第55話:帝国全土を潤す「大公妃の庭
大広間での劇的な公開断罪と、大陸中の王侯貴族を震撼させた正式な婚約発表から、数週間の月日が流れていた。
暦の上ではすでに初冬を迎え、本来のアルジェント帝国であれば、吐く息は白く凍りつき、灰色の雪雲が重く垂れ込めて市民たちが分厚い毛皮の襟をかき抱く季節である。
しかし――いま、アルジェント大公城とその膝下に広がる広大な帝都を包んでいたのは、真冬の訪れを完全に忘れ去ったかのような、穏やかで柔らかな春の陽気であった。
城の中央で誇らしげに満開の花を咲かせ続ける「白銀の古代樹」と、城壁の天蓋を覆う神話級の絶対浄化結界の恩恵により、吹き抜ける風には針のような冷気配など微塵もなく、清らかな雪解け水と大地の息吹が混ざり合った芳醇な香気が街の隅々にまで満ち満ちていた。
大公城の東翼、陽光が燦々と差し込む大サロン。
柔らかなカシミアのクッションが敷き詰められた長椅子に腰掛け、エリアーナ・ヴァン・ベルクは手にした磁器のティーカップをそっとソーサーに戻すと、困惑に満ちた小さなため息を漏らした。
「……ふう。本当に……これで、よろしいのかしら……?」
ぽつりと零れ落ちた呟きに、給仕台の脇で銀のポットを抱えて控えていたメイド長のミレイユが、琥珀色の瞳を丸くして優しく問いかけてきた。
「いかがなさいましたか、エリアーナ様? お茶のお代わりでしょうか。それとも、スコーンの焼き加減がお口に合いませんでしたでしょうか?」
「いいえ、ミレイユさん! お茶もお菓子も、信じられないほど美味しいですわ。……そうではなくて、その……私の『お仕事』についてですの」
エリアーナはおずおずと、自らの身に纏う淡い藤色のデイドレスの裾を撫でた。
コンスタンスが持てる技術を尽くして仕立ててくれたその衣装は、極上の細番手ウールとシルクを重ね合わせた贅沢なもので、身じろぎをするたびに心地よい衣擦れの音を立てる。
建国祭の夜会を経て、エリアーナは正式に「アルジェント帝国次期大公妃」としての立場を確立し、帝国宮内庁の記録にもその尊名が刻まれ、名実ともに大公城の女主人としての生活が始まっていた。
当然、大公妃ともなれば、一国の威信を背負う多忙な「公務」が課せられるはずだと、エリアーナは身構えていたのだ。
しかし――実際に始まってみた彼女の「日常」は、彼女の想像を遥かに絶するほど、あまりにも、あまりにも緩やかなものであった。
朝は、天蓋付きのふかふかのベッドの中で、クロードの甘い囁きと熱烈な口づけによってゆっくりと目覚める。
クロード自らがナプキンを取って給仕してくれる贅沢極まりない朝食を味わい、彼が執務室へと向かうのを見送った後の午前中。
宮内庁から提示された彼女の「公式スケジュール」に記されていた公務といえば――。
『午前十時:大サロンにて、季節のハーブティーの試飲と休息』
『午前十一時:中庭、並びに王立温室の視察(※気分が乗らなければ散歩のみで可)』
『午後一時:大公閣下とのご昼食』
『午後三時:コンスタンス公爵令嬢との歓談、並びに新作ドレスの生地選定』
……それだけである。
「ミレイユさん、私……午前中にお茶をいただいて、お庭を少し歩いているだけですわ」
エリアーナは両手を胸の前で合わせ、申し訳なさそうに眉を下げた。
「領地経営の帳簿の精査もありませんし、代官たちへの予算折衝も、鉱山の採掘台帳の検算もございません。……ロシュ侯爵領にいた頃は、朝から晩まで、夜中を過ぎても何十枚もの書類と睨み合っていなければ怒鳴られておりましたのに……。こんなに何も実務をこなさずに、美味しいお茶とお菓子ばかりいただいていては、帝国の皆様に『役立たずの穀潰し』だと呆れられてしまいませんでしょうか……?」
長年の過酷な社畜生活が染み付いた、哀しき元過労令嬢の強迫観念。
そのあまりにも健気で、あまりにもピュアな訴えを耳にした瞬間、ミレイユは胸を射抜かれたように目元を手巾で押さえ、感無量の面持ちで深く頭を垂れた。
「……エリアーナ様。そのようなご心配は、天地が裂けてもご無用でございますわ」
ミレイユの声には、狂信的なまでの敬愛が滲み出ていた。
「帳簿の計算や予算の折衝などは、高い給与を得ている専門の文官たちが死に物狂いでこなすべき雑務にございます。貴女様のような至高の存在が、泥臭い数字とにらめっこして眉間に皺を寄せるなど、我が帝国の恥辱というもの。……貴女様がそこに座り、愛らしく息をして、穏やかに微笑んでくださっていることこそが、我が大公城――いいえ、帝国全土にとっての最大の『公務』であり、神の祝福なのでございます」
「そ、そんな……座って息をしているだけで公務だなんて、そんな都合の良いお仕事があるはずありませんわ……!」
真っ赤になって両手を振るエリアーナ。
だが、いくら「何もしなくていい」と言われても、長年培われた貧乏性と奉仕の精神は、彼女をじっと座らせてはおけなかった。
「あの、ミレイユさん! では、お散歩に行ってまいりますね! 城の奥にある王立温室と農園の様子を、少しだけ見学させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんでございます。温室の薬草師たちにも、粗相のないよう申し伝えておきましょう」
ようやく身体を動かす口実を見つけたエリアーナは、パッと顔を輝かせると、サロンを後にして城の奥深くへと軽やかな足取りで向かった。
◇
大公城の西翼に隣接する「王立薬草温室」は、巨大なドーム状の魔導ガラスで覆われた、帝国屈指の研究施設であった。
広大な敷地には、帝室専属の薬草師や樹木医たちが数十人体制で常駐し、兵士たちの傷を癒やす霊薬の原料や、寒冷地に適応できる特殊な作物の栽培研究が行われている。
しかし――温室の中に足を踏み入れたエリアーナを迎えたのは、瑞々しい緑の生気ではなく、薬草師たちの重苦しいため息と、立ち込める湿った土の饐えた匂いであった。
「……はあ。やはり駄目か……」
「根腐れが始まっているな。魔導ヒーターで地温を保とうとしても、土の中の魔力循環がどうしても淀んでしまう……」
白衣を纏った初老の筆頭薬草師が、土耕ベッドの前にしゃがみ込み、項垂れていた。
彼の視線の先にあるのは、本来であれば南方の秘境や温暖な霊峰にしか自生しないとされる、伝説の万能霊薬草――「天藍草」。
傷口に塗ればいかなる裂傷も瞬時に塞ぎ、煎じて飲めば魔力中毒を完全に浄化するという至高の希少薬草である。
帝国の兵士たちの命を救うため、莫大な予算を投じて南方の商人から種子を取り寄せ、温室で大切に育てられていたはずのその苗が、いま、寒冷地の澱んだ大気と土壌の不調和に耐えきれず、葉の先から黄色く縮こまり、今にも枯死しようとしていたのだ。
「これほどの希少種、一度枯らしてしまえば二度と手に入らんぞ……。神よ、どうかわしらに知恵をお授けください……」
薬草師たちが絶望に暮れていた、その時であった。
「――あの、失礼いたします」
鈴を転がすような、清らかで透明な声が温室の入り口から響いた。
薬草師たちが驚いて振り返った瞬間、その場にいた全員の息が止まった。
そこに立っていたのは、淡い藤色のドレスを優雅に揺らし、陽光を浴びて黄金の粒子を散らす豊かな栗色の髪を持つ少女――エリアーナであった。
建国祭の夜会で正式にお披露目され、帝都中から「豊穣の聖女」と熱狂的に崇拝されている大公妃その人の来訪に、薬草師たちは慌てて白衣の泥を払い、一斉に床へと平伏した。
「だ、大公妃殿下……!? こ、このような泥臭い温室へ、一体何の御用でございましょうか……!?」
「あ、あの、お邪魔してしまって申し訳ありません! どうぞ、頭をお上げになってくださいませ」
エリアーナは恐縮して両手を小さく振ると、困ったように眉を下げた。
「城内をお散歩しておりましたら、こちらの植物たちが、なんだか少し苦しそうな息遣いをしているように感じまして……。勝手に入り込んでしまって、ごめんなさい」
「い、息遣い……でございますか?」
筆頭薬草師が目を丸くする。
エリアーナはゆっくりと歩み寄り、黄色く縮こまっていた天藍草の土耕ベッドの前へと膝をついた。
上等な藤色のドレスの裾が泥の地面に触れることすら、彼女は気にも留めていなかった。長年、ロシュ侯爵領の荒れ果てた畑で泥にまみれて作業を続けてきた彼女にとって、植物の命を前にして服の汚れを気にするなどという発想は、最初から存在しなかったのだ。
(……ああ、やっぱり。土が、とっても窮屈そうにしているわ)
エリアーナの鋭敏な知覚が、土壌の悲鳴を正確に捉えていた。
魔導ヒーターによって無理やり温められた土は、熱の逃げ場を失って蒸れ、底の方では冷気が溜まってカチカチに固まっている。
過剰に与えられた肥料の成分が根の呼吸を妨げ、水分が淀んで腐敗しかけていた。
「薬草師様方、少しだけ……手入れのお手伝いをさせていただいてもよろしいでしょうか?」
エリアーナはおずおずと、しかし真剣な眼差しで見上げた。
「私、昔から土を解したり、お水をあげたりするのが得意なんです。ほんの少しだけなら、この子たちを楽にしてあげられるかもしれません」
「えっ……? 大公妃殿下が、泥弄りなど……!」
薬草師たちが止めようとした、その刹那。
スッ、と。
エリアーナは手袋を外すと、白く滑らかな素手を、冷たく湿った土耕ベッドの上へと――躊躇うことなく差し入れた。
「――寒かったのね。息が詰まりそうだったでしょう? もう大丈夫よ」
カサリ、と。
エリアーナの小さな指先が、土をふわりと持ち上げ、固まっていた根の周りを優しく解した。
――その瞬間。
彼女の掌から、目に見えない真珠色の魔力の奔流が、音もなく土壌の深部へと雪崩れ込んでいった。
――【万物最適化】。
対象が本来持つポテンシャルを極限まで引き出し、物理的・魔力的な構造を最も完全な調和の状態へと限界突破させる奇跡。
ドクンッ!!
温室の地面全体を、大地の脈動が駆け抜けた。
蒸れて固まっていた土壌が、エリアーナの指先が触れた端から、まるで黒蜜を溶かしたかのように、みるみるうちに深く、温かで、香ばしい大地の香気を放つ「極上の黒土」へと質を変えていく。
過剰だった肥料成分は無駄なく分解されて完璧な栄養素へと再編成され、底に溜まっていた冷気は適度な清涼感へと中和された。
そして――。
ザザザザザッ……!
「な……な、何だこれはぁぁぁっ!?」
筆頭薬草師が、尻餅をついて絶叫した。
黄色く縮こまり、死にかけていた天藍草の苗が、目に見える速度で鮮やかな翡翠色の輝きを取り戻したのだ。
茎は太く逞しく伸び、葉は朝露を宿したエメラルドのように瑞々しく広がり、瞬く間にベッド一面を埋め尽くす大群落へと急成長を遂げた。
それだけではない。
葉の節々から、本来であれば数年に一度しか咲かないはずの、サファイアのように青く澄み渡る大輪の花が、一斉にポンッ、ポポンッと音を立てて開花したのだ。
温室の中に満ちたのは、吸い込んだだけで全身の魔力回路がカッと温かくなり、長年の神経痛や眼精疲労が一瞬で吹き飛ぶような、言葉を絶するほどの神聖な薬効の芳香。
しかし――奇跡は天藍草だけに留まらなかった。
エリアーナの掌から大地へと流れ込んだ【最適化】の奔流は、温室の土壌を通じて網の目のように広がり、隣接する果樹研究区画、そして城の付属農園へと怒涛の勢いで波及していったのだ。
バサァッ!! バサァッ!!
温室の奥に植えられていた、寒冷地では絶対に実を結ばないと諦められていた南方の伝説の果樹――「陽光蜜桃」や「星露葡萄」の木々が、地響きを立てて枝を広げた。
枝という枝に、大人の頭ほどもある巨大で瑞々しい黄金色の果実が、重みで枝がしなるほど鈴なりに実を結んでいく。
果皮からは琥珀色の蜜が滴り落ち、ガラス越しに差し込む陽光を浴びて、温室全体が天上の果樹園のように神々しく輝き始めた。
「ほ……ほ、本物の神業だ……!!」
「枯れかけた天藍草が、満開の花を咲かせている……!?」
「見てみろ、あの蜜桃の大きさを! 一生かかっても拝めないような最高品質の霊果実が、山のように実っているぞ!!」
薬草師たちが、庭師たちが、その場に一斉に平伏し、涙を流しながら大地に額を擦り付けた。
彼らが何十年も研究を重ね、莫大な国費を投じても成し遂げられなかった「寒冷地での霊草・霊果実の完全栽培」を、この少女は、ほんの数秒間、素手で土を解しただけで成し遂げてしまったのだ。
だが――当のエリアーナはといえば。
土で汚れた指先をパパッと払い、満足そうにふわりと微笑んでいた。
「ふふ、よかった。土が息を吸えるようになって、みんな元気になってくれましたね」
彼女は振り返り、平伏する薬草師たちへ向けて、小首を傾げて申し訳なさそうに言ったのだ。
「あの、勝手に土を解してしまってごめんなさい。でも、これで根っこが腐る心配はありませんから、安心してくださいね?」
土を解しただけ。
根っこが腐らないようにしただけ。
世界中の魔導学会が腰を抜かすような大奇跡を起こしておきながら、本人はどこまでも「ちょっとした園芸の工夫」だと本気で信じ込んでいるのだ。
この圧倒的な無自覚チート。
薬草師たちは言葉を失い、ただただ拝むように手を合わせるしかなかった。
◇
その日の午後。
温室で起きた前代未聞の奇跡の報せは、瞬く間に大公城の中枢へと駆け巡った。
大公執務室から風のように駆けつけてきたクロードは、温室のテラスで果樹を眺めていたエリアーナの姿を認めるなり、周囲の近衛兵たちの視線も気にせず、彼女を正面から力いっぱいに抱きしめた。
「エリアーナ……! 君という人は、本当に……!」
クロードの声音は、呆れを通り越して、狂おしいほどの愛しさに震えていた。
彼は彼女の柔らかな頬に自らの額を寄せ、耳元で甘く熱い吐息を漏らす。
「少し散歩に出ただけだと言っていたのに、城の温室をまるごと神話の薬草園へと変えてしまうとはね。……君のその奇跡の手は、どこまで世界を驚かせれば気が済むのだろうね」
「ク、クロード様、皆様が見ていらっしゃいます……!」
赤面して身を縮こまらせるエリアーナ。
だが、集まってきたのはクロードだけではなかった。
「素晴らしいですわ、エリアーナ!」
コンスタンスが扇をパチンと鳴らし、収穫されたばかりの巨大な陽光蜜桃をまじまじと見つめて目を輝かせた。
「この蜜桃、一口かじっただけでお肌の艶が十歳若返るような濃厚な美容成分が詰まっておりますわ! 帝都の高級サロンで競売にかければ、一粒で金貨百枚は下りませんことよ!」
「それだけじゃないよ、コンスタンス!」
宮廷筆頭魔導士のニコラが、杖を抱えながらエリアーナのドレスの裾にすがりついて目を輝かせた。
「お姉さまが咲かせた天藍草の花、一輪で最高級の魔力回復ポーションが百本分も作れちゃうんだ! これさえあれば、帝国の魔導部隊は無尽蔵に魔法を撃ち放題だよ! やっぱりお姉さまは世界一すごいんだ!」
「近衛騎士団の負傷兵たちにとっても、これ以上の福音はありませぬ」
騎士団長バスティアンが、神剣の柄に手を当てて胸を張った。
「この霊草を軟膏に加工すれば、戦場でどんな深い傷を負った騎士でも、一日で前線へ復帰できます。……エリアーナ様は、我が軍の命の恩人であられます」
さらに、影から音もなく姿を現した諜報部隊長ロヴェルが、極上の笑みを浮かべて肩をすくめた。
「参りましたね。これほどの薬草と果実の収穫量……近隣諸国の富裕層に売り捌けば、ロシュ侯爵領が背負い込んだ負債の総額など、ものの数日で何十倍も稼ぎ出せてしまいますよ」
口々に絶賛し、エリアーナを囲んで熱烈な賛辞を浴びせかける仲間たち。
だが、その莫大な経済的・軍事的価値を聞かされたエリアーナは、困ったように眉を下げると、収穫された山のような瑞々しい果実たちを見つめて、静かに口を開いたのだ。
「あの……クロード様、皆様」
「ん? どうしたんだい、エリアーナ」
クロードが優しく彼女の手を包み込む。
エリアーナは、どこまでも澄み切った琥珀色の瞳を上げ、まっすぐに告げた。
「こんなにたくさんの果実や薬草……私たちだけでは、とても食べ切れませんし、使い切れませんわ。……もしよろしければ、この果実や作物を、城下の平民の皆様に……無償で配って差し上げることはできませんでしょうか?」
「…………え?」
コンスタンスやロヴェルが、驚きに目を見張った。
「無償で……配る、かい?」
クロードが静かに問い返す。
「はい」
エリアーナは小さく頷いた。その瞳には、打算も、施しを誇る奢りも欠片もなかった。
「帝都の皆様は、厳しい冬を前にして、寒さや病気、そして食糧の心配を抱えていらっしゃるはずです。……この温かい果実を食べて、身体を温めて、美味しい笑顔になっていただきたいのです。私が少し土を解しただけで実ってくれた恵みですもの。……みんなで分け合っていただいた方が、この木たちも、きっと喜んでくれると思うのです」
「エリアーナ……」
クロードの胸の奥で、言葉にできない熱い衝撃が駆け抜けた。
一粒で金貨百枚に匹敵する至宝の果実。
国家の財政を潤し、権力を誇示するための強力な武器となるはずの奇跡の収穫物を、彼女は一片の躊躇もなく、「みんなで分け合いたい」と微笑んでいるのだ。
かつてロシュ侯爵領で、食糧を求める飢えた領民を槍と棍棒で血祭りに上げ、私腹を肥やすことしか考えなかった元婚約者ユリウスとは――あまりにも対極にある、真の「慈愛の聖女」の姿。
クロードは愛おしさに胸を詰まらせ、エリアーナの額に熱い口づけを落とした。
「……もちろんだとも、私の愛しい妃。君の望む通りにしよう」
クロードは振り返ると、ロヴェルとバスティアンへと威厳ある命を下した。
「聞いたな。即座に近衛騎士団と家政部を動員せよ。温室と農園の果実、並びに天藍草から精製した滋養茶を、帝都の中央広場にて『大公妃殿下からの下賜』として、市民全員へ無償で配給するのだ!」
「「ははっ!!」」
◇
翌朝、帝都の中央広場。
大公宮前広場には、夜明け前から何万という市民たちが集まり、信じがたい光景に目を奪われていた。
広場の中央にずらりと並べられた数十台の荷馬車。
そこに山積みにされていたのは、冬の帝都では絶対に手に入らないはずの、黄金色に輝く巨大な陽光蜜桃、宝石のような星露葡萄、そして湯気を立ち上らせる天藍草の特製滋養スープであった。
「市民の皆さん! 次期大公妃エリアーナ閣下より、冬を迎える皆様への温かな贈り物の下賜である!」
騎士団長バスティアンの号令とともに、無償配給が開始された。
「う……うまい……! なんだこの甘さはぁっ!?」
蜜桃を一口かじった肉体労働の男が、驚愕に目を見開いた。
全身の疲労が一瞬で吹き飛び、凍えていた身体の芯からカッと生命力が湧き上がってくる。
「お母ちゃん! 熱が下がったよ! 喉の痛みが消えちゃった!」
天藍草のスープを口にした病弱な子供が、青白かった顔に桜色の血色を取り戻し、飛び跳ねて歓喜の声を上げる。
「奇跡だ……! ただの果物じゃない、神様の霊薬だ!」
「大公妃様が……あのお優しいエリアーナ様が、自ら土を耕して育ててくださった作物を、私たちのような平民に無償で分けてくださったんだ!」
「大公妃様万歳!! エリアーナ様万歳!!」
誰かが上げたその叫びは、瞬く間に広場全体を、そして帝都中を呑み込む巨大な地鳴りのような大歓声へと変わっていった。
老人たちは涙を流して大公城へ向けて膝をつき、母親たちは子供を抱きしめて感謝の祈りを捧げ、若者たちは大公妃の肖像画が掲げられた時計塔へ向けて帽子を天高く放り投げた。
「大公妃様は、天から舞い降りた豊穣の女神だ!」
「俺たちの命の恩人だ! 一生、あのお方に忠誠を尽くすぞ!!」
飢餓の不安を消し去り、病を癒やし、すべての人々に無条件の温もりを与えた少女。
帝国民の間で、エリアーナに対する熱狂的な信仰と、絶対的な人気が完全に確立された瞬間であった。
大公城の最上層、バルコニーの手すりからその光景を見下ろしていたエリアーナは、街中から響いてくる温かな歓声に耳を澄ませながら、胸の前で両手をぎゅっと握りしめていた。
背後から、クロードの逞しい腕がそっと伸び、彼女の細い腰を引き寄せる。
「聞こえるかい、エリアーナ。……帝都の民のすべてが、君の愛に救われ、君を讃えているよ」
耳元に落ちてくる、誇らしげで蕩けるような囁き。
「はい……クロード様」
エリアーナはクロードの広い胸元に寄り添い、春の満開の花のように美しい、心からの笑顔を咲かせた。
「私……本当に、この国に来られて……クロード様の元へ来られて、幸せですわ」
かつて、誰にも愛されず、薄暗い部屋で孤独に震えていた少女は。
いまや、一国の民の魂を救い、世界で最も甘やかな夫の腕の中で、真の「奇跡の聖女」として愛され、輝き続けていた。




