第46話:誰よりも冷たい「どちら様でしょうか?」
大広間に満ちていたのは、息をすることすら憚られるほどの、不気味で重苦しい完全な静寂であった。
頭上に掲げられた十数基の豪奢なクリスタル・シャンデリアは、何百粒もの魔導光を燦然と乱反射させ、赤絨毯の深紅と大理石の鏡面を眩いばかりに照らし出している。
だが、その光の海の中心――至高の栄誉の道である赤絨毯のど真ん中に立ち塞がっていたのは、この天上の祝宴にはあまりにも不釣り合いで、あまりにも醜悪な一人の男であった。
泥と汚水にまみれ、破れた袖口から薄汚れた裏地を覗かせた濃紺の上着。
額に巻かれた包帯からは赤黒い血膿が滲み出し、伸び放題の無精髭に覆われた頬は骸骨のように落ち窪んでいる。
体全体から立ち上る、汗と泥と生ゴミの混ざり合った強烈な悪臭。
彼が一歩足を踏み出すたびに、穴の開いたブーツの爪先から黒い泥水が飛び散り、大理石の上に敷き詰められた深紅の絨毯を無残に汚していた。
「……ハァ、ハァ……っ! エリアーナ!!」
ユリウス・ド・ラ・ロシュは、血走った目を爛々と見開き、乾ききった唇の端から白い泡を吹き散らしながら、目の前に立つ少女を睨みつけていた。
彼の差し出した右手は、泥と垢で真っ黒に汚れ、飢えと興奮によって小刻みに打ち震えている。
その汚らわしい指先が、今宵、世界で一番美しいドレスを纏ったエリアーナの、白磁のように透き通る柔らかな肌へと届かんと伸びていた。
周囲を取り囲む数百名の王侯貴族たちから、息を呑むような嫌悪と戦慄のざわめきが波のように広がる。
「な、何なのあのみすぼらしい男は……」
「大公城の赤絨毯の上に、泥を撒き散らして……正気なのかしら」
「狂人か? 衛兵は何をしているのだ、なぜあんな汚物を大広間に立ち入らせた!」
貴婦人たちは扇やレースの手巾で鼻と口を覆い、露骨に眉をひそめて後退りした。
近隣諸国の王族や特使たちも、信じられないものを見るような侮蔑の眼差しをユリウスへと注いでいる。
かつてロシュ侯爵領の若き跡取りとして、社交界で大きな顔をしていた男の無様な成り果て。
しかし――そんな周囲の冷酷な視線の集中砲火を浴びていながら、狂気と妄執に脳髄を焼かれたユリウスの耳には、軽蔑の囁きなど一文字たりとも届いていなかった。
彼に見えていたのは、ただ一つ。
目の前で足を止め、自らを見つめている、至高の群青のドレスを纏ったエリアーナの姿だけであった。
(見ろ……立ち止まったぞ! あいつは、私の姿を見て立ち止まったのだ!)
ユリウスの歪んだ唇の端に、見るに堪えない醜悪な「勝利の笑み」がじわりと浮かび上がった。
あいつは驚いているのだ。
まさか、この自分が直々に隣国まで足を運び、大夜会の会場へ乗り込んで迎えに来るとは思っていなかったのだ。
驚き、感動し、胸を打たれ、今にも泣き崩れそうになっているに決まっている――そう信じて疑わぬ狂気の確信。
「ハ……ハハッ! 驚いたか、エリアーナ!」
ユリウスは大広間の全員に聞こえるような大声を張り上げ、胸を突き出し、尊大に顎を反らせてみせた。
泥まみれの破れ上着を着た浮浪者同然の姿のまま、かつて執務室で彼女を見下ろしていた時とまったく同じ、傲慢で上から目線の態度で怒鳴り散らしたのだ。
「よくぞここまで逃げ出してくれたものだな! 他国の大公に色目を使い、あまつさえ大公妃などと担ぎ上げられていい気になっていたようだが……もう終わりだ! この私が直々に、国境を越えて迎えに来てやったのだからな!」
広間の空気が、さらに一段と冷え切っていく。
ユリウスは唾を撒き散らしながら、一歩、また一歩とエリアーナへ向かって泥靴を踏み鳴らした。
「感謝するがいい、エリアーナ! お前のような地味で愛嬌のない女が、他国の公爵の元でどれほど無理をして着飾っていたか、この私にはすべてお見通しだ! だが……安心しろ! 私は寛大だ! お前がこれまでロシュ侯爵領でこなしてきた数々の『実務の成果』……帳簿の整理や結界の維持の才能だけは、この私が特別に認めてやる!」
ユリウスは偉そうに腕組みをし、首を振って見せた。
まるで、出来の悪い下僕に情けをかけてやる慈悲深き主君であるかのように。
「あの夜会の破棄は、少しばかり私の言葉が過ぎたかもしれん! だが、お前が私を嫉妬させようと当てつけでここまで逃げ出してきた罪も、すべて水に流してやろう! 俺が……この次期ロシュ侯爵たる私が直々にお前を許してやる!!」
――許してやる。
その言葉が吐き出された瞬間、大広間のあちこちから、失笑を禁じ得ない微かな息が漏れた。
破滅し、借金取りに屋敷を差し押さえられ、泥まみれで物乞い同然となった男が、いまや帝国を救い、大陸中の羨望を集める至高の聖女に向かって「許してやる」と宣ったのだ。
これ以上の喜劇が、この世のどこにあるだろうか。
だが、ユリウスの暴走は止まらなかった。
彼は差し出した右手をさらに突き出し、命令するように怒鳴りつけた。
「さあ、分かったらさっさとその手を寄越せ! こんな他国の男の腕など今すぐ振り払い、私の元へ戻ってくるんだ! 領地へ戻り、すぐにあの壊れた結界石を直せ! 枯れた麦畑を元通りにし、ワインの醸造を再開させ、山積みの帳簿の数字をすべて合わせろ! お前の得意な『雑用』で、我がロシュ侯爵家の繁栄を取り戻すために、再び身を粉にして尽くすんだ!!」
唾液を飛ばし、目を血走らせて叫ぶユリウス。
その言葉の端々に滲み出ているのは、反省でも愛でもなかった。
己の破滅を免れるため、己の借金を帳消しにするため、再びこの少女を都合のいい道具として連れ戻し、冷たい執務室の暗闇の中に閉じ込めて、死ぬまで搾取し続けようとする――あまりにも浅ましく、あまりにも醜悪な欲望のすべてであった。
「さあ、エリアーナ! 戻ってこい! お前を愛してやるのは、この私しかいないのだからな!!」
ユリウスの泥まみれの手が、エリアーナの群青のドレスの袖口へと、あと数寸という距離まで迫った。
会場中の全員が、息を呑んだ。
他国の特使たちが眉をひそめ、近衛兵たちが腰の剣の柄に手をかけ、大公クロードの氷青色の瞳に絶対零度の殺気が宿りかけた、まさにその刹那――。
――スッ、と。
エリアーナ・ヴァン・ベルクは、動いた。
彼女は、逃げなかった。
後退りすることも、恐怖に怯えて悲鳴を上げることも、あるいは取り乱してクロードの背後に隠れることすらしなかった。
ただ、静かに。
眉一つ動かさず、凛として一本の美しい槍のように背筋を伸ばし、その場に毅然として立ち止まっていた。
「…………」
その佇まいは、息を呑むほどに静謐で、息を呑むほどに気高かった。
かつて、ロシュ侯爵邸の冷え切った廊下で、この男の怒声を聞くたびに肩をすくめ、震え、俯いて爪を噛んでいたあの過労の少女の面影など、どこを探しても欠片すら残っていなかった。
彼女の琥珀色の瞳は、夜明けの湖水のようにどこまでも澄み渡り、目の前で喚き散らす泥まみれの男を、道端に転がる小石か、あるいは濁った水たまりでも眺めるかのような、完璧な平穏をもって見据えていた。
怒りも、ない。
恨みも、ない。
悔しさも、未練も、憐憫の情すらも、そこには存在しなかった。
ただ――完全に自分とは無関係な、遠い世界の出来事を見るかのような、絶対的な「無関心」。
そして、エリアーナは動いた。
シャラアン……と。
彼女の右手が、優美に持ち上げられた。
手にしたのは、コンスタンスから贈られた、象牙の親骨に群青の絹を張り、細やかな銀糸で星空を刺繍した最高級の扇であった。
パチンッ。
澄み渡る硬質な音が、静まり返った大広間に小さく、しかし驚くほど響き渡った。
エリアーナが、流れるような所作で扇を優雅に開いたのだ。
開かれた扇が、彼女の艶やかな桜色の唇の端をふわりと覆い隠す。
露わになったのは、夜空の星々よりも冷たく、北極海の氷層よりも透き通った、双眸の光だけであった。
伸ばされていたユリウスの手が、その神聖な気圧に打たれ、空中でピタリと凍りついた。
ユリウスの顔に、微かな戸惑いの色が走る。
「え……?」と、間抜けな疑問符が浮かびかけた、その瞬間。
扇の陰から、鈴を転がすような、清らかで透明な声が零れ落ちた。
――それは、氷よりも冷たく。
冬の吹雪よりも容赦のない、絶対の断絶を告げる一言であった。
「――失礼ですが、どちら様でしょうか?」
…………。
シン、と。
大広間の空気が、完全に静止した。
「……え?」
ユリウスの口から、間抜けな掠れた音が漏れた。
どちら様……?
いま、この女は、何と言った……?
ユリウスが呆然と立ち尽くすなか、エリアーナは微動だにせず、扇の上の琥珀色の双眸をわずかに細めた。
その声音には、怒りの色など微塵も混ざっていなかった。
ただ、見知らぬ無礼な泥棒に道を尋ねられた貴婦人が返すような、完璧な礼節と、底知れない侮蔑を含んだ、淡々とした事務的な響き。
「見ず知らずの無礼な殿方に、気安く名前を呼ばれる筋合いはございませんわ」
――ドォォォォォンッ!!
ユリウスの脳内で、巨大な鐘が粉々に砕け散るような轟音が鳴り響いた。
「な…………っ!?」
ユリウスの全身から、一瞬にしてすべての血の気が引いていった。
口を開けたまま、顎が外れそうになる。
目の前が真っ白になり、足元が激しく揺らめいた。
どちら様でしょうか。
見ず知らずの殿方に、気安く名前を呼ばれる筋合いはない。
ありえない。
ありえない、ありえない、ありえない!!
泣いてすがるはずだった。
自分の足元に這いつくばり、「ユリウス様、迎えに来てくださったのですね」と涙を流して感謝するはずだった。
この自分が直々に国境を越え、泥にまみれて迎えに来てやったのだ。
それなのに、返ってきたのは――「覚えていない」という、存在そのものを根底から消し去るような、絶対零度の完全否定。
「お……お前……! な、何を言っているんだ、エリアーナ!!」
ユリウスは取り乱し、金切り声を張り上げた。
「ふざけるな! 覚えていないはずがないだろうが! 俺だ! ユリウスだ! お前の婚約者だった、ユリウス・ド・ラ・ロシュだぞ!!」
必死の形相で叫ぶユリウス。
しかし――その叫び声が響き渡った瞬間。
プッ……。
クスクスクス……ッ!
大広間のあちこちから、堪えきれない嘲笑と失笑の波が、一気に噴き出したのだ。
「まあ……『どちら様でしょうか』ですって!」
「ふふっ、傑作ですわ! 見ず知らずの殿方ですって!」
「当然ですわね。あんな泥まみれの汚らわしい浮浪者、名門侯爵家の名を騙る不審者以外の何者でもありませんもの」
「大公妃殿下に気安く手を伸ばすなど、身の程知らずにも程があるわ」
他国の特使たちも、帝国の高位貴族たちも、扇で口元を隠しながら肩を震わせ、憐れみと軽蔑の混ざった目をユリウスへと注いでいた。
大階段の脇に控えていた公爵令嬢コンスタンスに至っては、扇をパチンと鳴らし、「あのような見苦しい道化、我が社交界でも見たことがありませんわ」と声高に失笑を漏らしている。
針の筵。
嘲笑の津波。
自らが思い描いていた「感動の復縁劇」など、最初からこの世界のどこにも存在しなかったのだ。
そこにあったのは、ただ一つ――大陸中の権力者たちの前で、己の無能と愚行を晒し上げられ、存在を無視された、哀れな道化の公開処刑の現実だけであった。
「ぐ……っ、あ……ぅ……っ!」
ユリウスの顔が、屈辱と激怒で真っ赤に鬱血していった。
伸ばされていた泥まみれの手が、宙で虚しく痙攣する。
目の前に佇む、至高の群青の聖女。
その瞳の奥には、かつて自分に向けられていたはずの献身も、恐れも、未練の一欠片すら残されていなかった。
彼女の世界から、自分という存在は――とうの昔に、塵埃のように消え去っていたのだ。
そして――。
エリアーナの隣で、ずっと静かに控えていた大公クロードが、ゆっくりと、その冷涼なる氷青色の双眸を細めた。
彼の唇に浮かんでいたのは、愚かな獲物を完全に罠の底へと沈めた狩人の、残酷にして美しすぎる笑みであった。
破滅への時計の針が、いま、最後の瞬間に向かって音を立てて進み始めていたのである。




