第58話:前代未聞、国を挙げた求婚の儀
大聖堂で執り行われる世紀の婚礼の儀を、わずか数日後に控えたある日の黄昏時。
アルジェント帝国の帝都は、祝祭の開幕を待ちわびる熱気と、どこか神聖な静寂が溶け合う不思議な高揚感に包まれていた。
大公城の東翼、私室のドレッサーの前で、エリアーナ・ヴァン・ベルクは鏡の中の自分を見つめながら、小さく息を整えていた。
身に纏っているのは、夜のお出かけ用にとコンスタンスが選んでくれた、深い夜空色の上質なウールコート。襟元と袖口には、ふわりとした白狐の柔らかな毛皮があしらわれ、首元を冷たい夜風から優しく守る構造になっている。
胸元には、あの日から肌身離さず身につけている母の形見の蒼い星彩石。そして、左手の薬指には、建国祭の夜会でクロードから贈られた、七色のオーロラを内包する「星光氷晶石」の指輪が、静かに誇らしげな光を宿していた。
コンコン、と。
控えめでありながら、芯の通ったノックの音が扉を揺らした。
「エリアーナ。支度は整ったかい?」
扉が開かれ、姿を現したのは、深藍色の夜会用マントを羽織った大公クロードであった。
白銀の短髪を少し無造作に揺らし、彫刻のように整った美貌には、少年のような悪戯っぽい光と、隠しきれない甘やかな情愛が満ちている。
彼は部屋へ足を踏み入れるなり、ドレッサーの前に立つエリアーナの姿を一瞥し、その切れ長の氷青色の双眸を蕩けるように細めた。
「……息を呑むほど愛らしいな。外の寒さでその白い肌が赤く染まるのが、今から惜しいくらいだ」
「もう、クロード様ったら。お部屋を出る前からからかわないでくださいませ」
エリアーナは頬をほんのりと桜色に染め、小さく微笑んだ。
「からかってなどいないよ。……さあ、手をおいで。今夜は君を、帝都で一番見晴らしのいい特等席へ招待したいんだ」
クロードは手袋を外した大きな素手を差し出した。
エリアーナがその掌に自らの手を重ねると、彼は慈しむように指先を絡め、自らの胸元へと引き寄せる。
馬車に乗るのではなく、二人は手を取り合い、城の隠し通路を抜けて夜の帝都へと足を踏み出した。
向かった先は、帝都の中心――大公宮前広場にそびえ立つ、巨大な「大時計塔」であった。
建国初期に築かれ、帝都のすべての時を刻み続けてきた高さ百メートルを超える巨塔。
普段は国家の防衛監視施設として厳重に立ち入りが制限されているその最高峰へ、クロードはエリアーナの手を優しく引き、専用の転移魔導エレベーターを使って一瞬にして最上階へと導いた。
◇
ガタツリ、と重厚な鉄の扉が開き、夜風が二人の髪をふわりと撫でた。
「……わぁ……!」
大時計塔の最上階――天を突く屋上展望テラスへと足を踏み出した瞬間、エリアーナの唇から、言葉を失ったような感嘆の吐息が零れ落ちた。
そこは、まさに世界の頂であった。
見上げる夜空には、雲一つない満天の星々が、まるで手を伸ばせば触れられそうなほどの近さで瞬いている。
そして――大理石の手すりの向こう、眼下に広がっていたのは、息を呑むほど壮麗な帝都の夜景であった。
放射状に伸びる大通りに沿って、無数の魔導外灯が琥珀色の光の帯となって走り、家々の窓からは温かなオレンジ色の灯火が溢れ出ている。
城の中央で白銀の花を満開に咲かせる「白銀の古代樹」が淡い光の柱のようにそびえ立ち、その周囲を包む絶対浄化結界の光膜が、帝都全体を虹色のベールのように優しく包み込んでいた。
どこまでも広がる光の絨毯。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、遠くから微かに鐘の音が聞こえてくるだけの、幻想的な星の海。
「凄いですわ、クロード様……! 帝都が……こんなにも美しい光で満ちていたなんて……」
エリアーナは手すりに両手を添え、目を輝かせながら夜景を見つめた。
寒いはずの夜風も、クロードが展開した目に見えない微細な温風結界によって完全に遮断され、彼女の頬を撫でるのは春の宵のような心地よい微風だけであった。
クロードは彼女の隣に並び立ち、手すりに片肘をついて、街ではなく、その横顔をただ愛おしそうに見つめていた。
「君が来てくれる前の帝都はね、冬になれば死んだように暗かったんだよ」
低く、深みのあるバリトンの声が夜気に溶ける。
「街灯を灯す魔力すら節約され、寒さに震える市民たちは固く扉を閉ざし、雪の白さと夜の闇だけが世界を支配していた。……だが、見てごらん。いま、この街に溢れる光のすべては、君がもたらしてくれた奇跡の証だ」
「私の……?」
「ああ。君が古代樹を満開にして結界を張り直し、荒野を肥沃な穀倉地帯へと変え、豊かな実りをもたらしてくれたからこそ……市民たちは冬の寒さを恐れることなく、灯りを灯し、笑顔で夜を明かすことができるようになった。……この美しい光の海のすべてが、君への感謝の祈りなのだよ、エリアーナ」
「クロード様……」
エリアーナの胸の奥がきゅっと締め付けられた。
かつてロシュ侯爵領で、暗闇のなか、誰にも見られず、誰にも感謝されずに命を削り続けていた自分。
それが、いま、こんなにも広大な国の、何十万もの人々の命を温め、希望の光となって街を照らしている。
自分の存在が、誰かの幸せに繋がっているという実感。
その尊さに、目頭がじんわりと熱くなるのを覚えた。
――その時であった。
ゴオオオオオン……ッ。
二人の足元、大時計塔の巨大な青銅の鐘が、重厚な一撃を轟かせた。
夜の八時を告げる鐘の音。
クロードが、ふっと口元を微かに緩めた。
彼は手首の時計に視線を落とすと、静かに右手を夜空へと掲げ、指をパチンと鳴らしたのだ。
澄んだ硬質な音が、風に乗って響いた。
「……え?」
エリアーナが首を傾げた、まさにその刹那であった。
――シュルルルルルッッッ!!
大気をつんざくような、無数の鋭利な飛翔音が、帝都の全方位から一斉に爆発した。
「な……何かしら……!?」
エリアーナが目を見開く。
大公宮前広場、東の商業地区、西の住宅街、南の城壁、北の山麓――帝都を取り囲む数十箇所の魔導防衛拠点から、天に向かって、何千、何万という光の奔流が、流星が逆流するかのように一斉に打ち上げられたのだ。
宮廷筆頭魔導士ニコラが全魔力を注ぎ込んで調整し、近衛騎士団と諜報部が極秘裏に準備を進めていたという、国家最大の祝祭兵器――「至高の魔導花火」。
夜空の最頂点、雲一つない漆黒の天蓋へと到達した無数の光の弾丸。
そして――。
ドンッ!! ドドドドドォォォォンッッ――!!!!
天地を揺るがすような壮大な重低音とともに、夜空のすべてが、目も眩むような光の海によって塗り替えられた。
「…………っ!!」
エリアーナは息を呑み、天を仰いだまま凍りついた。
そこに咲き誇ったのは、ありふれた赤や青の花火などでは断じてなかった。
夜空いっぱいに広がったのは――温かく、どこまでも澄み渡り、陽だまりの蜂蜜を溶かし込んだかのような、眩いばかりの「極上の琥珀色」。
そして、その周囲を彩るように幾重にも花弁を広げる、黄金色と白銀の細やかな光の粒子たち。
それは――他ならぬ、エリアーナ・ヴァン・ベルク自身の「瞳の色」であった。
巨大な大輪の華が、一つ、また一つと夜空に花開き、重なり合い、星空のすべてを温かな琥珀色の光で満たしていく。
花火の光が夜空に描いたのは、満開の「白銀の古代樹」の意匠、そしてその中央で優しく微笑む聖女のシルエット。
光の飛沫がダイヤモンドダストのように夜の帳を滑り落ち、帝都全体を、まるで真昼の陽光の下にいるかのような温かな黄金の光で染め上げていく。
「き……綺麗……! なんて、なんて美しいのかしら……!」
エリアーナの琥珀色の瞳に、夜空の花火が鮮やかに映り込み、二重の光の輪となって煌めいた。
だが――驚くべき光景は、夜空の上の輝きだけに留まらなかった。
ワァァァァァァァァッッッ――!!!!
ドォォォォォンッ!!
大地の底から、帝都の隅々から、何十万という市民たちの歓声が、地鳴りのような巨大な津波となって時計塔の屋上へと吹き上がってきたのだ。
「大公妃殿下ぁぁぁぁぁッ!!」
「エリアーナ様、おめでとうございます!!」
「私たちの聖女様に、神の祝福あれぇぇぇッ!!」
広場を埋め尽くした市民たちが、窓から身を乗り出した人々が、大通りで手を取り合って踊る若者たちが、一斉に時計塔を見上げ、両手を天高く掲げて叫んでいた。
街中の人々が手にした魔導ランプが、夜空の花火に呼応するように一斉に掲げられ、地上の光の海が激しく波打つ。
帝都全土が。
このアルジェント帝国のすべての民が。
たった一人の少女の幸せを願い、その名を呼び、心からの祝福を叫んでいるのだ。
「み、皆様が……私を呼んでくださっている……?」
信じられない光景に、エリアーナの胸が激しく高鳴る。
かつて、実家でも元婚約者の領地でも、「お前などいらない」「地味な無能」と存在を否定され続けた自分が。
いま、一国の民のすべての愛と敬意を一身に集め、祝福の嵐の真ん中に立っている。
その圧倒的な多幸感に、彼女の目からポロポロと涙が零れ落ちそうになった、まさにその時――。
「――エリアーナ」
背後から、低く、甘く、胸の奥底を直接震わせるような声が響いた。
エリアーナが振り返った瞬間。
彼女の視界に飛び込んできたのは――夜空の花火の輝きすら霞んでしまうほど、息を呑むような情景であった。
――トンッ。
大理石のテラスの床の上へ。
満天の星々と、頭上に咲き誇る琥珀色の花火の光を背負いながら。
アルジェント帝国の大公、大陸最強の覇王クロードが、再び、自らの右膝を折り曲げて深く傅いていたのだ。
「クロード様……!?」
エリアーナが息を呑む。
風に揺れる彼の白銀の髪。
深藍色のマントを翻し、見上げるその切れ長の氷青色の双眸には、世界中のいかなる宝石をも凌駕する、狂おしいほどの情熱と、永遠の愛が宿っていた。
そして――クロードが捧げ持っていた両手の上。
黒ビロードのクッションの上に鎮座していたのは、息を呑むほど豪奢で、神々しい輝きを放つ「冠」であった。
アルジェント帝室の最高至宝――『星屑のティアラ』。
建国の始祖が、神話の氷竜から授かったとされる伝説の王冠。
白銀の霊金属で精緻に編み上げられた繊細な冠の上には、夜空の天の川をそのまま閉じ込めたかのような、数千粒もの微小な星光石が散りばめられ、その中央には、エリアーナの瞳の色と寸分違わぬ、親指大の極上インペリアル・トパーズが燦然と輝いていた。
歴代の大公妃の中でも、真に国を救い、民に愛された者のみにしか受け継がれることが許されないという、帝国の魂そのもの。
クロードはそのティアラを、自らの命を捧げるかのように恭しく両手で掲げた。
見つめ合う二人。
頭上で炸裂する琥珀色の魔導花火の光が、二人の姿を黄金色に染め上げていく。
そして――クロードは、静かに、しかし帝都の全土に響き渡るかのような揺るぎない確信をもって、魂の求婚の言葉を紡ぎ出したのだ。
「エリアーナ。……あの日、国境の樹海で君の手を取った時から、私の世界はすべて君を中心に回り始めた」
低く、甘く、切実に震えるバリトンの声。
「君が私に命をくれた。
君がこの凍てついた国に、本物の温もりと春の奇跡を運んでくれた。
君のその清らかな魂こそが、私の生きる意味であり、我が帝国のすべての誇りだ」
クロードの視線が、エリアーナの濡れた琥珀色の瞳を真っ直ぐに射抜く。
その眼差しには、一国の主としての傲慢さなど微塵もなかった。
ただ、最愛の女性の前に跪き、自らのすべてを委ねようとする一人の男の、極上の誠実さ。
「――国も、民も、この私の富も、権力も……そして、私の魂と命の最後の一滴に至るまで、すべて君のものだ」
大時計塔のテラスに響く、絶対の誓い。
「君の歩む道に、二度と影を落とさせはしない。
君の流す涙は、すべて私が歓喜の光へと変えてみせる。
生涯、君だけを愛し、君だけを甘やかし、君の笑顔を守り抜くために、私のすべてを捧げよう。
……私と、生涯を共にしてほしい。私の唯一無二の妻として、永遠に私の隣にいてくれないだろうか」
「…………っ!!」
胸の奥で、何かが激しく音を立てて満ち溢れた。
国も、民も、私の魂も、すべて君のものだ。
かつて――自分を「地味で愛せない」と切り捨て、便利な雑用係として搾取することしか考えなかった男がいた。
だが、いま、自分の足元に跪き、帝国のすべてを差し出して愛を乞うているのは――世界で最も強く、世界で最も気高い、唯一無二のスパダリ公爵なのだ。
愛されるために何かを証明する必要など、最初からなかった。
ただ自分がそこにいて、息をして、笑っているだけで、この男は自らの世界のすべてを捧げて愛し抜いてくれる。
ポロポロと、大粒の涙がエリアーナの頬を伝い落ちた。
だが、彼女はもう、その涙を拭おうとはしなかった。
これは悲しみの涙ではない。
過去の苦痛をすべて洗い流し、新しい世界の光を受け止めるための――魂そのものの、至上の歓喜の涙なのだから。
エリアーナは両手で自らの口元を押さえ、震える呼気を漏らした。
そして――涙に濡れた顔を上げ、夜空の花火よりも眩く、世界で一番美しい満面の笑顔を咲かせたのだ。
「……はい!」
大時計塔の天蓋へ向けて、鈴を転がすような澄んだ声が響き渡った。
「喜んで……! 喜んで、お受けいたしますわ、クロード様!」
彼女は一歩踏み出し、跪くクロードの前へと自らの身を委ねるように歩み寄った。
「私の命も、私の心も、私の未来のすべてを……貴方様に捧げます。……世界で一番大好きな、私のクロード様!」
「…………っ!!」
その瞬間、クロードの顔に、この世のすべての春を集めたかのような極上の笑みが咲き誇った。
彼は立ち上がると、捧げ持っていた「星屑のティアラ」を、エリアーナの豊かな栗色の髪の上へと、そっと、神聖な祈りを込めて戴冠させた。
カチリ、と。
ティアラが収まった瞬間、冠に散りばめられた数千粒の星光石が一斉に青白い燐光を放ち、エリアーナの全身を神話のオーラで包み込んだ。
本物の、帝国の国母の誕生。
そして――クロードは、耐えきれなくなったように自らの両腕を伸ばすと、エリアーナの華奢な腰を引き寄せ、力いっぱいに自らの胸元へと抱きしめたのだ。
「あっ……!」
ふわりと浮き上がる身体。
クロードは彼女を抱き上げ、テラスの上で優雅に一回転させると、星空と花火の光の下で、強く、激しく抱きしめ直した。
二人の唇が、重なり合う。
甘く、深く、息を奪い合うような誓いの口づけ。
大時計塔の鐘の音が再び高らかに鳴り響き、帝都全土から地鳴りのような大歓声が夜空を震わせる。
頭上には、二人の愛を祝福するように、どこまでも、どこまでも琥珀色の魔導花火が咲き誇り続けていた。
地獄のような搾取から抜け出し、運命に導かれて辿り着いた約束の地。
すべてを手に入れ、すべてに愛された聖女の物語は、いま、最高潮の幸福のなかで、最後の大舞台――白銀の大聖堂での壮大なる結婚式へと向かって、走り出そうとしていたのである。




