第38話:抜け殻の屋敷と、特大の勘違い
凍えるような冷気が、割れた額の傷口を容赦なく苛んでいた。
ロシュ侯爵邸の薄暗い寝室で、ユリウス・ド・ラ・ロシュは床にへばりついたまま、呻き声を上げて意識を取り戻した。
固まった血糊が右目を開かぬよう塞ぎ、側頭部には銀の燭台で殴打されたことによる鈍い頭痛が激しく脈打っている。全身の節々がきしみ、喉の奥は砂漠のようにカラカラに乾ききっていた。
「……う、ぐ……っ、ティファーヌ……」
昨夜の泥沼の痴話喧嘩の記憶が、痛烈な吐き気とともに蘇る。
互いに責任を擦り付け合い、花瓶を投げつけ、罵声を浴びせ合ったあの醜悪な時間。
ユリウスはよろよろと立ち上がると、壁に手をつき、千鳥足で主賓客室の扉へと向かった。
あの毒婦め、あそこまでこの私を愚弄しておいてただで済むと思うな――そう怒りを燃え上がらせながら、半開きのままになっていた客室の扉を押し開けた。
――しかし。
そこに広がっていた光景に、ユリウスの足はピタリと止まった。
「……え……?」
部屋の中は、完全に静まり返っていた。
ベッドの上に、ティファーヌの姿はなかった。
床に散乱していたはずの衣装やトランクも消え去り、宝石箱が保管されていた金庫は、扉を開け放たれたまま口を開けていた。
中を覗き込めば、残っていたわずかな金貨も、銀細工の燭台も、先祖代々受け継がれてきた侯爵家の家宝のティアラも――何一つとして残されていなかった。
ただ、床の隅に、割れた三面鏡のガラスの破片と、彼女が身につけていたはずの破れた深緑のベルベットドレスの切れ端だけが、抜け殻のように打ち捨てられていた。
「持ち逃げ……したのか……?」
ユリウスの唇から、掠れた声が零れ落ちた。
呆然と立ち尽くす。
あの女は、自分が気絶している隙に、屋敷に残されていた金目のもののすべてをトランクに詰め込み、一人で夜逃げしたのだ。
破滅の淵に瀕した自分を見捨て、泥舟から逃げ出すネズミのように、金だけを奪って姿を消した。
「あ……あいつ……! あの、性悪女めぇぇぇッ!!」
ユリウスは壁を力任せに殴りつけたが、返ってきたのは鈍い痛みと、虚しい空洞の音だけだった。
叫ぶ相手すら、もうここにはいなかった。
そして――ティファーヌの逃亡は、この屋敷を襲う「最後の略奪」の序曲に過ぎなかった。
ドガァンッ! ドガァンッ!!
正午を回った頃、玄関ホールから響き渡ったのは、予告通りにやってきた借金取りたちの荒々しい足音であった。
バラン金融商会の取り立て屋たち、そして王都商業ギルドの執行官が、屈強な作業員と傭兵たちを何十人も引き連れて、土足で屋敷の中へと雪崩れ込んできたのだ。
「おいおい、ユリウスの若旦那! 約束の三日間の猶予の最終日だぜ! 金貨一万枚は用意できたんだろうなぁ!?」
バランが下卑た笑い声を上げながら階段を上がってくる。
ユリウスは応えることすらできなかった。
一万枚どころか、一文の銅貨すら手元にないのだから。
「……無言たぁ、払えねえってことだな。よし、野郎ども! 差し押さえ執行状の通り、片っ端から運び出せぇッ!!」
そこからは、情け容赦のない略奪の嵐であった。
エントランスに飾られていた歴代侯爵の肖像画が額縁ごと引き剥がされ、サロンの豪奢なクリスタル・シャンデリアが無造作に鎖ごと切り落とされて木箱へ詰め込まれた。
客室のふかふかの羽毛ベッド、マホガニーの長椅子、ペルシャ織りの分厚い絨毯、銀の食器、金箔を施した鏡、カーテンに至るまで――金になりそうなものは、釘一本残さぬ勢いで剥ぎ取られ、前庭に横付けされた巨大な荷馬車へと次々に積み込まれていく。
「や、やめてくれ……! それは先代の愛用品だ! その机は、私が執務で使っている――」
すがりつこうとしたユリウスを、傭兵の太い腕が無造作に突き飛ばした。
「どけ、破産者! 貴様の持ち物なんざ、この屋敷には一つも残っちゃいねえんだよ! 命があるだけありがたいと思え!」
ドサリと床に打ち据えられたユリウスの前を、かつて己の権威を誇示していた無数の調度品が、ガタゴトと運び出されていく。
夕暮れが訪れる頃には、作業員たちの怒号も荷馬車の車輪の音も遠ざかり、屋敷の周囲には再び完全な静寂が戻っていた。
◇
夜の闇が、音もなく降りてきた。
本邸二階の執務室。
かつてロシュ侯爵家の富と名声の中枢であったその部屋は、いまや見る影もない「ただのがらんどうの石牢」と化していた。
マホガニーの巨大な執務机も、柔らかな革張りの椅子も、天井まで届く本棚も、すべて持ち去られていた。
窓のカーテンが引きちぎられたため、夜の冷たい隙間風が容赦なく吹き抜け、床の絨毯が剥がされた冷たい石畳の上に、落ち葉と埃がカサカサと舞い散っている。
壁面の暖炉には、薪の一本すら残されておらず、冷え切った灰が虚しく吹き溜まっているだけだった。
その部屋の隅、冷たい石壁に背中を預け、膝を抱えるようにして座り込んでいたユリウス。
上着は破れ、額の傷は乾いて黒ずみ、唇は寒さのあまり紫色に変色してガチガチと音を立てていた。
「さ、寒い……。どうして、こんなに……寒いんだ……」
自らの腕を抱きしめても、体温は一向に戻らなかった。
胃袋は激しい空腹でキュウときしみ、水すら飲んでいない喉は焼けるように痛む。
かつては呼び鈴を一つ鳴らせば、使用人たちが競うようにして温かな食事と極上のワインを運んできたはずだった。
暖炉には常に燃え盛る薪がくべられ、部屋は春のように暖かく保たれていたはずだった。
なぜ、こんなことになったのか。
なぜ、自分は一人、暗闇の中で凍えているのか。
ふと――朦朧とする意識のなかで、ユリウスの脳裏に、ひとつの情景が鮮やかに浮かび上がった。
かつての、執務室。
冬の厳しい寒さの夜、自分が山積みの書類を前に不機嫌そうにペンを握っていた時のことだ。
コンコン、と控えめなノックの音がして、扉が静かに開く。
すり切れた灰色の木綿ドレスを着た少女――エリアーナが、湯気の立ち上る白磁のティーカップを、両手で大切そうに捧げ持ちながら入室してきた。
『ユリウス様……夜遅くまでお疲れ様です。少し、お身体が冷えていらっしゃいませんか?』
消え入りそうな、控えめな声。
彼女が机の上に置いてくれたのは、乾燥させた薬草と蜂蜜を丁寧に調合した、温かなハーブティーだった。
表面からは心地よい湯気が立ち上り、一口啜るだけで、凍えていた内臓がじんわりと解きほぐされ、頭痛がスッと引き、不思議なほど身体の芯から温もりが満ちてくる極上の一杯。
だが――当時の自分は、そのお茶をどう扱っただろうか。
『ふん、ぬるいぞ! こんな気の抜けた草の煮出し汁など飲めるか! 手際が悪いんだよ、お前は! さっさと向こうの帳簿を片付けておけ!』
自分はそう怒鳴り散らし、机の端へとカップを乱暴に押しやり、彼女の差し出した優しさを、冷酷に踏み躙ったのだ。
それでも、エリアーナは怒ることもなく、『申し訳ありません……冷めないうちに召し上がってくださいね』と小さく頭を下げ、静かに自らの作業へと戻っていった。
あのお茶。
あの一杯の温もり。
「……あ……」
ユリウスの瞳から、ポロリと一筋の涙が零れ落ちた。
乾ききった頬を伝い、冷たい石畳の上に落ちる。
「美味しかったんだ……。あのお茶……本当に、温かくて……美味しかったんだ……」
あのお茶は、ただのハーブティーなどではなかったのだ。
エリアーナの【万物最適化】の魔力が、彼の疲弊した肉体を癒やすために、無意識のうちに注ぎ込まれていた奇跡の滋養薬だったのだ。
彼女はいつだって、自分の理不尽な罵倒に耐えながら、自分の健康を気遣い、自分の代わりに領地を支え、誰にも見えない場所で、己の命を削って尽くしてくれていたのだ。
「エリアーナ……」
震える声で、その名を呼んだ。
後悔が、津波のように胸を押し流していく。
もし、あの日、あのお茶を受け取っていれば。
彼女の優しさに感謝の言葉を一つでも返していれば。
あの建国記念夜会で、彼女を捨ててティファーヌを選ぶような愚行を犯さなければ――。
自分は今も、温かな暖炉の前で、世界で一番有能で優しい妻に支えられ、栄華を極めていたはずだったのだ。
「すまなかった……。悪かったよ、エリアーナ……。私が間違っていたんだ……」
ユリウスは冷たい床に顔を埋め、子供のように肩を震わせて泣いた。
涙が止まらなかった。
己が手放してしまったものの巨大さと、自らの愚かさに打ちのめされ、暗闇のなかで一人、むせび泣いた。
――しかし。
この男の精神は、根底から歪みきっていた。
真の反省とは、己の罪を受け入れ、相手の幸せを願い、身を引くことである。
だが、二十二年間、己を世界の中心だと信じ込んで生きてきた傲慢な貴公子の脳髄は、その悔恨を――最も醜悪で、最も身勝手な「特大の勘違い」へと変貌させてしまったのだ。
「…………待てよ?」
ピタリと、ユリウスの泣き声が止まった。
彼は涙に濡れた顔を上げ、暗闇のなかで瞬きをした。
「エリアーナは……あいつは、あんなに私に尽くしてくれていた……。文句の一つも言わず、何年間も、私のために徹夜で帳簿を合わせ、私の領地のために結界を張り、私のために温かいお茶を淹れてくれていた……」
思考の歯車が、異常な回転を始める。
「なぜだ? なぜ、あいつはそこまでしてくれた? 義務だからか? 違う……! 愛していたからだ! あいつは、この私を……ユリウス・ド・ラ・ロシュという男を、心から愛していたからこそ、あそこまで身を粉にして尽くしてくれていたのではないか!!」
ドクン、と。
心臓が、歓喜の脈動を打ち始めた。
「そうだ……! そうに決まっている! あんなに健気に尽くしてくれた女が、私のことを簡単に忘れられるはずがない! あの建国記念夜会の婚約破棄だって、そうだ! あいつは泣かなかった……一切取り乱さずに去っていった! あれは強がりだったのだ! ショックのあまり感情を麻痺させ、私の気を引くために、あえて冷たく背を向けただけに決まっている!」
ユリウスのこめかみに、狂気じみた笑みが浮かび上がった。
現実逃避が生み出した、究極の自己正当化。
「アルジェント帝国の大公に囲われているという噂も……そうだ、当てつけだ! 私がティファーヌを選んだことに深く傷つき、私を嫉妬させるために、隣国の大公の元へ身を寄せたに違いない! あいつの心の中には、今も私への愛と未練が、消えずに燃え盛っているはずなのだ!」
血走った瞳が、爛々と輝き始める。
そうだ。そうに決まっている。
あいつは自分を待っているのだ。
あの冷たい帝国で、自分が迎えに来てくれるのを、今か今かと待ち焦がれているのだ。
「私が……迎えに行ってやらねばならない」
ユリウスはガタガタと震える足に力を込め、石畳から立ち上がった。
「男である私が、直々に隣国まで足を運び、『悪かった、お前を許してやるから戻ってこい』と優しく抱きしめてやりさえすれば……あいつは泣いて喜んで、私の胸に飛び込んでくるに決まっている! 『やはり私には貴方様しかおりません』と、涙を流して感謝するに決まっているのだ!」
想像するだけで、全身の血液が熱く沸騰した。
エリアーナを取り戻せば、すべてが解決する。
彼女がこの屋敷に戻ってくれば、枯れ果てた薔薇園は再び満開になり、砕け散った結界石は元通りに修復され、死んだ麦畑は黄金の海を取り戻す。
商人ギルドの借金など、彼女がワインと鉱山を最適化すれば、一瞬で返済できる。
そして自分は、帝国の公爵すら手玉に取った「奇跡の聖女」を妻に迎えた偉大な領主として、再び王都の社交界で脚光を浴びることができるのだ。
「行かねばならない……! 帝国へ! アルジェント帝国へ行くんだ!!」
確信に満ちた妄執が、ユリウスを突き動かした。
彼は破れた上着のポケットに手を突っ込み、室内を狂ったように探し回った。
金だ。
帝国へ行くための路銀が必要だ。
バランたち借金取りは屋敷の家具を持ち去ったが、ユリウス個人の衣服の隠しポケットや、私室の靴底までは調べ尽くしていなかった。
ユリウスは自室へ駆け戻り、破れたブーツのインソールを力任せに引き剥がした。
中から現れたのは――かつて非常用の逃走資金として、自らが密かに隠しておいた、小さな革袋。
紐を解いて中身を床にぶちまける。
チャリン、と鈍い音がして転がり出たのは――金貨三枚と、数枚の銀貨。
「これだけか……!?」
ユリウスの顔が歪んだ。
かつて一晩の酒代にすら満たない、わずかな端金。
だが、いまの彼にとっては、命を繋ぐ唯一無二の全財産であった。
これ以上の金は、この広大な屋敷のどこを探しても、ただの銅貨一枚すら残されていないのだ。
「十分だ……! 国境を越える乗合馬車の切符一枚なら、これで足りるはずだ! 帝国へ着きさえすれば、エリアーナが極上の食事と宿を用意してくれるのだから、往復の路銀など考える必要はない!」
ユリウスは震える手で金貨をかき集め、懐の最も深い場所へとねじ込んだ。
そして、壁に掛かっていた、古びた泥まみれの旅行用外套を乱暴に羽織ると、フードを目深く被った。
抜け殻となったロシュ侯爵邸の勝手口を抜け、夜の闇へと飛び出す。
一度も振り返ることはなかった。
彼が見つめていたのは、北の空――自らを破滅から救い出し、再び栄華を取り戻させてくれるはずの「都合のいい奇跡」が待つ場所だけであった。
◇
翌朝、ロシュ侯爵領の北端にある、荒涼とした宿場町。
街道の魔獣被害によって大半の住民が避難し、ゴーストタウンと化したその町の一角に、唯一稼働している薄汚れた駅逓所があった。
看板には、「国境越え・北方帝国連絡便」の文字が掠れたインクで記されている。
「……おい、切符をくれ」
カウンターの窓口に、ドサリと重い音がして革袋が叩きつけられた。
窓口の奥で煙草を燻らせていた無精髭の駅員が、怪訝そうに顔を上げた。
目の前に立っていたのは、ボロボロの外套を羽織り、額に血の滲んだ包帯を巻き、異様な光を宿した血走った目でこちらを睨みつけている男――ユリウスであった。
「……アルジェント帝国行きの、定期便か? 今は国境の樹海に魔獣が出まくってて、命の保証はねえぞ。特別危険手当込みで、金貨三枚だ」
「払う! ここに金貨三枚ある! 早く切符を出せ!」
ユリウスは震える手で革袋から金貨を取り出し、カウンターの上へと叩きつけるように並べた。
彼が持っていた全財産のすべて。
これで、彼の懐には銀貨数枚しか残らない。まさに一文無しの博打であった。
駅員は金貨を一枚ずつ指先で弾き、本物であることを確認すると、呆れたように鼻を鳴らして引き出しから一枚の羊皮紙の切符を取り出した。
「まいど。……今日の昼発の便だ。途中で魔獣に襲われて馬車がひっくり返っても、返金は受け付けねえからな」
「ふん、魔獣など恐れるものか。私には……私には、偉大な使命があるのだからな」
ユリウスはひったくるように切符を奪い取ると、胸元へと大切そうにしまい込んだ。
駅員は「狂人か」と呟きながら視線を逸らしたが、ユリウスの耳には届いていなかった。
駅逓所の外へ出たユリウスは、北の空を見上げた。
連なる峻険な連峰の向こう、白銀の雪を戴くアルジェント帝国の空。
冷たい秋風が彼のボロボロの外套を激しく揺らす。
だが、その瞳には――破滅の淵に立たされた人間特有の、狂気じみた希望の炎が爛々と燃え盛っていた。
「待っていろ、エリアーナ。……今、私の手で迎えに行ってやるからな」
自らの身の丈も知らず、現実のすべてから目を背け、破滅への一本道をひた走る哀れな男。
彼が向かう先にあるものが――自らが思い描くような感動の復縁劇などではなく、人生最大の公開処刑と、完璧な断罪の舞台であることなど、夢にも思わずに。
全財産をはたいた一枚の切符を握りしめ、ユリウス・ド・ラ・ロシュは、いま、運命の地――アルジェント帝国へと向かって、最後の一歩を踏み出したのであった。




