第57話:友との語らいと、届いた「元婚約者のその後」
大公城の西翼に位置する「白薔薇のサロン」には、柔らかな冬の陽だまりが心地よいグラデーションを描いて落ちていた。
壁面の暖炉では、上質な薪がパチパチと心地よいリズムを刻んで爆ぜ、部屋全体を春の陽気のような適温に保っている。
天蓋付きの窓からは、中庭の「白銀の古代樹」が誇らしげに満開の花を揺らしている姿が一望できた。城壁を覆う絶対浄化結界の恩恵により、外の世界がいかに冬の厳しさを迎えようとも、この城の中は常に穏やかで清廉な気に満ちあふれている。
マホガニーの丸テーブルの上に広げられているのは、純白のレース編みのクロス。
その上には、帝都随一の高級菓子店が手がけたという色とりどりのマカロンや、焼き立てのスコーン、一口大のタルトレットが銀の三段スタンドに所狭しと並べられ、白磁のティーポットからは、天藍草の若葉とベルガモットをブレンドした特製ハーブティーの甘美な湯気が立ち上っていた。
「……ふふ、エリアーナ。先ほどからスコーンばかりに手が伸びているけれど、こちらのフランボワーズのマカロンも召し上がってみて? 甘酸っぱくて、貴女のその愛らしい舌にとてもよく合いますことよ」
優雅に銀のトングを操り、小さなマカロンをエリアーナの取り皿へと運んでくれたのは、帝国筆頭公爵家の令嬢コンスタンスであった。
今宵の彼女は、社交界の女王としての刺々しい威圧感をすっかり脱ぎ捨て、柔らかなペールピンクのサロン着を纏っている。白金ブロンドの髪をハーフアップにして寛ぎ、その菫色の瞳には、妹を可愛がる姉のような、底なしの慈愛と親愛の光が宿っていた。
「まあ、ありがとうございます、コンスタンス様。……でも、私ばかりこんなにたくさんいただいてしまっては、太ってドレスが入らなくなってしまいますわ」
エリアーナ・ヴァン・ベルクは恥ずかしそうに頬を染め、両手で包み込んだティーカップの縁から湯気を見つめた。
身に纏うのは、コンスタンスが「日常のリラックスタイム用」として特別に仕立ててくれた、淡い若草色のカシミアニットドレス。締め付けなど一切なく、ふんわりと彼女の華奢な身体を暖かく包み込んでいる。
「何を仰いますの、エリアーナ様」
丸テーブルの脇で銀のポットを掲げ、完璧なタイミングでお茶を注ぎ足してくれたメイド長のミレイユが、真顔で口を挟んだ。
「太るなどと滅相もございません。むしろ、大公閣下からは毎朝のように『もっとエリアーナに滋養をつけて差し上げろ、まだ手首が細すぎる』と厳命されております。貴女様がどれほどお召し上がりになろうと、コンスタンス様の手にかかれば、ドレスの寸法など一ミリの狂いもなく神業で調整されますわ」
「ええ、その通りよ!」
コンスタンスが扇をパチンと鳴らし、胸を張る。
「貴女が少しふっくらされたなら、その柔らかな美しさを最大限に引き出す新しいラインをデザインするだけですもの! 仕立屋としての私の腕を舐めてもらっては困るわね!」
「ふふ……お二人とも、大袈裟ですわ」
エリアーナは小さく笑い声を漏らした。
だが――その笑顔の直後、彼女の琥珀色の瞳の奥に、ふわりと温かな涙の膜が張った。
(……温かい。本当に、夢みたいだわ……)
胸の奥底がきゅうと締め付けられるような、甘く切ない感動。
エリアーナは膝の上のナプキンをそっと握りしめ、二人のやり取りを、まるで壊れやすい至宝を眺めるかのように愛おしそうに見つめていた。
かつて――ヴァン・ベルク伯爵家の実家にいた頃。
母が病で亡くなって以来、後妻としてやってきた義母と、妹のティファーヌは、エリアーナを徹底的に排除した。
華やかなティータイムの席に彼女が呼ばれることなど一度たりともなく、彼女に与えられていたのは、冷え切った厨房の片隅で残飯のような黒パンを齧る時間だけだった。
社交界の夜会に連れて行かれても、ティファーヌを引き立てるための「地味な日陰者」として壁の花になることすら許されず、同年代の令嬢たちからは露骨に嘲笑され、誰一人として友人などできなかった。
ロシュ侯爵領に引き取られてからも、それは変わらなかった。
ユリウスは彼女を「愛嬌のない雑用係」と見下し、屋敷の使用人たちも主人に倣って彼女を嘲弄した。
誰かと他愛のないおしゃべりを楽しむ時間など、一分一秒たりとも存在しなかったのだ。
今日着る服について語り合い、お菓子の味に目を輝かせ、くだらない冗談に笑い転げる――世の令嬢たちにとって当たり前のはずの「女子トーク」というものが、エリアーナにとっては、お伽噺の中にしか存在しない幻影であった。
それなのに、いま。
帝国の最高権力たる公爵令嬢と、大公城の全家政を取り仕切る最強のメイド長が、自分を囲んで、こんなにも温かな笑顔を向けてくれている。
「……あら? どうなさったの、エリアーナ?」
コンスタンスがハッと眉根を寄せ、心配そうに身を乗り出してきた。
「どこかお加減でも悪くて? それとも、私たちが騒がしすぎてお疲れになってしまったかしら……?」
「いいえ……! 違います、コンスタンス様」
エリアーナは慌てて首を横に振った。目尻から零れ落ちそうになった涙を、指先でそっと拭う。
「ただ……嬉しくて。……私、これまでの人生で、こんなふうに誰かとお茶を飲みながら、他愛のないお話をさせていただけたことが……一度もなかったのです。……コンスタンス様も、ミレイユさんも、こんな私のために時間を割いて、温かく接してくださって……なんだか、胸がいっぱいになってしまって……」
「エリアーナ……」
コンスタンスの菫色の瞳が、切なげに潤んだ。
「まあ……本当に、あの大馬鹿者どもは……!」
コンスタンスは膝の上の手巾をぎゅっと握りしめ、唇を噛んだ。
「実家の父親も、あの元婚約者の男も、揃いも揃って節穴ばかり! これほど清らかで愛らしい宝石を閉じ込め、友人と語らう自由すら奪っていたなんて……! 貴族の風上にも置けない下劣な輩ですわ!」
「左様にございます」
ミレイユもまた、その琥珀色の瞳の奥に静かな怒りの光を灯した。
「エリアーナ様。過去の無礼な者たちのことなど、もう一秒たりとも思い出す必要はございません。これからの貴女様には、コンスタンス様がおられ、私どもが控えております。お茶の相手など、貴女様が望まれるなら毎日でも、朝から晩までお付き合いいたしますわ」
「ええ、そうですとも!」
コンスタンスが身を乗り出し、エリアーナの白く滑らかな手を両手でぎゅっと包み込んだ。
「来週のサロンでは、帝都で一番美味しいタルト職人を招いて新作のお披露目会を開きますのよ! 貴女の好きなベリーを山ほど使わせますから、覚悟なさってね、私の可愛い親友!」
「コンスタンス様……ミレイユさん……」
エリアーナの胸の奥底に、陽だまりのような温かな熱が広がっていく。
自分には、もう居場所があるのだ。
自分を愛してくれる夫だけでなく、こうして手を取り合い、心を分かち合える本物の「友」がいる。
その事実が、彼女の魂の最後の傷痕までも、完全に洗い清めていくようだった。
――そんな、甘やかで穏やかなサロンのひとときであった。
トントン、と。
控えめだが、どこか軽薄さを孕んだリズムのノック音が、サロンの扉から響いた。
「……お邪魔してもよろしいかな、美しい淑女の皆様?」
扉が音もなく開かれ、現れたのは――蜂蜜色の金髪をさらりと揺らした美青年、諜報部隊長ロヴェル・サン・ジュストであった。
彼は旅用の緑のマントを脱ぎ、執務用の黒いベスト姿で、手には一通の羊皮紙の報告書を優雅に弄んでいた。その整った美貌には、相変わらず人を食ったような蠱惑的な笑みが張り付いている。
「まあ、ロヴェル」
コンスタンスが扇を広げ、胡乱な目を向けた。
「女同士の神聖なお茶会の席に、無粋な男が何の用かしら? 閣下の目を盗んで、またエリアーナに甘い果物でも貢ぎに来たの?」
「おやおや、手厳しいですねぇ、公爵令嬢」
ロヴェルは肩をすくめ、軽やかな足取りでテーブルの脇へと歩み寄った。
そして、エリアーナの前で流麗に一礼してみせる。
「ごきげんよう、エリアーナ様。今朝も一段と、吸い込まれそうなほどお美しいですね。……閣下の執務が少し長引いておりましてね。お茶会を邪魔するつもりはなかったのですが……一つだけ、貴女の耳に入れておくべき『報告』が、極北の地から届きましてね」
「極北の地から……?」
エリアーナが小首を傾げた。
ロヴェルの琥珀色の瞳の奥に、スッと冷ややかな、獲物を観察する狩人特有の光が宿った。
彼は手にした羊皮紙を広げることもなく、指先で軽く弾きながら、極めて平然とした、他愛のない世間話でもするかのようなトーンで切り出したのだ。
「――ユリウス・ド・ラ・ロシュ。……彼が送致された、帝国最北端の『永久凍土鉱山』からの定期巡察報告ですよ」
「…………っ」
その名が発せられた瞬間、サロンの空気が、ふっとわずかに静まった。
コンスタンスが扇を握る手に力を込め、ミレイユが冷淡に顎を引く。
あの建国祭の大夜会において、泥まみれで乱入し、エリアーナを連れ戻そうと暴挙を働いた元婚約者。
母国の国王親書によって爵位を剥奪され、全財産を没収され、大公クロードの手によって「生涯恩赦なき重労働」の判決を下されて引きずり出されていった、あの哀れな罪人。
「……ユリウス様の、ご様子ですか」
エリアーナの声は、驚くほど静かであった。
動揺も、恐怖も、そこにはない。ただ、遠い異国の天気予報でも尋ねるかのような、平穏な響き。
「ええ、そうです」
ロヴェルは薄い唇の端を吊り上げ、冷酷な嘲笑を隠そうともせずに語り始めた。
「彼が鉱山へ護送されてから、ちょうど二週間が経ちました。……予想通り、と言いますか、予想以上に無様なことになっておりますよ」
ロヴェルの口から語られたのは、かつて贅沢を貪っていた傲慢な貴公子の、絵に描いたような「因果応報の地獄」であった。
「あの鉱山は、年中猛吹雪が吹き荒れ、気温は常に氷点下三十度を下回る極寒の地の底です。日差しの一筋すら届かない暗黒の坑道で、罪人たちは粗末な麻布の囚人服一枚を着せられ、手作業で鋼のように凍てついた岩盤をツルハシで掘り続けねばなりません。……もちろん、温室育ちで肉体労働など一度もしたことのない彼に、そんな過酷な作業が務まるはずもありません」
ロヴェルは肩をすくめてみせる。
「最初の三日で、彼の手のひらはマメが潰れて血まみれになり、皮膚が剥がれ落ちてツルハシを握ることすらできなくなったそうです。……食事は、凍りついて歯も立たないような硬い黒パンの切れ端と、泥水のような薄い塩水スープが一日一回だけ。当然、与えられたノルマなど達成できるはずもなく、毎晩のように監督官から鞭で打たれ、泥濘の床に這いつくばっている状態だとか」
「まあ……自業自得とはいえ、徹底しておりますわね」
コンスタンスが冷ややかに扇を揺らす。
「それだけではありませんよ」
ロヴェルの声音に、底知れぬ侮蔑が混ざる。
「彼が収容されているタコ部屋は、暖炉の火など一切入らない、隙間風の吹き荒れる石牢です。……極度の寒さと、凍傷で壊死しかけた手足の激痛、そして飢えに耐えかねて、彼は毎晩のように、狂ったように頭を壁に打ち付けながら叫んでいるそうですよ」
ロヴェルは真似るように、哀れみを込めてその言葉を口にした。
「――『エリアーナ! 悪かった……! 俺が悪かったから、温めてくれ……! あのお茶を……あの温かいお茶をもう一度淹れてくれぇぇッ!』……とね」
「…………」
「虚空に向かって、涙と鼻水を垂らしながら、ずっと貴女の名前を泣き叫んでいるそうですよ。……『お前がいなければ、俺は死んでしまう』『許してくれ、頼むからここから出してくれ』と、夜が明けるまで地べたを掻きむしって命乞いを繰り返しているとか。……他の囚人たちからも『うるさい』と殴り倒され、今や全身アザだらけで、配給のパンすら奪われて残飯を啜っている始末です」
ロヴェルは報告書をパタンと畳むと、極上の笑みを浮かべて締めくくった。
「まあ、泣き叫んだところで、あの永久凍土の地の底から出られる日は生涯訪れませんがね。……彼がかつて貴女に強いていた『冷え切った部屋での過労』が、何万倍もの業火となって己の身を焼き尽くしているというわけです。完全なる自滅ですよ」
サロンの中に、沈黙が落ちた。
コンスタンスは「ふん、当然の報いですわね」と鼻を鳴らし、ミレイユは「我が君の下された判決に、一片の狂いもございません」と冷然と頷いた。
かつてエリアーナを『地味で愛嬌がない』と罵倒し、暖炉の薪すら与えずに徹夜で酷使し、身一つで追い出した元婚約者。
その男が、いま、極寒の地の底で凍え、かつて自分が踏みにじった「温もり」を求めて、虚しく泣き叫んでいる。
あまりにも完璧な、因果応報。
あまりにも胸のすく、因果の清算。
そして――その報告を聞いた張本人であるエリアーナはといえば。
「…………」
彼女は、ただ静かに、手元の白磁のティーカップを見つめていた。
眉が、ほんのわずかに動いた。
動揺でもない。
怯えでもない。
かつて自分を虐げた男の悲惨な境遇を聞いて、ざまあみろと嘲笑うような醜い快感すら、そこにはなかった。
もちろん、哀れんで助けてやりたいというような、愚かしい感傷も存在しない。
彼女の心の中にあったのは――ただ、深い、深い、秋の夜空のような「完全なる凪」。
あのお茶。
かつて、冷え切った執務室で、自分が真心を込めて淹れ、そしてユリウスによって『ぬるい、気の抜けた草の煮出し汁だ』と机の端へ乱暴に投げ捨てられた、あの一杯。
失って初めて、その価値に気づき。
すべてを奪われて初めて、己がどれほど尊い奇跡を踏み躙っていたかを思い知った男。
だが――。
もう、遅いのだ。
あの日、建国記念の夜会で、彼女自身が告げたはずだった。
『私がこれまでかけていた付与魔法は、すべて解除して出ていきます。これからはお二人で頑張ってください』と。
彼女は警告を与えた。
選択の機会を与えた。
それを「負け惜しみの虚勢だ」と笑い捨て、自らの手で破滅への扉を開けたのは、他ならぬユリウス自身であったのだから。
エリアーナは、そっと白磁のカップを持ち上げた。
指先を温める陶器の感触。
立ち上るベルガモットと天藍草の甘美な香気が、彼女の鼻腔をくすぐる。
彼女は、カップを優雅に唇へと運んだ。
そして――一口、温かな紅茶を含み、喉を潤すと、静かにソーサーの上へと戻したのだ。
カチャリ、と。
澄んだ硬質な音が、サロンの静寂に小さく響いた。
エリアーナはゆっくりと顔を上げると、コンスタンス、ミレイユ、そしてロヴェルへと視線を巡らせた。
その琥珀色の瞳は、雪解け水のようにどこまでも澄み渡り、一点の曇りも、一片の翳りも持ち合わせていなかった。
そして――ふわりと、春の陽だまりのように穏やかな微笑みを浮かべて、静かに口を開いたのだ。
「――そう、ですか」
たった一言。
「……もう、私には関係のない方ですわ」
「…………っ」
その言葉を聞いた瞬間、ロヴェルの瞳が驚きに見開かれ、次いで、深い感嘆の光へと塗り替えられた。
コンスタンスが息を呑み、ミレイユが誇らしげに目を細める。
恨み言すら口にしない。
嘲笑すら向けない。
ただ、「関係のない他人」として、完全に人生の視界の外へと追いやる。
これ以上の、完璧な精神的決別が、この世のどこにあるだろうか。
あの男がどれほど寒さに震えようと、
どれほど自分の名を呼んで泣き叫ぼうと、
それはもう、彼女の世界の出来事ではないのだ。
彼が自らの罪によって選んだ人生の結末であり、彼女が心を痛める筋合いも、慈悲をかける理由も、最初から塵芥ほどにも残されてはいない。
「……ふふ」
ロヴェルは深く、心からの敬意を込めて頭を垂れた。
「ええ、仰る通りです、大公妃殿下。……失礼いたしました。貴女のその美しい耳を汚すような、下らない雑音でございましたね」
「いいえ、ロヴェル様。ご報告、ありがとうございました」
エリアーナは柔らかく微笑むと、取り皿のマカロンへとフォークを伸ばした。
「コンスタンス様、このフランボワーズのマカロン……本当に、とても甘酸っぱくて美味しいですわ」
「まあ! そうでしょう、そうでしょうとも!」
コンスタンスの顔に、パッと華やかな笑顔が戻った。
「貴女のその清らかなお口には、世界中の極上の甘味だけが入るべきですわ! さあ、あちらのタルトも召し上がって!」
「ふふ、いただきますね」
サロンの中に、再び満ちていく和やかな笑い声。
他愛のない女子トークと、甘いお菓子の香り。
過去の亡霊は、いま、彼女の心の中から完全に、永遠に消滅した。
――そして。
カツン、カツンと。
サロンの外の廊下から、聞き慣れた重厚で愛おしい足音が近づいてくる。
執務を終え、最愛の伴侶の元へと一秒でも早く駆けつけようとする、大公クロードの気配。
扉が開かれ、白銀の髪の男が姿を現した瞬間、エリアーナの顔には、この世の誰よりも眩く、世界で一番幸せな笑顔が咲き誇っていた。
過去のすべてを清算し、完全な決別を果たした聖女。
その前には――国中の富と、世界で一番甘やかな夫の愛のすべてが注ぎ込まれる、前代未聞の「最高の求婚」の時が、すぐ目の前まで迫っていたのである。




