↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

45/60

第45話:哀れな道化の乱入

大階段の最下段へと降り立った大公クロードとエリアーナの足元に、深紅の豪奢な赤絨毯がまっすぐに伸びていた。

大広間の中央を南北に貫くその道は、帝国の歴史において皇帝と大公、そしてその正妃のみが歩むことを許された、至高の栄誉の道である。


カツン、カツン、と。

二人が歩調を合わせて進むたび、会場を埋め尽くす数百人の王侯貴族や外国使節団から、息を殺したような微かな衣擦れの音だけが返ってきた。

クロードのエスコートは、まさに完璧の一言に尽きた。

長身の身体でエリアーナの半歩前を歩みながら、その右手は彼女の白磁のように滑らかな手をしっかりと、しかし羽毛に触れるかのような極上の優しさで包み込んでいる。時折、視線だけを横に落とし、彼女の歩行に乱れがないか、靴擦れが起きていないかを確かめるその眼差しには、冷酷無比と恐れられる「氷の魔将」の面影など微塵もなく、ただ世界で最も愛しい宝物を抱く男の、蕩けるような甘い光が宿っていた。


そして――その隣を進むエリアーナの佇まいは、大広間に集うすべての者の魂を、無条件で屈服させていた。


氷晶のように透き通る群青のシルクドレス。

彼女が一歩を踏みしめるごとに、ドレスの裾に散りばめられた数百粒の魔石が、呼吸をするように青と銀の柔らかな燐光を明滅させる。

エリアーナの身体から放たれる【万物最適化】の澄み切った魔力波が、大広間の空気を優しく撫で、頭上のクリスタル・シャンデリアの光すら彼女の周囲だけひときわ清廉な輝きへと補正されていく。

首元に煌めく母の形見の蒼い星彩石と、耳元に揺れる大粒のイエローダイヤモンド。

艶やかに波打つ栗色の髪を高く結い上げ、恥じらいを帯びながらも凛と前を見据えるその横顔は、神話の創世記において大地に恵みをもたらしたという、豊穣の女神そのものであった。


「……なんという、神々しさだ……」

「絵画ではないのか……? 現実の女性が、これほどまでに気高く、美しく輝くことなどあり得るのか……」

「大公閣下のあの表情をご覧なさい。世界中のいかなる財宝を積まれようと、決してあの方を手放すことはないでしょうね」


左右に控える列席者たちから、溜息混じりの囁きが漏れる。

誰もが道を譲り、頭を垂れ、その神聖な行列に息を呑んでいた。

大広間の中央に設えられた玉座へと向かう二人の歩みは、そのまま帝国の栄華と、揺るぎなき愛の勝利を確定させる儀式となるはずであった。


――しかし。


その目も眩むような光の只中を、大広間の最果て――給仕台の影から、血走った瞳で見つめ続けていた一人の男がいた。


「…………っ、あ…………ぁ…………」


ユリウス・ド・ラ・ロシュの喉の奥から、乾いた、破裂寸前の呼気が漏れ出していた。

大理石の円柱にしがみつく彼の両手は、爪が白く変色するほど強く石を引っ掻き、額に巻かれた汚れた包帯からは、じわりと新たな血が滲み出していた。


頭蓋の奥で、理性の警鐘などとうに焼き切れていた。

目の前で起きている光景。

赤絨毯の上を、大陸中の王侯貴族に傅かれながら、優雅に歩みを進めるエリアーナ。

その隣に立つ、大陸最強の英雄クロード。

二人の間に流れる、誰も入り込む余地のない完璧な調和と、至高の愛の空気。


それを見せつけられるたび、ユリウスの胸の奥底で、ドロドロとした黒々しい「焦燥感」が、猛毒のマグマとなって全身の血管を駆け巡っていたのだ。


(行くな……! あそこへ行くな! 玉座へなど、座るんじゃない……!!)


心臓が、肋骨を内側から叩き割らんばかりの勢いで暴れ回る。


(もし……もしあいつがあの玉座に座ってしまえば……正式に大公妃としての宣誓を交わしてしまえば……! あいつは永遠に、私の手の届かない天上の女になってしまう……! ロシュ侯爵領の破滅を止める術は永遠に失われ、私は借金取りの奴隷として、道端で野垂れ死ぬしかなくなるのだ……!!)


恐怖。

失うことへの、耐え難い恐怖。

だが、その恐怖の裏側に張り付いていたのは、反省などでは断じてなかった。

それは――「あいつは私のものだったはずだ」という、どこまでも浅ましく、身勝手な独占欲と妄執であった。


(そうだ……あいつは私の婚約者だったのだぞ! 三年もの間、私の屋敷の冷たい部屋で、文句の一つも言わずに私のために働いていた女だ! あいつが尽くしていた相手は、この私なのだ! あいつが愛していたのは、この私のはずなのだ!!)


ユリウスの歪んだ脳髄の中で、記憶のすべてが己の都合のいい形へと書き換えられていく。

あの建国記念の夜会で、エリアーナが未練のかけらも見せずに「謹んでお受けいたします」と即答したことも。

指を鳴らしてすべての恩恵を解き、静かに背を向けて立ち去ったことも。

すべては「強がり」であり、「自分を嫉妬させるための狂言」であったのだと、そう信じ込まなければ精神が崩壊してしまうのだ。


(あいつは、私を待っているのだ……! あの冷たい隣国の大公の横で、笑顔を貼り付けながら……心の中では、私が迎えに来てくれるのを、今か今かと待ち焦がれているのだ! 私が今、ここで声をかけてやりさえすれば……! 『悪かった、お前を許してやるから戻ってこい』と抱きしめてやりさえすれば、あいつは泣いて喜び、私の足元にすがりついてくるに決まっている!!)


狂気の炎が、ユリウスの理性の最後の防壁を焼き尽くした。

もう、誰にも止められなかった。

飢えも、寒さも、全身の激痛も、すべてが彼を突き動かす燃料へと変わっていた。


「エリアーナ……! 私の……私のエリアーナぁぁぁッ!!」


――ダッ!!


ユリウスは円柱の影から、獲物を狙う飢えた野犬のような勢いで飛び出した。


「うわっ!?」「な、何だあいつは!?」


給仕台の周囲にいた給仕や貴族たちが、突然影から飛び出してきた泥まみれの異形に驚愕し、悲鳴を上げて左右へと跳び退いた。

本来であれば、大広間の外縁部には無数の警備兵が配置されており、不審者が一歩でも前へ出ようとすれば、即座に槍で取り押さえられるはずであった。


しかし――奇妙なことに。

通路の脇に立っていたアルジェント帝国の近衛兵たちは、ユリウスが飛び出してくるのを目にしても、槍を構えようとはしなかった。

それどころか、兵士たちは互いに冷ややかな目配せを交わすと、わずかに後退し、彼が赤絨毯へと向かうための道を、わざとらしく開け放ったのだ。


――『泳がせておけ。中央の赤絨毯まで、あいつを一切邪魔することなく誘導しろ』


尖塔から見下ろす諜報部隊長ロヴェル、そして主君クロードが張り巡らせた「蜘蛛の巣」の糸が、完璧に機能していた。

哀れな道化を、大広間の最も目立つ中央へ、逃げ場のない処刑台の真ん中へと引きずり出すための、完璧な誘導。


だが、狂乱の渦中にいるユリウスに、そんな罠の存在など気づけるはずもなかった。

彼は兵士たちが道を譲ったのを「自分の気迫に恐れをなしたのだ」と特大の勘違いをし、さらに勢いを増して、大理石の床を泥まみれの穴あきブーツで力任せに蹴り立てた。


ガタガタと音を立てる足取り。

破れかけた濃紺の上着から悪臭を撒き散らし、黒ずんだ包帯を振り乱しながら、男は群衆の列を強引に突き破る。


「どけッ! 邪魔をするな、虫けらどもめがッ!!」


「きゃあああっ!」「な、何なのこの汚らわしい男は!?」

貴婦人たちが泥の飛沫を恐れて悲鳴を上げ、絹のドレスの裾をかき抱いて逃げ惑う。


そして――。


ザッッ!!


大広間の中央。

クロードとエリアーナが歩む、あの神聖なる深紅の赤絨毯のど真ん中へ、泥と悪臭にまみれたユリウス・ド・ラ・ロシュが、転がり出るようにして躍り出たのだ。


「…………っ!?」


二人の歩みが、止まった。

クロードが足を止め、その氷青色の瞳をスッと細める。

エリアーナもまた、足を止め、自らの数歩手前に突如として現れた異物へと視線を向けた。


そして――次の瞬間。

大広間の天蓋を突き破らんばかりの、狂気と絶叫が、静まり返った空間を暴力的に引き裂いた。


「――エリアーナァァァッ!!」


ビシィッ、と。

耳をつんざくような、喉を引き裂く大音声。

ユリウスは両腕を大仰に広げ、血走った目を剥き出しにして、会場中の全員に聞こえるような声で叫び狂った。


「エリアーナ! 俺だ! ユリウスだ!! お前の婚約者、ユリウス・ド・ラ・ロシュが、迎えに来てやったぞぉぉぉッ!!」


――シーン……ッ。


静寂。

あまりの事態に、大広間全体が、文字通り息を止めた。

管弦楽団の演奏者たちが手を止め、貴族たちが口を開けたまま凍りつき、他国の使節団が信じられないものを見るように目を見張る。


そこに現れた男の姿は、あまりにも異様で、あまりにも醜悪であった。


泥と汚水にまみれた破れかけの夜会服。

額に巻かれた包帯からは赤黒い血膿が滲み、無精髭に覆われた頬は落ち窪み、唇からは興奮のあまり白い泡が漏れ出している。

体全体から立ち上る、汗と泥と生ゴミの混ざり合った強烈な悪臭が、赤絨毯の周囲に漂っていた香水の甘い香りを一瞬にして汚染していた。


「な……何だ、あの男は……?」

「物乞い……? 狂人か……!?」

「衛兵は何をしているの!? なぜあんな汚らわしい者が大夜会の会場に入り込んでいるのよ!?」


周囲の貴族たちから、さざ波のように戦慄と嫌悪の囁きが広がる。

誰もが眉をひそめ、鼻口を手巾で覆い、まるでペスト患者でも見るかのように露骨に後退りしていった。

赤絨毯の周囲十メートルに、ぽっかりとした空白地帯が生まれる。

煌びやかな光の海の真ん中に、ただ一人、泥まみれの異形が取り残されていた。


だが――ユリウスの耳には、周囲の軽蔑の声など一文字たりとも届いていなかった。

彼の濁りきった瞳には、ただ目の前に佇む、至高の群青のドレスを纏った少女の姿しか映っていなかったのだ。


「ハァ……ハァ……っ! エリアーナ……!」


ユリウスの顔に、見るに堪えない、醜悪で歪みきった「狂気の笑み」がじわりと浮かび上がった。

彼は自らの胸元を叩き、優越感に浸るかのように、大股で彼女へと近づこうと一歩を踏み出した。


「探したぞ……! よくもこんな遠い北国の城まで逃げ出してくれたものだな! だが、もう安心しろ! この私が直々に、国境を越えて迎えに来てやったのだからな!」


ユリウスは泥にまみれた右手を、まるで施しを与える王のように、エリアーナへ向けて差し出した。

その指先は、飢えと興奮で小刻みに震えている。


「さあ、その手を寄越せ! こんな他国の野蛮な公爵の城など、今すぐ引き払うんだ! お前がこの私のために尽くしたいと、戻りたいと泣いて願っていたことは、すべて分かっている! お前がどれほど私を愛しているか、この私が一番よく知っているのだからな!!」


唾を撒き散らしながら、彼はさらに一歩、赤絨毯を踏みしめて前進する。

その瞳の奥には、確固たる勝利の確信が宿っていた。

いま、手を差し伸べた。

これで、エリアーナは泣き崩れ、自らの足元にすがりついて許しを乞うはずだ――そう信じて疑わぬ、救いようのない笑顔。


「さあ、エリアーナ! 私の元へ戻ってこい!!」


会場中のすべての視線が、凍りついたようにエリアーナへと集中した。

諸侯が息を呑み、使節団が固唾を呑んで見守るなか。

泥まみれの男の伸ばされた手が、いま、至高の聖女の肌へと届かんとしていた――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。