんな贅沢なもの……。私のような、何の役にも立たない雑用係が口にしていいはずがありません……。私には、硬い黒パンとぬるいお湯があれば十分です……!」
染み付いた自己否定の呪縛が、再びエリアーナの口を突いて出た。
施しを受けるのが怖い。
こんな身に余る贅沢を受け取ってしまえば、あとでどれほど恐ろしい代償を要求されるのか――かつてユリウスから「お前に飯を食わせてやっている恩を忘れるな」と罵倒され続けた記憶が、彼女の心を縛り付けていたのだ。
ベッドの上で身を縮こまらせ、俯くエリアーナ。
その痛々しい姿を前にして、ミレイユが痛ましげに眉をひそめた、その時――。
スッ、と。
ベッドサイドに座っていたクロードが、長身を滑らかに動かした。
「――何の役にも立たない、だと?」
低く、甘く、そして有無を言わせぬ絶対的な響きを帯びた声。
クロードはミレイユの手から、スープの注がれた純白の深皿と、眩い光沢を放つ銀のスプーンを自らの手で受け取った。
「か、閣下……?」
驚いて顔を上げたエリアーナの目の前で、クロードはベッドの縁へと腰を下ろした。
至近距離に迫る、彫刻のように整った白銀の美貌。
彼は銀のスプーンをスープに浸し、黄金色の液体をすくい上げると、自らの唇の前に運んだ。
ふう――、ふう――。
薄い唇をすぼめ、優しく、丁寧に息を吹きかける。
大陸最強の「氷の魔将」が、自らの魔力で冷やすことすらあえてせず、一人の少女のために、自らの息でスープの温度を確かめているのだ。
唇の端にスプーンの底を当て、熱すぎない完璧な適温であることを確認したクロードは、そのスプーンを――迷うことなく、エリアーナの桜色の唇の前へと差し出した。
「さあ、エリアーナ。口を開けてくれ」
「………………は?」
エリアーナの思考が、完全に停止した。
目の前にある銀のスプーン。
黄金色に輝く至高のスープ。
そして――それを差し出し、蕩けるように甘い瞳で自分を見つめている、帝国の大公。
「あ……あの……閣下……? そ、それは、一体何を……?」
「見れば分かるだろう。食事だ」
クロードは何の恥じらいもなく、完璧な真顔で言った。
「君はまだ衰弱している。スプーンを持つ腕の筋肉すら疲弊しているはずだ。咀嚼する力も使わせたくない。だから、私が一口ずつ君の口に運ぶ。……さあ、あーん、だ」
「あ、あーん……!?」
絶叫しそうになるのを、エリアーナは辛うじて両手で口元を押さえて堪えた。
あーんだと!?
物心ついた幼児でもあるまいし、二十歳になる大人の女性が、他国の最高権力者にスプーンでスープを口に運んでもらうなど、前代未聞、天地がひっくり返ってもあってはならない暴挙だ!
「む、無理です! 出来ません! 自分で食べます、スプーンを貸してください!」
真っ赤になってスプーンを奪おうと手を伸ばすエリアーナ。
だが、クロードは身軽にその手をかわし、空いた左腕をそっと伸ばすと、エリアーナの細い腰を抱き寄せ、自らの胸元へと密着させた。
「あっ……!」
「暴れてはいけない。スープが零れて火傷でもしたらどうする」
耳元に落ちてくる、低く甘い吐息。
クロードの腕の力は驚くほど優しく、しかし絶対に逃れられない完璧なホールドだった。
「君が自分を雑用係だと卑下するのは勝手だが、私の前では通用しない。君はこの世で最も尊い、私の愛しい人だ。君を甘やかし、至高の食事を与え、健康を取り戻させることこそが、今の私の最大の義務であり、生きがいなのだから」
「い、生きがい……!?」
「冷めてしまうぞ。私の愛を受け取ってくれないのか?」
切なげに眉を下げ、氷青色の瞳を潤ませて見つめてくるクロード。
普段の冷酷無比なオーラはどこへやら、まるで大好きな飼い主に撫でてもらえない大型犬のような、破壊力抜群の甘えた眼差し。
そのあまりのギャップと美貌の破壊力に、エリアーナの理性が完全に焼き切れた。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね回り、頭からプシューと煙が吹き出しそうになる。
横で見守っていたメイド長のミレイユはといえば――。
最初は主君のあまりの変貌ぶりに目を丸くしていたものの、赤面して縮こまるエリアーナのあまりの愛らしさと、主君の完璧なスパダリムーブを目撃し、その琥珀色の瞳を激しく輝かせていた。
(素晴らしい……! なんという尊さ……! これぞ、我が大公城に求められていた真の光景……!)
ミレイユの胸の中で、エリアーナに対する強烈な忠誠心と、過激なまでの「ファン心理」が完全に芽吹いた瞬間だった。
ミレイユは音もなく後退すると、主君たちの邪魔をせぬよう壁際に控え、両手を胸の前で固く握りしめてその光景を見守る態勢に入った。
もはや、逃げ場はどこにもなかった。
「……あ、あの……一口、だけですからね……」
恥ずかしさのあまり涙目になりながら、エリアーナは震える唇を、おずおずと小さく開いた。
「ああ、良い子だ」
クロードの顔に、この世の春をすべて集めたかのような極上の笑みが咲き誇った。
銀のスプーンが、ゆっくりと彼女の唇の間へと滑り込んでいく――。
甘やかされ、肯定され、世界で一番大切に扱われる日々の、これがほんの始まりに過ぎないことを、エリアーナはまだ知る由もなかった。




