第48話:触れることすら許されない絶対零度
大広間に満ちていたのは、針の筵などという生易しいものではなかった。
数百人もの王侯貴族、各国の使節団、そして帝国の頂点に立つ者たちが一斉に浴びせかける、容赦のない失笑、冷笑、そして底知れぬ侮蔑の視線。
それらの無数の刃が、深紅の赤絨毯の真ん中に立ち尽くすユリウス・ド・ラ・ロシュの全身を、余すところなくめった刺しにしていた。
耳の奥で、嘲笑の声が幾重にも反響する。
『まあ、なんて浅ましい……』
『己で捨てておいて、今さら復縁を迫りに来たですって?』
『領地を破綻させた無能な放蕩息子が、大公妃殿下に縋り付こうだなんて……』
『身の程知らずにも程があるわ。あのような汚らわしい浮浪者が……』
「ぐ……っ、あ……ぅ……っ!!」
ユリウスの喉から、空気の抜けるような引き攣った呻きが漏れ出た。
膝の震えが止まらない。
額の傷口から滲む赤黒い血が、乾ききった頬を伝い落ちて泥と混ざり合い、視界を赤く濁らせていく。
かつて、自分が他者に浴びせかけていた嘲笑のすべて。
あの建国記念夜会において、みすぼらしい古着を着たエリアーナを中央に立たせ、大勢の前で『地味で愛嬌がない』『何の役にも立たない無能』と罵倒し、大広間中の貴族たちとともに指を差して笑い転げていた、あの瞬間。
その時に自らが撒き散らした悪意のすべてが、何百倍もの質量を持つ鉄槌となって、己の頭上へと叩き落とされていた。
目の前に佇む、至高の群青の聖女――エリアーナ。
彼女は閉じた象牙の扇を胸元に添え、夜明けの湖水のように澄み切った琥珀色の瞳で、泥まみれの自分を静かに見据えていた。
怒りすら、ない。
恨みすら、ない。
ただ、足元に転がる汚泥の一片を一瞥するだけの、絶対的な「無関心」。
彼女の世界から、自分という存在はとっくに消え去っていたのだという、残酷すぎる現実。
(嘘だ……嘘だ、嘘だ、嘘だぁぁぁッ!!)
ユリウスの脳髄の中で、理性を繋ぎ止めていた最後の神経が、ブツンと音を立てて焼き切れた。
認められるはずがなかった。
受け入れられるはずがなかった。
この現実を認めてしまえば、自分はただの、中身のない毒婦に現を抜かして領地を破滅させ、至高の奇跡を自ら足元に投げ捨てた、世界で一番愚かな大馬鹿者だということになってしまう。
全財産をはたいて隣国までやってきた自分の旅路が、ただの無様な道化の行進に過ぎなかったと、白日の下に晒されてしまうのだ。
(許さない……許さないぞ……! この私が……ロシュ侯爵家の正統なる後継者たるこの私が、こんな大勢の前で恥をかかされてたまるものか!!)
羞恥と屈辱。
そして、己の破滅に対する底知れぬ恐怖が、グツグツと煮えたぎる黒々とした「逆上」の狂気へと反転した。
そうだ、あいつが生意気なのだ。
かつて自分の屋敷で、冷たい石壁のなかで俯き、言われるがままに書類を片付け、怒鳴られても言い返すことすらできなかったあの地味な女。
あの大人しい雑用係が、他国の豪華なドレスを着せられ、大公妃などとおだてられたせいで、分不相応に増長しているだけに決まっている。
(昔のように……力ずくで屈服させてやればいいのだ! 腕を掴み、引きずり倒し、私の足元に這いつくばらせてやれば、あいつは思い出すはずだ! 誰が主人で、誰が従属者であったのかを!!)
狂気の炎が、ユリウスの血走った眼球を爛々と輝かせた。
喉の奥から、獣のような濁った唸り声が絞り出される。
「この……この、生意気な女めぇぇぇぇッ!!」
――ダンッ!!
ユリウスは、赤絨毯を踏み抜かんばかりの勢いで大地を蹴った。
「きゃあああっ!?」
周囲の貴婦人たちから、悲鳴が上がった。
泥まみれの男が、前屈みの体勢で、まるで獲物に飛びかかる飢えた野犬のように突進してきたのだ。
破れかけた濃紺の上着を振り乱し、悪臭を撒き散らしながら、男の両手が鉤爪のように曲げられ、獲物を捕らえんと一直線に突き出される。
「誰のおかげで今日まで生きてこられたと思っているんだ! 我がロシュ侯爵家の飯を食わせてやった恩を忘れおって! 黙って私の言う通りにしていればいいものを、偉そうに私を見下すなぁぁぁッ!!」
唾液を泡立たせながら叫ぶユリウス。
その狙いは、ただ一つ。
至高の群青のドレスを纏ったエリアーナの、白磁のように細く柔らかな「右腕」であった。
掴んでやる。
あの細い腕を力任せに掴み、引きちぎらんばかりにねじり上げ、大広間の大理石の床へと叩きつけてやる。
そして、耳元で怒鳴りつけてやるのだ。「お前は私の所有物だ」「私のために領地へ戻って死ぬまで働け」と。
そうすれば、この悪夢のような現実はすべて消え去り、再び自分が支配者へと返り咲くことができるのだ――!
突進の速度は、狂気によって異常なまでに跳ね上がっていた。
距離にして、わずか数歩。
泥と垢で真っ黒に汚れたユリウスの凶悪な指先が、エリアーナのドレスの袖口へと、あと数十センチ――あと数寸という距離まで迫った。
「エリアーナぁぁぁッ! 私の元へ戻れぇぇぇッ!!」
ユリウスの唇に、獲物を捕らえたかのような醜い勝利の笑みが浮かびかけた、その刹那――。
――ピキィン。
世界のすべてが、完全に静止した。
「…………え?」
ユリウスの視界の端で、時が止まったかのようだった。
大広間のクリスタル・シャンデリアの眩い光が、ふっと一瞬、青白い絶対零度の燐光へと反転する。
空気を震わせていた管弦楽の微かな残響も、列席者たちの息遣いも、己の心臓の脈動すらも、まるで氷の底へと沈められたかのように、音という音が世界から完全に消滅した。
そして。
ユリウスの伸ばした右手の、わずか数ミリ先――。
赤絨毯の深紅の繊維を突き破り、磨き上げられた大理石の床の奥底から、信じがたい現象が音もなく爆発したのだ。
ドゴォォォォォンッ――!!
「ぐあぁっ!?」
大気を切り裂くような凄まじい破壊音とともに、床から噴出してきたのは、青白く透き通る無数の「鋭利な氷柱」であった。
ただの氷ではない。
太古の永久凍土の底から削り出されたかのような、鋼よりも硬く、神話の槍の如く尖り狂った巨大な氷の結晶柱。
それが、十本、二十本、三十本と――まるで獲物を囲い込む檻のように、あるいは罪人を処刑台へと縫い止める無数の槍衾のように、床を粉々に粉砕しながら一斉に突き生えたのだ。
ザシュッ! ギギギギギッ!!
「ぎゃあああああああッッ――!?」
ユリウスの喉から、鼓膜を引き裂くような絶叫が迸った。
前進しようとしていた彼の右足、左足、そして膝の関節に至るまでが、瞬きひとつの間に――吹き上がった氷柱の群れによって完全に呑み込まれ、絶対零度の氷塊の中に分厚く閉じ込められたのだ。
カチリ、カチリと、凍結の音が肉を伝う。
穴のあいた泥まみれのブーツごと、彼の両脚は床の大理石と完全に一体化し、一ミリたりとも動かすことができなくなっていた。
冷気ではない。
それは、骨の髄、血管の奥深くに流れる血液、神経の一本一本に至るまでを、一瞬にして凍傷によって焼き爛れさせるような、凄絶極まりない絶対零度の激痛。
「い、痛い……! 熱い……! 足が……私の足がぁぁぁッ!!」
ユリウスは空中で伸ばしていた両手を振り乱し、狂ったように暴れようとした。
だが、動かない。
太腿から下を完全に巨大な青白い氷柱によって縫い止められた彼の肉体は、まるで大理石の床から生えた不恰好な標本のように、その場に無様に固定されていた。
踏み出すことすら、退くことすら、膝を折って倒れ込むことすら許されない、完全なる物理的停止。
そして――。
その凄惨な凍結の劇の、わずか半歩先。
バサァッ――。
深藍色の最高級マントが、優雅に、そして圧倒的な威容をもって夜気を切り裂いた。
「…………っ」
ユリウスの血走った瞳が、凍りついた痛みのなかで見上げた先。
そこに立ちはだかっていたのは――見上げるほど高く、見上げるほど逞しい、一人の青年の姿であった。
大公クロード・ディス・アルジェント。
彼はいつの間にか、エリアーナの華奢な腰へと自らの太く逞しい左腕をそっと回し、彼女の身体を自らの広い背中の後ろへと、完全に引き寄せて匿っていた。
その抱き寄せ方は、驚くほど優しく、壊れやすい至宝を包み込むような完璧な庇護の所作であった。
エリアーナの柔らかな群青のドレスの裾は、クロードの深藍色の礼装のマントの陰へとすっぽりと隠され、泥の一粒、冷気の一片すら彼女の肌に触れさせないよう、完璧に遮断されている。
クロードの胸元に守られたエリアーナの周囲だけは、依然として春の陽だまりのように温かく、澄み切った魔力の膜に守られていた。
だが――その背中の向こう側、泥まみれのユリウスへと向けられた空間は、正真正銘の「生ける地獄」と化していた。
ゴオオオオオオオオッ……!!
大広間全体を揺るがすような、凄まじい重圧の地鳴り。
クロードの全身から立ち上っていたのは、他国の軍勢を一瞬にして消滅させる「氷の死神」としての、本物の、底知れない殺気の奔流であった。
大公城の主寝室でエリアーナに見せていた、あの蕩けるような甘い笑顔など、微塵も残っていない。
部下たちを牽制していた時の、悪戯っぽい独占欲すら存在しない。
そこに現れていたのは――己の命よりも尊い唯一無二の伴侶を汚そうとした害虫に対し、一片の慈悲も、一秒の猶予も与えず、魂の果てまで叩き潰すことを決定した、絶対強者たる覇王の貌。
ピキリ、ピキピキピキッ――!!
大広間の室温が、信じられない速度で急降下していく。
シャンデリアの魔導光が青白く凍りつき、赤絨毯の繊維が白銀の霜に覆われ、卓上のグラスに注がれていたシャンパンが一瞬にして芯まで凍結して爆ぜる。
ビシィィィィンッ! ビリビリビリッ!!
大広間の高窓――天井近くに嵌め込まれていた数十枚の巨大なステンドグラスと窓ガラスが、クロードの放つ凄まじい魔力の圧力に耐えきれず、悲鳴のような共鳴音を上げて一斉にひび割れ始めた。
ガラスの表面に蜘蛛の巣のような亀裂が走り、細かな氷晶の破片がパラパラと宙に舞い散る。
「ひ……っ!?」
「息が……息ができない……ッ!!」
左右に居並んでいた帝国貴族たちや、歴戦の猛者たる他国の将軍たちすら、そのあまりの覇気と殺気に圧され、顔を蒼白にして胸元をかきむしり、その場に膝をついて平伏した。
魔力を操る者ほど、理解できてしまう。
目の前に立つ男が、いま、本気でこの空間ごと世界を凍結させようとしているという、抗いようのない絶対的な天災の気配。
その死神の切っ先が、ただ一点――足元を凍りつかせ、激痛に顔を歪めるユリウスへと、真っ直ぐに突き刺さっていた。
「あ……が……っ、ひ……ぃ……」
ユリウスの歯の根が、ガチガチと激しく打ち鳴らされた。
激痛のあまり流れていた涙すら、頬の表面で瞬時に凍りつき、白い霜となって皮膚に張り付いていく。
見上げるクロードの顔立ちは、刃物のように鋭く、彫刻のように美しく、そして何人をも寄せ付けぬ絶対零度の峻烈さを湛えていた。
その切れ長の氷青色の双眸。
見る者の魂を芯まで凍てつかせるその瞳が、ゴミ屑を、踏み潰すべき害虫を見下ろすかのように、冷徹にユリウスを射抜いている。
クロードは、腰に佩いた白銀の長剣の柄に、手袋を嵌めた右手を静かに添えた。
カチャリ、と澄んだ硬質な音が、静寂の大広間に落ちる。
そして――。
地底の底から響くような、低く、深みがあり、そして聴く者すべての背骨を凍えさせるバリトンの声が紡ぎ出された。
「――我が大公妃に」
一言。
ただ、それだけで、ユリウスの心臓が恐怖のあまり縮み上がった。
「我がアルジェント帝国の至宝であり、私の命そのものであるエリアーナに……」
クロードの氷青色の瞳の奥底で、暗く、禍々しい処刑の炎がゆらりと揺らめく。
その声音には、怒りすら超越した、絶対の決定事項としての冷徹な宣告が宿っていた。
「――その汚らわしい手で触れようとした罪」
クロードが、わずかに顎を引いた。
その眼差しに射抜かれた瞬間、ユリウスの全身の毛穴から、絶望の冷や汗が凍りつきながら噴き出した。
「――万死に値する」
ドォォォォォンッ……!!
重圧の波動が、ユリウスの頭上へと叩きつけられた。
足元の氷柱がさらに一段、太く青白く輝きを増し、ユリウスの太腿から腰にかけて、バリバリと凄まじい音を立てて凍結の領域を広げていく。
「ぎゃあああああああッッ!! 足が……足が折れる! 助けてくれ! 誰か助けてくれぇぇぇッ!!」
ユリウスは狂ったように叫び、大広間の天井へ向けて涙と鼻水を撒き散らした。
逃げ場はない。
抗う術もない。
自らの身の丈も知らず、神の聖女に手を伸ばそうとした愚かな侵入者に対し、アルジェント帝国の絶対零度の鉄槌が、いま、完璧に振り下ろされていた。
そして――。
絶叫し、氷の中で悶絶するユリウスの周囲を取り囲むように、大広間の影から、次々と足音が近づいてくる。
エリアーナを慈しみ、エリアーナを愛し、エリアーナのために命を捧げると誓った、帝国の最強の味方たち。




