第56話:大公妃親衛隊の結成(逆ハーレム陣営の日常)
大公城の温室で実った奇跡の霊果実と滋養薬草を、帝都の平民たちへ無償で配給してから数日が過ぎた。
その慈愛の余波は、冷めやらぬどころか、帝都中に留まらずアルジェント帝国の全領土へと凄まじい熱量をもって波及していた。
中央広場には連日のように感謝の祈りを捧げる市民たちが集い、街の吟遊詩人たちは「冬を春に変えた奇跡の聖女」を讃える新曲を競い合って歌い、教会には大公妃エリアーナの肖像を描いたステンドグラスを新設しようという寄付金が山のように積み上がっているという。
長年、過酷な自然環境と食糧難に耐え忍んできた帝国民にとって、自ら泥に触れて作物を蘇らせ、それを惜しげもなく分け与えてくれたエリアーナは、もはや単なる大公の婚約者という枠を超え、天から舞い降りた「本物の女神」として熱狂的に崇拝されていたのだ。
そんな帝都の熱狂を受け、宮内庁と騎士団の協議により、本日は正式な「大公妃による領内視察」が執り行われることとなっていた。
目的は、奇跡的な大豊作を迎えた城下の穀倉地帯の検分と、新しく整備された下町の福祉施設への慰問。
だが、当のエリアーナにとっては、仰々しい視察というよりも「街の皆さんが元気で過ごせているか、お散歩がてら見に行ける」という、楽しみで仕方のないお出かけであった。
大公城東翼、私室の鏡の前。
エリアーナは、専属侍女となったミレイユによって整えられた己の姿を、感嘆の息を漏らしながら見つめていた。
「まあ……とても動きやすくて、温かいですわ」
身に纏っているのは、外出用の特注アンサンブル。
雪景色に映える純白の上質ウールで作られたロングコートは、裾と襟元に肌触りの良い純白の狐毛がたっぷりとあしらわれ、首元を優しく包み込んでいる。インナーには、先日コンスタンスが「動きやすさと気品の両立」を掲げて仕立ててくれた、淡い菫色のニットドレス。足元には、雪道でも滑らないよう特殊な滑り止め魔導具が底に仕込まれた、柔らかな革仕立てのショートブーツ。
胸元には、もちろん母の形見である蒼い星彩石のペンダントが、襟元から覗いて静かに青い光を湛えている。
「エリアーナ様の肌の白さに、白狐の毛皮がこの上なく映えておりますわ」
ミレイユが満足げに頷き、手袋を差し出した。
「本日は帝都の民が総出でお出迎えする手筈となっております。人混みで揉まれる心配は近衛が排除いたしますが、気温だけはお気をつけくださいませ」
「ありがとうございます、ミレイユさん。街の皆さんにお会いできるのが、今からとても楽しみです」
エリアーナはふわりと微笑み、手袋に細い指を通した。
かつてロシュ侯爵領にいた頃は、領内の視察などといえば、雨風に打たれながら泥水の中を歩かされ、農民たちの不満の矢面に立たされる過酷な重労働ばかりであった。
それが、いまや温かな最高級の衣装に包まれ、人々から笑顔で迎えられる旅立ちとなるのだ。胸の奥が高鳴らないはずがなかった。
身支度を終えたエリアーナは、ミレイユに導かれ、本邸正面のエントランスホールへと大階段を降りていった。
――しかし。
大階段の最下段に足を踏み入れた瞬間、エリアーナは思わず足を止めた。
「……あら?」
広大なエントランスホールに漂っていたのは、晴れやかな出発の空気ではなかった。
バチバチ、と。
目に見えない火花が激しく散り、空気の密度が異常なまでに張り詰めた、一触即発の「戦場」の気配がそこには渦巻いていたのだ。
中央の赤絨毯の左右。
そこには、三人の美青年たちが、互いに牽制し合うようにして鋭い視線を交錯させていた。
「……おい、ニコラ。貴様のような魔導士が、なぜ外出用の外套を着込んでここに立っている。筆頭魔導士の分際で、研究室を抜け出して何の真似だ」
低く、地を這うような重厚な声で先制パンチを放ったのは、銀地金の甲冑を寸分の狂いもなく磨き上げた近衛騎士団長、バスティアン・フォン・ハイゼンであった。
その腰には、先日エリアーナが【万物最適化】を施して国宝へと昇華させた「白銀の神剣」が誇らしげに佩かれている。
彫りの深い端正な顔立ちを険しく引き締め、額に青筋を浮かべながら、目の前の小柄な少年を睨みつけていた。
その対面。
紫がかった銀の癖毛を逆立て、濃紫の魔導ローブの裾をパタパタと揺らしていた宮廷筆頭魔導士ニコラ(十五歳)が、大きな碧眼を吊り上げて鼻を鳴らした。
「ふん! 筋肉ダルマこそ、どうしてそんなガチャガチャうるさい鎧を着て威張ってるわけ!? 今日は下町の視察だよ! そんな物々しい格好で歩いたら、市民たちが怖がってお姉さまに近づけなくなっちゃうでしょ! 空気も読めない脳筋は訓練場でお留守番してればいいんだ!」
「何だと……!? 護衛とは、威圧感をもって不埒者を近づけさせぬことこそが要諦! 貴様のような小童に、エリアーナ様の護衛が務まるはずがあるか!」
「務まるもんねーだ!」
ニコラは樫の杖を床にコツンと打ち鳴らし、懐から数枚の青く発光する魔導羊皮紙をこれ見よがしにピラピラと掲げてみせた。
「ぼくの特製『空間転移スクロール』だよ! 万が一、暴徒や危険な魔獣が現れたって、ぼくの魔法なら一瞬でお姉さまを安全な大公城の私室まで転移させられるんだ! 剣を振り回すしか能のない暑苦しい筋肉より、ぼくの魔法の方が百倍スマートで安全に決まってるでしょ!」
「貴様ぁッ! 剣士の誇りを愚弄するかッ! 転移などという不確実な魔術に頼るより、我が神剣にて敵を瞬時に両断する方が確実だ!」
「はいはい、野蛮人、野蛮人!」
甲冑の拳を握りしめて怒鳴る騎士団長と、舌を出して挑発する天才ショタ魔導士。
年齢差など完全に無視した、あまりにも大人気ない言い争い。
――そこへ、もう一つの影が、壁の柱の陰から涼やかな足取りで滑り込んできた。
「……やれやれ。朝から元気なことだねぇ、二人とも」
肩をすくめ、蜂蜜色の金髪を指先で弄びながら現れたのは、諜報部隊長ロヴェル・サン・ジュストであった。
彼は旅用の緑のマントを優雅に翻し、腰に細身の短剣を佩き、薄い唇には人を食ったような蠱惑的な笑みを浮かべていた。
「ロヴェル……! 貴様まで何をしに来た!」
バスティアンが眉根を寄せる。
「何をしに、とは手厳しいねぇ、騎士団長殿」
ロヴェルはクスクスと喉を鳴らし、二人の間へと割って入った。
「下町の視察だろう? 人混みの中には、スリや置き引き、あるいは他国から潜り込んだ怪しいネズミが潜んでいるかもしれない。……甲冑を着て威圧する筋肉ダルマも、派手な魔法陣を撒き散らすガキも、どちらも目立ちすぎて警備には向かないよ。人混みに紛れ、危険の芽を事前に摘み取り、エリアーナ様に近づく怪しい虫を影から一匹残らず排除する役目……どう考えても、我が諜報部の出番じゃないか」
「なっ……! 怪しい虫だと!? 貴様こそが一番怪しい虫だろうが!」
ニコラが杖を突きつける。
「心外だねぇ。私はただ、我が至高のミューズの安全を、誰よりも完璧に確保したいだけだよ。……ねえ、エリアーナ様?」
ロヴェルがふわりと視線を大階段へと向けた。
その瞬間、バスティアンもニコラも弾かれたように言い争いを止め、揃って階段の上へと視線を跳ね上げた。
「「「あっ……!!」」」
男たちの呼吸が、同時に止まった。
大階段の最下段。
純白の白狐毛のコートを纏い、菫色のドレスの裾を揃えて佇むエリアーナの姿。
朝の柔らかな光を浴びて艶やかに波打つ栗色の髪、寒さのせいかほんのりと林檎のように色づいた白い頬、そして――自分たちの騒ぎを怒るどころか、優しく小首を傾げて見つめている、あの澄み渡った琥珀色の瞳。
「え、エリアーナ様……ッ!」
バスティアンの顔が、一瞬にして甲冑の隙間から覗く首筋まで真っ赤に染まった。
先ほどまでの猛将の気迫はどこへやら、彼は慌てて背筋を定規以上にピンと伸ばし、直立不動の姿勢を取って胸に拳を当てた。
「お、おはようございます、エリアーナ様! 本日の視察……! このバスティアン、我が命に代えましても、御身の髪の毛一本すら傷つけさせぬよう、完璧にお守りいたします!」
熱烈すぎる忠誠の誓い。
だが、すかさずニコラが割り込み、パタパタと階段を駆け上がってエリアーナの膝元へと駆け寄った。
「お姉さまぁ〜! おはよう! 今日のコート、すっごく可愛いよ! 雪の妖精さんみたいだ!」
ニコラは上目遣いに碧眼を輝かせ、エリアーナのコートの裾を小さな手でぎゅっと握りしめた。
「あの筋肉ダルマの言うことなんて気にしちゃ駄目だよ! ぼくがずっとお姉さまの手を握って、何かあったら一瞬で安全な場所へ連れて行ってあげるからね!」
「おやおや、抜け駆けはいけないね」
ロヴェルもまた優雅な足取りで歩み寄り、階段の手前で華麗に跪いてみせた。
彼は手袋を外した素手を胸元に当て、大人の色香に満ちた甘い笑みをエリアーナへと投げかける。
「おはようございます、私の聖女様。……人混みの中を歩くのはお疲れになるでしょう。下町の美味しい隠れ家カフェや、見晴らしの良い特等席へご案内する役目は、帝都の裏表を知り尽くしたこの私にお任せください」
「「「…………」」」
三者三様の、猛烈極まりない自己アピール。
命懸けの守護を誓う堅物騎士団長。
独占欲を露わにして甘える天才ショタ魔導士。
スマートなエスコートを約束する敏腕諜報部隊長。
帝国の最高中枢を担う三人の極上美男子たちが、たった一つの「護衛の座」を巡って、互いに火花を散らしながらエリアーナを見つめている。
客観的に見れば、これ以上ないほど贅沢で、世の令嬢たちが卒倒しかねないほどの「超弩級の逆ハーレム状態」であった。
――しかし。
その熱烈な求愛の視線を一身に浴びた当のエリアーナはといえば。
「…………」
彼女は、胸の前で両手を合わせると、ふわりと、春の陽だまりのように無垢で美しい微笑みを浮かべたのだ。
「バスティアン様、ニコラ様、ロヴェル様……おはようございます。ふふ、皆様は朝から本当に、仲がよろしいのですね」
「「「…………え?」」」
男たちの思考が、同時にフリーズした。
仲が良い?
いま、命懸けで殺気立っていたこの状況を見て、「仲が良い」と言ったのか?
「皆様が私のために、そこまで熱心に安全を考えてくださるなんて……本当に嬉しいですわ」
エリアーナは琥珀色の瞳を優しく細め、心底からの感謝を込めて微笑みかけた。
「騎士団長様が守ってくださり、魔導士様が魔法を用意してくださり、諜報部隊長様が道を案内してくださるなんて……これほど心強いことはありませんもの。皆様のおかげで、今日の視察も安心して楽しめそうです。本当にありがとうございます」
「「「…………っ!!」」」
ドッキュゥゥゥゥンッ!!
三人の男たちの胸を、神話級の不可視の矢が同時に貫通した。
打算も駆け引きもない、己の行動を「純粋な親切心」として丸ごと受け止め、極上の笑顔で肯定してくれる聖女の微笑み。
バスティアンは顔を真っ赤にして胸を押さえて硬直死しかけ、ニコラは「うぅ……お姉さまぁ……」と蕩けた声を漏らして悶絶し、ロヴェルすらも耳の先を赤らめて天を仰いだ。
(か……可愛い……!!)
(やっぱりお姉さまは天使だぁぁぁっ!!)
(参ったな……これじゃあ、争う気も失せるというものだ……)
男たちが完全に骨抜きにされ、恍惚の表情を浮かべた――まさにその刹那であった。
――ヒュゥゥゥゥ……。
エントランスホールの気温が、突如として音を立てて急降下した。
「……ん?」
ロヴェルが最初に異変を察知し、スッと背筋を凍らせた。
敷石の隙間に、青白い霜の結晶が放射状に這い広がっていく。
ホールの大理石の柱がピキピキと微かに鳴り、飾られていた観葉植物の葉が一瞬にして白銀の霧に包まれる。
そして――大階段の上層から響いてくる、重厚で、冷徹で、殺気配に満ち満ちた足音。
カツン、カツン、カツン――。
大階段の影から、静かに姿を現した長身の影。
深藍色の執務服に、純白の毛皮のマントを羽織った男――アルジェント帝国の大公、クロード・ディス・アルジェントであった。
「…………っ!?」
バスティアンの背筋が凍りつき、ニコラが杖を抱きしめて飛び退き、ロヴェルが苦笑いを浮かべて一歩後退する。
階段を降りてくるクロードの美貌には、他国の軍勢を一瞬で凍土へと沈める「氷の魔将」としての、本物の、底知れない覇気が立ち上っていた。
切れ長の氷青色の双眸は、鋭利な氷柱の如く尖り、エリアーナを取り囲んでいた三人の男たちを一瞥で射抜いている。
「……朝から騒がしいと思えば」
低く、深く、静謐なバリトンの声。
クロードは大階段の最下段へと歩み寄ると、一言の言葉すら交わすことなく、三人の男たちの間を割って入った。
そして――。
スッ、と。
クロードは、迷うことなく自らの逞しく太い腕を伸ばすと、エリアーナの華奢な肩を、背後から無言で力強く引き寄せたのだ。
「あっ……クロード様」
エリアーナの身体が、クロードの広い胸板へとすっぽりと収まる。
クロードは彼女の純白のコートの上から、その細い肩を抱きしめ、引き寄せるようにして自らの体温で包み込んだ。
エリアーナの周囲半径一メートルだけは、依然として春の陽だまりのように温かい。
だが――その腕の向こう側、三人の部下たちへ向けられたクロードの視線は、絶対零度そのものであった。
クロードは、群がっていた男たちを一瞥で凍りつかせると、薄い唇の端を冷ややかに、そして圧倒的な勝者の余裕をもって吊り上げた。
「護衛の座を巡って、随分と熱心な議論を交わしていたようだな。……我が優秀な部下たちよ」
「か、閣下……!」
バスティアンが直立不動のまま冷や汗を流す。
「だが、無駄な議論はそこまでだ」
クロードの声は、静かに、しかし有無を言わせぬ絶対の宣告を帯びていた。
「転移魔法も、影からの尾行も、騎士の盾も……すべて不要だ。なぜなら――」
クロードはエリアーナの肩をさらに一段と強く引き寄せ、自らの胸元へと密着させながら、三人の男たちを見下ろして言い放ったのだ。
「――妻の隣は、私の定位置だからだ」
「「「…………ッッ!!」」」
一刀両断。
完璧なる、完全論破。
護衛がどうの、警備がどうのという次元ではない。
夫であり、主君であり、大陸最強の男である自分が、最初から最後まで彼女の隣にぴったりと張り付いて離れるつもりなど毛頭ないという、圧倒的スパダリの絶対強者宣言。
バスティアンはぐうの音も出ずに口を塞ぎ、
ニコラは「うぅ……閣下の独占欲、重すぎるよ……」と項垂れ、
ロヴェルは「やれやれ、最初から勝ち目のない勝負でしたね」と両手を上げて降参のポーズを取るしかなかった。
三人の男たちをわずか一言で完全に黙らせ、完封してみせたクロード。
彼は満足げに喉を鳴らすと、腕の中に抱いたエリアーナへと視線を落とした。
その瞬間、先ほどまでの冷徹な覇気は嘘のように消え去り、目尻を下げた、蕩けるように甘い笑顔へと反転する。
「さあ、行こうか、エリアーナ。馬車を用意させてある。……寒くはないかい? 少しでも冷えたら、すぐに私の膝の上へ乗るんだよ」
「も、もう……クロード様ったら、皆様の前でそんなことを仰って……」
エリアーナは顔を真っ赤にして俯きながらも、その温かな腕の中で、幸せそうに微笑むのであった。
大公城の正門が開き、二人を乗せた豪奢な白銀の馬車が、護衛たちを従えて帝都の街並みへと進み出ていく。
愛され、守られ、最強の男たちの崇拝と、世界で一番甘い夫の溺愛に包まれた大公妃の日常は――どこまでも眩く、どこまでも幸福に満ちあふれていたのである。




