第41話:薄汚れた来訪者と、煌めく帝都
国境を越える連絡馬車が、乾いた泥の塊を車輪から跳ね上げながら、重々しい軋み音を立てて停止した。
「おい、終点だ! アルジェント帝国の帝都、南大門の前だぞ! 全員とっとと降りやがれ!」
御者の粗野な怒声が、薄汚れた幌の内部に響き渡る。
詰め込まれていた旅人たちが我先にと荷物を抱えて転がり出るなか、座席の最奥で泥水に濡れたボロ布のように丸まっていたユリウス・ド・ラ・ロシュは、軋む関節に悲鳴を上げながら、よろよろと身を起こした。
地獄のような旅路であった。
全財産であった金貨三枚を叩き売って手に入れた定期馬車の切符だったが、待っていたのは家畜小屋同然の劣悪な空間だった。
ロシュ侯爵領の境界を抜ける際には、砕け散った結界石の隙間から溢れ出た魔獣の遠吠えが昼夜を問わず木霊し、いつ馬車ごと食い殺されるかという恐怖に怯え続けた。
途中の荒野では激しい風雨に晒され、屋根の破れ目から冷たい雨水が容赦なく降り注いだ。
食事など出るはずもなく、持参していた僅かな銀貨も、国境の検問所で法外な通行税として根こそぎ巻き上げられた。いまや彼の懐には、薄汚れた銅貨の一枚すら残されていない。文字通り、一文無しの無一文であった。
「う……ぐ……っ、足が……」
馬車のステップから降り立った瞬間、ユリウスの膝がガクリと折れ、泥濘の地面に手をついた。
立ち眩みが視界を白く染め上げる。
額の傷口は不衛生な包帯の下でズキズキと熱を持って脈打ち、無精髭に覆われた頬は骸骨のように削げ落ちていた。
かつてロシュ侯爵家の富と名声を誇示していたはずの濃紺の夜会服は、雨と泥にまみれて異様な悪臭を放ち、羽織った旅行用外套の裾はボロボロに引き裂かれている。履き古した革ブーツの底には穴が開き、冷たい泥水が靴下を通して皮膚を苛んでいた。
通りすがる商人や旅人たちが、露骨に嫌悪感を露わにして鼻をつまみ、ユリウスを避けて足早に離れていく。
かつて王都の社交界で誰もが傅き、羨望の眼差しを注いでいた「若き貴公子」の面影など、欠片ほども残っていなかった。
いまのユリウスは、誰の目から見ても、行き倒れ寸前の哀れな物乞い、あるいは野垂れ死にを待つだけの浮浪者にしか見えなかった。
(くそっ……! 見下しおって、下賎な虫けらどもが……! 私は……私はロシュ侯爵家の正統なる後継者だぞ……!)
泥水を手の甲で乱暴に拭い、ユリウスは奥歯をギリギリと噛み締めた。
激しい飢えと渇きが胃袋を鋭く締め上げる。
過去三日間、泥水をすすり、道端の草の根を齧って辛うじて生き延びてきた肉体は、限界を遥かに超えていた。
それでも、彼を突き動かしていたのは――ただ一つ、狂気じみた「特大の勘違い」と、歪みきった執着だけであった。
(待っていろ、エリアーナ……。今、お前を迎えに来てやったぞ……。お前がこの私を待っていることは、百も承知だ……。私がお前の前に現れ、『許してやるから戻ってこい』と抱きしめてやれば、お前は泣いて喜ぶに決まっている……! そうすれば……この飢えも、この屈辱も、すべて一瞬で終わるのだ……!)
血走った瞳を爛々と輝かせ、ユリウスはふらつく足取りで顔を上げた。
眼前にそびえ立つのは、天を突くほど巨大な、白亜の巨石で築かれたアルジェント帝都の南大門。
そして――。
その巨大な門をくぐり抜けた瞬間、ユリウスの足は、まるで大地の底から伸びた見えない手に掴まれたかのように、ピタリと止まった。
「…………え?」
ユリウスの口から、間抜けな掠れた声が零れ落ちた。
彼の濁った瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。
寒くない。
風が、まったく肌を刺してこないのだ。
アルジェント帝国といえば、大陸の最北端に位置する極寒の軍事国家のはずだった。
晩秋のこの時期であれば、息を吸うだけで肺腑が凍りつき、石畳は分厚い氷に覆われ、市民たちは分厚い毛皮の外套を着込んで肩をすくめて歩いているはずの、厳寒の地。
かつてロシュ侯爵領で贅沢を貪っていた頃のユリウスは、「あんな雪と氷の不毛の地など、野蛮な獣の住処だ」と、公然と見下していた土地であった。
しかし――いま、彼の頬を撫でたのは。
まるで春の高原のように柔らかく、どこまでも清涼で、微かな花の芳香を孕んだ、あたたかな微風であった。
(な……何だ、この空気は……? ここは、本当にあのアルジェント帝国なのか……!?)
南大門の先、帝都の中央へとまっすぐに延びる大通り。
そこに広がっていた光景を目にした瞬間、ユリウスの呼吸は、完全に停止した。
「う……そ、だろ……?」
耳をつんざくような、目も眩むばかりの「活気」と「熱気」。
大通りの両脇には、色とりどりの万国旗や銀の吹流しが誇らしげに掲げられ、建国祭の開幕を祝うリボンや花輪が、建物の壁という壁を華やかに飾り立てていた。
磨き上げられた白大理石の街道の上を、何千、何万という市民たちが行き交っている。
彼らが身に纏っているのは、防寒用の毛皮などではなかった。仕立ての良い鮮やかなウールやリネンの軽装。誰もが寒さに震えるどころか、上気した笑顔を浮かべ、楽しげに談笑し、歌を口ずさみながら闊歩していた。
さらに、ユリウスの空腹で縮こまった胃袋を激しく苛んだのは、街道沿いにどこまでも立ち並ぶ露店から漂ってくる、暴力的なまでの「豊かな食の匂い」であった。
「へい、いらっしゃい! 城下の特級農園から今朝届いたばかりの『黄金林檎』だよ! 蜜がたっぷり詰まってて、一口かじれば果汁が溢れ出すよ!」
「こちらは焼きたての極上白パン! 大公城の結界の加護を受けた新麦を贅沢に使った、ふわふわのクロワッサンだ!」
「極上牛の炭火焼き串、特製ハーブソースがけ! 冷めないうちに食べていきな!」
ジュウジュウと音を立てて脂を滴らせる分厚い肉塊。
湯気を立ち上らせ、黄金色に焼き上がったふっくらとしたパンの山。
そして――屋台の台座の上にピラミッドのように積み上げられていたのは、大人の両手でも抱えきれないほど巨大で、宝石のように艶やかな赤や黄金色に輝く果実の数々。
豊かだ。
あまりにも、桁外れに豊かすぎる。
ユリウスの記憶にある自らの領地――ロシュ侯爵領の全盛期ですら、これほどの豊かな作物が市場に溢れかえったことなど一度たりともなかった。
ましてや、いまのロシュ侯爵領といえば、畑の麦は立ち枯れて全滅し、市場からはパン粉の一粒すら消え失せ、飢えた領民たちが泥水をすすり、暴動を起こしている地獄絵図である。
それなのに、なぜだ。
なぜ、年中凍てつくはずのこの不毛の北国が、これほどまでに圧倒的な実りと、目も眩むような繁栄を謳歌しているというのか。
「ぐ……ぅ……っ」
喉が、激しく鳴った。
口の中に唾液が溢れ、飢餓感で胃が痙攣する。
ユリウスはふらふらと、吸い寄せられるように一番手前のパン屋の露店へと足を踏み出した。
泥まみれの震える手を伸ばし、台座の上のクロワッサンを掴もうとした、その瞬間――。
「うわっ!? なんだ、この小汚い物乞いは!」
店主の屈強な男が、露骨に顔を歪めて小麦粉のついたトングを振り上げた。
「あっちへ行け、シッシッ! 建国祭のめでたい日に、ドブネズミみたいな浮浪者がうろつくんじゃない! 売り物に触るな、汚らわしい!」
「ま……待ってくれ! 一つでいい、そのパンを一つ恵んでくれ……! 私は……私は名門ロシュ侯爵家の――」
「ロシュだかポシュだか知らねえが、金のない奴に食わせるパンはねえよ! 衛兵を呼ぶ前に、さっさと消え失せろ!」
バシィッ、とトングの硬い先端がユリウスの泥まみれの手の甲を容赦なく打ち据えた。
鋭い痛みに、ユリウスは情けない悲鳴を上げて後退り、石畳の上に尻餅をついた。
周囲の市民たちが、クスクスと冷ややかな嘲笑を浴びせかけてくる。
「見なさいよ、あんなボロボロの浮浪者がいるわ」「近寄っちゃ駄目よ、病気がうつるわ」「衛兵様は何をしているのかしらね」と、針のような視線が全方位から突き刺さる。
「く……っ、あ……ぅ……っ!」
屈辱。
かつて領民を虫けらのように見下し、前夜には槍と棍棒で平民を血祭りに上げていた男が、いまや見知らぬ他国の市場の片隅で、パンの一切れすら恵んでもらえずに地べたを這いずり回っている。
自らが他者に与えてきた侮蔑と無慈悲が、そのまま何倍もの質量となって、己の全身へと叩きつけられていた。
だが、奇妙なことに――。
店主が「衛兵を呼ぶぞ」と叫んでいたにもかかわらず、通りの角に立っていたアルジェント帝国の近衛兵たちは、ユリウスの方を一瞥しただけで、捕縛しようとはしなかった。
それどころか、兵士たちは互いに目配せを交わすと、まるで汚らわしい獲物が罠の真ん中へ歩みを進めるのを見守るかのように、冷ややかな、薄気味悪い笑みを浮かべて見逃していたのだ。
――『門番には通達しておけ。不審な男が現れても、決して捕縛するな。夜会の会場の中央まで、泳がせておくのだ』
大公クロードが下していた、絶対零度の勅命。
破滅へのレッドカーペットが、哀れな道化のために、あらかじめ敷き詰められていたことなど、ユリウスの濁った脳髄には知る由もなかった。
「ハァ……ハァ……っ!」
ユリウスは地面に這いつくばりながら立ち上がり、群衆の嘲笑から逃れるように、大通りの奥へ、奥へと足を引きずった。
向かう先は、帝都の中心。
天を衝くようにそびえ立つ、純白の城壁に囲まれたアルジェント大公城。
あそこへ行かなければならない。
あの城の奥深くに、自分をこの地獄から救い出してくれる唯一の奇跡――エリアーナがいるはずなのだから。
やがて、人波に押されるようにして、ユリウスは帝都の中央広場――巨大な時計塔がそびえ立つ「大公宮前広場」へと辿り着いた。
そこは、建国祭の熱気の頂点であった。
何万もの市民たちが広場を埋め尽くし、中央の噴水からは清らかな水が七色の光を反射して舞い上がっている。
楽団が奏でる華やかなファンファーレ。
色とりどりの紙吹雪が空を舞い、広場の至る所から、歓喜に満ちた市民たちの万歳の声が地鳴りのように轟いていた。
「万歳! アルジェント帝国万歳!」
「クロード大公閣下に栄光あれ!」
「そして、我が国を飢餓から救い給うた、奇跡の大公妃殿下に祝福を!!」
大公妃殿下。
その単語が群衆の口から叫ばれるたび、ユリウスの胸の奥がきゅっと締め付けられた。
(大公妃だと……? ふざけるな、誰が大公妃なものか! エリアーナは私の婚約者だ! 私のものだ! 他国の男の妃になど、ならせてたまるものか……!)
ユリウスは人波をかき分け、広場の中央へと必死に身体じりじりと進めた。
そして――。
広場の中央、時計塔の正面に掲げられていた「巨大な構造物」を見上げた瞬間。
ドクンッ!!
ユリウスの心臓が、破裂せんばかりの衝撃とともに跳ね上がった。
「…………っ!?」
全身の毛穴が逆立ち、呼吸が完全に凍結した。
彼の血走った両目が、信じられないものを見るように、限界まで見開かれる。
時計塔の壁面――建国祭の開幕を告げるために掲げられていたのは、見上げるほど巨大な、布地にして数十メートルにも及ぶ「公式記念肖像画」の巨大な垂れ幕であった。
帝室専属の最高峰宮廷画家が、持てる技術のすべてを注ぎ込んで描き上げたという、至高の絵画。
そこに描かれていたのは――二人の男女の姿であった。
右側に立つのは、白銀の短髪を冷涼になびかせ、深藍色の豪奢な軍礼装に身を包んだ青年。
大陸最強の英雄、大公クロード・ディス・アルジェント。
その彫刻のように完璧な美貌には、他国を震え上がらせる冷酷さなど微塵もなく、ただ隣に立つ伴侶への底知れない愛惜と誇りを湛えた、穏やかな笑みが浮かんでいた。
そして――そのクロードの手によって優しくエスコートされ、彼の腕の中に身を寄せるようにして描かれていた、一人の女性。
「…………あ」
ユリウスの喉から、掠れた、魂の抜けたような音が零れ落ちた。
そこに描かれていたのは――この世のいかなる言葉を尽くしても言い表せぬほど、息を呑むほどに神々しく、息を呑むほどに美しい「絶世の美女」であった。
夜空の星々をそのまま縫い留めたかのような、氷晶のように透き通る群青色の最高級シルクドレス。
裾から胸元にかけて流れるように刺繍された魔石の星雲が、淡い光を放つように精緻に描き出されている。
デコルテから伸びる首筋は、白磁の陶器のように抜けるように白く、滑らかで、一切の翳りがない。
豊かに波打つ栗色の髪は、陽光を浴びて黄金の粒子を散らすようにしっとりと背中に広がり、耳元には大粒の至高のトパーズが揺れている。
そして何より――。
見る者すべての魂を撃ち抜き、平伏させずにはいられないであろう、その双眸。
春の夜明けの湖水のようにどこまでも澄み渡り、深い慈愛と、誇り高い凛とした気品を宿した、大きな琥珀色の瞳。
地味?
愛嬌がない?
何の役にも立たない雑用係?
違う。
天地が裂けても、そんな下賎な言葉で形容できる存在では断じてなかった。
そこに描かれていたのは――神話の時代に天から地上へと舞い降り、荒廃した世界をその清らかな御手一つで救い給うたという、正真正銘の「天上の聖女」そのものの姿であった。
肖像画の下部には、黄金の豪奢な筆記体で、全帝国民が敬愛を捧げるその女性の尊名が、燦然と刻み込まれていた。
――『アルジェント帝国次期大公妃 エリアーナ・ヴァン・ベルク閣下』。
「…………っ!!」
ユリウスの全身が、ガタガタと音を立てて激しく痙攣し始めた。
奥歯が打ち鳴らされ、唇から泡が漏れる。
嘘だ。
嘘だろ。
嘘だと言ってくれ。
あいつが?
あの、すり切れた灰色の木綿ドレスばかりを着ていた、薄汚れた女が?
朝から晩まで、暖炉の火も入らない冷え切った部屋で、俯いて帳簿ばかり弄っていた、あの陰気な女が?
こんな……こんな、世界中の誰よりも美しく、誰よりも気高く、帝国中の民から跪かれ、愛されている……だと……!?
「ウソだろ……エリアーナ……? お前……お前、本当に……エリアーナなのか……!?」
膝から崩れ落ちそうになる身体を、ユリウスは辛うじて広場の街灯の柱にしがみついて支えた。
視界が真っ赤に染まり、頭蓋の奥で何かが音を立てて砕け散っていく。
自分が手放してしまったものの、あまりにも絶望的な巨大さ。
自分が足元に踏み躙り、ゴミのように切り捨てたものが、世界で最も眩い至高の太陽であったという、取り返しのつかない現実。
だが――。
その圧倒的な格差を前にしてもなお、破滅の淵に立たされた愚者の脳髄は、正常な反省へと舵を切ることはできなかった。
肖像画の中の神々しいエリアーナの姿を見上げるユリウスの血走った瞳に宿ったのは、恐怖と戦慄を突き抜けた――狂気じみた、底知れぬ「妄執」の炎であった。
(あいつだ……! 間違いなく、あいつだ……! あんなに美しく着飾って……あんなに高貴な顔をして……! だが、あいつは私の婚約者だった女だ! 私のために尽くしていた女だ!!)
柱を掴む指先に、爪が割れるほどの力が籠もる。
(他国の公爵になど渡すものか! あいつは私のものだ! あいつを連れ戻せば……あの美貌も、あの奇跡の力も、あの莫大な富も、すべてが再び私の手に入るのだ! 今夜だ……今夜の夜会に潜入し、あいつの前に立ってやる! 私が迎えに来てやったと告げれば、あいつは泣いて私の足元にすがりついてくるに決まっている!!)
泥まみれの外套の裾を翻し、ユリウスは広場の群衆を掻き分け、大公城の正門へと向かって、獲物を狙う狂人のような足取りで歩み始めた。
頭上高く掲げられた肖像画のなかで、至高のドレスを纏ったエリアーナは、そんな哀れな男の存在など視界の端にも入れぬかのように、澄み切った瞳で、ただ前方の光ある未来だけを見つめ続けていた。
舞台の幕は、いま、完全に上がり切った。
自ら処刑台の階段を駆け上がる愚かな道化を待ち受ける、完璧にして容赦のない「公開断罪」の時が、刻一刻と迫っていたのである。




