第53話:過去の亡霊の消滅と、新しい世界の誓い
重厚な白銀の大扉が、冷徹な轟音を立てて完全に閉ざされた後――。
大広間に残されたのは、まるで激しい嵐が瞬く間に去り、静謐な朝凪が訪れたかのような、深い、深い沈黙であった。
かつて名門侯爵家の跡取りとして栄華を誇り、他者を踏みにじり続けた男――ユリウス・ド・ラ・ロシュの狂乱の叫び声は、完全に遮断され、二度と戻ることのない闇の彼方へと消え去っていた。
床の赤絨毯の脇には、彼が引きずられていった際に残した黒い泥と血の跡が、わずかに痛々しい二本の筋となって伸びていた。
しかし、それすらも長くその場に留まることは許されなかった。
シュアッ……と。
メイド長ミレイユの鋭い指さばきと合図に応じ、左右の控えの間から純白のエプロンを纏った侍女たちが音もなく滑り出てきた。彼女たちが手にした魔導清掃器から放たれた淡い浄化の燐光が、泥と血痕を撫でた刹那、大理石の床と深紅の絨毯は、瞬きひとつの間に汚れの一片すら残さず、元通りの鏡面のような眩い輝きを取り戻したのだ。
それだけではない。
城の中央にそびえ立つ「白銀の古代樹」から吹き抜けてきた神聖な大気が、大広間を満たしていた饐えた悪臭や澱んだ熱気を完全に洗い流していった。
微かに開いた天窓から舞い散ってきた白銀の花びらが、ふわりと大広間の宙を舞い、シャンデリアの光を浴びて淡い虹色の光の粉となって降り注ぐ。
鼻腔をくすぐるのは、雪解け水のように澄み切った清涼感と、春の訪れを告げる甘やかな花の芳香。
まるで、悪夢のような男の存在そのものが、最初からこの世界のどこにも存在していなかったかのように。
大広間は、ふたたび息を呑むほど壮麗で、神聖な光の園へと還っていた。
「…………」
大階段の麓、赤絨毯の中央。
エリアーナ・ヴァン・ベルクは、胸元に抱いた象牙の扇をそっと握りしめたまま、閉ざされた大扉の方向を見つめていた。
胸の中に、風が吹き抜けていくような感覚があった。
かつて、ロシュ侯爵邸の冷え切った執務室で、夜を徹して数字と格闘しながら、常に恐れていたあの男の怒声。
背中を丸め、爪を噛み、いつ「役立たず」と切り捨てられるのかと怯え続けていた、あの果てしない恐怖と重圧。
あの建国記念夜会で婚約破棄を突きつけられ、身一つで屋敷を抜け出した後も、心のどこかに薄暗い澱のように張り付いていた「過去の亡霊」。
それが――。
いま、完全に消え去っていた。
恨みも、怒りも、復讐を遂げたことに対する浅ましい快感すらも、彼女の胸の内に湧き上がることはなかった。
ただ、あるのは――広大で、果てしなく澄み渡った「安らぎ」。
あの男が自らの罪によって破滅の底へと落ちていったことに対しても、彼女の心はさざ波ひとつ立たなかった。
彼が自らの手で撒いた傲慢と強欲の種を、彼自身の命で刈り取っただけの、あまりにも明白な自業自得。
自分はもう、あの男の人生の登場人物ではないのだ。
彼を憎む必要すら、もはやどこにも残されていなかった。
(終わったのね……。本当に……すべてが、終わったんだわ)
心の中で、その言葉を静かに反芻した瞬間。
二十年間、彼女の細い肩に食い込み、呼吸すら浅くさせていた見えない重荷のすべてが、ふわりと羽毛のように空へと溶け去っていった。
――その時であった。
「……エリアーナ」
耳朶を打つ、この世の誰よりも低く、甘美で、優しいバリトンの声。
エリアーナの華奢な腰に回されていた逞しい腕が、わずかに力を込め、彼女の身体を慈しむように自らの方へと引き寄せた。
振り返ったエリアーナの視界に飛び込んできたのは、深藍色の正礼装に身を包んだ大公クロードの姿であった。
先ほどまで、泥まみれの侵入者を見下ろしていたあの「絶対零度の死神」の表情など、どこにも残っていなかった。
氷の刃の如く研ぎ澄まされていた切れ長の氷青色の双眸は、いまや春の陽だまりをすべて溶かし込んだかのように蕩けきり、熱い、切ないほどの情愛の光で彼女の姿だけを映し出していた。
クロードは、大広間に居並ぶ数百名の王侯貴族や他国使節団の視線など、ただの一ミリたりとも意に介していなかった。
彼にとって、この大広間に存在する意味のある人間は、己の腕の中に抱かれた、この小さな少女ただ一人だけであったのだ。
「クロード様……」
エリアーナが小さく名を呼ぶと、クロードの薄い唇が、愛おしさに震えるように微かに緩んだ。
彼は右手をそっと伸ばすと、エリアーナが胸元に抱いていた象牙の扇を、優しく自らの手で受け取った。
そして、控えていたメイド長のミレイユへと手渡すと、再びエリアーナの両手へと、己の素手を重ね合わせたのだ。
ひやり、としない。
冷気の魔力を極限まで操る男の手は、驚くほど力強く、陽光のように温かかった。
クロードは彼女の細く、白磁のように透き通る両手を、包み込むようにして自らの胸元――力強く規則正しく脈打つ心臓の真上へと引き寄せた。
「……怖くはなかったかい?」
掠れた、囁くような問いかけ。
大広間の誰もが息を詰めて見守るなか、クロードの声は、ただ彼女の耳にだけ届くように甘く震えていた。
「いいえ」
エリアーナは首を横に振った。
その琥珀色の瞳は、夜空の星のように清冽な輝きを湛えている。
「ちっとも、怖くありませんでした。……クロード様が、私の傍にいてくださったから」
「そうか。……よく、立ち向かってくれたね。君のその誇り高く凛とした姿は、私の魂のすべてを射抜くほどに美しかったよ」
クロードは愛おしげに目を細めると、彼女の指先をそっと解き、彼女の「左手」だけを自らの右手の掌の上へと優しく乗せた。
そして――。
スッ、と。
クロードは自らの正礼装の胸元――純白の毛皮のマントの内側へと左手を差し入れた。
取り出されたのは、掌に収まるほどの、深紅のベルベットで作られた小さな小箱であった。
箱の表面には、アルジェント帝室の直系にのみ受け継がれるという、白銀の竜と百合の冠を象った至高の紋章が、純金で精緻に刻印されている。
「…………っ」
その小箱を目にした瞬間、大階段の脇に控えていた公爵令嬢コンスタンスが、扇を握る手に力を込めて息を呑んだ。
近衛騎士団長バスティアンの背筋がさらに一段と張り詰め、宮廷魔導士ニコラが「あ……!」と声を漏らし、尖塔から駆け下りてきていた諜報部隊長ロヴェルが、満足げな笑みを深める。
列席する帝国の大貴族たちからも、どよめきに近い感嘆の息が漏れ出していた。
彼らには分かっていたのだ。
あの小箱に収められているものが、一体どれほどの歴史と重みを宿した「帝国の魂」であるかを。
パチン、と。
静かな金属音が響き、ベルベットの小箱の蓋が、クロードの親指によって開け放たれた。
「まあ……!」
エリアーナの唇から、驚きの吐息が零れ落ちた。
黒ビロードのクッションの中央に鎮座していたのは、一本の指輪であった。
細身の白銀のリングには、太古の氷竜の鱗を溶かして鍛え上げられたという伝説の霊金属が用いられ、繊細を極めた唐草の透かし彫りが施されている。
そして――その頂点に掲げられていたのは、親指の爪ほどの大きさを誇る、息を呑むほど透き通った「純白の魔石」であった。
アルジェント帝国の国宝――『星光氷晶石』。
極北の永久凍土の最深部、千年に一度だけ採掘されるとされる、世界にただ一つしか存在しない伝説の至宝。
濁り一つない純白の結晶の内部には、まるで星空の光そのものを閉じ込めたかのような、七色の淡いオーロラの光彩が揺らめき、見つめる者の心を洗い清めるような神聖な魔力波を放っていた。
クロードはその至宝の指輪を、自らの指先で恭しく摘み上げた。
そして――。
トン、と。
大広間の深紅の赤絨毯の上へ。
数百名の王侯貴族たちが息を呑んで見守る、まさにその公衆の面前において。
アルジェント帝国の大公、大陸最強の覇王クロードが、再び、何のためらいもなく自らの右膝を折り曲げて傅いたのだ。
「クロード様……!?」
エリアーナが息を呑み、わずかに身を引こうとした。
しかし、クロードの手は、彼女の左手の指先を、羽毛のように優しく、しかし確固たる愛の意志をもって、決して離そうとはしなかった。
見上げるクロードの顔立ちは、息を呑むほどに美しかった。
切れ長の氷青色の双眸は、どこまでも深く、どこまでも澄み渡り、エリアーナの顔だけを、己の全世界を見るかのように見つめている。
大広間のシャンデリアの光が、二人の頭上へと降り注ぎ、神話の降臨の如き光の柱を作り出していた。
クロードは指輪を掲げ、エリアーナの白く滑らかな左手――その「薬指」の先端へと、冷涼な宝石の輪をそっとあてがった。
そして――。
大広間の全員の魂を震わせるような、甘く、深く、そして永遠を誓うバリトンの声を響かせたのだ。
「――エリアーナ」
その呼びかけに、エリアーナの心臓がトクンと大きく跳ね上がった。
「君を虐げ、搾取し、その尊き光を曇らせようとした過去の亡霊は……いま、完全に消え去った」
クロードの声音には、揺るぎない絶対の確信が宿っていた。
一言ひとことが、彼女の魂に刻み込まれていた過去の傷痕を、光で洗い流していく。
「君を役立たずと呼ぶ者など、この世界のどこにも存在しない。
君を地味だと蔑む者など、天地が裂けても許しはしない。
君はこの世で最も尊く、最も気高く、そして――この私の、命そのものだ」
クロードの指先が、ゆっくりと指輪を押し進めた。
白銀のリングが、エリアーナの細く美しい薬指の根元へと、滑らかに、完璧に吸い付くように収まる。
カチリ、と。
指輪が嵌まった瞬間、純白の魔石から、淡い七色の燐光がふわりと立ち上り、エリアーナの指先を、そして彼女の纏う群青のドレスの星空刺繍と共鳴するように、眩い祝福の光の輪を描き出した。
クロードは彼女の薬指の根元に輝く指輪を慈しむように見つめ、次いで、再びその至高の双眸をエリアーナへと向けた。
その瞳の奥底から、熱く、狂おしいほどの愛の誓いが紡ぎ出される。
「――君の未来のすべてを、私が永遠に愛と光で満たそう。
君が流す涙は、今宵を最後に、私がすべて歓喜の涙へと変えてみせる。
我が富も、権力も、この命も、魂のすべてを君に捧げる。
……どうか、私の妃として、私の生涯の光として、永遠に私の隣にいてくれないだろうか」
「…………っ!」
息が、詰まった。
胸の奥底で、熱いものが怒涛の勢いで押し寄せてくる。
――君の未来のすべてを、私が永遠に愛と光で満たそう。
その言葉が、耳の奥で木霊するたびに、彼女の全身の細胞が、歓喜の震えを上げた。
かつて母を亡くし、誰からも愛されず、冷たい石壁の中で使い潰されるためだけに生きていた二十年間。
泣くことすら許されず、助けを求めることも諦め、孤独の暗闇の中でただ耐え忍んでいたあの日々。
そのすべての苦痛が、この瞬間のためにあったのだと――そう思えてしまうほどの、途方もない救済の光。
エリアーナの琥珀色の瞳から、ポロリと、ひとしずくの雫が零れ落ちた。
それは、もう悲しみの涙ではなかった。
恐怖の涙でも、悔しさの涙でもない。
世界で一番強く、世界で一番優しい男に、魂の底から愛され、肯定されたことに対する――純度百パーセントの、幸福の涙であった。
ポロポロと、真珠のような涙が彼女の白い頬を伝い落ちる。
クロードは跪いたまま、愛おしげに息を呑むと、自らの素手でその涙の雫をそっと指先で掬い取った。
そして、その指先に自らの唇を当て、祈るように目を細めたのだ。
「……泣かないでおくれ、私の愛しい人。君の涙を見るだけで、私の胸が張り裂けそうだ」
「いいえ……クロード様」
エリアーナは涙で濡れた顔を上げ、春の満開の花が咲き誇るような、この世で最も眩い笑顔を浮かべた。
「悲しいのではありません……。私……私、嬉しくて……幸せで、たまらないのです。……こんなに幸せな日が、私の人生に訪れるなんて、夢にも思っていませんでした」
エリアーナは左手を胸元へと引き寄せ、薬指に輝く純白の魔石をそっと抱きしめた。
そして、跪くクロードの前で、優雅に、深く、完璧な一礼を返したのだ。
「謹んで、お受けいたしますわ、クロード様。……私の命も、私の心も、すべて貴方様のものです。生涯、貴方様の隣で、貴方様を愛し、支え続けることを誓います」
「…………っ!」
その受諾の言葉を聞いた瞬間、クロードの顔に、この世のすべての歓喜を集めたかのような極上の笑みが咲き誇った。
彼は弾かれたように立ち上がると、エリアーナの華奢な身体を自らの逞しい両腕の中に抱き上げ、天へと高く掲げるようにして、強く、強く抱きしめたのだ。
ふわりと舞い上がる群青のドレスの裾。
星々の刺繍が光を散らし、エリアーナの豊かな栗色の髪がクロードの白銀の髪と重なり合って揺れる。
クロードは彼女を自らの胸元へと優しく降ろすと、大広間の全員が見守る前で、彼女の額へと、深く、熱く、誓いの口づけを落とした。
その瞬間――。
ワァァァァァァァァッッッ――!!!!
ドォォォォォンッ!!
大広間の天蓋を突き破らんばかりの、割れんばかりの歓声と、地鳴りのような拍手の嵐が爆発した。
「万歳!! 大公閣下万歳!!」
「大公妃殿下に栄光あれ!! 奇跡の聖女様万歳!!」
「二人に神の祝福を!! アルジェント帝国に永遠の栄華あれ!!」
数百名の貴族たちが、他国の使節たちが、歴戦の将軍たちが、我を忘れて総立ちとなり、両手を打ち鳴らして叫んでいた。
コンスタンスが涙ぐみながら扇を高く掲げて拍手を送り、
ミレイユが誇らしげに胸元で十字を切り、
バスティアンが神剣を掲げて雄叫びを上げ、
ニコラが「お姉さまぁー!」と飛び跳ねて喜び、
ロヴェルが極上の笑顔で指笛を鳴らす。
宮廷楽団の指揮者がタクトを振り下ろし、大広間には、建国祭史上最も壮麗で、最も華やかな祝賀のワルツが鳴り響いた。
天窓からは、満開の「白銀の古代樹」の花びらが雪崩のように降り注ぎ、二人の頭上を、そして大広間全体を、純白と光の雨で染め上げていく。
かつて、誰にも愛されず、薄暗い部屋で孤独に震えていた少女は。
いま、大陸中の頂点に立つ人々の惜しみない祝福と、世界で最も強い男の揺るぎなき愛に包まれ、至高の光の真ん中に立っていた。
理不尽な宣告から始まった旅路。
搾取と侮蔑の過去は、いまや完全に打ち砕かれ、塵芥となって消え去った。
そして――すべてを乗り越えたエリアーナの前に、甘やかで、満ち足りた、永遠の幸福の物語の扉が、いま、完璧に開け放たれたのである。




