第54話:夜会の余韻と、二人きりの甘い夜
大広間を埋め尽くしていた割れんばかりの歓声と、鳴り止まぬ祝賀のワルツの残響が、幾重もの重厚な扉を隔てた遥か彼方へと遠ざかっていった。
大公城の最深部――主寝室へと続く黒檀の両開き扉が、音もなく静かに閉じられ、カチリと頑丈な魔導錠が下りる。
その瞬間、世界から一切の喧騒が遮断され、部屋の中にはパチパチと心地よい音を立てて爆ぜる暖炉の薪の音と、甘やかなアロマの芳香だけが満ちる、完全なる二人きりの静寂が訪れた。
「……ふう……っ」
扉に背を預けるようにして立ち止まったエリアーナ・ヴァン・ベルクの唇から、かすかな、けれど心底からの吐息が零れ落ちた。
大勢の王侯貴族や他国の特使たちの前で、そして何より、泥まみれで乱入してきた元婚約者ユリウスの前で、凛として一本の美しい槍のように張り詰めていた背筋の力が、ふっと抜けていく。
緊張の糸が解けた瞬間、全身を心地よい重力と疲労感が包み込んだ。
今宵、彼女が纏っていたのは、コンスタンスが持てる技術の粋を尽くし、彼女自身が【万物最適化】を施した至高の群青の夜会ドレス。
数百粒の魔石を縫い留めたそのドレスは、驚くほど軽く、自律結界によって身体を完璧に保護してくれていたとはいえ、やはり他国の最高格式の祝宴において「大公妃」としての振る舞いを貫き通した精神的な重圧は、並大抵のものではなかったのだ。
特に、履き慣れないシルク張りの高いヒールを履いて長時間立ち続けていた足先が、じんじんと微かに熱を持って軋んでいた。
エリアーナが思わず壁に手をつき、小さく息を整えようとした――まさにその刹那であった。
「――おっと」
背後から伸びてきた逞しく太い腕が、ふわりと、羽毛をすくい上げるような軽やかさで、エリアーナの膝裏と背中を包み込んだ。
「きゃっ……!?」
短い悲鳴が喉から漏れると同時に、ふわりとした浮遊感が訪れる。
視界がふわりと持ち上がり、気がついた時には、エリアーナの華奢な身体は、大公クロードの腕の中にすっぽりと横抱き――いわゆる「お姫様抱っこ」の体勢で収まっていた。
「ク、クロード様……!?」
慌てて彼の首筋に両手を回し、目を白黒させるエリアーナ。
見上げた至近距離には、白銀の短髪を少し乱し、深藍色の正礼装に身を包んだクロードの美貌があった。
先ほど大広間でユリウスを絶対零度の氷塊の中に縫い止め、冷酷な断罪を下していた「氷の魔将」の表情など、どこを探しても欠片すら残っていない。
そこにあるのは、世界で一番愛しい宝物を抱きしめている、蕩けるように甘く、どこまでも優しい男の眼差しだけであった。
「部屋に戻るなり倒れ込まれては困るよ、私の愛しい人。……ずっと、無理をして背筋を伸ばしていただろう? 足が痛むはずだ」
クロードは低く甘いバリトンの声で囁くと、彼女を抱きかかえたまま、毛足の長い純白の絨毯を踏みしめて寝室の奥へと大股で歩みを進めた。
大人の男とは思えないほどの軽々とした足取り。抱き上げられているエリアーナの体重など、まるで小鳥の一羽でも運んでいるかのように、彼の歩調には微塵の乱れもなかった。
「あ、あの……歩けます、自分で歩けますわ……! こんな重いドレスを着たまま抱き上げていただくなんて、クロード様のお身体に障ります……!」
「重いものか。君の身体など、綿毛のように軽いよ。……もっと私の腕の中で甘えてくれていいんだ」
クロードは優しく笑い、部屋の中央に鎮座する、豪奢な深藍色の天蓋付きベッドの縁へと辿り着いた。
そして、壊れやすい極上の硝子細工を扱うかのような慎重さで、エリアーナの身体を柔らかな羽根毛布の上へと、ふわりと優しく横たえさせたのだ。
「あ……」
シーツの滑らかなシルクが、ドレス越しに背中を優しく受け止める。
だが、息をつく暇もなく、クロードはベッドの前に立つのではなく――躊躇うことなく、その場の大理石の床の上へ、自らの膝を折って片膝をついた。
「ク、クロード様!? 床に跪くなんて、いけません……!」
「いいや、動かないでおくれ」
制止するエリアーナの声に、クロードは柔らかく首を横に振った。
彼は白銀のモール刺繍が施された礼装の上着のボタンをいくつか外し、手袋を脱ぎ捨てると、自らの大きな素手を、エリアーナのドレスの裾から覗く「足首」へとそっと伸ばしたのだ。
――ヒヤリ、としない。
クロードの掌から伝わってくるのは、陽だまりのように温かな体温であった。
彼の骨ばった長い指先が、エリアーナの華奢な足首をそっと支える。
そして、細身のシルクヒールの留め金を器用に外すと、ゆっくりと、丁寧に、彼女の小さな足から靴を脱がせてくれたのだ。
「あ……っ」
締め付けから解放された足先に、夜の空気が触れる。
右足、そして左足。
一国の最高権力者たる大公が、他国の王族すら傅かせる男が、床に片膝をついたまま、一人の令嬢の靴を自らの手で脱がせ、床の上へと丁寧に揃えて置いている。
「クロード様……大公閣下たる貴方様が、このような召使いのようなことをなさるなんて……」
羞恥と恐縮で顔を真っ赤にするエリアーナ。
だが、クロードは彼女の小さく白いつま先を自らの両手でそっと包み込むと、温かな呼気をふうと吹きかけ、指先で疲れた足の甲を優しく解すように撫で上げた。
「召使いではないよ。……妻の労をねぎらうのは、夫として当然の役目だろう? 君のためなら、靴を脱がせることすら私にとっては至上の特権だ」
クロードは顔を上げ、ベッドの上に座るエリアーナを至近距離から見上げた。
その氷青色の瞳には、言葉を尽くしても足りないほどの賛美と、深い敬愛の光が満ちあふれていた。
「……よく頑張ったね、エリアーナ。私の、世界で最も誇らしい妃」
「クロード様……」
「君のあの凛とした姿、毅然とした言葉……。あの大広間にいた数百人の誰もが、君のその気高き輝きに圧倒され、魂を奪われていたよ。あの愚か者に対し、君自らの手で完璧な引導を渡してくれたこと……私は、この上なく誇らしかった」
クロードの手が、彼女の足元から膝へと滑り上がり、そっとドレスの裾を整え直す。
そして、彼は立ち上がると、エリアーナの隣――ベッドのマットレスの端へと腰を下ろし、彼女の華奢な肩を、自らの逞しい胸元へと優しく引き寄せた。
「ぎゅっ」と、密着する身体。
深藍色の礼装の奥で力強く脈打つクロードの心臓の鼓動が、薄いドレスを通して直接伝わってくる。
耳元に触れる彼の温かな息遣いに、エリアーナの胸の奥がきゅっと甘く締め付けられた。
「……怖くはなかった、と言えば……少しだけ、嘘になります」
クロードの胸板に額を預けながら、エリアーナはぽつりと本音を漏らした。
小さな、けれど偽りのない告白。
「あの男が……ユリウス様が飛び出してきた瞬間、ほんの一瞬だけ、あの冷たい執務室の暗闇が脳裏をよぎりました。……また怒鳴られるのではないか、また役立たずと切り捨てられるのではないかと……身体が竦みそうになりましたわ」
「エリアーナ……」
クロードの腕が、痛ましげに彼女を強く抱きしめる。
「ですが」と、エリアーナは顔を上げ、クロードの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
その琥珀色の瞳には、もう一片の恐れも宿っていなかった。
「クロード様が、私の傍にいてくださいましたから。……あの日、国境の森で私を抱きしめてくださった時の温もりが、私に教えてくれたのです。私はもう、一人で暗闇の中で耐え忍ぶ必要はないのだと。……私には、世界で一番優しくて、世界で一番強い夫がいるのだと」
「…………っ」
その瞬間、クロードの喉から、切ない吐息が漏れた。
夫。
彼女の口から零れ落ちたその言葉が、大陸最強の男の胸を、狂おしいほどの歓喜で満たしたのだ。
「ああ……本当に、君という人は……」
クロードは愛おしさに震える手で、エリアーナの髪に飾られていた白銀の髪留めを、そっと外した。
カチリ、と小さな音がして、トパーズと星彩石をあしらったピンがサイドテーブルの上へと置かれる。
結い上げられていた艶やかな栗色の髪が、ハラリと解かれ、夜の帳のように滑らかに彼女の肩と背中へと広がった。
朝露を宿した花のように甘い、彼女自身の体温の香りが、ふわりと寝室の空気に溶け出す。
クロードの指先が、その豊かな髪を優しく梳き、耳の後ろから首筋へと滑り落ちた。
そして――。
ちゅ、と。
エリアーナの白磁のように透き通る首筋の窪みへと、熱い唇が落とされた。
「ひゃっ……!?」
不意の刺激に、エリアーナの肩が小さく跳ねた。
だが、クロードの唇は止まらなかった。
首筋から、耳たぶへ。
耳たぶから、柔らかな顎のラインへ。
そして、頬骨へ、こめかみへ、長い睫毛の端へ――。
雨垂れのように優しく、けれど息が詰まるほど熱烈な口づけが、彼女の顔と首筋の至る所へと降らせていく。
「ク、クロード様……っ、くすぐったいです……!」
身を捩って逃げようとするエリアーナ。
しかし、クロードの太く逞しい腕は、彼女の細い腰をしっかりと抱き寄せたまま、逃げ場を完全に塞いでいた。
大広間で見せていた大公としての威厳や、冷静沈着な仮面は、いまや完全に脱ぎ捨てられていた。
そこにいたのは――ただ一人の愛しい少女に狂わされ、理性を焼き尽くされた、飢えた獣の如き熱情を宿した一人の男であった。
「……駄目だ。離さないよ」
耳元に落ちてくる声は、掠れ、熱く、甘く蕩けきっていた。
クロードの唇が、エリアーナの敏感な耳の裏を甘く甘噛みするように触れ、熱い吐息を直接吹き込む。
「大広間では、よく我慢したと自分を褒めてやりたいくらいだ。……あの群青のドレスを纏った君の姿を目にした瞬間から、私の心臓はずっと狂ったように脈打っていたんだよ。今すぐにでも君をあの場から抱き上げ、この寝室へと連れ去りたかった」
「クロード様ったら……そんな、大勢の前で……」
「君が悪いんだよ、エリアーナ」
クロードは彼女の左手を持ち上げると、薬指に嵌められたばかりの「星光氷晶石」の指輪の上へ、深く、誓うように口づけを落とした。
七色の光彩を放つ純白の魔石が、彼の唇の熱を受けて淡く明滅する。
「あいつが……あの愚か者が、君の名前を呼んだ瞬間、私の頭の中は沸騰しそうだった。あんな薄汚れた男の記憶が、君の心の中に一瞬でも残っていると思うだけで……嫉妬で狂いそうだったんだ」
「クロード様……」
「だから」
クロードの氷青色の瞳が、至近距離からエリアーナを真っ直ぐに射抜いた。
その瞳の奥底で、暗く、熱く、狂おしいほどの独占欲の炎が、ボッと音を立てて燃え盛っている。
「――今夜は一晩中、私の愛だけで君の過去を上書きさせてほしい」
「…………っ!!」
息が、止まった。
耳朶を打つその言葉の熱量に、エリアーナの全身を痺れるような甘い電流が駆け抜けた。
「あの男が君に与えたすべての苦痛を、冷たい部屋の記憶を、理不尽な罵倒の残滓を……この私が、私の手で、私の唇で、私の愛のすべてを使って、一片残らず焼き尽くして溶かしてしまいたいんだ」
クロードの大きな手が、ドレスの背中の留め具へと添えられた。
エリアーナの【万物最適化】によって滑らかに整えられていた魔導留め具が、カチリ、と静かな音を立てて解かれていく。
重厚な群青のシルクが、ふわりと肩から滑り落ち、薄絹の下着に包まれた彼女の白磁のデコルテと、華奢な肩のラインが露わになった。
「あ……」
夜気の涼しさが肌を撫でたのも束の間、次の瞬間には、クロード自身の逞しい胸板の熱が、彼女の素肌をすっぽりと覆い隠していた。
クロードは自らの正礼装の上着を脱ぎ捨て、白いシャツのボタンを胸元まで乱暴に引きちぎるように外すと、剥き出しになった熱い肌を、彼女の柔らかな肌へと直接重ね合わせたのだ。
「あたたかい……」
零れ落ちたエリアーナの呟き。
そう、温かいのだ。
かつてロシュ侯爵邸の執務室で、指先がかじかみ、寒さに歯の根を鳴らしていたあの日々。
どれほど祈っても与えられなかった暖炉の火よりも、何千倍も、何万倍も力強く、魂の芯まで溶かしていく圧倒的な体温。
「君の肌に触れるもの、君の瞳に映るもの、君の耳に届く声のすべてを……私の愛だけで満たしてやる」
クロードの唇が、彼女の鎖骨の窪みへと、深く、深く沈み込んだ。
甘い吸い口の感触とともに、チクリとした痺れるような刺激が走る。
続いて、胸元へ。
母の形見である蒼い星彩石のペンダントのすぐ隣、激しく脈打つエリアーナの心臓の真上へと、彼の唇が愛おしそうに押し当てられた。
「ん……っ、あ……クロード、様……っ」
無意識のうちに漏れ出た、甘く掠れた喘ぎ声。
その声を聞いた瞬間、クロードの腕の力がさらに強まり、彼女の細い腰を引き寄せ、ベッドのシーツの上へとゆっくりと押し倒した。
視界がふわりと反転する。
見上げる天蓋の深藍色のベルベット。
そして――その天蓋の光を背負い、自分を覆い尽くすように覆い被さってくる、白銀の髪の男。
クロードの瞳は、いまや濡れたように熱く、世界でただ一つの獲物を完全に呑み込もうとする情熱に輝いていた。
「エリアーナ……愛しているよ」
低く、震える囁き。
大公としての権力も、戦場での武名も、すべてをかなぐり捨てた、ただ一人の男としての魂の告白。
「君が私に命をくれたあの日から、私の魂は君のものだ。……君の過去も、現在も、未来のすべてを、私に預けておくれ」
「……はい」
エリアーナは躊躇うことなく、自らの両腕を伸ばした。
そして、クロードの逞しい首筋へと、その細い腕をしっかりと回したのだ。
指先を彼のさらりとした白銀の髪の中へと滑り込ませ、自らその唇へと顔を近づける。
「私のすべてを……貴方様に捧げます、クロード様」
「…………っ!」
二人の唇が、重なり合った。
それは、大広間で見せたような形式的な口づけでは断じてなかった。
深く、熱く、息を奪い合い、魂の奥底まで溶け合わせるような、甘美極まりない愛の交歓。
クロードの舌が、エリアーナの桜色の唇を割り、その甘やかな内側を余すところなく味わい尽くしていく。
頭がくらくらするほどの快感と熱気に、エリアーナの睫毛が震え、目尻から再び小さな涙の雫が零れ落ちた。
だが、その涙はすぐに、クロードの優しい指先によって拭い去られ、彼の唇によって奪われていった。
かつて、自分を「地味で愛せない」と切り捨てた男がいた。
だが、いま、その身体を抱きしめているのは――世界で最も強く、世界で最も気高い男であり、その男の命のすべてを使って、自分を愛し尽くしてくれている。
過去の傷痕など、もうどこにも残っていなかった。
彼が落とす口づけのひとつひとつが、彼が囁く愛の言葉のひとつひとつが、彼女の記憶を、魂を、新しい至上の幸福の色で上書きしていく。
夜は、まだ始まったばかりであった。
外の帝都が建国祭の余韻に眠りにつくなか、大公城の主寝室には、二人の甘い呼気と、途切れることのない愛の誓いだけが、深まる夜の闇を満たし続けていた。




