第47話:粉砕される自尊心
「お……覚えていないはずが、ないだろうがぁぁぁッ!!」
大広間の天蓋を震わせるようなユリウスの絶叫が、クリスタル・シャンデリアの眩い光の中に響き渡った。
喉が張り裂けんばかりに張り上げたその声は、掠れ、裏返り、狂気と恐怖で耳障りな濁音を孕んでいる。
赤絨毯の上に飛び散った黒い泥水の中、ユリウス・ド・ラ・ロシュは、まるで悪夢に苛まれる狂人のように両手を振り乱し、血走った眼球をこぼれ落ちんばかりに見開いてエリアーナを睨みつけていた。
「ふざけるな! ふざけるな、ふざけるなよエリアーナ!! この私が……お前の愛したユリウス・ド・ラ・ロシュが、見知らぬ男なわけがあるか!! 冗談なら今すぐやめろ!!」
唾液の飛沫を撒き散らしながら、彼は一歩、また一歩と穴のあいた泥まみれのブーツを踏み鳴らす。
額の傷口から滲み出た血膿が眉間を伝い落ち、無精髭に覆われた顎からボタボタと赤絨毯へ滴り落ちていた。
貴族としての威厳など、一片たりとも残っていない。
ただ、自らの足元から崩れ去ろうとしている「現実」を認めまいと、狂暴に吠え立てる手負いの野良犬そのものの姿であった。
「三年だぞ!! 三年間もの間、お前は我がロシュ侯爵邸の屋敷で、この私の婚約者として暮らしていたではないか!! 朝起きてから夜眠るまで、私の顔色を窺い、私の執務を支え、私のために帳簿を整え、私のために温かいお茶を淹れていたではないか!! その相手を……この次期ロシュ侯爵たる私を忘れたなどと、誰が信じると思うのだ!!」
ユリウスは胸を掻きむしり、周囲の貴族たちへ向けて、すがるように両腕を広げてみせた。
まるで「そうだと言ってくれ」「こいつが嘘をついているのだと認めてくれ」と、世界全体に同意を求めるかのように。
「そうだ、周囲の者たちもよく聞くがいい!! あいつはかつて、私の忠実な婚約者だったのだ!! 私が少しばかり厳しく接したせいで、当てつけのようにこの帝国へ逃げ出しただけに過ぎん!! 他国の大公に色目を使い、あまつさえ『どちら様でしょうか』などと白々しい嘘を吐いて私を拒むなど、恩知らずにも程がある!! この女の正体は、私の屋敷の雑用係に過ぎんのだぞ!!」
見苦しい。
あまりにも、見苦しすぎる醜態。
かつて栄華を誇っていた名門侯爵家の令息が、泥と垢にまみれた襤褸切れを纏い、大陸中の最高権力者たちが集う至高の大夜会の中心で、喚き散らしているのだ。
だが、その必死の喚き声が響けば響くほど、大広間を支配する空気は、冷笑から完全なる「憐憫と嫌悪」へと塗り替えられていく。
「まあ……本当に見苦しいですわね」
「自ら『雑用係』などと口走るなど、名門侯爵家の当主代行の言葉とは思えませんわ」
「大公妃殿下にそのような下賎な肩書きを押し付けようなどと、正気を疑うわね」
貴婦人たちの冷ややかな嘲笑が、さざ波のように広がる。
他国の特使たちも、腕組みをしたまま軽蔑の眼差しでユリウスを見下ろしていた。
しかし――そんな周囲の侮蔑すら、ユリウスの狂った脳髄には届かない。
彼は伸ばした泥まみれの手を、再びエリアーナの群青のドレスの裾へと向けて、貪欲に突き出した。
「さあ、茶番はおしまいだ、エリアーナ!! お前の嘘はすべて見破ったぞ!! 早くその素直でない口を閉じて、私の胸に飛び込んでくるんだ!! 私が許してやる!! 私が直々に、お前を我がロシュ侯爵家へ連れ帰ってやるのだからな!!」
その汚らわしい指先が、あと数寸という距離まで迫った――まさにその瞬間。
――スッ、と。
エリアーナの隣に立つ、大公クロードの氷青色の瞳が、冷徹な光を帯びて微かに動いた。
彼が自らの氷の刃を抜くまでもなく、その場にいる護衛のすべてを凍結させてしまえるほどの絶対的な殺気が、青年の肩から立ち上りかけた、その刹那――。
ふわりと。
エリアーナの小さな手が、クロードの深藍色の礼装の袖口へと、そっと優しく添えられた。
「…………っ」
クロードが息を呑み、視線を落とす。
エリアーナは、クロードへ向けて、微かに首を横に振ってみせた。
『大丈夫です、私に任せてください』――そう語りかけるかのような、春の陽だまりのように穏やかで、しかし揺るぎない覚悟を宿した眼差し。
クロードの氷青色の瞳から、殺気の刺々しさがスッと引いていく。彼は愛しい伴侶の誇りと意志を尊重するように、わずかに顎を引き、彼女の半歩後ろへと静かに控えた。
それは、絶対的な力を持つ覇王が、自らの信じる女神へとすべてを委ねた証であった。
そして――エリアーナは、再び正面へと向き直った。
パチンッ。
静まり返った大広間に、澄み渡る硬質な音が響いた。
エリアーナが、手にした象牙の扇を、流れるような優雅な所作で静かに閉じたのだ。
扇が胸元へと引き寄せられ、隠されていた彼女の艶やかな桜色の唇が、露わになる。
そこには、怯えの色など微塵もなかった。
かつて執務室の暗闇で、この男の怒声に震え、痛みに耐えていた少女の面影など、どこを探しても存在しなかった。
氷晶の如き群青のドレスを纏い、魔石の星空を呼吸するように明滅させたエリアーナは、その琥珀色の瞳をスッと細めると、目の前で息を荒げる泥まみれの男を、真っ直ぐに見据えた。
そして――。
大広間の最果て、天井のフレスコ画の隅々にまで染み渡るような、鈴を転がすように清らかで、透き通った声が紡ぎ出された。
「……ユリウス・ド・ラ・ロシュ様」
その名が呼ばれた瞬間、ユリウスの身体がピクンと跳ねた。
「ほ、ほら見ろ! 覚えているではないか!」と、歓喜の笑みを浮かべかけたユリウス。
だが――次に続いたエリアーナの言葉は、その愚かな妄想のすべてを、無慈悲に粉砕する断罪の刃であった。
「……ええ。お顔と名前だけは、存じ上げておりますわ。……かつて、ヴァン・ベルク伯爵家とロシュ侯爵家の間で結ばれていた、形ばかりの婚約者殿ですね」
「そ、そうだ! 婚約者だ! 私の――」
「いいえ。違いますわ」
エリアーナは、ユリウスの言葉を静かに、しかし絶対の拒絶をもって遮った。
彼女の声音には、怒りも、憎しみも混ざっていなかった。
ただ、春の雪解け水のように冷徹で、淡々とした事実の確認。
「婚約者なら――あの王宮の建国記念夜会において、大勢の王侯貴族の前で、私の妹であるティファーヌさんを選び、私を捨てたはずですわ」
「…………っ!?」
ユリウスの息が、喉の奥で詰まった。
「覚えていらっしゃらないのですか?」
エリアーナは一歩も引かず、扇を胸の前で美しく整えながら、凛とした声音で言葉を継いだ。
その一言ひとことが、静寂の大広間に、恐ろしいほどの鮮明さをもって木霊していく。
「あの日、諸侯が一堂に会する煌びやかな大広間の中心で、貴方は大声を張り上げて宣言なさいましたね。
『地味で愛嬌もなく、領地にも貢献しないお前のような女は、次期侯爵夫人にふさわしくない』と。
『私の隣には、この美しく聡明なティファーヌこそがふさわしい』と。
……そう嘲笑い、私との婚約を一方的に破棄なさったのは、他ならぬ、貴方ご自身でしたね」
――ッ!!
大広間の空気が、一瞬にして音を立てて凍りついた。
ユリウスの顔面から、サーッと血の気が引いていく。
口を開けたまま、言葉が出てこない。
喉仏が激しく上下し、冷たい汗が額の傷口から噴き出して、視界を赤く濁らせる。
(な……な、ぜ……!?)
ユリウスの脳内で、あの建国記念夜会の記憶が、鮮血のような鮮やかさで蘇っていた。
傲慢に胸を反らし、ティファーヌの腰を抱き寄せ、大広間の全員へ向けて高らかにエリアーナを罵倒した、あの日。
自分が彼女に投げつけた、すべての屈辱の言葉。
彼女が何一つ言い返さず、ただ静かに「謹んでお受けいたします」と一礼して去っていった、あの光景。
その時、自分が吐き捨てた言葉の数々が。
いま、このアルジェント帝国の至高の大夜会において、神々しい大公妃となったエリアーナの口から、一言の狂いもなく寸分違わずにオウム返しのように突き返されたのだ。
「さらに、貴方は仰いましたわ」
エリアーナの追撃は、止まらなかった。
彼女の琥珀色の瞳は、どこまでも澄み渡り、目の前で青ざめる男を哀れみすらなく見据えていた。
「『朝から晩まで部屋に引きこもり、小難しい顔をして無意味な紙切れを弄ぶばかり。領地の繁栄に対して何一つとして貢献しなかった』……と。
私が徹夜で合わせていた帳簿も、
泥に塗れて整えていた農地も、
命を削って注ぎ込んでいた結界石の魔力も、
そのすべてを『何一つ貢献しなかった無能の雑用』と切り捨て、見下したのは……他ならぬ、貴方でしたね」
「あ……ぐ……っ、そ、れは……!」
ユリウスの喉から、苦悶の呻きが漏れる。
「ですから、私は貴方のご指示に従ったまでですわ」
エリアーナは、ふわりと唇の端を優雅に持ち上げてみせた。
それは、かつてロシュ侯爵邸を出立する夜に見せたものと同じ――未練も執着も何一つ持たない、完璧なる決別の微笑み。
「私が良かれと思って施していた『ささやかな付与魔法』は、すべて解除して出ていくと申し上げました。
そして、『これからは優秀で素晴らしいお二人で、どうぞ力を合わせて頑張ってください』とお伝えしましたわ。
貴方はそれを、『負け惜しみの虚勢だ』と鼻で笑い、私を追い出されたではありませんか」
――負け惜しみの虚勢。
その言葉が突き刺さった瞬間、ユリウスの膝がガクガクと音を立てて激しく震え始めた。
言い逃れが、できない。
弁明の余地が、一ミリたりとも存在しない。
すべては自分自身が選び取った道だった。
彼女の献身を当たり前のものとして貪り、感謝も敬意も払わず、役立たずと罵倒し、自らの手で切り捨てたのだ。
彼女は奪ったのではない。彼女は裏切ったのでもない。
ただ、彼自身が「いらない」と捨てた恩恵を、本来の持ち主として手元に引き取っただけに過ぎなかったのだ。
「……それなのに」
エリアーナの声音から、微かな微笑みが消え、冬の刃のような鋭利な静寂が宿った。
「妹のティファーヌさんを選び、私を捨てておいて。
いざ私が抜け、ご自身の無能によって領地が崩壊し、立ち行かなくなったからと……。
あまつさえ隣国まで泥を撒き散らして押しかけ、『許してやるから戻ってこい』などと……。
――ユリウス様。貴方のその浅ましさと傲慢さ、一体どこまで恥を晒せば気が済むのですか?」
ドォォォォォンッ――!!
大広間の空気が、完全に爆発した。
エリアーナの凛然たる断罪。
そのすべての言葉を耳にした瞬間、左右に居並ぶ数百名の王侯貴族たちから、抑えきれない怒りと、嘲笑と、底知れぬ軽蔑の嵐が、津波となってユリウスへと叩きつけられたのだ。
「……なんと、浅ましい……!」
他国の特使が、吐き捨てるように言った。
「自ら夜会の中心で婚約破棄を宣言し、妹に乗り換えて追い出しただと!?」
「まあ、信じられませんわ! あのお方を『地味で愛嬌がない』と罵倒したですって!?」
帝国貴族の貴婦人たちが、扇を激しく打ち鳴らして眉を吊り上げる。
「領地の繁栄を一身に支えてくださっていた聖女様を手放し、中身のない妹に現を抜かしたあげく、領地が破綻した途端に『許してやるから戻ってこい』だと!?」
「己で捨てておいて、隣国まで泥まみれで復縁を迫りに来ただと!? 盗人猛々しいにも程があるぞ!」
「恥知らずめ! 人間の風上にも置けぬ、救いようのない寄生虫ではないか!!」
大広間中から降り注ぐ、容赦のない罵声と失笑の集中砲火。
大階段の脇に控えていた公爵令嬢コンスタンスは、扇で口元を覆いながら、氷よりも冷たい嘲笑を浴びせかけた。
「身の程知らずの豚が、天上の白鳥に求婚しに来たかと思えば……自ら白鳥を追い出した過去を誇らしげに語るとはね。救いようのない道化ですこと」
近衛騎士団長バスティアンの神剣の鍔が、怒りに震えてカチリと鳴り、
天才魔導士ニコラが「自業自得だ、無能なおじさん!」と吐き捨て、
尖塔から見下ろす諜報隊長ロヴェルが、冷酷な笑みを深めていた。
全世界が、彼を拒絶していた。
大広間にいる誰一人として、彼に同情の視線を向ける者はいなかった。
かつて自分が大広間の中心でエリアーナを嘲笑った時とは、真逆の――何百倍もの正当な怒りと軽蔑が、ユリウス・ド・ラ・ロシュという男の存在そのものを、徹底的に押し潰していた。
「あ……ぐ……っ、あ……ぁ……」
ユリウスの顔から、完全に血の気が引いていた。
白を通り越して、土気色へと変色した肌。
伸ばされていた泥まみれの手が、宙で力なく震え、やがて力尽きたように垂れ下がる。
自尊心の、完全なる粉砕。
己が信じ込んでいた「愛されていたはずだ」「迎えに行けば喜んで戻ってくるはずだ」という特大の勘違いが、ただの哀れな妄執に過ぎなかったという現実。
目の前に佇む、至高の群青の聖女。
その瞳の奥には、憎しみすら存在しない。
ただ――道端に転がる汚らわしい汚泥を一瞥するだけの、完全なる「無関心」。
彼女の世界から、自分はとっくに消え去っていたのだ。
彼女はもう、二度と自分の元へなど戻らない。
どれほど泣き叫ぼうと、どれほど地べたを這いずり回ろうと、自らが手放した奇跡は、永遠に手の届かない天上の星となって輝いている。
「う……そ、だ……。こんな……こんなはずでは……」
ユリウスの膝が、激しくガクガクと音を立てた。
だが――自らの過ちの重さに耐えきれなくなったその瞬間。
完全に理性を焼き切られた愚者の脳髄の中で、絶望は、最も危険で醜悪な「逆上」の狂気へと反転しようとしていた――。




