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第42話:侵入者と、張り巡らされた蜘蛛の巣

茜色に染まっていた帝都の空は、瞬く間に吸い込まれそうなほど深い紺青へと沈み、天蓋にはダイヤモンドの砂を撒き散らしたような無数の星々が瞬き始めていた。


アルジェント大公城の白亜の城壁には、何百基もの魔導灯が一斉に点灯され、夜の闇を昼間のように照らし出している。

城壁の中央に位置する巨大な「白銀の古代樹」からは、満開の花弁が夜風に揺れて淡い燐光を放ち、雪のような花びらが舞い散るさまは、まるでお伽噺の聖域そのものであった。

今宵開かれるのは、帝国建国祭の目玉たる皇宮大夜会。

帝国の皇族諸侯はもちろんのこと、近隣諸国から訪れた王族、特使、各大商会の会頭に至るまで、大陸の頂点に君臨する権力者たちが一堂に会する至高の宴であった。


大公城の正門前――磨き上げられた白大理石のスロープには、豪奢を極めた馬車の列が途切れることなく続いていた。

純金で縁取られた豪奢な二頭立て、四頭立ての馬車。

車輪が止まるたび、恭しく整列した近衛兵たちが扉を開け、中から艶やかな絹の夜会ドレスを纏った貴婦人や、胸元に勲章を輝かせた高位貴族たちが次々と降り立ってくる。

彼らは「白銀の古代樹」の神々しい姿を見上げては感嘆の声を漏らし、新しくお披露目されるという「奇跡の聖女」の噂に胸を躍らせながら、赤絨毯の敷かれた大階段へと優雅に足を進めていた。


しかし――その目も眩むような光と富の奔流から、わずかに外れた場所。

正門へと続くスロープの脇、手入れの行き届いた高いトピアリーの生け垣の暗い影の中に、ドブネズミのように身を屈めている一つの影があった。


「……ハァ、ハァ……っ、ついに、ここまで来たぞ……!」


ユリウス・ド・ラ・ロシュは、荒い息を吐きながら、生け垣の葉の隙間から城門の光景を血走った目で見つめていた。

その姿は、周囲の華やかな夜会客とはあまりにもかけ離れすぎていた。


泥と雨水にまみれた濃紺の上着は、あちこちが引き裂かれて薄汚れた裏地が覗いている。

額に巻かれた包帯は血と汗で黒ずんで悪臭を放ち、無精髭に覆われた頬は骸骨のように痩せこけ、唇は渇きと寒さで紫色にひび割れていた。

履き古した革ブーツの底からはみ出た爪先は泥に塗れ、体全体から漂う饐えた体臭は、数歩離れた場所にいても眉をひそめさせるほどであった。

全財産をはたいて帝都へ辿り着いたものの、彼には宿を取る金も、食事を買う金も、一文の銅貨すら残されていなかった。昼間、市場の露店でパンを盗もうとして叩き出されて以来、彼は腹を空かせた野良犬のように路地裏を這い回り、飢えと寒さに震えながら、夜会の始まるこの時刻を待ち伏せていたのだ。


だが――肉体がどれほど限界を迎え、どれほど惨めな底辺へと転落していようとも、彼の脳髄を支配していたのは、底知れぬ「妄執」と「特大の勘違い」だけであった。


(見ろ……あの壮麗な城を。あの城の奥深くに、私のエリアーナがいるのだ……!)


昼間、帝都の中央広場で目にした巨大な肖像画。

星空を縫い留めたような群青の至高のドレスを纏い、世界で一番美しく、気高く微笑んでいたエリアーナの姿が、今も網膜に焼き付いて離れなかった。


(あんな美しいドレスを着せられ、大公妃などと持て囃されていようとも……あいつの魂は、この私のものだ。あいつは三年もの間、私の屋敷で、私のために身を削って尽くしてくれていた女なのだからな……!)


ユリウスの歪んだ唇から、カチカチと歯の擦れ合う不快な音が漏れる。


(あいつがアルジェント帝国の大公の元へ身を寄せたのは、私への当てつけに決まっている。私が妹のティファーヌを選んだことに深く傷つき、私を嫉妬させ、迎えに来させるために……あんな冷酷な男の元で耐え忍んでいるのだ! あいつが本当に愛しているのは、この私だ! 私が今宵、この城へ乗り込み、『悪かった、お前を許してやるから戻ってこい』と抱きしめてやりさえすれば……あいつは泣いて喜んで、私の胸に飛び込んでくるに決まっている!!)


現実から目を背け続けた愚者が辿り着いた、究極の自己正当化。

エリアーナを取り戻せば、すべてが元通りになる。

彼女の奇跡の力でロシュ領の結界を直させ、畑を蘇らせ、莫大な借金を帳消しにし、自分は再び名門侯爵として社交界の頂点に返り咲くのだ。

その甘美な妄想だけが、飢えと疲労で今にも千切れそうな彼の理性を、辛うじて繋ぎ止めていた。


「行くぞ……。私の女を取り戻すんだ……!」


ユリウスは生け垣の影から這い出ると、ボロボロの外套を羽織り直し、泥まみれの服の襟元を整えるような仕草をした。

もちろん、泥と悪臭が消えるはずもない。だが、彼の狂気に冒された頭の中では、自分は依然として「高貴なるロシュ侯爵令息」のままであったのだ。


ユリウスはふらつく足取りでスロープへと躍り出ると、着飾った貴族たちの馬車の合間を縫うようにして、大公城の式典用正面大門へと向かって大股で歩き始めた。


◇


大公城の正面大門前。

そこには、銀地金の重厚な甲冑に身を包み、長槍を手にしたアルジェント帝国近衛兵たちが、二列に整列して厳重な警戒態勢を敷いていた。

門の中央には、白銀の軍服を着た受付の将校が立ち、訪れる貴族たちから差し出される「建国祭大夜会の公式招待状」を一通ずつ厳格に確認し、魔導式の認証印と照合している。


「……はい、ルクセンブルク公爵閣下並びに令嬢様、確認いたしました。どうぞ中へお進みください」


将校が優雅に一礼し、招待客を赤絨毯の上へと通す。

そこへ――異様な悪臭と、足を引きずるような不気味な足音が近づいてきた。


「おい……そこを通せ」


低く、掠れた、威圧感を装おうとする声。

受付の将校が眉をひそめて顔を上げた瞬間、彼の視界に飛び込んできたのは、あまりにも場違いで、あまりにも醜悪な異形であった。


泥と血にまみれた破れかけの夜会服。

黒ずんだ包帯を巻き、無精髭を伸ばし、目を血走らせて肩で息をしている男。

近づくだけで鼻を突く、汗と泥と汚水の強烈な悪臭。


「なっ……!?」


将校の顔が一瞬にして険しく引き締まった。

左右に控えていた二名の近衛兵が、即座に長槍を交差させ、ユリウスの行く手を物理的に遮断した。


ガチャンッ!


鋭い金属音が夜気に響く。


「止まれ! ここはアルジェント帝国建国祭、皇宮大夜会の式典会場である! 浮浪者の立ち入る場所ではない、即座に立ち去れ!」


衛兵の毅然とした怒声。

並の人間であれば、その威圧感に縮み上がり、逃げ出すところであった。

しかし――ユリウスの反応は、怯えなどでは断じてなかった。


「……ぶ、無礼者めがッ!!」


ユリウスのこめかみに青筋が浮かび、唾を撒き散らして怒鳴り返したのだ。


「誰が浮浪者だ! その薄汚い槍をどけろ! 貴様ら、この私を誰だと思っているんだ!? 私は王国屈指の名門、ロシュ侯爵家の当主代行、ユリウス・ド・ラ・ロシュであるぞ!!」


周囲の貴族たちから、ヒソヒソと驚きと嘲笑の囁きが漏れた。

「ロシュ侯爵家?」「あの、領地を破綻させて夜逃げ同然になったという、あの放蕩息子か?」「なんてみすぼらしい格好なの……」と、好奇の視線が集中する。


だが、受付の将校は眉一つ動かさなかった。

冷徹な氷青色の瞳でユリウスを一瞥すると、事務的に告げた。


「身分など関係ない。ここは招待状を持たぬ者の入場は固く禁じられている。……招待状を提示せよ。なければ、即座に衛兵を呼んで排除する」


「招待状だと……!?」

ユリウスの喉が引き攣った。

招待状など、あるはずがなかった。ロシュ侯爵領の通信網はとっくに崩壊しており、王国の貴族たちからも爪弾きにされている男に、帝国の皇宮から招待状が届くはずがない。


しかし、ユリウスは引き下がらなかった。

それどころか、彼は胸を突き出し、周囲の全員に聞こえるような大声を張り上げて、驚くべき妄言を口走ったのだ。


「招待状など必要ない! よく耳の穴をかっぽじって聞くがいい、愚鈍な門番どもめが!」


ユリウスは城の尖塔を指差しながら、狂気じみた笑みを浮かべて叫んだ。


「今宵、この城でお披露目されるという大公妃候補――エリアーナ・ヴァン・ベルク! あの女はな、私の婚約者だぞ!!」


「…………は?」


将校の眉が、わずかにピクリと動いた。

周囲にいた貴族たちからも、息を呑むようなざわめきが波のように広がっていく。


「そうだ! あの女は、私の屋敷で長年暮らしていた、私の正式な婚約者なのだ! 少しばかり痴話喧嘩をして家を飛び出しただけのことであって、あいつが真に愛しているのは、この私なのだぞ! 私が直々に隣国まで迎えに来てやったのだ、妻が夫を迎えるのに、招待状などという下らない紙切れが必要なわけがあるか!!」


ユリウスは交差された槍の柄を、泥まみれの手で力任せに押し退けようとした。


「どけ! そこを通せ! エリアーナに会わせろ! 未来の大公妃の真の夫となるこの私に無礼を働いて、ただで済むと思っているのか!? あいつに言いつけて、貴様ら全員、首を刎ねさせてやるぞッ!!」


身勝手極まりない恫喝。

嘘八百と妄想を並べ立て、暴力的に門を突破しようとする哀れな侵入者。

普通の軍隊であれば、この時点で即座に抜刀し、不敬罪と不法侵入の現行犯としてその場で取り押さえ、地下牢へと叩き込んでいるところであった。


――しかし。


将校の耳元に装着された、微小な魔導通信器から――ツツッ、と微かなノイズとともに、ある「秘密の指示」が届いた。


『――よろしい。その男を、中へ通しなさい』


冷涼で、どこか楽しげな、聞き慣れた上官の声。


将校の目がスッと細められた。

彼はわずかに顎をしゃくり、槍を交差させていた近衛兵たちへ目配せを送った。

衛兵たちは無言で槍を引き、門の中央の通路をゆっくりと開け放ったのだ。


「……チッ、通せ」

将校はあえて不快そうに舌打ちをしてみせ、冷ややかに告げた。

「大公妃殿下の名を騙る不審者め。……中へ入って、もし殿下の御前にてその戯言が嘘だと判明した時は、貴様の命はないと思え」


「フ……フンッ! 最初からそうすればいいのだ!」


ユリウスは勝ち誇ったような醜い笑みを浮かべ、泥まみれの外套の裾をバサリと翻した。

自分の恫喝が通用したのだと。

名門ロシュ侯爵家の名と、エリアーナの婚約者という肩書きの前に、帝国の門番どもが恐れをなして道を譲ったのだと――本気でそう信じ込み、鼻息を荒くして大階段の赤絨毯を踏みしめていった。


自ら、完璧に仕掛けられた処刑台の階段を駆け上がっていることにも気づかずに。


◇


その一部始終を。

地上から遥か数十メートル上空――大公城の最も高い尖塔のバルコニーから、冷徹に見下ろしている影があった。


ヒュゥゥゥ……と。

冷涼な高高度の夜風が、艶やかな蜂蜜色の金髪をさらりと揺らす。


アルジェント帝国諜報部隊長――ロヴェル・サン・ジュスト。


彼は深緑の礼装の上に、夜の闇に溶け込む漆黒の外套を羽織り、手すりに優雅に肘をついていた。

その手には、高倍率の魔導望遠鏡が握られており、門前で醜態を晒しながら赤絨毯を上がっていくユリウスの姿を、一挙手一投足に至るまで完璧に捉えていた。


その口元には――普段の軽薄な色気など微塵も感じさせない、獲物を罠の最深部へと追い込んだ狩人特有の、冷酷で残忍な笑みが浮かんでいた。


「……まったく、傑作だね」


ロヴェルは望遠鏡を下ろすと、小さく喉を鳴らして笑った。

その琥珀色の瞳の奥には、氷よりも冷たい光が渦巻いている。


「『私は彼女の婚約者だ』『妻が夫を迎えるのに招待状など要るか』……か。あそこまで見事に脳味噌が腐っている男は、我が諜報部の記録庫をひっくり返しても、そうそう見当たらないよ」


ロヴェルの背後の影から、音もなく黒装束の密偵が一人、膝をついて姿を現した。


「……部隊長。よろしかったのですか? 門番に取り押さえさせれば、あの場で即座に処刑することも可能でしたが」


「馬鹿を言うんじゃないよ」

ロヴェルは振り返ることなく、冷ややかに吐き捨てた。


「門前でひっそりと首を刎ねて、この大夜会の汚物として片付けてしまっては……我が主君クロード閣下の気が済むはずがないだろう? それに、あの男がエリアーナ様に与えてきた三年間の苦痛のツケを払わせるには、あまりにも安すぎる死に方だ」


ロヴェルの声音に、微かな、しかし底知れぬ怒りの棘が混ざる。

自分たちを魅了し、古代樹を満開にし、暗号を一瞬で解き明かし、帝都に奇跡をもたらしたあの至高の聖女。

その彼女を「地味で無能」と罵倒し、すり切れたボロ布を着せ、過労で殺しかけた元凶の男。

その男が、泥まみれの姿で、あまつさえ「迎えに来てやった」と上から目線でこの城に踏み込んできたのだ。

生かして帰す理由など、この世界のどこを探しても存在しなかった。


「閣下から下された勅命を忘れたのかい?」

ロヴェルは薄い唇を吊り上げ、夜空の月を見上げた。


「――『泳がせておけ。我が愛しき妃の前に跪かせる、最高の見世物にしてやろう』……閣下はそう仰せだ。大陸中の王侯貴族が揃う、あの目も眩むような大夜会の大広間の中央……あいつが一番逃げ場のない、最も華麗で、最も残酷な『最高の舞台』を、あいつのために用意してやるのさ」


「はっ……! では、ホール内の警備配置は……」


「手はず通りに進めろ。中央の赤絨毯まで、あいつを一切邪魔することなく誘導しろ。……ああ、それから」


ロヴェルは懐から、一通の分厚い羊皮紙の束を取り出し、背後の密偵へと放り投げた。

闇を裂いて飛んだ書類を、密偵が両手で恭しく受け止める。


「ロシュ侯爵領における、ユリウスのこれまでの罪状録だ。平民への暴虐、公文書偽造、他国への不法侵入、そしてエリアーナ様の功績を己のものと偽っていた数々の証拠……すべて、我が諜報部の手で裏付けを取ってある。……合図があり次第、この内容を公の場へ突きつけられるよう、準備を整えておけ」


「御意にございます、部隊長!」


密偵は音もなく一礼すると、風のように夜の闇の中へと溶け去っていった。


一人残された尖塔のバルコニー。

ロヴェルは手すりに身を乗り出し、大広間へと続く巨大な光の回廊を見下ろした。

その瞳の奥には、これから幕を開ける「完璧な断罪劇」への、愉悦に満ちた期待が爛々と燃え盛っていた。


「さあ、上がっておいで、哀れな道化師殿。……君が失ったものの巨大さと、二度と手の届かない世界の高さを、その身に刻み込まれるといい」


張り巡らされた蜘蛛の巣の中心へ向かって、獲物は自らの足で飛び込んでいく。

そして――大公城の奥深く、光り輝く控室では。

世界で一番美しく着飾られた奇跡の聖女と、獲物を八つ裂きにするための絶対零度の刃を研ぎ澄ませた大公が、運命の幕が上がるその瞬間を、静かに待ち構えていたのであった。

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