第51話:国王からの親書と、完全な孤立
大広間に満ちていたのは、息をすることすら汚らわしいと言わんばかりの、完全なる拒絶と軽蔑の空気であった。
床から生え出た鋭利な氷柱によって両脚を太腿まで完全に凍結され、赤絨毯の中央にみじめに縫い止められたユリウス・ド・ラ・ロシュ。
彼の首筋には、近衛騎士団長バスティアンが構える神剣の切っ先が深々と押し当てられ、裂けた皮膚から滲み出た生温かい血が、泥にまみれた襟元を赤黒く染め上げていた。
膝の凍傷から伝わる激痛は、もはや感覚を麻痺させ、骨の芯まで氷の針が突き刺さるような激しい痺れへと変わっている。
「う……あ……ぁ……っ」
ユリウスの唇から、血の泡混じりの呼気が零れ落ちた。
知性を誇っていたはずの脳髄は、先ほど諜報部隊長ロヴェルから突きつけられた無慈悲な事実によって、完全に粉々に粉砕されていた。
――ティファーヌの完全なる破滅。
屋敷の金目のものをすべて奪って夜逃げしたはずの妹は、結界の切れた街道で魔獣に襲撃され、人身売買組織に捕まり、最後は王国の治安部隊によって泥まみれのまま牢獄へと叩き落とされたという。
そして――自分が三年間にわたって社交界で誇らしげに語っていた領地経営の栄華。
そのすべての決算書や治水計画書が、エリアーナの手による筆跡であることが暴かれ、自分がやったことといえば、ただ彼女の名前を削り取って己の署名を書き殴っただけの「泥棒」に過ぎなかったという真実。
(終わりだ……。全部、終わりだ……!)
脳内で、絶望の鐘が乱打される。
金はない。
屋敷の家具も美術品も差し押さえられた。
領民からは憎悪を向けられ、頼みの綱であった妹には裏切られ、その妹すら犯罪者として捕縛された。
周囲を取り囲む数百名の帝国貴族たち、他国の使節団、そしてかつて社交界で媚びを売ってきた男たちですら、いまや自分を「泥水を啜る豚」と蔑み、汚物を見る目で嘲笑っている。
だが――。
己の過ちを認めることすらできないほど肥大化し、腐りきったユリウスのプライドは、この期に及んでもなお、最後の最後に残された「唯一の拠り所」へと狂気じみて縋り付こうとしたのだ。
(……いや、まだだ。まだ私は終わっていない……!)
ユリウスはガチガチと音を立てて前歯を噛み合わせ、血走った眼球をギラつかせた。
首筋に神剣の刃が食い込み、さらなる血が滲むのも構わず、喉を引き裂くような叫びを絞り出す。
「な……何を偉そうに断罪した気になっているんだ、他国の野蛮人どもめが……!!」
唾液の飛沫を撒き散らしながら、ユリウスは赤絨毯を見下ろす大公クロードへ向けて、威嚇するように目を剥いた。
「言わせておけば、好き勝手な法螺話ばかり並べ立ておって! ここはアルジェント帝国だ! 他国の法で、この私を裁けるはずがないだろうが! 私は……私は王国屈指の名門、ロシュ侯爵家の正統なる後継者にして、王国の法によって守られた高貴なる爵位貴族なのだぞ!!」
ユリウスは震える右腕を振り上げ、大広間の天井へ向けて狂乱の叫びを響かせた。
「他国の公爵ごときが、他国の貴族を勝手に拘束し、処刑するなど許されるはずがない! 王国と帝国の間の国際法に対する重大な侵犯だ! 我が母国の国王陛下が……高潔なる我が王国の騎士団が、この暴挙を黙って見過ごすはずがないのだぁぁぁッ!!」
母国の威光。
自らの背負う「王国の名門貴族」という肩書き。
それこそが、彼が最後に握りしめた、泥で汚れた頼みの綱であった。
いかに帝国が軍事大国であろうと、他国の領主階級を公衆の面前で処刑すれば国際問題に発展する。自分は王国へ送還され、本国の庇護の下で守られる権利があるのだと――そう叫び立てることで、彼は自らの命を繋ぎ止めようとしたのだ。
「そうだ! この会場にも、我が王国の公式使節団が参列しているはずだ! 特使殿! 特使殿はいらっしゃらないのか!? この不当な暴虐から、高貴なるロシュ侯爵家の私を保護してくれぇぇぇッ!!」
見苦しい絶叫が、静まり返った大広間に反響した。
諸侯の間から、呆れ果てた溜息が漏れる。
だが、ユリウスはその溜息すら「特使が動き出す予兆だ」と特大の勘違いをし、救いを求めるように大広間の参列者たちの顔を必死に見回した。
――そして。
彼のその必死の呼びかけに応じるかのように、大広間の南側――外国使節団が居並ぶ最前列から、重々しい足音が響き始めた。
ザッ、ザッ、ザッ、と。
静寂の赤絨毯の脇を、群衆がサッと左右に割れて道を空けていく。
歩み出てきたのは、王国の正統なる紋章――黄金の獅子と百合の冠が精緻に刺繍された深紅のマントを羽織った、一団の使節たちであった。
先頭に立つのは、豊かな白髪を厳格に撫で付け、胸元に王室最高顧問の証である金の鎖を幾重にも下げた、威厳ある老貴族。
王国の全権特使――デルクロワ伯爵であった。
「……ほ、ほら見ろ! デルクロワ伯爵閣下だ!」
ユリウスの顔に、地獄の底で蜘蛛の糸を掴んだかのような、狂気じみた歓喜の光がパッと灯った。
助かった。
やはり母国の特使が名乗り出てくれたのだ。
王国の名門貴族である自分を、この野蛮な帝国の氷の檻から救い出し、本国へと連れ帰ってくれるに違いない――!
「伯爵閣下! よくぞ名乗り出てくださいました! ご覧ください、この野蛮な帝国軍の暴虐を! 私は次期ロシュ侯爵たる身でありながら、足元を凍結され、首筋に刃を突きつけられているのです! 至急、本国の名の下に抗議声明を出し、私を保護してください! あまつさえ、あの不貞な元婚約者エリアーナを連れ戻すための身柄引き渡しを――」
歓喜に歪んだ顔で捲し立てるユリウス。
だが――大階段の真下、赤絨毯の境界まで歩み寄ってきたデルクロワ伯爵の足が、ピタリと止まった。
伯爵の眉間には、深い、深い嫌悪と怒りの皺が刻まれていた。
その双眸に宿っていたのは、同胞を救う情けなどでは断じてなかった。
ただ、王国の名誉を泥溝の中に叩き落とした汚物を、これ以上視界に入れたくもないと吐き気を催すような――絶対零度の「軽蔑」であった。
「…………」
伯爵は、ユリウスへ向けて一言の言葉すら返さなかった。
彼は泥まみれのユリウスの存在など、まるでそこに転がる瓦礫であるかのように完全に一瞥で無視すると、赤絨毯の向こう――大公クロード、そしてその腕の中に寄り添うエリアーナの前へと、静かに進み出たのだ。
そして。
ユリウスの常識を、彼の壊れかけた世界のすべてを根底から叩き割る光景が、繰り広げられた。
――トンッ。
深紅のマントを翻し、王国の全権特使であるデルクロワ伯爵が、何のためらいもなく、自らの両膝を赤絨毯の上へと落としたのだ。
背後に控えていた王国の使節団員十数名も、寸分の狂いもなく同時に床へと平伏し、深々と額を大理石の床へと擦り付けた。
「な…………っ!?」
ユリウスの喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
王国の最高顧問たる伯爵が。
国王陛下の名代として派遣された全権特使が。
他国の大公、そして――自らが「雑用係」と見下していたはずのエリアーナの足元へ向けて、最上級の臣従の礼を捧げているのだ。
「――アルジェント帝国大公、クロード・ディス・アルジェント閣下」
デルクロワ伯爵の重厚で、かつ痛切な懺悔を孕んだ声が、静まり返った大広間に響き渡った。
「並びに、天上の奇跡を宿されし至高の大公妃殿下、エリアーナ・ヴァン・ベルク閣下。……今宵、栄えある貴国の建国祭の祝宴において、我が王国の恥晒しがこのような前代未聞の無礼と凶行を働きましたこと……王国使節団を代表し、伏してお詫び申し上げます」
「は……? お、お詫び……!? 閣下、何を仰って――」
「黙りなさい、この不届き者が!!」
デルクロワ伯爵が顔を上げ、雷鳴のような怒声をユリウスへと浴びせかけた。
その怒気は、普段温厚で知られる老貴族のものとは到底思えないほど凄まじく、ユリウスの言葉を一瞬で叩き潰した。
「貴様のような厚顔無恥なる泥棒猫に、王国の名を口にする資格など一欠片も残されてはおらん! 我が国の誇るべき聖女であったエリアーナ様を虐げ、搾取し、あまつさえ他国の最高祝宴に泥を撒き散らして踏み込むなど……貴様は、我が王国の名誉を大陸全土の前で泥水に沈めたのだぞ!!」
「わ、私が……名誉を……?」
ユリウスの瞳が、恐怖に泳ぐ。
デルクロワ伯爵は震える手で、自らの懐から、純白の絹布に包まれた一通の豪奢な親書を恭しく取り出した。
その封蝋には、王国の最高国家権力を示す――国王陛下の直筆印たる「黄金の双獅子」の巨大な朱印が燦然と刻み込まれていた。
「大公閣下、大公妃殿下。……本国を発つ直前、我が国の主君たる国王陛下より、万が一の事態に備えて直々に預かってまいりました『国王親書』にございます。……今宵、この場におられるすべての大陸の諸侯の御前にて、これを読み上げさせていただきたく存じます」
クロードはエリアーナの肩を優しく抱き寄せたまま、氷青色の瞳をわずかに細め、静かに頷いた。
「許可する。読み上げるがいい」
「ははっ……!」
デルクロワ伯爵は恭しく一礼すると、立ち上がり、広間の中央へと向直った。
彼が親書の封蝋を切り、黄金の羊皮紙を両手で厳かに広げた瞬間、大広間にいた数百名の貴族たちが、一斉に姿勢を正し、息を呑んだ。
そして――老特使の朗々とした、一言の淀みもない宣告が、静寂の空間を容赦なく切り裂いていった。
「――『国王親書』。
アルジェント帝国建国祭の慶事を言祝ぎ、両国の永遠の友誼を祈念するとともに、以下に記す重大なる王命を下す」
ユリウスの全身の毛穴が逆立ち、心臓が凍りついていく。
「――ロシュ侯爵家次期当主、ユリウス・ド・ラ・ロシュ。
並びに、ヴァン・ベルク伯爵家次女、ティファーヌ・ヴァン・ベルク。
両名は、長年にわたりロシュ領の繁栄を一身に支え続けていたエリアーナ・ヴァン・ベルク嬢の多大なる功績を不当に隠蔽し、公文書を偽造して己の手柄と偽り、あまつさえ彼女に対して精神的・肉体的な虐待を加え続けた」
「な……っ!?」
「さらに、エリアーナ嬢の出奔後、自らの無能によって領内の結界を崩壊させ、農地を全滅させ、街道を魔獣の跋扈する無法地帯へと転落せしめ、領民数十名に重傷を負わせるという、領主としてあるまじき未曾有の失政と暴虐を犯した」
一言、また一言と読み上げられるごとに、大広間の列席者たちから冷徹な頷きが返ってくる。
すべてが、王国の最高権力によって正式に認定された「確定事実」であった。
「よって、我が王国司法局、並びに貴族院の全会一致の議決に基づき、国王たる余の名において、以下の通り処断を決定する!」
デルクロワ伯爵の声音が、一段と高く、冷徹に響き渡る。
「――第一!
ユリウス・ド・ラ・ロシュ、並びにロシュ侯爵家の一族より、その【侯爵位】を永久に剥奪する!
ユリウス・ド・ラ・ロシュを貴族籍より完全に除名し、平民以下の『無位無官の罪人』へと落とすものとする!」
「ひ……っ!?」
ユリウスの喉から、息が引き裂かれるような悲鳴が漏れた。
爵位の、剥奪。
貴族籍からの、除名。
彼が生涯の拠り所とし、自らの誇りとしていた「ロシュ侯爵」という看板が、いま、国王直々の手によって、木っ端微塵にへし折られたのだ。
だが――破滅の宣告は、それだけに留まらなかった。
「――第二!
ロシュ侯爵領におけるすべての領地、農地、鉱山、並びに本邸を含むすべての不動産・動産の【全財産没収】を執行する!
没収された財産は、領民への賠償、並びに商業ギルドへの負債弁済へと充当し、ロシュ侯爵家という家名そのものを、王国の歴史より永久に抹消する!」
「ぜ……全財産の……没収……!? 家名の……抹消……!?」
ガタガタと、ユリウスの顎が外れんばかりに震えた。
領地も、土地も、屋敷も、すべてを国に奪われる。
もはや彼には、帰るべき家すら、一片の土すら残されていないのだ。
「――そして、第三!!」
デルクロワ伯爵は親書を高く掲げ、ユリウスの顔面を射抜くようにして、最後の一撃を叩きつけた。
「アルジェント帝国の至宝たる大公妃殿下、エリアーナ閣下に対し、不法越境をもって侵入し、危害を加えようとした大罪人ユリウスの身柄について。
――我が王国は、貴国に対する絶対の謝罪の意を示すとともに、罪人ユリウスに対する『外交的保護権』を完全に放棄する!
彼の身柄の処遇、並びに下されるいかなる判決についても、すべてアルジェント帝国大公、クロード閣下の御裁量に一任するものとする!!」
「………………ッッ!!」
親書が、静かに閉じられた。
デルクロワ伯爵は深々と頭を下げ、再び床へと平伏した。
完全なる、孤立。
完全なる、見捨てられ。
彼が縋り付いていた「母国の庇護」など、最初から存在しなかった。
母国の国王自らが、彼を「名誉を汚した罪人」として切り捨て、爵位を奪い、財産を没収し、あまつさえ他国の裁きの場へと生贄として差し出したのだ。
爵位の剥奪。
全財産の没収。
貴族としての地位も、領地も、名誉も、帰るべき故郷すらも――すべてを失った。
いま、この赤絨毯の上に立っている男は、侯爵令息などではない。
ただの、泥まみれで悪臭を放つ、法と国家に見捨てられた、名もなき「一文無しの罪人」に過ぎなかった。
「う…………あ…………」
ドサリッ……!!
ユリウスの膝から、完全にすべての力が抜け落ちた。
足元を固定していた氷柱の冷たさすら感じない。
首筋に突きつけられていたバスティアンの神剣が、まるで汚らわしい虫けらから離れるかのようにスッと引かれた瞬間、ユリウスの上半身は、自らの重みに耐えきれず、大理石の床へと無様に崩れ落ちた。
顔面から赤絨毯へと叩きつけられる。
泥と血膿が床に広がり、乱れた金髪が床を撫でる。
震える両手で床を掻きむしるが、指先に引っかかるのは、自分が撒き散らした冷たい泥水だけであった。
「あ……あああ……っ、嫌だ……嫌だぁぁぁッ……!!」
床に額を擦り付けながら、ユリウスは子供のように泣き叫んだ。
涙と鼻水が混ざり合い、唇から泡が吹き出る。
「嘘だ……嘘だと言ってくれ……! 私が……この私が、平民だと……!? 財産も、領地も、爵位も、すべて奪われただと……!? そんな馬鹿なことがあってたまるか……! 私はロシュ侯爵だ……! 高貴なる領主だったはずなんだぁぁぁッ!!」
床を叩き、身を悶えさせるユリウス。
だが、その狂乱の慟哭に応える者は、この大広間のどこにもいなかった。
見上げる視線の先。
赤絨毯の向こうに佇む、至高の群青の聖女――エリアーナ。
彼女は、床に這いつくばって泣き叫ぶ元婚約者の姿を、閉じた象牙の扇を胸元に抱いたまま、ただ静かに見つめていた。
その琥珀色の瞳には、憐憫も、侮蔑すらもなかった。
ただ――秋の夜空のように澄み切った、絶対の平穏。
かつて自分を縛り付けていたすべての鎖が、いま、完全に灰燼となって消え去ったことを受け止める、清らかな決別の光。
そして――。
床に崩れ落ちて震えるだけの無力な罪人を見下ろす、もう一人の男。
大公クロード・ディス・アルジェント。
彼の切れ長の氷青色の双眸に、いまや他国の法に配慮する必要すらなくなった、絶対強者の「完全なる処刑の意志」が、静かに、そして冷徹に宿り始めていた。
大広間に響く、ユリウスの情けない泣き声。
その声を押し潰すようにして、アルジェント帝国が下す「真の判決」の時が、いま、無慈悲に訪れようとしていたのである。




