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第44話:光の階段と、息を呑む大広間

アルジェント帝国皇宮の最深部に位置する「白銀の大広間」は、年に一度の建国祭を寿ぐ眩い光彩と、大陸全土から集った選ばれし者たちの熱気によって満ちあふれていた。


見上げるほど高い吹き抜けのドーム天井には、神話の創世神と白銀の竜が舞う壮麗なフレスコ画が描かれ、そこから吊り下げられた十数基の超巨大なクリスタル・シャンデリアが、万色の魔導光を豪奢に乱反射させている。

磨き上げられた床は、純白と深い藍色の大理石を幾何学模様に組み合わせた鏡面仕上げ。その上を歩く諸侯の足元には、まるで満天の星空が映り込んでいるかのようであった。

壁面に沿って配された純金の燭台、絢爛たる大公家の旗と帝国の軍旗、そして給仕たちが掲げる銀のトレイの上に並ぶ、神話級の霊薬にも匹敵する幻の銘酒と山海の珍味。


今宵、この場に足を踏み入れることを許されたのは、帝国屈指の名門貴族だけではなかった。

隣国ルミエール王国の親王、南方海洋諸国の特使、西方商業連合の総帥、さらには遠方の大公国から派遣された高位魔導士団の使節団に至るまで――大陸全土の政治、軍事、経済の頂点に君臨する数百名の重鎮たちが、最高格式の正装に身を包んで一堂に会していたのだ。


「……信じがたい。これが、あの極寒のアルジェント帝国なのか?」

他国の特使の一人が、銀のグラスを片手に感嘆の吐息を漏らしていた。


「年中凍てつき、冬が訪れれば兵を養う麦すら不足すると言われていたあの帝国が……どうだ、この満ち足りた空気は。肌を撫でる風は春の高原のように暖かく、城下から運ばれる農作物は我が国の特級品を遥かに凌駕している」


「ええ、まことその通りですわ。城の中央にそびえる『白銀の古代樹』が満開の花を咲かせている姿を目にした時は、我が目を疑いましたもの。……噂に名高い、大公閣下が迎えられたという『奇跡の聖女様』の御業だとか」


「あの冷酷無比なる『氷の魔将』を骨抜きにし、極寒の地に天上の豊穣をもたらした女性……。今宵、この夜会で正式にお披露目されると聞くが、一体どのようなお方なのだろうか」


貴族たちの間で交わされる囁きは、期待と畏敬、そして抑えきれない好奇心によって熱を帯びていた。

大陸中の誰もが畏怖する若き絶対者、クロード大公。その氷の心を溶かし、帝国の運命を塗り替えたという謎の令嬢。彼女の登場を、誰もが今か今かと待ちわびていたのだ。


――その時であった。


プァァァァァァァァッッ――!!


大広間の天蓋を貫かんばかりの、澄み渡るファンファーレの轟音が響き渡った。

白銀の長ラッパを掲げた帝室儀仗兵たちによる、最高格式の奏楽。

その神聖にして荘厳な響きが轟いた瞬間、談笑していた数百名の貴族たちが一斉に言葉を失い、広間は水を打ったような静寂へと呑み込まれた。


管弦楽団の重厚なワルツが静かにフェードアウトし、代わりに響いてきたのは、大広間の北側にそびえ立つ「光の大階段」の頂上――巨大な白銀の二重扉が、ゆっくりと左右へと開け放たれる重々しい音であった。


ギギギ……と、静かに開かれる扉。

その奥から、まばゆいばかりの純白の燐光が溢れ出し、大階段の赤絨毯を照らし出す。


「――アルジェント帝国大公、クロード・ディス・アルジェント閣下! 並びに、次期大公妃殿下、エリアーナ・ヴァン・ベルク閣下の、ご入場であられる!!」


宮内卿の高らかな先導の声が、静まり返った大広間に朗々と木霊した。


現れたのは、深藍色の布地に豪奢な純銀のモール刺繍が施された正礼装を纏った青年――大公クロードであった。

白銀の短髪を夜光に透かせ、胸元に巨竜の勲章を輝かせたその姿は、相変わらず他国のいかなる武将をも平伏させる絶対強者の覇気を放っている。

だが、今宵の彼の佇まいは、戦場で恐れられた「氷の死神」のそれとは根本から異なっていた。

その切れ長の氷青色の双眸には、冷徹な殺気など微塵もなく、自らの右腕にそっと手を添える伴侶への、底知れない慈愛と、世界中の誰よりも誇らしげな熱い光だけが宿っていた。


そして――。

そのクロードの逞しい腕にエスコートされ、光の扉の向こうからゆっくりと歩み出てきた、一人の女性。


その姿が大広間の全員の視界に捉えられた、まさにその瞬間。


「…………っ!?」


大広間にいた数百人の王侯貴族たちから、同時に息を呑む音が漏れ出した。

ざわめきすら起きない。

誰もが、ただ口を開けたまま硬直し、瞬きをすることすら忘れて、その階段の頂上に立つ存在から視線を奪い去られていたのだ。


そこに現れたのは――人間の領域を遥かに超越した、息を呑むほどに神々しく、息を呑むほどに美しい「奇跡の具現」であった。


エリアーナ・ヴァン・ベルク。

彼女が纏っていたのは、コンスタンスがデザインし、彼女自身が【万物最適化】を施した、あの「奇跡の夜会ドレス」であった。


深海の最深部と、澄み渡る真冬の夜空をそのまま織り上げたような、氷晶の如き群青の最高級シルク。

階段の頂上に立つ彼女が一歩を踏み出すたび、幾重にも重なり合った薄絹のトレーンが、まるで波打つ湖水のように滑らかな陰影を描いて揺らめく。

そして――布地の全体を流れるように覆う、魔石の刺繍。

数百粒の微小な魔石が、エリアーナ自身の放つ清廉で濃密な魔力と共鳴し、青、銀、白、淡い燐光となって、息を呑むような微細な星々の瞬きを放っていた。

歩くたびに、まるで本物の夜空の星雲が彼女の足元に広がり、光の粒子がダイヤモンドダストのように宙に舞い散るかのような錯覚を抱かせる。


白磁の陶器のように透き通るデコルテと、優美に伸びる首筋。

豊かな栗色の髪は繊細な編み込みを交えたアップスタイルに整えられ、耳元に揺れる大粒のイエローダイヤモンドと、髪留めのトパーズが、彼女の大きな瞳の色と完璧に調和して煌めいている。


かつてロシュ侯爵領で「地味で冴えない」と嘲笑われていた面影など、どこを探しても欠片すら残っていなかった。

過労と虐待によって煤に覆われていた原石が、本物の愛と至高の肯定によって磨き上げられ、天上の神々すら嫉妬に狂うであろう「真の姿」を世界に見せつけていたのだ。


だが、居並ぶ貴族たちを何よりも圧倒し、その魂を芯まで震わせたのは――彼女が全身から立ち上らせていた、圧倒的な「気品」と「神聖なオーラ」であった。


傲慢に見下ろすのではない。

媚びるように微笑むのでもない。

ただ、春の夜明けの湖水のようにどこまでも澄み渡り、深い慈愛を宿した琥珀色の瞳で、会場のすべてを穏やかに見つめている。

彼女が大階段の頂上に立ったその瞬間、広間を満たしていた重苦しい緊張感がふわりと解け去り、まるで神殿の最深部に足を踏み入れたかのような、清廉で甘やかな空気が会場の隅々にまで波及していった。


「な……なんという……」

他国の特使が、震える声で呟いた。

「なんという美しさ……なんという、神々しさだ……」


「あのお方が……大公妃殿下……」

気位の高い帝国の大貴族たちが、息を詰まらせて見上げる。


カツン、カツン、と。

クロードに優しくエスコートされながら、エリアーナは大階段の赤絨毯を、一段、また一段とゆっくりと降り始めた。


その歩調は、完璧であった。

宮廷の礼法指南役が一生をかけて教え込んでも辿り着けないような、淀みがなく、無駄がなく、流れる水のように優美な足取り。

ドレスの裾が床を擦るたびに、魔石の星雲が微かな鈴の音のような共鳴を奏で、光の軌跡を残していく。

クロードは終始、彼女の足元に細心の注意を払いながら、壊れやすい宝物をエスコートするかのように慈しむ眼差しを向け、彼女の半歩前を堂々とリードしていた。


大階段を降りる二人の姿に、会場の誰もが圧倒されていた。

誰一人として、言葉を発する者はいない。

誰一人として、不敬な視線を向けることすら叶わない。

あまりの格差。あまりの美しさ。

ただそこに立っているだけで、世界を平伏させてしまう真の貴種の輝き。


――バサリ。


階段の最前列に控えていた、帝国筆頭公爵家の当主が、無言のまま深々と頭を垂れた。

それを合図にするかのように。


バサリ、バサリ、バサリと――。

左右に居並ぶ帝国貴族たちが、他国の王族使節団が、歴戦の将軍たちが、誇り高き大商会の会頭たちが、波が引くようにして一斉に身体を折り曲げ、自発的に最上級の臣従の礼を捧げ始めたのだ。


数百人もの大陸の頂点に君臨する権力者たちが、たった一人の少女の降臨の前に、完全に呑まれ、頭を垂れて道を空けていく。

大夜会の大広間は、まさに神話の女神を迎える神殿と化していた。


――しかし。


その目も眩むような光の階段の真下、大広間の最果て――。

豪華な給仕台の影、巨大な大理石の円柱の暗がりに身を潜めていた一人の男だけは、まったく異なる感情によって、その全身を激しく痙攣させていた。


「…………っ!!」


ユリウス・ド・ラ・ロシュであった。


門番を恫喝し、運良く(実際にはロヴェルの指示によって泳がされていたのだが)大広間の末席へと紛れ込むことに成功したユリウス。

彼は泥にまみれたボロボロの外套の襟をかき抱き、飢えと寒さでガタガタと震えながら、人混みの隙間から大階段を見上げていたのだ。


彼の頭の中にあったのは、直前まで、ただ一つの身勝手な妄執だけであった。

『エリアーナが姿を現したら、会場の中央へ飛び出してやる』

『あいつの前に立ち、「迎えに来てやったぞ、許してやるから戻ってこい」と大声で告げてやるのだ』

『そうすれば、あいつは泣いて喜び、私の胸に飛び込んでくるに決まっている』

そんな、現実逃避が生み出した浅ましい妄想を胸に抱き、彼は飛び出す機会を虎視眈々と狙っていたのだ。


だが――。


「あ…………」


ユリウスの口から、乾いた、空気の抜けるような音が漏れた。

足が、動かなかった。

指先の一つすら、ピクリとも動かすことができなかった。


大階段の光の只中を、クロードに寄り添って優雅に降りてくるその姿を目にした瞬間。

ユリウスの視界は、真っ白に焼き切れていた。


昼間、広場の肖像画で見た姿すら、本物の前には色褪せた模造品に過ぎなかった。

そこにいたのは、群青の星空を纏い、神話の奇跡を全身から放ちながら、大陸中の王侯貴族を平伏させている――本物の、天上の聖女であった。


白磁の肌の輝き。

艶やかに波打つ豊かな栗色の髪。

そして――何より、あの琥珀色の瞳。

澄み渡り、誇り高く、世界で一番幸せそうに微笑むその瞳は、かつて自分の屋敷で、冷たい石壁のなかで怯え、俯いていたあの少女の面影など、ただの一片すら残していなかった。


「う……そ……だろ……」


ガチガチと、ユリウスの奥歯が激しく打ち鳴らされた。

全身から、ドッと滝のような冷や汗が噴き出し、心臓が早鐘を打って肋骨を突き破らんばかりに暴れ回る。


本物だ。

間違いなく、あいつだ。

エリアーナ・ヴァン・ベルク。


かつて、三年間もの間、自分の屋敷にいた女。

すり切れた灰色の木綿ドレスを着て、暖炉の薪すら与えられず、夜を徹して帳簿を合わせ、誰にも知られぬよう畑を耕し、一人で結界石に魔力を注ぎ続けていた少女。

自分が『地味で愛嬌がない』と罵倒し、

『領地の繁栄に何一つ貢献しなかった無能』と嘲笑い、

大広間の中心で、ゴミのように切り捨てた――あの元婚約者。


(あいつが……あんな……あんな場所に、立っている……?)


絶望的なまでの「格差」が、冷酷な現実となってユリウスの脳髄を叩き潰した。


隣に立つのは、大陸最強の英雄、アルジェント帝国の大公。

彼らが纏う正礼装の一筋の刺繍、耳元に揺れる宝石の一粒すら、ロシュ侯爵領の全財産をかき集めたところで、到底買い取ることのできない至宝。

そして、二人の足元に傅いているのは、かつて自分など見向きもせず、夜会で門前払いを食らわせた大貴族たちや、他国の王族たちなのだ。


雲の上の世界。

神々の座す天上の楽園。


それに比べて――自分は、一体何だ。


ユリウスは震える視線を、自らの足元へと落とした。

泥と汚水にまみれ、破れて裏地が飛び出た上着。

血と汗で黒ずんだ包帯。

穴の開いたブーツから覗く、泥まみれの爪先。

空腹で縮こまり、パンの一片すら買えずに物乞いとして叩き出された、哀れな浮浪者。


手から零れ落ちたものの、あまりにも絶望的な巨大さ。


あの神々しい聖女は、かつて自分の妻になるはずだったのだ。

あの世界を潤す奇跡の手は、かつて自分のために、無償で差し伸べられていたのだ。

もし、あの日、彼女を大切に遇していれば。

もし、彼女の優しさに感謝し、その奇跡を敬っていれば。

今宵、あの光の大階段の頂上で、世界中の羨望の眼差しを浴びながら、彼女の手を取って歩いていたのは――他ならぬ、この自分自身であったはずなのだ。


それを。

自らの愚鈍な目玉のせいで。

中身のない妹ティファーヌの浅薄な色香に現を抜かし、自らの手で、足元へ投げ捨て、踏みにじり、追い出した。


「あ……あぁ……っ」


ユリウスの喉から、血の混ざった掠れた嗚咽が漏れた。

恐怖。

後悔。

屈辱。

己が犯した罪の重さと、取り返しのつかない破滅の現実が、巨大な鉄槌となって彼の精神を完膚なきまでに叩き割っていた。


だが――。

その絶望の淵にあってもなお、完全に壊れかけたユリウスの脳髄は、正常な諦めを受け入れることはできなかった。

失ったもののあまりの巨大さに、彼の精神は、引き返すことのできない「最後の狂気」へと暴走を始めていたのだ。


(嫌だ……嫌だ、嫌だ、嫌だぁぁぁッ!!)


血走った瞳が、大階段の最下段へと降り立ち、赤絨毯の上へと足を踏み出したエリアーナの姿を捉える。


(あいつは私のものだ! 私の婚約者だったんだ! あんな他国の男に奪われてたまるか! あいつを取り戻さなければ、私は死ぬ! 破滅する! エリアーナ! エリアーナぁぁぁッ!!)


柱の影から、泥まみれの男の足が、フラフラと踏み出された。

静まり返った大広間の空気を切り裂く、破滅の叫びを喉元までせり上がらせながら――。


自ら処刑台の露と消える哀れな道化の乱入の時が、いま、刻一刻と迫っていたのである。

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