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第49話:逆ハーレム陣営の容赦ない追撃

大広間の中央、深紅の赤絨毯を貫いて床から噴出した青白い氷柱の群れが、冷酷な刑具の如く光を乱反射させていた。


「ぎゃあああああああッッ……!! 足が……私の足がぁぁぁッ!!」


氷の塊の中に両脚を太腿まで完全に飲み込まれ、大理石の床へと縫い止められたユリウス・ド・ラ・ロシュの絶叫が、耳障りな不協和音となって天井のフレスコ画へと反響する。

骨の髄まで急速凍結される激痛と、全身の自由を奪われた恐怖。泥と血膿にまみれた身体を必死に捩じろうとするが、絶対零度の氷は一ミリの揺らぎすら許さない。伸ばされていた彼の薄汚れた両手は、虚空を掻きむしり、醜く痙攣するばかりであった。


そのわずか一歩先。

深藍色の正礼装に身を包んだ大公クロードは、エリアーナの華奢な腰を自らの左腕の中にしっかりと抱き寄せ、広大なマントの陰へと匿ったまま、見下ろしていた。

その氷青色の瞳に宿る光は、極北の吹雪よりも冷徹であった。


『――我が大公妃に、その汚らわしい手で触れようとした罪……万死に値する』


クロードが下した絶対の宣告。

彼が放つ圧倒的な殺気によって、天井近くのステンドグラスには幾重もの亀裂が走り、大広間全体が息を呑む静寂の底に沈んでいた。

だが――自らの身の丈も知らず、天上の聖女に泥まみれの手を伸ばそうとした哀れな侵入者に対する裁きは、主君の一言だけで終わるはずがなかった。


シャラアン……ッ。


静まり返った大広間に、大気を澄み渡る鐘のように切り裂く、鋭利な抜刀音が響き渡った。


「…………っ!?」


ユリウスの喉が、引き攣った音を立てて凍りついた。

彼の首筋――頚動脈の皮膚のわずか数ミリ外側の位置に、冷涼な風圧を伴って、一本の刃が寸分の狂いもなく突きつけられていたのだ。


「――動くな、下賎なる豚が」


地底の底から響くような、低く、鋼の如く研ぎ澄まされた男の声。

大階段の最前列から音もなく滑り込むように間合いを詰め、刃を突きつけていたのは――銀地金の甲冑を寸分の乱れもなく纏った青年、近衛騎士団長バスティアン・フォン・ハイゼンであった。


彫りの深い端正な顔立ちを憤怒によって峻烈に引き締め、切れ長の瞳には獲物を瞬時に両断する武人の殺気がギラギラと渦巻いている。

そして――ユリウスの首筋を捉えていたその長剣は、この世のいかなる名匠が鍛え上げた武具をも遥かに凌駕する異様な輝きを放っていた。


かつて北方戦線で酷使され、刃こぼれだらけの鉄屑同然となりかけていた彼の愛剣。

それを、大公城の中庭においてエリアーナがその白く滑らかな素手で包み込み、【万物最適化】によって金属疲労を完全に浄化し、神代の白銀鋼(オリハルコン)へと限界突破昇華させた、あの「国宝級の神剣」である。

鏡のように磨き上げられた刀身からは青白い神聖な燐光が立ち昇り、大気と擦れ合うだけで鈴の音のような澄んだ共鳴音を奏でている。

触れるものすべてを分子レベルで両断するその神剣の切っ先から放たれる微細な剣気が、ユリウスの汚れた首筋の皮膚を微かに裂き、一筋の赤い血をツーと滴らせていた。


「ひ……っ、あ……」


ユリウスは顎をわずかに引くことすらできず、眼球だけを必死に動かして刃を見つめた。

一呼吸でも大きく息を吸えば、その瞬間に首が刎ね飛ぶという絶対的な死の切迫感。


「き、騎士団長……? な、何を……私は王国の貴族だぞ……!」


「黙れ」

バスティアンの低く重い声が、容赦なくユリウスの言葉を叩き潰した。

彼の全身から放たれる軍神の如き威圧感は、泥まみれの元婚約者を虫けら以下として完全に値踏みしていた。


「我が神剣が、貴様のような腐乱した汚物を両断することすら拒絶して震えているのが分からぬか。……貴様のような下劣な輩が、エリアーナ様の御前に土足で踏み入り、あまつさえその汚らわしい爪を伸ばそうなどと……言語道断、万死に値する愚行だ」


バスティアンの切っ先が、わずかに喉仏へとめり込む。

彼の胸の内に渦巻いていたのは、護衛としての職責を遥かに超えた、狂おしいほどの忠誠心と、愛しい女神を踏みにじろうとした者への激憤であった。

女性恐怖症であった己の心を、その無垢な優しさ一つで解きほぐし、命の恩恵を与えてくれたエリアーナ。

その彼女を、かつて冷え切った屋敷の中で『地味で愛嬌がない』と罵倒し、身を粉にした献身を踏み躙り、あまつさえ破滅した途端に道具として連れ戻そうと喚き散らすこの男。


「……貴様がこれまで、エリアーナ様にどれほどの非道を働いてきたか、すべて聞き及んでいるぞ」

バスティアンの瞳に、ギラリと凶悪な光が走る。

「暖炉の薪すら与えず、夜を徹して帳簿を合わせさせ、結界の維持に命を削らせ、その恩恵を己の手柄と偽って社交界でふんぞり返っていたそうだな。……武人として、いや、一人の男として、貴様のような寄生虫の存在そのものが反吐が出るほどおぞましい。今ここで、貴様のその薄汚れた首を叩き落としてやりたい衝動を、私は必死に堪えているのだぞ」


「ひぃぃっ……!」

ユリウスの喉が引き攣り、青ざめた唇から情けない泡が漏れる。


だが――神剣の刃先による肉体的な威圧は、この後に続く精神的蹂躙の、ほんの序章に過ぎなかった。


カツン、カツン、と。

大階段の脇から、軽やかな足音がもう一つ近づいてきた。


「――まったく。暑苦しい筋肉ダルマの言う通りだよ。本当に反吐が出るね」


甲高く、どこか少年特有の透明感を残しながらも、底知れない侮蔑と冷笑を孕んだ声音。

大広間の群衆を掻き分けるようにして歩み出てきたのは、身の丈に合わない豪奢な濃紫の魔導ローブを引きずった小柄な少年――宮廷筆頭魔導士、ニコラ・エデルガルド(十五歳)であった。


銀混じりの癖毛を揺らし、手にした巨大な樫の杖の頭部に嵌め込まれたアメジストをバチバチと紫電で鳴らしながら、ニコラは赤絨毯の上へと進み出た。

彼はクロードの背後に匿われているエリアーナの姿を一目認めると、パッと目尻を下げて「お姉さま、怪我はない? 怖くなかった?」と子犬のように愛らしく微笑みかけてみせた。

しかし――視線を床に縫い止められたユリウスへと戻した瞬間、その大きな碧眼は、まるで道端の泥水を見るかのように冷酷極まりない光へと反転したのだ。


「……ねえ、おじさん」

ニコラは樫の杖の石突きで、ユリウスの足元を覆う氷柱をコンコンと小気味よく叩いた。


「さっきから聞いてれば、『結界を直せ』だの『雑用でロシュ侯爵家の繁栄を取り戻せ』だの、よくもまあ恥ずかしげもなく喚き散らせるものだね。……頭の構造、一度分解して調べてあげようか? あ、ごめんね。分解するほどの脳味噌すら詰まってないんだったっけ」


クスクスと、悪魔のような嘲笑が少年の唇からこぼれ落ちる。


「な……何だと、子供の分際で……!」

ユリウスが屈辱に顔を歪めるが、ニコラはその言葉を鼻でせせら笑った。


「子供にすら論破される無能が、偉そうに口を開かないでくれる? ……君の領地の『魔物除けの大結界石』が粉々に砕け散った理由、本当は自分でも薄々気づいてるんじゃないの?」


ニコラは杖を両手で構え、空中に小さな光の術式をパラパラと展開してみせた。

十五歳にして帝国のすべての魔導士の頂点に君臨する神童の、圧倒的な魔導理論の開示。


「あの結界石はね、太古の遺物の中でも特に扱いが難しい、構造欠陥だらけの代物だったんだよ。本来なら数十人の上級魔導士が交代で注ぎ込まなきゃ維持できないものを……お姉さまが! ぼくの至高の『お姉さま』が、その規格外の【万物最適化】の力で、構造の摩擦をゼロにして奇跡的なバランスで維持し続けていたんだ」


ニコラの声が、一段と冷ややかに広間中に通る。


「それを君は、『何一つ貢献しなかった無能の雑用』と切り捨てて追い出した。……当たり前だよね。唯一の心臓を引き抜かれた遺物が、自壊しないはずがないじゃないか。君の領地の結界が崩壊して魔獣が溢れかえったのはね――他でもない、君自身の傲慢と無知が引き起こした、完全なる『自業自得』なんだよ。無能なおじさん」


――自業自得。

――無能なおじさん。


魔導の深淵を知り尽くした天才少年の、寸分の狂いもない論理的な急所抉り。

ユリウスの顔面が、ドス黒い屈辱と絶望で激しく歪む。


「ち、違う……! 私は……王都から一級魔導士を雇ったのだ! 大金を積んでガストン殿を呼んだのに、あの男が逃げ出したから――」


「あはは! ガストン? あの王都の古臭い教科書をなぞるしか能のない老いぼれのこと!?」

ニコラは腹を抱えて大笑いした。

その嘲笑は、大広間にいた他国の魔導使節団たちの失笑をも誘っていた。


「あんな凡人に直せるわけがないでしょ! お姉さまの組んだ神話級の最適化術式なんて、ぼくですら解読するのに泣かされたんだからね! それを、一級魔導士ごときが触れるはずがないじゃないか! 君が積んだ金貨五百枚なんて、ただのドブ捨てだよ。……お姉さまを失った時点で、君の領地は終わってたんだ。最初からね!」


「う……あ……ぁ……っ」

ユリウスの喉から、血の泡が混ざったような呻きが漏れ出た。

反論が、できない。

王都最高峰の権威すら恐れ慄いて逃げ出したという事実を、この帝国最高の天才魔導士が完璧に裏付けてしまったのだ。


しかし――。

ユリウスの粉々に砕け散った自尊心に、最後の一撃を叩き込み、完全に粉微塵へとすり潰す「真の断罪者」が歩み出てきたのは、まさにその直後であった。


パチンッ――!!


乾いた、鋭利な音が、大広間の天井を劈くように鳴り響いた。

象牙の親骨に豪奢な黒レースを張った扇が、これ見よがしに打ち鳴らされたのだ。


「――見苦しいわね。本当に、吐き気がするほど見苦しいですわ」


大階段の最前列から、まるで天上の舞台を歩むかのように優雅に歩み出てきたのは――帝国筆頭公爵家の長女にして、帝都社交界の誰もが傅く絶対の女王、コンスタンス・フォン・ヴァルハイト公爵令嬢であった。


白金ブロンドの髪を完璧に結い上げ、深紅の最高級ベルベットと黒レースを幾重にも重ねたドレスを翻すその姿は、息を呑むほど美しく、そして残酷なまでに気高かった。

彼女が一歩を踏み出すたび、周囲の貴族たちが自発的に道を空け、頭を垂れる。

その社交界の頂点たる絶世の美女が、氷の刃よりも冷ややかな菫色の瞳で、泥まみれで氷に縫い止められたユリウスを見下ろしたのだ。


「コ……コンスタンス公爵令嬢……!?」

ユリウスの唇が、震えながらその名を呼んだ。

大陸中の社交界で知らぬ者のいない、生ける伝説の令嬢。かつてロシュ侯爵領の全盛期であったとしても、一言と言葉を交わすことすら叶わなかった、雲の上の至高の深窓の佳人。


その彼女が、扇をゆっくりと胸元で広げ、優雅に小首を傾げてみせた。

その唇から紡ぎ出されたのは――大陸中の貴族社会の総意としての、容赦のない処刑宣告であった。


「……身の程知らずにも、程がありますわ」


コンスタンスの声は、甘美でありながら、一滴の情けも含まない絶対零度の響きを帯びていた。


「我がヴァルハイト公爵家が持てる全財産を注ぎ込んで仕立て上げ、あまつさえエリアーナ自身の至高の御手によって奇跡の加護を宿らせた、あの群青の夜会ドレス。……世界中のいかなる王冠をも凌駕するあの神聖な布地に、貴様のその泥と垢にまみれた爪で触れようなどと……どの面を下げてそのような暴挙に出られたのかしら?」


「ぐ……っ、わ、私は……ただ、私の婚約者を迎えに――」


「婚約者ですって?」

コンスタンスは扇の陰で、クスクスと冷酷極まりない嘲笑を漏らした。

そして、扇を再びパチンと鋭く閉じると、その切っ先をユリウスの鼻先へと容赦なく突きつけたのだ。


「よく耳の穴をかっぽじってお聞きなさい、この哀れな道化師殿。……貴様がやっていることはね。――泥水を啜る下賎な豚が、天上の星空を翔ける白鳥に求婚するようなものですことよ」


――泥水を啜る豚が、天上の白鳥に求婚する。


ドォォォォォンッ!!

大広間にいた数百人の王侯貴族たちから、ドッと吹き出すような嘲笑の嵐が巻き起こった。


「ふふっ……! 泥水を啜る豚ですって!」

「まあ、コンスタンス様ったら、言い得て妙ですわ!」

「まさにその通りね! あんな悪臭を放つ襤褸切れを着た男が、大公妃殿下に手を伸ばすなど、豚の求婚以外の何物でもありませんわ!」


貴婦人たちが扇を打ち鳴らし、他国の使節たちが肩を震わせて笑い転げる。

社交界の頂点たるコンスタンスが下したその評価は、ユリウス・ド・ラ・ロシュという存在を、貴族社会から完全に、永久に抹殺する「社会的死刑宣告」に他ならなかった。


「自ら至高の白鳥を『地味だ』と罵って追い出し、泥水の中で中身のない毒婦と戯れていた豚が……」

コンスタンスは冷徹な眼差しでユリウスを見下ろし、吐き捨てるようにトドメを刺した。

「いざ餌が尽きたからと、隣国の天上の楽園まで這いずり上がってきて、『戻ってこい』と鳴き喚く……。その浅ましさ、その醜悪さ。貴族の恥晒しどころか、人間としての尊厳すら欠片も残っておりませんわね。恥を知りなさい、この穀潰し」


「あ…………あぁ…………っ」


ユリウスの口から、乾いた、魂の抜けたような音が零れ落ちた。


神剣を首筋に突きつける、帝国最強の騎士団長。

自らの無能と自業自得を理論の刃で嘲笑う、天才魔導士。

そして、己の存在を「泥水を啜る豚」と切り捨て、社交界の奈落へと叩き落とす、公爵令嬢。


彼らは皆、かつてユリウスが「他国の見知らぬ者たち」と見下していた存在であった。

その彼らのすべてが――いまや、エリアーナというたった一人の少女の信徒となり、彼女を守る絶対の防壁となり、己を完膚なきまでに叩き潰すために立ちはだかっている。


逃げ場はない。

味方など、この世界のどこにもいない。

己が踏みにじってきたものの巨大さと、己が犯した罪の深さが、いま、完璧な包囲網となって彼を窒息させていた。


氷に縫い止められ、首元に刃を突きつけられ、嘲笑の嵐の中で震えるユリウス。

だが――この地獄の舞台には、まだ「最後の幕引き」が残されていた。


大広間の奥、ざわめく群衆を掻き分けるようにして、コツン、コツンと優雅な足音を響かせながら近づいてくる影が一つ。

手にした一枚の羊皮紙をこれ見よがしに掲げ、人を食ったような笑みを浮かべた美青年――諜報部隊長ロヴェルが、いま、決定的な引導を渡すために歩み出てこようとしていたのである。

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