第50話:諜報部隊長が突きつける「真実の帳簿」
大広間に満ちていたのは、氷よりも冷たい嘲弄と、底知れぬ嫌悪のざわめきであった。
赤絨毯の中央、床から生えた青白い氷柱によって両脚を太腿まで完全に凍結され、身動きすら封じられたユリウス・ド・ラ・ロシュ。
彼の首筋には、近衛騎士団長バスティアンが構える神剣の切っ先が寸分の狂いもなく突きつけられ、皮膚を薄く裂いた傷口から赤い血が一筋、泥と汗にまみれた襟元へと滴り落ちていた。
天才魔導士ニコラからは、領地の結界崩壊が己の無知と傲慢による「自業自得」であると理論の刃で完膚なきまでに論破され、
社交界の女王コンスタンスからは、「泥水を啜る豚が天上の白鳥に求婚するようなもの」と扇を鳴らして吐き捨てられた。
かつて自分が「地味で何の能もない雑用係」と嘲笑い、ゴミのように切り捨てた元婚約者エリアーナ。
その彼女が纏う、夜空の星々をそのまま縫い留めた群青のドレスの輝きと、彼女を優しくその逞しい腕の中に匿い、絶対零度の殺気を放つ大公クロードの威容。
その二人の足元に、泥まみれの襤褸切れを纏って晒し者にされている己の無残な姿。
「あ……が……っ、う……ぅ……っ」
ユリウスの喉から、空気の抜けるような情けない呻きが漏れ出していた。
凍傷による激痛と、全身を貫く屈辱。
逃げ場など、どこにもない。
周囲を取り囲む数百名の王侯貴族や外国使節団の誰一人として、彼に同情の視線を向ける者はいなかった。
だが――自らの非を認めることすらできないほど精神を焼き切られたユリウスは、なおも血走った眼球をギラつかせ、青ざめた唇をガタガタと震わせながら、掠れた声を絞り出した。
「な……何を笑う……! 貴様ら、他国の事情も知らんくせに、勝手な口を利くな……! 私は……私はロシュ侯爵家の当主代行なのだぞ……! 家同士の契約に基づき、正当な婚約者を連れ戻しに来ただけのことが、なぜこれほど侮辱されねばならんのだ……!!」
往生際の悪すぎる、破滅者の遠吠え。
だが、その見苦しい足掻きを、嘲笑うかのような涼やかな声が、大広間の群衆を割って響き渡ったのは、まさにその瞬間であった。
「――おやおや。まだそんな寝言をほざく元気があるとは、感服いたしましたよ。ユリウス殿」
パチン、と。
軽やかな指を鳴らす音。
大広間のざわめきがふっと静まり、列席者たちの視線が一斉に通路へと向けられた。
群衆が自発的に左右へと道を譲るなか、赤絨毯の上へと優雅に歩み出てきたのは――陽光を溶かしたような艶やかな蜂蜜色の金髪を揺らす美青年、アルジェント帝国諜報部隊長ロヴェル・サン・ジュストであった。
彼は深緑の豪奢な礼装の上に、夜の闇をそのまま織り上げたような漆黒のマントを片肩に羽織り、薄い唇には人を食ったような蠱惑的な笑みを浮かべていた。
その長い指先には――厳重に帝国の公印と王国の朱印が幾重にも捺された、分厚い羊皮紙の束が、これ見よがしに高々と掲げられていた。
「ロ、ロヴェル部隊長……?」
ユリウスの濁った瞳が、怪訝そうにその青年を捉える。
ロヴェルは氷柱の前に立つクロードとエリアーナの前まで歩み寄ると、大公へ向けて胸に手を当て、優雅極まりない宮廷式の一礼を捧げた。
「我が君、大公閣下。そして、世界で最も気高く美しい大公妃殿下。……少々お時間をいただき、申し訳ありません。ネズミの足取りを追うついでに、王国の司法当局と連絡を取り、決定的な『証拠の数々』を取り寄せておりました」
「うむ。ご苦労だったな、ロヴェル」
クロードが低く応じる。その氷青色の瞳には、これから始まる公開処刑の仕上げを見届ける冷徹な光が宿っていた。
ロヴェルはゆっくりと身を翻すと、首筋に神剣を突きつけられて震えるユリウスの前に立った。
その琥珀色の瞳は、先ほどまでの軽薄な色気など微塵も残っておらず、獲物の息の根を止める寸前の冷酷な暗殺者の光を湛えていた。
「さて、哀れな侵入者殿。『正当な権利』だの『正当な婚約者』だのと、ずいぶんと威勢のいい戯言を並べ立てておいででしたが……。あいにく、あなたが口を開けば開くほど、あなたが背負う罪の重さは天を衝くほどに積み上がっているのですよ」
ロヴェルは掲げていた分厚い羊皮紙の束を、バサリとユリウスの目の前で扇のように広げてみせた。
「な……何だ、その紙切れは……!?」
「紙切れ、ですか? とんでもない」
ロヴェルは冷笑を漏らし、その細い指先で最初の書類を指し示した。
「――まず、罪状その一。『アルジェント帝国に対する不法越境、並びに皇宮式典への不法侵入罪』です」
広間が小さくざわめく。
「あなたは手持ちの全財産をはたいて国境越えの連絡馬車に乗り込み、帝都の南大門において、招待状を持たぬ身でありながら『私は大公妃の婚約者だ』と大嘘をついて門番を欺き、この神聖なる建国祭の大夜会へと侵入いたしました。……他国の最高国家行事において、身元を偽り、あまつさえ次期大公妃殿下を騙って侵入する行為が何を意味するか、貴族の端くれであるあなたならお分かりですね? ――正真正銘の、帝国刑法における『国家反逆予備罪』並びに『不敬罪』です」
「なっ……だ、騙してなどいない! 私は本当にエリアーナの――」
「黙りなさい」
ロヴェルの冷たい声が、ユリウスの弁明を一刀両断にした。
「先ほどエリアーナ様ご自身が仰った通り、婚約はあなたが夜会の中心で一方的に破棄したのです。王国法においても、貴族間の公的な婚約破棄が宣言され、当事者双方が受諾した時点で、契約関係は完全に消滅しております。あなたとエリアーナ様の間には、法的な繋がりなど塵芥ほどにも残されていませんよ」
ロヴェルは淡々と次の羊皮紙をめくった。
そこには、痛々しい血の染みと、何十人もの平民たちの震える署名が記されていた。
「――続いて、罪状その二。『領民に対する虐待、並びに不法武力行使による傷害罪』」
「…………っ!?」
ユリウスの顔から、完全に血の気が引いた。
「あなたが国境を越える直前、ロシュ侯爵領の本邸門前において、飢えに苦しんで減税と食糧放出を求めた領民たちに対し、私兵部隊を使って槍と棍棒で一方的な流血鎮圧を行いましたね。重傷者二十名、うち三名は現在も生死の境を彷徨っております。……王国の領主法において、非武装の領民に対する理由なき私兵の武力行使は、領主権の乱用として厳罰の対象です。ここに、被害を受けた領民たちの血染めの嘆願書と、現場にいた私兵たちの自白書が揃っております」
「ば、反乱だ! あいつらは屋敷を襲おうとした反逆者どもだ! 領主として正当防衛を――」
「正当防衛、ねえ」
ロヴェルは呆れたように肩をすくめた。
「備蓄庫の小麦を私的に売り払い、金庫の金を豪遊で使い果たし、領民を飢餓に追い込んだ張本人がよく言えたものですね。王国の巡察使がすでにロシュ侯爵領へと向かっておりますよ。あなたが『反乱』と呼んだ領民たちは、全員が王国の司法局によって『正当な救済要求者』として保護されています」
逃げ場のない外堀の埋め立て。
だが、ロヴェルの口から紡ぎ出された次なる罪状こそが――ユリウス・ド・ラ・ロシュという男の存在価値のすべてを、根底から粉微塵に叩き潰す決定打であった。
「――そして、罪状その三」
ロヴェルは羊皮紙の束の中から、ひときわ分厚い、長年にわたる決算書の綴りを引き抜いた。
その表紙には、ロシュ侯爵家の公印が押され、末尾にはユリウスの署名が誇らしげに記されていた。
「『過去三年間にわたる公文書偽造、虚偽申告、並びに国家機能の私物化』……そして、これこそがあなたが最も隠したかったであろう――『真実の帳簿』です」
「な……帳簿……!? なぜ、それを貴様が持っている……!?」
ユリウスが目を見開く。
「我が諜報部を侮らないでいただきたいですね。逃亡したあなたの屋敷の執務室から、裏帳簿の原本を回収することなど、赤子の手をひねるより容易いことですよ」
ロヴェルはその帳簿を高く掲げ、大広間の全員へと見せつけるように広げた。
「皆様、よくご覧ください。……この男は過去三年間にわたり、王国の社交界において『己の類稀なる指導力によって領地を繁栄させた』と吹聴し、次期侯爵としての名声をほしいままにしてまいりました。しかし! その決算書、治水計画書、交易折衝案、そして鉱山の採掘改善書に至るまで――すべての書類の原本を筆跡鑑定いたしましたところ、驚くべき事実が判明いたしました」
ロヴェルは冷笑を深め、ユリウスの顔面へと帳簿の頁を突きつけた。
「書類の本文、複雑怪奇な計算式、代官たちの横領を暴く注釈のすべてを書いた筆跡は――他ならぬ、エリアーナ・ヴァン・ベルク様のものでした。そして、このユリウスという男がやったことといえば……あの方が徹夜で仕上げた完璧な書類の表紙から彼女の名前を削り取り、一番最後の署名欄に、己の名前をサインした……ただそれだけだったのですよ!!」
――ッ!!
大広間にいた王侯貴族たちから、言葉を失ったような激しいどよめきが沸き起こった。
「まあ……! 他人の功績を丸ごと盗んでいただけですって!?」
「署名を書き換えただけ……!? なんと浅ましく、みすぼらしい男なのかしら!」
「自らは何一つ実務をこなせず、婚約者の血の滲むような成果を自分の手柄と偽って社交界で威張っていたのか!」
容赦のない軽蔑の囁きが、怒涛の勢いでユリウスの鼓膜を打ちのめす。
ユリウスの全身から、ドッと嫌な汗が噴き出した。
「ち、違う……! 私の指示が的確だったからだ! あいつはただ、私の言った通りにペンを動かしただけの――」
「まだ見苦しい嘘を重ねるのですか?」
ロヴェルは冷酷に鼻を鳴らした。
「あなたが残していった未処理の帳簿を見れば、誰にでも分かりますよ。彼女が抜けた途端、あなたは一行の計算すら合わせられず、数字の辻褄を合わせることもできず、頭を抱えて喚き散らしていたではないですか。……指示を出していた? 笑わせないでいただきたい。あなたには、彼女が処理していた高度な簿記の概念すら、何一つ理解できていなかったのですよ」
ロヴェルは帳簿の頁をパラパラとめくり、冷ややかに告げた。
「あなたが誇っていた繁栄のすべて。
領地の黒字も、
交易ギルドとの円滑な関係も、
代官たちの不正の摘発も、
そのすべては、エリアーナ様がお一人で、誰にも知られぬようその類稀なる知性と【万物最適化】の異能を注ぎ込み、身を削って支えていた奇跡の結晶だったのです。
……あなたはその奇跡にただ無賃乗車し、甘い汁を吸い、あまつさえ彼女を『役立たずの雑用係』と罵って追い出した。
寄生虫。盗人。ペテン師。……貴族としての誇りどころか、人としての矜持すら持ち合わせていない、ただの卑劣な搾取者。それが、あなたの真実の姿ですよ、ユリウス殿」
「あ……ぐ……っ、あ……ぁ……っ」
ユリウスの喉から、血の泡が混ざったような掠れた音が零れ落ちた。
完全なる論破。
客観的証拠の前に、彼が縋り付いてきた「領主としての正当性」も、「有能な貴公子」という虚飾の仮面も、木っ端微塵に粉砕されていた。
彼が世界に向かって誇示してきたすべての栄光は、ただ一人の少女の背中に乗っかり、その成果を盗み取っていただけの盗品に過ぎなかったのだ。
周囲の貴族たちの目は、もはや彼を人間としてすら見ていなかった。
ただの、汚泥に塗れた哀れな泥棒。
これ以上の屈辱が、この世のどこにあるだろうか。
だが――自らの罪の重さに打ちのめされ、膝の震えを止めることすらできないユリウスに対し、ロヴェルはなおも、慈悲の一欠片すら与えるつもりはなかった。
ロヴェルは羊皮紙を優雅に丸めて懐へと収めると、ふっと足を止め、悪戯っぽい狐のような極上の笑みを浮かべたのだ。
「……おや、ユリウス殿。そういえば、先ほどからずっとお見かけしませんが……あなたの自慢の『真の伴侶』はどうされたのですか?」
「……え?」
ユリウスの濁った瞳が、微かにピクリと動いた。
「あの夜会で、あなたがエリアーナ様を捨ててまで選び取った、あの美しく聡明な妹君――ティファーヌ嬢のことですよ。……彼女を連れてきてはいらっしゃらないのですか?」
「ティ……ファーヌ……」
その名を呼ばれた瞬間、ユリウスの胸の奥で、激しい憎悪と怨嗟が再び鎌首をもたげた。
昨夜の光景が脳裏をよぎる。
屋敷の金目のものをすべてトランクに詰め込み、自分を殴り倒して夜逃げしたあの毒婦。
ユリウスは歯を食いしばり、血走った目でロヴェルを睨みつけた。
「あ、あんな女……! あいつが! あいつが私を唆したのだ! あいつが贅沢を重ね、借金を作り、私の屋敷の財産をすべて持ち逃げして逃げ出したのだ! 私は騙された被害者だ! 悪いのは全部、あのティファーヌだぁッ!!」
最後まで他人に責任を擦り付け、見苦しく喚き散らすユリウス。
その見事なまでの無様さに、ロヴェルの唇の端が、三日月の如く美しく、そして残酷に吊り上がった。
「ああ、やっぱりそうでしたか。……ええ、知っていますよ。あなたが屋敷で気絶している隙に、ティファーヌ嬢が宝石を抱えて逃亡したことはね」
「な……知っているだと……!?」
「ええ」
ロヴェルは一歩、ユリウスの前へと歩み寄った。
そして――大広間の全員に聞こえる澄み渡る美声で、愚かな男の心臓を完全に貫く、決定的な「トドメの一撃」を笑顔で言い放ったのだ。
「――ついでに、申し上げておきましょうか」
甘美な前置き。
「あなたが借金を押し付け合って逃げ出した、その愛しい妹のティファーヌ嬢ですがね。
……昨夜、宝石を持って逃げようとした街道において、結界の切れた森から現れた魔獣の群れに襲撃され、馬車は大破いたしました。
馬は食い殺され、宝石のほとんどは泥の中に散乱して失われ、命からがら逃げ延びたところを……通りかかった闇の人身売買組織に捕まり、身ぐるみ剥がされて檻に入れられておりましたよ」
「な…………っ!?」
ユリウスの息が止まった。
「ですが、ご安心を。……我がアルジェント帝国諜報部の通報により、その人身売買の馬車は国境警備隊と王国の治安部隊によって即座に急襲され、組織は一網打尽に摘発されました。
そして――泥まみれで檻の中から引きずり出されたティファーヌ嬢ですがね。
ロシュ侯爵邸からの『巨額の窃盗罪』、並びに不法逃亡の現行犯として……その場で王国の司法当局によって完全に捕縛され、牢獄へと突き出されましたよ」
「ぼ……捕縛……!? 司法に……突き出された……!?」
「ええ、そうですとも」
ロヴェルは満面の笑みを浮かべ、歌うように宣告を締めくくった。
「彼女は今頃、王都の地下牢の冷たい石床の上で、泥まみれの囚人服を着せられ、震えながら尋問を受けているはずですよ。……もちろん、あなたが彼女のツケで背負った莫大な借金の返済義務が消えるわけではありませんがね。お二人揃って、破滅の階段を仲良く手を取り合って転がり落ちたというわけです」
「あ…………」
ユリウスの口から、乾いた、魂の抜けたような音が零れ落ちた。
ティファーヌの完全なる破滅。
自らの財産を持ち逃げした妹もまた、魔獣に襲われ、奴隷商人に捕まり、最後は犯罪者として牢獄へと叩き落とされたのだ。
金も、名誉も、領地も、屋敷も、愛人も――何一つとして、残されていなかった。
己が選び取った「華やかな未来」のすべてが、ただの泥と血の混ざった汚泥となって消え去っていた。
「う……あ……あぁ……っ」
ユリウスの全身が、ガタガタと音を立てて激しく痙攣し始めた。
奥歯が打ち鳴らされ、唇から白い泡がタラリと垂れ落ちる。
膝の氷柱の冷たさすら、もう感じていなかった。
彼の精神は、己が犯した罪のあまりの巨大さと、逃れようのない現実の完全包囲の前に、完全に崩壊していた。
大広間に響き渡る、諸侯たちの容赦ない嘲笑と侮蔑の嵐。
その嘲笑の真ん中で、泥まみれの男は、ただ虚ろな目で宙を見つめ、生ける屍のように震え続けることしかできなかった。
――しかし。
この公開処刑の劇には、まだ「最終章」が残されていた。
大広間の正面扉から、厳かな足音とともに、もう一つの影が歩み出てくる。
王国の紋章を掲げた使節団の長――ユリウスの母国の特使が、国王親書を手に、冷徹な足取りで近づいてきていたのである。




