第39話:帝国の建国祭の招待状
北方の峻峰を背に戴くアルジェント帝国の帝都は、年に一度の最大の祝祭――「帝国建国祭」の開幕を数日後に控え、かつてない熱気と歓喜の渦に包まれていた。
極寒の気候ゆえに、例年のこの時期であれば、街を行き交う人々は分厚い外套の襟を立て、凍てつく石畳に足を取られながら足早に家路を急ぐのが常であった。
しかし、今年の帝都はまるで別世界であった。
大公城の中央にそびえ立つ「白銀の古代樹」が満開の花を咲かせ続け、エリアーナの【万物最適化】によって城下全域に張り巡らされた絶対浄化結界の恩恵により、街には春の高原のような清々しく穏やかな空気が満ち満ちていた。
城下の農地からは、歴史上例を見ないほどの規格外の穀物や果実が連日のように運び込まれ、市場には色鮮やかな露店が所狭しと立ち並んでいる。広場には万国旗が翻り、吟遊詩人たちが新しく生まれた「豊穣の聖女」を讃える歌を奏で、道行く人々は笑い声を響かせながら祝祭の準備に精を出していた。
そして――その奇跡の震源地であるアルジェント大公城の内部もまた、華やかな祝宴の準備によって沸き返っていた。
今回の建国祭は、単なる帝国の祝祭ではない。
他国から迎え入れられ、帝都に数々の奇跡をもたらした少女――エリアーナ・ヴァン・ベルクを、大公クロードの正式な婚約者であり、次期大公妃として大陸中の王侯貴族や使節団の前でお披露目する、極めて重要な国家行事でもあったからだ。
大公城東翼、陽光が燦々と降り注ぐ最高級の衣装サロン。
高いアーチ天井の下、色とりどりのシルクやベルベットの反物が壁際に積み上げられたその部屋には、三人の女性の熱気あふれる声が響き渡っていた。
「……素晴らしいわ! 完璧、まさに完璧よ、エリアーナ! 私のデザインしたドレスが、貴女のその神聖な御手によって、神話の至宝へと昇華されたわ!!」
歓喜に胸を震わせ、両手を打ち鳴らしていたのは、帝都社交界の女王コンスタンス・フォン・ヴァルハイト公爵令嬢であった。
艶やかな白金ブロンドの髪を優雅に揺らし、菫色の瞳をこれ以上ないほど爛々と輝かせている。かつて大公城へ乗り込んできた際の冷徹な気位の高さはどこへやら、今や彼女は誰よりも熱狂的な「エリアーナ様ファンクラブ筆頭」として、この数日間、自らの睡眠時間すら削って夜会ドレスのデザインに没頭していたのだ。
サロンの中央、三面鏡の台座の上に立っていたのは、ペールブルーの薄絹を纏ったエリアーナであった。
彼女の目の前には、等身大のトルソーに掛けられた、一着の息を呑むほど豪奢な夜会ドレスが飾られていた。
コンスタンスが持てる審美眼のすべてを注ぎ込み、帝都最高峰の針子たちに仕立てさせたそのドレスは、まさに「アルジェントの冬の奇跡」を体現したような芸術品であった。
生地には、氷晶のように透き通る深い群青色の最高級シルクが幾重にも重ねられている。歩くたびに、夜空のグラデーションのように優美な陰影を描き、デコルテから背中にかけてのラインは、優雅でありながらも触れる者を気圧すような気品を湛えていた。
そして――何よりそのドレスを唯一無二の奇跡たらしめていたのは、ドレスの裾から胸元にかけて、流れる星雲のように散りばめられた「魔石の刺繍」であった。
「……ふう。これで、最後の魔力循環の結び目が整いましたね」
エリアーナは小さく息を吐き出すと、ドレスの裾に添えていた白く滑らかな素手をそっと離した。
彼女の指先から、淡い真珠色の燐光がふわりと零れ落ち、布地に吸い込まれていく。
――【万物最適化】。
本来、硬く脆い鉱物であるはずの魔石を、衣類の繊維と完璧に分子結合させ、布地のしなやかさを一ミリも損なうことなく、宝石本来の輝きと魔力を極限まで限界突破させる奇跡の異能。
キィィィン……と、澄み渡る鐘の音に似た共鳴が、サロンの空気を震わせた。
エリアーナが手を離した瞬間、ドレス全体に縫い留められていた数百粒の微小な魔石が一斉に息を吹き返したのだ。
青、銀、白、そして微かな菫色の光が、呼吸をするように淡く明滅を始める。
ただの装飾ではない。エリアーナが最適化を施したことで、ドレスそのものが自律的な「加護の結界」を宿し、纏う者の体温を完璧に保ち、あらゆる悪意ある呪詛や物理的衝撃を自動的に跳ね返す、神話の聖衣へと姿を変えていた。
まるで、本物の満天の星空を布地の上にそのまま縫い留めたかのような、息を呑むほどの神々しさ。
「まあ……! なんて美しいのかしら……!」
脇に控えていたメイド長のミレイユが、珍しく仕事を忘れて胸の前で両手を握りしめ、感嘆の吐息を漏らした。
「光の粒子が、まるで生きているように揺らめいておりますわ。エリアーナ様の魔力が宿ったことで、布地の一本一本から神聖な香気すら漂っております……!」
「ええ、そうですとも!」
コンスタンスが誇らしげに胸を張り、エリアーナの手を両手でギュッと包み込んだ。
「見てごらんなさい、エリアーナ! 私の計算したドレスのドレープに、貴女の清らかな魔力が完璧に調和しているわ! 建国祭の夜会でこれをお召しになれば、居並ぶ諸侯も、他国の使節団も、全員が貴女の前に跪かずにはいられなくなりますわよ!」
「あ、あの……コンスタンス様、ミレイユさん……」
熱狂する二人に挟まれ、エリアーナは困ったように眉を下げ、頬をぽっと赤らめた。
「そんなに褒めていただくと、穴があったら入りたくなってしまいますわ……。私、コンスタンス様の描かれたデザイン画の通りに、少し布の張りを整えて、魔石の引っ掛かりを滑らかにしただけですもの。こんなに素晴らしいドレスになったのは、コンスタンス様の才能のおかげです」
「何を仰るの、この謙虚すぎる天使は!」
コンスタンスは身悶えするように叫んだ。
「魔石の摩擦抵抗をゼロにして、布地に自律結界を付与する作業のどこが『少し整えただけ』ですの!? 帝室の筆頭魔導士たちが束になって挑んでも、一生かかって再現できない神業ですわ! ああ、本当に尊い……その桁外れの才能を持ちながら、少しも驕らないその無垢な魂……! 私、一生貴女のドレスを仕立てて差し上げたいですわ!」
「ひゃぅっ……コンスタンス様、顔が近いです……!」
グイグイと詰め寄ってくる公爵令嬢の情熱に、エリアーナはタジタジになって身を縮こまらせた。
実家にいた頃やロシュ侯爵領にいた頃は、女同士の関わりといえば、妹ティファーヌからの陰湿な嫌がらせや、義母からの冷遇、あるいは使用人たちからの嘲笑ばかりであった。
こんなふうに、同年代の女性から心からの敬意と親愛を向けられ、手を取り合って笑い合う時間など、二十年間の人生で一度たりとも経験したことがなかった。
くすぐったく、少し気恥ずかしく、けれど胸の奥底がじんわりと温かくなるような、かけがえのない幸福。
――その時であった。
「……楽しそうだな、私の愛しい人たち」
低く、深みのある甘美なバリトンの声が、サロンの入り口から静かに響いた。
扉の前に立っていたのは、軍礼装の上着を脱ぎ、上質な深藍色のベスト姿のクロードであった。
白銀の髪を少し乱し、政務の合間を縫って駆けつけてきたのであろうその姿は、相変わらず彫刻のように完璧で、無駄のない美貌を誇っていた。
だが、その氷青色の瞳には、サロンの中に漂う甘やかな女性たちの空気に触れて、微かな嫉妬と、それを覆い隠すほどの深い情愛が揺らめいていた。
「あ、クロード様……!」
エリアーナの顔が、パッと春の陽だまりのように輝いた。
彼女が無意識のうちに浮かべたその満面の笑顔を目にした瞬間、クロードの足がピタリと止まり、その切れ長の瞳が大きく見開かれた。
「…………っ」
息を呑む音が、クロードの喉から漏れた。
彼の視線は、サロンの中央に立つエリアーナの姿に、完全に釘付けになっていた。
まだドレスの試着段階であり、ペールブルーの薄絹を纏っているだけの彼女であったが、その肌の白さ、豊かな栗色の髪の輝き、そして何より、自分を迎えて心から嬉しそうに微笑むその無垢な佇まい。
そして――彼女の隣に完成したばかりの、あの「奇跡の夜会ドレス」。
群青のシルクの上に煌めく星空の魔石刺繍が、エリアーナの放つ澄み切った魔力波と共鳴し、部屋全体を神話の聖域のように照らし出していたのだ。
「……これは……」
クロードは大股で歩み寄ると、トルソーの前に立ち、言葉を失ったようにドレスを見つめた。
「コンスタンス、君が仕立てたのか」
「ええ、大公閣下」
コンスタンスが勝ち誇ったように扇を開いてみせた。
「私のデザインと、エリアーナの奇跡の最適化の結晶ですわ。……これこそが、アルジェント帝国の次期大公妃にふさわしい至高の夜会服。いかがかしら?」
「……言葉もないな」
クロードの声は、震えていた。
彼はトルソーのドレスから、ゆっくりとエリアーナへと視線を移した。
その氷青色の瞳の奥底で、暗く、熱く、狂おしいほどの独占欲と歓喜の炎が、ボッと音を立てて爆発的に燃え上がる。
「美しい……。このドレスを纏った君を想像しただけで、私の心臓が破裂しそうだ。……世界中のいかなる宝石も、いかなる王冠も、君のこの輝きの前には色褪せてしまうだろうね」
クロードは躊躇うことなく、コンスタンスとミレイユの目の前でエリアーナの元へと歩み寄ると、彼女の細い腰を抱き寄せ、自らの胸元へとすっぽりと引き寄せた。
「ひゃっ……クロード様、皆様が見ていらっしゃいます……!」
「見られて困ることなど何もない」
クロードは彼女の耳元に唇を寄せ、甘く低く囁きかけた。
「君の美しさは、私の誇りだ。……だが、同時に耐え難いほどの独占欲が疼いてしまうよ。この奇跡のような姿を、建国祭の夜会で他の男たちの目に晒さなければならないと思うだけで……会場ごと凍結させてしまいたくなる」
「ま、またそんな物騒なことを仰って……!」
赤面してクロードの胸板を軽く叩くエリアーナ。
その甘やかな睦み合いを前に、コンスタンスは扇で口元を隠しながら「まあまあ、相変わらずごちそうさまですこと」とクスクス笑い、ミレイユは「閣下、お戯れはそのくらいになさいませ。お披露目前にエリアーナ様のお顔が茹で蛸になってしまいます」と涼しい顔で嗜めた。
サロンの中に満ちる、穏やかで幸福な笑い声。
傷つき、過労で命を削られ、誰からも顧みられなかった少女が、いま、世界で最も尊い居場所の中で、愛と敬意に包まれて輝いている。
――しかし。
その至福の時間を切り裂くように、サロンのテラスの窓が、カタツリと微かな音を立てたのは、まさにその時であった。
「…………」
クロードの眉が、スッと鋭く跳ね上がった。
彼はエリアーナの肩を抱いたまま、窓の方へと冷涼な視線を向ける。
シャラアン……と。
カーテンの隙間から、音もなく風のように滑り込んできた一つの影。
旅用の緑の外套を羽織り、蜂蜜色の金髪を乱した美青年――諜報部隊長、ロヴェル・サン・ジュストであった。
「……失礼いたします、閣下。そして、淑女の皆様」
ロヴェルは軽やかにテラスの手すりから着地すると、深々と一礼した。
その口元には、いつもの人を食ったような軽薄な笑みが浮かんでいたが――その琥珀色の瞳の奥底には、極めて冷徹で、獲物を罠に追い詰めた狩人特有の鋭利な光が宿っていた。
「ロヴェル」
クロードが低く問う。
「王国方面の潜入任務から、戻ったのか。……早かったな」
「ええ、風の報せを運ぶのが私の仕事ですからね」
ロヴェルは懐から、厳重に封印された一通の羊皮紙を取り出した。
「至急、閣下のお耳に入れておくべき『客人の動向』が掴めましたので、馬を乗り継いで戻ってまいりました」
「客人の動向……?」
エリアーナが小首を傾げた。
ロヴェルはエリアーナへ向けて、柔らかく、しかしどこか憐憫の混ざった微かな笑みを向けた。
そして――再びクロードへと向き直ると、はっきりと、サロン中の全員に聞こえる声音で告げたのだ。
「――ロシュ侯爵令息、ユリウス。……彼が、昨日の昼、国境の樹海を越える定期馬車に乗るのを確認いたしました」
「…………っ!」
その名が発せられた瞬間、サロンの空気がピキリと凍りついた。
コンスタンスが扇を握る手に力を込め、ミレイユの琥珀色の瞳に冷たい殺気が宿る。
そして、エリアーナの身体が、微かにピクリと震えた。
「ユリウス様が……国境を……?」
エリアーナの唇から、掠れた声が漏れた。
「ええ、エリアーナ様」
ロヴェルは淡々と、しかし残酷な事実を紡ぎ出した。
「ロシュ侯爵邸は、すでに借金取りによってすべての財産を差し押さえられ、抜け殻同然となっております。妹のティファーヌ嬢は、宝石を持ち逃げして夜逃げを図ったようですが……街道の魔獣に襲撃され、消息を絶ちました。おそらく二度と社交界に戻ることはないでしょう」
「ティファーヌが……」
息を呑むエリアーナ。自業自得とはいえ、かつての家族の哀れな末路に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「そして、一人残されたユリウスですが」
ロヴェルの口元に、強烈な侮蔑の笑みが浮かんだ。
「彼は手持ちの全財産をはたいて、アルジェント帝国行きの切符を手に入れたようです。……我が諜報部の報告によれば、彼は今、ボロボロの衣服を纏い、飢えと疲労で正気を失いかけながらも、狂気じみた笑みを浮かべてこう呟いているそうですよ。『エリアーナを迎えに行く』『あいつは私を愛しているのだから、迎えに行けば泣いて喜んで戻ってくるはずだ』……とね」
「は……?」
コンスタンスの喉から、信じられないものを見るような呆れ声が漏れた。
「迎えに行くですって……? 自ら捨てておいて、今さらあの子が戻ってくると思っているの……!? どれだけ頭の湧いた男ですの、その男は……!」
「ええ、救いようのない特大の勘違い野郎ですよ」
ロヴェルが肩をすくめる。
「現在、ユリウスを乗せた馬車は帝国の第三関門を通過し、すでに帝都へと向かう幹線街道を進んでおります。……到着は、建国祭の初日、大公城の皇宮夜会が開かれる、まさにその時刻となる見込みです」
すべてが、符合した。
破滅した元婚約者が、身勝手な妄執と特大の勘違いを抱えたまま、このアルジェント帝国の帝都へ――そして、エリアーナがお披露目される建国祭の夜会へと、向かってきている。
サロンの中に、重苦しい沈黙が落ちた。
エリアーナはクロードの胸元で、静かに目を伏せていた。
恐怖はなかった。
かつてのように、あの男の怒声に怯え、震える自分はもうどこにもいなかった。
ただ――自らの過ちを何一つ理解できず、破滅の淵にあってもなお他人に縋り付こうとする元婚約者の哀れさに、冷ややかな感情の整理がついているだけであった。
そして――。
ゴオオオオオ……ッ。
サロンの室温が、一瞬にして音を立てて急降下した。
「…………っ!」
コンスタンスが息を呑み、ロヴェルが身構える。
床の大理石の隙間に、青白い霜の結晶が、バリバリと凄まじい速度で這い広がっていく。
壁の燭台の火が一瞬にして凍結し、窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げて共鳴した。
クロードであった。
彼の身体から立ち上っていたのは、他国の軍勢を一瞬にして消滅させる「氷の死神」としての、本物の、底知れない殺気であった。
切れ長の氷青色の双眸は、絶対零度の冷気を宿し、獲物の首を両断する刃のように鋭利に細められている。
薄い唇が、静かに、残忍な弧を描いて吊り上がった。
「……そうか」
低く、地底の底から響くような声音。
それは怒り狂った者の声ではなかった。
自ら罠の真ん中へと飛び込んできた哀れな獲物を、どのように料理してやるかを冷徹に計算し尽くした、絶対強者の笑みであった。
「自ら、この帝都へ足を運んでくれるというのか。……わざわざ首を差し出しに来るとは、実に都合のいい男だな」
クロードの大きな手が、エリアーナの華奢な肩を、どこまでも優しく、壊れやすい硝子細工を慈しむように包み込んだ。
その手の温もりだけは、部屋を満たす絶対零度の殺気とは裏腹に、春の陽だまりのように温かかった。
「エリアーナ。何も恐れることはないよ」
クロードは彼女の耳元に囁いた。その声には、揺るぎない絶対の愛が宿っていた。
「君を苦しめ、傷つけ、搾取し続けた過去の亡霊どもに……この世界の真の格差というものを、骨の髄まで思い知らせてやる時が来たのだからね」
クロードはゆっくりと顔を上げると、ロヴェル、そしてミレイユへと冷徹な命を下した。
「門番には通達しておけ。不審な男が現れても、決して捕縛するな。……夜会の会場の中央まで、泳がせておくのだ」
「御意にございます、閣下」
ロヴェルが妖しく微笑み、頭を垂れる。
クロードの氷青色の瞳の奥底で、冷酷な処刑の炎がギラリと瞬いた。
「――舞台は整った。我が愛しき妃の前に跪かせる、最高の見世物にしてやろう」
絶対零度の大公が下した、冷徹なる宣戦布告。
アルジェント帝国の建国祭という華麗なる舞台の上で、因果応報の「完璧なざまぁ」の幕が、いま、静かに開かれようとしていたのである。




