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第52話:冷酷な判決——極北の鉱山送り

白銀の大広間に満ちていたのは、息を吸い込むことすら憚られるほどの、重厚にして完全なる静寂であった。


赤絨毯の中央、割れた氷柱の破片と飛び散った泥水の上に、無様に這いつくばったまま痙攣を繰り返すユリウス・ド・ラ・ロシュ。

王国の全権特使デルクロワ伯爵によって読み上げられた国王親書の余韻は、大広間の天井の隅々にまで冷徹な宣告となって木霊し続けていた。


――侯爵位の永久剥奪。

――貴族籍からの除名、平民以下の罪人への転落。

――領地、鉱山、本邸を含む全財産の没収と、家名の歴史からの完全抹消。

――そして、母国からの外交的保護権の完全放棄。


それは、ユリウスという男のこれまでの人生、彼が誇り、縋り付いてきたすべての基盤が、ただの一枚の羊皮紙によって根こそぎ消滅させられた瞬間であった。

床に擦り付けられた彼の額からは、破れた包帯を通して赤黒い血と泥が滲み出し、敷き詰められた深紅の絨毯を汚していた。

両手で床を掻きむしり、爪を割きながら、彼は魚のように口をパクパクと開閉させていた。


「あ……あぁ……っ、嘘だ……嘘だろ……! 私が……私が平民だと……!? 名門ロシュ侯爵家が……消滅しただと……!?」


信じたくない現実。

認めれば、己という存在の価値が完全に無へと帰してしまう。

ユリウスは震える腕で辛うじて上半身を持ち上げると、未だ床に平伏している母国の特使デルクロワ伯爵へ向けて、血走った眼球を剥き出しにして縋り付いた。


「伯、伯爵閣下……! お待ちください、何かの間違いです! 私は国王陛下に忠誠を尽くしてまいりました! 父上の代からの功績を思い出してください! あんな親書、何者かの偽造に決まっています! 私を王国へ連れ帰ってください! 王宮へ行き、陛下に直接お目通りさせていただければ、誤解はすべて解けますからぁッ!!」


必死の形相で叫ぶユリウス。

しかし――デルクロワ伯爵は、平伏した姿勢のまま、首をわずかに傾けてユリウスを一瞥しただけであった。

その老眼に宿っていたのは、哀れみすら通り越した、ただの汚物を見るかのような冷淡な光。


「……見苦しいぞ、名もなき罪人よ」

伯爵の声音は、乾いた石のように冷え切っていた。

「貴様が犯した数々の失政、領民への暴虐、そして公文書偽造の証拠は、すでに国王陛下の御前にすべて提出され、貴族院の全会一致で審理を終えているのだ。……陛下は貴様の名をお聞きになるだけで激怒され、親書に署名なされた。貴様の帰り着く場所など、我が王国のどこを探しても存在せんわ」


「そ、そんな……! 嘘だ、嘘だぁぁぁッ!!」


「それ以上、我が国の名誉を汚すような声を上げるな。貴様の身柄の処遇は、すべて大公閣下に一任されている。……貴様を裁くのは、我が国ではない」


デルクロワ伯爵は吐き捨てるように告げると、再びクロードとエリアーナへ向けて深々と額を床に擦り付け、完全に沈黙した。


母国の完全な拒絶。

逃げ場は、どこにも残されていなかった。

法も、国家も、かつての身分も、彼を保護する防壁にはなり得なかった。


「う……あ……ぁ……」


ユリウスの口から、魂の抜けたような掠れた息が零れ落ちる。

膝の凍傷による激痛が、再び神経を焼き爛れさせるように全身を駆け巡った。

見上げる視線の先。

赤絨毯の向こう、一段高い大階段の麓に佇む二人の姿が、涙と血で濁った彼の視界に映り込む。


世界で一番美しく、夜空の星々をそのまま縫い留めたような群青の至高のドレスを纏ったエリアーナ。

その隣で、彼女の細い腰を力強く抱き寄せ、自らの広大な深藍色のマントの陰へと完璧に匿っている大公クロード。


そして――。


ザッ、と。


クロードが、一歩、前へと踏み出した。


ただ、それだけの仕草であった。

だが、その瞬間、大広間の空気がピキリと音を立てて凍りついた。

数百名の王侯貴族たちが一斉に息を呑み、静まり返る。

クロードの全身から立ち上っていたのは、他国の軍勢を一瞬にして氷河の底へと沈める「氷の魔将」としての、本物の、底知れない覇気の奔流であった。


彫刻のように完璧に整いながらも、触れるものすべてを死に至らしめるかのような峻烈なる美貌。

その切れ長の氷青色の双眸が、床に這いつくばるユリウスを、踏み潰すべき羽虫を見るかのように冷徹に見下ろしていた。


「…………っ!?」


ユリウスの全身の毛穴から、一瞬にして冷たい汗が噴き出した。

見下ろすクロードの視線に射抜かれただけで、心臓を凍りついた手で直接握り潰されたかのような、抗いようのない絶対的な恐怖が背筋を貫く。


クロードは、腰に佩いた白銀の長剣の柄にそっと手を添えたまま、低く、深く、静謐なバリトンの声で口を開いた。


「――ユリウス」


名前を呼ばれただけで、ユリウスの喉がヒクヒクと痙攣した。


「我がアルジェント帝国に対する不法越境、並びに式典への不法侵入。……そして、我が愛しき妃であり、帝国の至宝たるエリアーナに対し、公衆の面前で不敬極まりない暴言を吐き、あまつさえ危害を加えようと突進した大罪」


クロードの声音には、怒りの昂りすら混ざっていなかった。

それは、絶対強者が下す、自然の摂理の如く冷酷な「確定事項」の伝達。


「貴様の母国の王が外交的保護権を放棄した以上、貴様の身柄の処遇は、完全に我がアルジェント帝国の法の下に置かれた。……貴様は先ほど、『母国へ送還しろ』と喚き散らしていたな?」


「ひ……っ、は、はい……! 送還を……どうか、本国への強制送還を……!」


ユリウスは藁にもすがる思いで、床に額を擦り付けながら懇願した。

爵位を奪われ、財産を没収されようとも、母国へ送還されれば命だけは助かるかもしれない。王都の地下牢に入れられようと、他国の冷酷な公爵に処刑されるよりは遥かにマシだ――そんな浅ましい計算が働いていたのだ。


しかし――。

その哀れな命乞いを聞いたクロードの薄い唇の端が、三日月の如く冷ややかに、そして残忍に吊り上がった。


「――母国への送還など、生ぬるい」


「…………え?」


ユリウスの思考が、一瞬停止した。


「貴様のような卑劣漢を、母国の監獄でぬくぬくと養ってやる筋合いなど微塵もない。我が妃の心を三年間にわたって傷つけ、搾取し、あまつさえこの聖域を泥で汚した罪を……ただの投獄程度で清算できるとでも思っていたのか?」


クロードの氷青色の瞳の奥底で、暗く、禍々しい処刑の炎がギラリと瞬いた。

彼が下した判決は――ユリウスの想像を絶する、生き地獄の宣告であった。


「――大罪人ユリウス」


大広間の天井を揺るがすような、冷徹なる宣告。


「貴様を、帝国最北端――【極北の永久凍土鉱山】へと送致する。……生涯、恩赦なき重罪人として、大地の底にて罪を贖う過酷な採掘労働に服すがいい」


「…………っ!!」


――極北の永久凍土鉱山。


その言葉が放たれた瞬間、大広間に居並ぶ帝国貴族たちのみならず、歴戦の猛者たる他国の将軍や特使たちすらも、一斉に息を呑み、青ざめて身震いした。


アルジェント帝国の最北端。

太陽の光すら届かぬ氷壁の裂け目、年中猛吹雪が吹き荒れ、気温が氷点下数十度を下回る「白銀の墓場」。

国家反逆罪を犯した重犯罪者や、凶悪な暗殺者のみが送り込まれるという、大陸で最も過酷な流刑地。

そこでの労働は、鋼のように凍てついた岩盤を、手作業のツルハシで一日十六時間以上削り続け、凍える粗末な黒パンと泥水を啜りながら、死ぬまで地上へ戻ることを許されないという、正真正銘の「生ける地獄」であった。

どんな屈強な大男であっても、一年と持たずに凍傷で手足を失い、肺を患って息絶えると言われる場所。


それを――生涯。

恩赦なしの、終身重労働。


「きょ……極北の……永久凍土鉱山……!?」


ユリウスの顔面が、恐怖のあまり土気色を通り越して、死人のような白蝋へと変色した。

全身の血液が逆流し、息が吸えなくなる。

温室育ちの貴公子として、贅沢と遊興に溺れて生きてきたこの自分が。

太陽の光すら届かない極寒の地の底で、泥と氷にまみれ、死ぬまでツルハシを振るい続けろというのか。


「い……嫌だ……! 嫌だ、嫌だ、嫌だぁぁぁッ!!」


ユリウスは狂乱し、床の赤絨毯を爪が剥がれるほど掻きむしりながら叫び散らした。

膝の凍傷の激痛すら忘れ、頭を床に何度も、何度も激しく打ち付け、血を飛び散らせながら絶叫する。


「嫌だぁぁッ! そんなところへ行ったら死んでしまう! 私は貴族だぞ! 肉体労働など一度もしたことがないんだ! ツルハシなど持てるわけがないだろうがッ!!」


喚き散らすユリウス。

だが、クロードの氷の眼差しは、ただの一ミリたりとも揺らぐことはなかった。

彼は冷ややかに鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。


「貴族だと? 貴様の爵位は先ほど剥奪されたはずだ。……己の手で汗水垂らして働くことの尊さすら知らず、他人の成果を貪り食うことしかできなかった寄生虫には、まさにふさわしい終着駅ではないか。……死ぬまでその貧弱な身体で、己が犯した罪の重さを氷の底で噛み締めるがいい」


「ひぃぃっ……! 助けてくれ……! 誰か……誰か助けてくれぇぇぇッ!!」


ユリウスは這いつくばりながら、周囲の貴族たちへ向けて必死に手を伸ばした。

しかし、誰も彼に手を差し伸べる者はいなかった。

デルクロワ伯爵は冷たく背を向け、コンスタンスは扇で口元を覆って嘲笑い、ニコラは「ざまあみろ」と杖を弄び、バスティアンは神剣の柄を握りしめて殺気を放つのみ。


そして――。

すべての退路を断たれたユリウスが、最後に向けた視線の先。

そこにいたのは――クロードの腕の中で、静かに佇むエリアーナであった。


「…………っ、エリアーナ!!」


ユリウスの濁りきった瞳に、最後の、そして最も浅ましい光が宿った。

彼は床に額を擦り付け、血と泥と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、エリアーナへ向けて、両手を拝むように合わせて叫び狂ったのだ。


「エリアーナ! 助けてくれ! お前なら……お前なら私を助けられるだろう!? 大公閣下に言ってくれ! 私を許してやってくれと頼んでくれぇぇッ!!」


喉が破れんばかりの絶叫。

かつて彼女を『地味で愛嬌がない』と見下し、虫けらのように踏みにじっていた男が、いまやその彼女の足元に額を擦り付け、命乞いをしている。


「悪かった! 私が全部悪かったよ、エリアーナ! お前を役立たずと呼んだことも、ティファーヌを選んだことも、全部私の間違いだった! お前の淹れてくれたお茶が……お前の優しさが、どれほど温かかったか、屋敷を失って初めて思い知ったんだ! お前なしでは……お前なしでは、私は生きていけないんだぁぁッ!!」


ユリウスは這い進もうと、凍りついた両脚を引きずりながら、必死に手を伸ばした。

その瞳から流れる涙は、後悔の涙ではない。

ただ自分が地獄へ送られる恐怖から逃れるためだけの、薄汚い保身の涙。


「愛しているんだ、エリアーナ! 昔のように笑ってくれ! 私を愛してくれ! 私を許してくれぇぇぇッ!!」


愛している。

その言葉が口から飛び出した瞬間、大広間のあちこちから、耐え難いほどの失笑と怒りの声が漏れ出た。

すべてを失い、処刑台の階段を登らされたその最後の瞬間に至って、ようやく口にされた「愛」という名の免罪符。

これほど薄っぺらく、これほど侮辱的な言葉が、この世のどこにあるだろうか。


「…………」


クロードの胸元で守られていたエリアーナが、ゆっくりと視線を落とした。


彼女は、床に這いつくばって泣き叫ぶ元婚約者を、静かに見つめた。

群青のドレスの胸元で、母の形見の蒼い星彩石が、淡く清廉な光を放っている。

その琥珀色の瞳には、怒りも、復讐の歓喜すらもなかった。

ただ――どこまでも澄み切った、秋の夜空のような静謐。


エリアーナは、そっと閉じた象牙の扇を胸元に抱き直すと、小さく、哀しげに首を横に振った。


「……ユリウス様」


その声は、鈴を転がすように清らかで、大広間の隅々にまで透き通って響いた。


「愛……ですか? ……いいえ。貴方が愛していたのは、ご自身の虚栄心と、ご自身に都合の良い便利な雑用係だけでしょう」


「な…………っ!?」


「貴方は一度たりとも、私を見てくださったことなどありませんでした。私がどれほど苦しみ、どれほど疲れ果てていたかも……そして、あの日、私がどれほどの決意をもってあの屋敷を去ったのかも、何一つ理解しようとなさらなかった」


エリアーナは凛として背筋を伸ばし、クロードの逞しい胸元へと、自らの背中をそっと寄り添わせた。

二人の間に流れる、絶対の愛と信頼の絆。

彼女は、春の陽だまりのように誇らしく、微笑んでみせたのだ。


「――私は今、世界で一番、幸せです」


一点の曇りもない、真実の言葉。


「私を丸ごと肯定し、私を命懸けで守り、世界で一番甘やかに愛してくださる……素晴らしい殿方が、私の隣にいてくださいます。……ですから、ユリウス様。貴方にお渡しする未練も、慈悲も、私はただの一滴すら持ち合わせておりませんわ」


「エリアーナ……っ、そんな……そんな冷たいことを言わないでくれ……!」


「――さようなら、ユリウス様」


エリアーナは優雅に視線を逸らし、彼から完全に目を背けた。

二度と振り返ることはない。

完全なる、永遠の決別。


「あ…………あぁ…………っ!!」


ユリウスの喉から、絶望の叫びが引き裂かれるように漏れた。

最後の光が、完全に消え去った瞬間であった。


そして――クロードが、冷ややかに右手を持ち上げ、指を軽く鳴らした。


パチンッ。


「――連れて行け」


主君の絶対命令。

その瞬間、大広間の左右に控えていた四名の屈強な帝国近衛兵たちが、抜刀した長槍を構え、一斉に踏み込んできた。


ガシャァンッ!!


兵士たちの手にした重厚な黒鉄の枷(かせ)が、床に這いつくばるユリウスの両手首へと、容赦なく力任せに打ち込まれた。

太い鎖がギリギリと締め上げられ、肉に食い込む。

同時に、足元を覆っていた氷柱が、クロードの魔力操作によってパキパキと崩落し、ユリウスの肉体は大理石の床の上へと完全に引きずり倒された。


「ひ……っ、やめろ! 離せ! 触るなァッ!!」


ユリウスは暴れ、床を爪で掻きむしりながら抵抗しようとした。

しかし、鍛え上げられた近衛兵たちの力の前には、衰弱した元貴族の抵抗など羽虫の羽ばたきにも等しかった。

兵士たちはユリウスの両脇を力任せに掴み上げると、まるで汚れたゴミ袋でも運ぶかのように、赤絨毯の上を力任せに引きずり始めたのだ。


ズザザザザッ……!!


大広間の大理石の床を、ユリウスの泥まみれの身体が引きずられていく。

爪が床を擦り、黒い泥と血の筋が、赤絨毯の脇に無残な二本の線となって伸びていく。


「エリアーナァァァッ!! エリアーナぁぁぁッ!!」

ユリウスは首を後ろへと無理やりねじ曲げ、大階段の麓に立つエリアーナへ向けて、血の涙を流しながら絶叫し続けた。


「助けてくれ! 許してくれ! 愛しているんだぁぁぁッ! エリアーナァァァァァッッ――!!」


喉が破れ、声帯が裂け、獣のような濁声となって響くその悲鳴。

だが、その声に耳を傾ける者は、大広間の数百名の中にただの一人も存在しなかった。

列席者たちは露骨に顔を背け、汚物を運び出す作業を見守るかのように、冷淡な視線を投げかけるだけであった。


大広間の巨大な白銀の二重扉が、重々しい音を立てて開け放たれる。

その扉の向こう――暗闇に沈む城外へと、ユリウスの身体は乱暴に放り出されていく。


「嫌だぁぁぁッ! 行きたくない! 鉱山なんて嫌だぁぁぁッ! エリアーナァァァァァ――ッ!!」


ドガァァァンッ!!


重厚な二重扉が、冷徹な轟音を立てて完全に閉ざされた。

カチリ、と巨大な閂が下りる音。


その瞬間――耳障りな狂乱の叫び声は、完全に遮断され、二度と届かない闇の彼方へと消え去った。


完全なる、社会的抹殺。

かつて栄華を誇り、他者を踏みにじり続けた傲慢な男は、いまや名前も、身分も、財産も、尊厳すらもすべて奪われ、二度と太陽の光を浴びることのない極北の地の底へと、永遠に追放されたのだ。


「…………」


静寂が、大広間に戻っていた。


床に残された、わずかな泥と血の筋。

しかし、それすらも、ミレイユが指を鳴らして呼び寄せた侍女たちの手によって、浄化魔法のモップで瞬く間に綺麗さっぱりと拭い去られ、大理石は再び鏡面のような輝きを取り戻した。

まるで、最初からそんな男など、この世界のどこにも存在していなかったかのように。


大広間の空気が、ふっと穏やかに緩んだ。

張り詰めていた殺気が消え去り、再び暖かな春の光のような、至高の安寧が会場を満たしていく。


そして――。

赤絨毯の上で、クロードはゆっくりと身を翻すと、腕の中に守っていたエリアーナへと向き直った。

その氷青色の瞳には、先ほどの冷酷な死神の貌など微塵もなく、ただ世界で最も愛しい宝物を慈しむ、蕩けるような優しい光だけが宿っていた。

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