第40話:嵐の前夜、完璧な愛の誓い
深い藍色に染まりゆく夜空の天蓋に、銀砂を撒き散らしたような無数の星々が瞬いていた。
アルジェント大公城の最上層、大公の私室から張り出した白大理石のバルコニー。
張り巡らされた手すりの向こうには、明日から始まる「建国祭」の熱気と前夜の興奮を宿した帝都の街並みが、まるで地上の天の川のように無数の灯火を揺らめかせていた。
遠くの大通りからは、祝祭の開幕を待ちきれない市民たちの陽気な笑い声や、旅の楽士が爪弾くリュートの音色が、夜風に乗ってかすかに届いてくる。
かつて年中凍てつき、冬の訪れに怯えて息を潜めていたという北国の帝都。その陰鬱さはどこにもなく、中庭の「白銀の古代樹」が放つ柔らかな魔力の恩恵と、城全域を包む絶対浄化結界の温もりが、街の隅々にまで春の雪解けのような穏やかな安寧を行き渡らせていた。
「……綺麗」
大理石の手すりにそっと両手を預け、エリアーナ・ヴァン・ベルクは小さく息を吐き出した。
夜風がふわりと吹き抜け、緩く編み下ろされた豊かな栗色の髪を揺らす。
身に纏っているのは、就寝前を過ごすための柔らかなアイボリーのネグリジェと、その上に羽織った薄手のカシミアガウン。肌に吸い付くように滑らかなシルクの感触は、かつてロシュ侯爵領の冷え切った物置部屋で、破れた麻布を何枚も重ねて寒さに震えていた日々が、まるで遠い前世の悪夢であったかのように思わせた。
エリアーナの白く滑らかな指先が、ガウンの襟元から覗く「蒼い星彩石」のペンダントへと伸びた。
十歳の時に亡くなった最愛の母が遺してくれた、唯一の形見。
かつて冷え切っていたその小石は、いまや彼女の体温と、満ち足りた魔力を吸い込んで、夜空の星よりも深く、優しく青い燐光を宿していた。
(お母様……私、本当に遠くまで来たのですね)
心の中で、そっと語りかける。
ほんの二十日足らず前の自分が、いまのこの光景を想像できただろうか。
朝から晩まで、手元が凍える薄暗い執務室でペンを握り、山積みの帳簿と格闘していた日々。
合わない数字の辻褄を合わせ、代官たちの不正を暴き、誰にも知られぬよう農地を耕し、命を削って結界石に魔力を注ぎ続けていた。
どれほど尽くしても返ってくるのは「地味で何の能もない雑用係」という罵倒だけで、食事すら冷え切った残飯同然。
そして――あの建国記念の夜会で、婚約者だったユリウスから下された、あまりにも理不尽で残酷な婚約破棄の宣告。
妹ティファーヌの勝ち誇った嘲笑と、周囲の貴族たちの冷淡な視線。
あの日、指を鳴らしてすべての【最適化】を解き、身一つで屋敷を抜け出した時、エリアーナは自分の命などどうなってもいいとすら思っていた。
誰の役にも立たず、誰からも愛されず、ただ凍える北の森で野垂れ死ぬとしても、誰かの都合のいい道具として使い潰されるよりはずっといい――そう諦めと覚悟を抱いて歩き続けたのだ。
それなのに。
国境の樹海で魔獣に囲まれ、絶体絶命の窮地に陥ったその瞬間、猛吹雪を引き連れて舞い降りてきた銀髪の青年。
大陸最強の「氷の魔将」と恐れられるアルジェント帝国の大公、クロード・ディス・アルジェント。
彼が自らの豪奢な黒狐の外套を掛けてくれた時の、あの圧倒的な熱。
「ずっと君を探していた」と、泣き出しそうなほど切実に震えていた甘い声。
大公城の主寝室で目覚めてから今日に至るまで、クロードが注ぎ込んでくれた無制限の甘やかしと、砂糖漬けのような溺愛の日々。
彼だけではない。
最初は主君を惑わす間者かと警戒していたものの、今や誰よりも過激な味方となってくれたメイド長のミレイユ。
自慢の愛剣を直したことで、不器用ながらも命懸けの忠誠と淡い想いを捧げてくれるようになった堅物騎士団長のバスティアン。
術式を優しく添削され、大号泣の末に「お姉さま」と慕い、特製の魔導具を抱えて甘えてくる天才少年魔導士のニコラ。
暗号解読の才に舌を巻き、大人の色香と知的な敬意を隠そうともしない諜報部隊長のロヴェル。
そして――ドレスの留め具の最適化をきっかけに、社交界の頂点でありながら親友宣言をしてくれた公爵令嬢のコンスタンス。
(みんな、温かくて……眩しいくらい、優しい方ばかり……)
こんなにも温かい世界が、この世に存在していたのだ。
自分が「地味で無能」なのではなく、ただかつての環境が、己の存在を否定し搾取するためだけに歪んでいたのだと――クロードの腕の中で、ようやく知ることができた。
だが。
そんな穏やかな追憶のなかで、昼間、ロヴェルがもたらした報告が、ふと胸の奥に冷たいさざ波を立てた。
『ロシュ侯爵令息、ユリウス。……彼が、昨日の昼、国境の樹海を越える定期馬車に乗るのを確認いたしました』
『彼は手持ちの全財産をはたいて、帝国行きの切符を手に入れたようです……。「エリアーナを迎えに行く」「あいつは私を愛しているのだから、迎えに行けば泣いて喜んで戻ってくるはずだ」……とね』
その報告を聞いた時、エリアーナの胸をよぎったのは、恐怖ではなかった。
怒りですらなかった。
――ただ、底知れない「哀れみ」と、寒々しいまでの「虚しさ」であった。
妹のティファーヌは宝石を持ち逃げして夜逃げを図り、街道の魔獣に襲われて消息を絶ったという。
領地の鉱山は止まり、ワインは全滅し、麦畑は立ち枯れ、借金取りに屋敷の家財道具をすべて差し押さえられ、領民からも完全に離反された元婚約者。
すべてを失い、破滅の淵に追い詰められてなお、あの男は自らの罪と無能さに気づくことができず、あまつさえ「迎えに行けば喜んで戻ってくる」という特大の勘違いに縋り付いている。
なぜ、そこまで傲慢でいられるのか。
なぜ、他人の心をそこまで都合のいい道具としてしか見ることができないのか。
(ユリウス様……。私、あの日、お別れの時にちゃんとお伝えしましたのに)
あの建国記念の夜会。
『私がこれまでかけていた付与魔法は、すべて解除して出ていきます。これからはお二人で頑張ってください』と。
あれは負け惜しみでも、当てつけでもなかった。
彼らとの縁を完全に断ち切り、自らの足で新たな人生を歩むための、取り返しのつかない決別の言葉だったのだ。
それを「強がり」だと笑い捨て、破滅の果てに「迎えに行ってやる」と上から目線でやってくる。
そのあまりの身勝手さと愚かしさに、エリアーナの心は、氷よりも静かに冷え切っていた。
夜風が、ふっと少しだけ強く吹き抜ける。
薄いガウンの袖が揺れ、微かに肩が竦んだ、その刹那――。
バサリ、と。
温かな重みが、背後からエリアーナの華奢な両肩をふわりと包み込んだ。
「あっ……」
振り返る間もなく、漂ってきたのは、清涼な針葉樹と白檀を思わせる高貴な香り。
肩に掛けられたのは、クロードが普段愛用している、内側に最高級の白狐の毛皮をあしらった重厚な部屋用の上着であった。
彼の強い体温がそのまま染み込んだ布地が、夜風の冷たさを完全に遮断し、エリアーナの全身を春の陽だまりのような温もりで包み込んでいく。
そして――。
――ぎゅっ、と。
逞しく太い腕が、背後からエリアーナの細い腰をすっぽりと抱き寄せた。
背中に密着する、鍛え上げられた広い胸板。
薄い布越しに、トクン、トクンと力強く、どこまでも規則正しい心臓の鼓動が直接伝わってくる。
「……こんなところで夜風に当たっていたら、身体が冷えてしまうよ。私の愛しいエリアーナ」
耳元に落ちてくる、低く甘美なバリトンの声。
クロードが、自らの顎をエリアーナの柔らかな肩口に預け、深く愛おしそうに息を吐き出した。
彼が吐き出す熱い呼気が、エリアーナの首筋をくすぐるように甘く撫でていく。
「クロード様……」
エリアーナは微かに顔を赤らめながら、肩越しに彼を見上げた。
「起こしてしまいましたか? 執務室のお仕事が、ようやく一段落されたばかりでしたのに……」
「君が隣の寝台にいなければ、眠れるはずがないだろう」
クロードは拗ねた大型犬のように目を細め、彼女の編み下ろされた髪の毛先をそっと指先で弄んだ。
「書類の決裁を終えて寝室に戻ったら、天蓋のベッドが空っぽだった。私の心臓がどれほど縮み上がったか、君には想像もつかないだろうね」
「まあ……ほんの少し、風に当たりに出ていただけですのに」
「一秒たりとも、私の目の届かない場所へ行ってほしくないんだよ。……君は、放っておくとすぐに一人で抱え込んで、どこかへ消えてしまいそうに見えるからね」
甘く、切実な独占欲の籠もった囁き。
クロードは彼女の腰に回していた腕にさらに少し力を込め、自らの胸元へと完全に密着させた。
逃げ場のない腕の檻。だが、その拘束は骨の一本も痛めないほど優しく、どこまでも深い庇護の意志に満ちあふれていた。
クロードの切れ長の氷青色の瞳が、夜空の星々を、そして手すりの向こうの帝都の灯火を見つめる。
「……明日のことを、考えていたのかい?」
静かな問いかけ。
エリアーナは誤魔化すことなく、胸元の星彩石に触れながら小さく頷いた。
「はい。……明日から、建国祭ですね。コンスタンス様とミレイユさんが仕立ててくださった、あの美しいドレスを纏って、皆様の前へ出ること……少しだけ、緊張しております」
「緊張する必要など何一つないよ。……君はただ、私の隣で前を向いて歩いてくれればいい。君の美しさと気高さは、帝国の全貴族を平伏させるに十分だ」
「クロード様は、いつもそう仰ってくださいますね」
エリアーナの唇に、柔らかな笑みが浮かぶ。
だが、その笑みの奥にある微かな影を、クロードは見逃さなかった。
「……ユリウスのことが、気にかかるかい?」
核心を突く一言。
エリアーナは息を呑み、そして静かに瞳を伏せた。
「……気にかかる、と言えば嘘になります。ですが……怖くは、ありません」
彼女の声は、驚くほど静かで、澄み渡っていた。
「ロヴェル様からご報告を伺った時、不思議なほど心に波が立ちませんでした。あんなに毎日怯えて、怒鳴り声を聞くだけで震えていたはずなのに……。いま思い出すあの屋敷の日々は、まるで擦り切れた古い本をめくっているような、遠い世界の出来事に思えるのです」
エリアーナはクロードの逞しい腕に自らの小さな手を重ねた。
温かな彼の体温が、指先を通じてじんわりと染み渡る。
「ただ……なぜ、あそこまで人の心がすれ違ってしまうのかと、少しだけ虚しくなりました。ユリウス様は、私のことを何も見ていらっしゃらなかった。私が何を想い、どれほど命を削っていたのかも……そして、あの日、私がどれほどの決意をもってあの屋敷を去ったのかも、何一つ理解していらっしゃらない」
「当然だ。あの男は、最初から自分自身しか愛していなかったのだからね」
クロードの声が、低く冷ややかに沈んだ。
だが、その冷気はエリアーナに向けられたものではなく、過去の愚者に対する容赦のない断罪の響きであった。
「他者の献身を当たり前の権利として貪り、己の虚栄心を満たすためだけに都合よく利用する。……失って初めてその価値の巨大さに気づき、追い詰められた果てに、なお『許してやるから戻ってこい』と妄想する。それは愛などではない。ただの浅ましい執着と、保身のための道具弄りに過ぎないよ」
クロードは彼女の肩を抱き寄せ、その身体をくるりと自らの方へと向かせた。
正面から向き合う二人。
バルコニーを満たす青白い星明かりの下、クロードの白銀の髪が夜風にさらりと揺れる。
彫刻のように完璧なその美貌。
切れ長の氷青色の双眸には、いまや世界中のどんな宝石よりも熱く、深く、狂おしいほどの情愛の炎が宿っていた。
クロードは大きな素手を持ち上げると、エリアーナの柔らかく白い頬を、壊れやすい至宝を包むようにそっと両手で包み込んだ。
親指の腹が、彼女の唇の端を慈しむように優しく撫でる。
「エリアーナ。よく聞いてくれ」
その声音は、甘美でありながら、岩をも穿つような絶対の誓いを帯びていた。
「明日は――君を苦しめ、傷つけ、搾取し続けた過去のすべてを、完全に終わらせる日だ」
「過去を……終わらせる日……」
「そうだ。あの愚か者は、自らの破滅から目を背け、君という奇跡を取り戻せばすべてが元通りになると信じ込んで、この帝都へ乗り込んでくる。……だが、あの男が目にするのは、自らが手放してしまったものの途方もない巨大さと、二度と手の届かない天上の世界に立つ君の姿だ」
クロードの瞳の奥に、獲物を完全に仕留める狩人の、冷酷にして優雅な光がギラリと瞬いた。
「あの男がどのような見苦しい言葉を吐こうと、どのような醜態を晒そうと、君が心を痛める必要は微塵もない。……あの男がこれまで君に与えてきたすべての苦痛、すべての侮辱、すべての理不尽のツケを――明日、この私が、帝国の名の下に公衆の面前で完璧に清算させてやる」
クロードは一歩踏み込み、自らの額をエリアーナの額へとコツンと優しく重ね合わせた。
吐息が混ざり合うほどの至近距離。
彼の熱い息遣いが、エリアーナの震える睫毛を揺らす。
「何も恐れることはない。何も心配しなくていい。……私の富も、権力も、この命も、魂のすべてを賭けて、君を守り抜くと誓おう。君の未来から、過去の影を一つ残らず消し去って見せる」
「クロード様……」
「君はただ、私の隣で、誰よりも誇らしく、誰よりも美しく微笑んでいてくれればいいのだからね」
その言葉は、何重もの鎖となってエリアーナの魂を縛り付けていた過去の亡霊たちを、一瞬にして光の彼方へと消し去るに十分な威力を持っていた。
世界で最も強い男が。
大陸全土に恐れられる絶対強者が。
自分のためだけに、その持てるすべての武力と権力を振るい、命を懸けて盾となり、剣となって守り抜くと誓ってくれている。
自分はもう、一人で暗闇の中で耐え忍ぶ必要はないのだ。
冷たい石壁の中で、誰にも助けを呼べずに震えていたあの過労の少女は、もうどこにもいない。
(ああ……)
胸の奥底から、熱く、満ち足りた多幸感が溢れ出して止まらなくなる。
エリアーナの琥珀色の瞳から、ポロリとひとしずくの涙が零れ落ちた。
だが、それは悲しみでも恐怖でもない。
魂の芯まで解き放たれ、絶対の愛に包まれたことに対する――純粋な歓喜の雫。
エリアーナはクロードの首筋へと、自らの細い両手をそっと回した。
そして、彼の広い、温かな深藍色の胸元へと、自らの身体をすべて預けるようにして、ぎゅっと寄り添ったのだ。
「……はい、クロード様」
耳朶を打つその声は、鈴を転がすように清らかで、一点の迷いも曇りもなかった。
エリアーナは彼の胸板に頬を寄せ、春の陽だまりのように澄み切った、最高の笑顔を咲かせた。
「私にはもう……世界で一番優しくて、世界で一番強い、クロード様がいますもの。……何も怖くありませんわ」
「…………っ」
その瞬間、クロードの喉から、切ない歓喜の吐息が漏れた。
彼は彼女の背中に腕を回すと、骨が軋むほどの力強さで、しかし壊れ物を愛でるような優しさで、彼女の身体を強く、強く抱きしめ直した。
彼女の豊かな栗色の髪に深く顔を埋め、何度も、何度も、甘く熱い口づけをその頭頂部に降らせる。
「ああ……エリアーナ。私の愛しい人。……愛しているよ。私の命のすべてを賭けて、生涯、君だけを愛し抜く」
夜風が止み、バルコニーには満天の星々と、二人の甘やかな鼓動だけが響き渡っていた。
互いの体温を分かち合い、魂を重ね合わせるように寄り添う二人。
その絆は、いまや世界のいかなる嵐が吹き荒れようとも、決して引き裂くことのできない「絶対の愛」として完成していた。
そして――。
東の地平線の彼方が、わずかに白み始めていた。
夜の帳が静かに上がり、運命の朝が、音もなく帝都へと訪れようとしている。
アルジェント帝国建国祭。
世界中から王侯貴族が集う、目も眩むような大夜会の開幕。
自らの身の丈も知らず、特大の勘違いを抱えてやってくる愚かな元婚約者を待ち受けるのは――。
神話の奇跡を纏った至高の聖女と、絶対零度の冷酷公爵による、完膚なきまでの公開断罪劇。
因果応報の幕は、いま、完全に上がり切ろうとしていたのである。




