第37話:逃亡した妹の哀れな末路
深い闇が支配する深夜の街道を、一台の古びた二頭立て馬車が、軋んだ車輪から悲鳴のような音を立てながら疾走していた。
月明かりすら届かない、分厚い鉛色の雲の下。
車内では、黒いフード付きの外套を深く被ったティファーヌ・ヴァン・ベルクが、激しい揺れに身を投げ出されそうになりながらも、足元に置いた二つの重厚な革トランクを必死に両腕で抱え込んでいた。
ガタゴトと跳ねるたびに、トランクの隙間から金属と宝石が触れ合うジャラリという重い硬質な音が響く。
その音を耳にするたび、ティファーヌの唇には、醜く歪んだ恍惚の笑みが浮かび上がった。
(ふふ……ふふふっ! 重いわ。素晴らしい重みだわ! これさえあれば……この宝石の山さえあれば、わたくしは王都でいくらだってやり直せる!)
トランクの中には、ロシュ侯爵邸から持ち出せるだけの富が詰め込まれていた。
昼間、借金取りのバランたちが目を光らせるなか、寝室の隠し金庫から命がけで掻き集めた侯爵家の家宝のティアラ。先日、ユリウスの威光を傘に着てツケで買い漁った、大粒のサファイアの首飾り、エメラルドの指輪、純金細工のブレスレット、そして白貂の極上毛皮。
総額にすれば、金貨数千枚――豪邸を丸ごと一軒買い取り、一生涯を豪遊して暮らすに十分な資産であった。
(あの無能なユリウスめ……! 最後までわたくしのせいにして、みっともなく喚き散らしおって! 帳簿の数字一つ合わせられず、結界も直せず、借金取りに怯えて這いつくばるだけの出来損ないが! あんな男、とっくに愛想が尽きていたのよ!)
ティファーヌは額に巻いた包帯の上から、ズキズキと痛む傷痕を指先で撫で下ろした。
先刻の寝室での醜い罵り合いの記憶が、鮮明に蘇る。
互いに責任を擦り付け合い、花瓶を投げつけ、燭台で殴り倒した、泥沼の痴話喧嘩。
床に血を流して倒れ伏しながら、『エリアーナを迎えに行く』などと虚空に向かって呟いていたユリウスの無様な姿を思い出し、ティファーヌはペッと車内の床に唾を吐き捨てた。
(エリアーナお姉様ですって? 笑わせないでちょうだい! あんな地味で、何の取り柄もない出来損ないが、アルジェント帝国で奇跡の聖女として君臨しているですって……? そんな馬鹿な御伽噺、信じるわけがないでしょうが! どうせ他国の男を誑かすために、薄汚い妖術でも使ったに決まっているわ!)
胸の奥で、ドロドロとした黒い嫉妬の炎が渦を巻く。
幼い頃から常に自分の引き立て役であり、美しいドレスも、美味しい食事も、父からの愛情もすべて奪い取って踏み躙ってきたはずの姉。
その姉が、自分など足元にも及ばない遥か天上の世界で、大陸最強の公爵に溺愛されているという事実――それを認めることなど、ティファーヌの腐りきったプライドには天地が裂けてもできなかった。
(見ていなさい、お姉様……! わたくしはこの宝石を王都の闇ギルドで換金して、新しい最高のパトロンを見つけてみせるわ! 侯爵令息以上の、公爵家や王族の殿方に甘えて、王都社交界の真の頂点に君臨してやるんだから! 貴女のような地味女が、いつまでもいい気になっていられると思ったら大間違いよ!!)
都合のいい未来予想図に酔い痴れ、ティファーヌは興奮に頬を紅潮させていた。
馬車の御者台には、かつて実家から連れてきていた手下の従僕を座らせ、有り金の一部を掴ませて「夜明けまでに王都の関門へ馬車を走らせろ」と厳命してある。
あと数時間もすれば、ロシュ侯爵領の忌々しい境界を抜け、華やかな王都の光が見えてくるはずだ――そう信じて疑っていなかった。
――しかし。
強欲に目を眩ませたティファーヌは、決定的な事実を完全に失念していた。
彼女がいま走らせているこの街道が、一体「どのような場所」へと変貌を遂げていたのかを。
かつてロシュ侯爵領の街道が、王国で最も安全な交易路と讃えられていたのは、エリアーナがその身を削って【万物最適化】を施し、太古の結界石を極限の状態で稼働させ続けていたからであった。
その結界石は、数日前に完全に粉々に砕け散っている。
大商会の屈強な護衛傭兵隊すら瞬時に全滅させ、街道を封鎖した凶暴な魔獣たちの群れが、いまなお飢えに血走った目でこの闇のなかに潜んでいるという現実を、彼女は「自分だけは特別だ」という浅薄な慢心によって、完全に軽視していたのだ。
ヒュゥゥゥゥ……。
突如として、車窓の隙間から吹き込んできた風の匂いが一変した。
冷涼な夜気の中に混ざり込んできたのは、耐え難いほどの生臭さ――腐敗した動物の肉と、濃厚な獣の体臭が混ざり合った、胸の悪くなるような異臭であった。
「……ん? な、何ですの、この嫌な臭いは……?」
ティファーヌが眉をひそめ、窓のカーテンをわずかにめくった、まさにその瞬間であった。
ヒヒィィィィンッッ!!
前方の御者台から、老馬の引き裂かれるような狂乱の嘶きが夜空に木霊した。
直後、ガクンッと凄まじい衝撃が馬車全体を襲い、急ブレーキがかかる。
トランクにしがみついていたティファーヌの身体が前のめりに投げ出され、向かいの座席の背もたれへと顔面から激突した。
「ぎゃっ!? 痛っ……! な、何をするのよ、この無能な御者が! 早く馬車を走らせなさい!!」
鼻血を抑えながら、ティファーヌは窓から顔を出して御者台に向かって怒鳴りつけた。
だが――返ってきたのは、従僕の返事などではなかった。
「ひ……ひぃぃぃぃぃッ!? 出た……出たぁぁぁッ!! 魔獣だぁぁぁッ!!」
絶叫。
そして、直後に響いたのは――肉が引きちぎられ、骨が砕ける、聞くに堪えない生々しい咀嚼音であった。
「ぎゃあああああああッッ――!!」
「え……?」
ティファーヌの思考が、一瞬にして凍結した。
窓の外。
月明かりのない闇のなか、御者台の上で蠢いていたもの。
それは、人間の姿などではなかった。
体長二メートルを超える、漆黒の毛並みを持った巨大な狼の影。
真っ赤に血走った双眸を爛々と輝かせたフォレストウルフの巨躯が、手下の従僕の喉笛を深々と噛み砕き、鮮血の飛沫を夜気の中に撒き散らしていたのだ。
従僕の身体がピクピクと痙攣し、やがて力なく御者台から泥道の上へと転がり落ちていく。
「ひ……あ……あぁ……っ!?」
ティファーヌの喉から、声にならない悲鳴が漏れ出た。
だが、悪夢はそれだけで終わらなかった。
グルルルルルッ……!
ギギギッ! ギャァァァッ!!
街道を取り囲む鬱蒼とした原生林の闇から、無数の赤い光点が、星空のように一斉に灯った。
十頭、二十頭、三十頭――。
フォレストウルフの群れだけではない。
丸太のように太い牙を生やした巨大な猪――ブラッドボアの群れが、鼻息を荒くして地面を蹴り、木立の影からは棍棒を手にした醜悪なゴブリンたちが、舌なめずりをしながら這い出してくる。
馬車に繋がれていたもう一頭の老馬が、恐怖のあまり狂乱して暴れ回った。
しかし、逃げ場などどこにもなかった。
巨大なブラッドボアが、時速数十キロの猛烈な速度で突進し、老馬の腹部へとその凶悪な牙を深々と突き立てたのだ。
ドガァァァンッ!!
馬の内臓が破裂し、絶命の悲鳴とともに老馬が倒れ込む。
そして――繋がれていた馬車の牽引具がへし折れ、暴走した慣性によって、ティファーヌを乗せた客車が激しく横転した。
「いやぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」
視界が天地逆転する。
バキバキと木製の車体が激しく軋み、ガラス窓が粉々に砕け散り、車体は泥濘の斜面を転がり落ちて、街道脇の巨大な岩へと激突した。
ドガッシャァァァンッ!!
凄まじい衝撃音とともに、馬車の屋根がひしゃげ、車体は大破した。
鋭利な破片が飛び散り、漆黒の闇のなかに静寂が戻る。
「う……っ、あ……ぅぅ……っ」
大破した馬車の残骸のなかで、ティファーヌは泥と血にまみれながら、か細い呻き声を漏らしていた。
全身の骨がきしむように痛む。
着ていた深緑のベルベットドレスは無残に引き裂かれ、泥水と自らの血で汚れ果て、白貂の毛皮は千切れてどこかへ吹き飛んでいた。
頭から血が流れ落ち、視界が赤く滲む。
だが、そんな激痛のなかにあっても、彼女の浅ましい執着は消えていなかった。
(ほ……宝石……わたくしの、宝石……!)
ティファーヌは折れかけた腕を泥のなかに伸ばし、這いつくばるようにして瓦礫の隙間を探った。
横転の衝撃でトランクの留め金が壊れ、中から溢れ出た宝石箱の数々が、街道の泥水の上へと無残に散らばっていたのだ。
泥にまみれたサファイアの首飾り、折れ曲がった金細工、泥水に沈むダイヤモンド。
「わたくしの……わたくしの、お金ぇぇぇっ……!」
ティファーヌは爪を割きながら、泥水に手を突っ込み、宝石の粒を一つ、また一つと必死にかき集めようとした。
これさえあれば。これさえ持っていれば、まだ王都で豪遊できるはずだと、狂気じみた形相で泥を掻く。
――しかし。
その時、彼女の背後で、冷たい風とともに低い獣の息遣いが響いた。
グルルルルル……ッ。
「…………っ!?」
ティファーヌの身体が、ピシリと硬直した。
生温かい息が、泥にまみれた彼女の首筋を撫でる。
恐る恐る振り返った彼女の瞳に映ったのは――大破した馬車の残骸の上に前足を乗せ、刃物のように鋭い牙から白濁した涎を垂らしている、一頭の巨大なフォレストウルフの姿であった。
「ひ……っ、あ……」
声が出ない。
狼の赤い瞳は、獲物をじわじわと解体する歓喜に細められていた。
背後の茂みからも、ガチリ、ガチリと牙を鳴らす音が無数に迫ってくる。
死だ。
肉を食い破られ、内臓を引きずり出され、骨の一片すら残さず貪り食われるという、絶対的な死の気配。
(嫌……嫌よ! 死にたくない! わたくしが、こんなところで死ぬわけがないでしょうがぁぁぁッ!!)
ティファーヌは手にかき集めていた宝石の半分を投げ捨てると、泥水を蹴って、なりふり構わず街道の反対側の藪へと這いずり逃げ出した。
ガウッ!!
狼の鋭利な爪が空を切り、ティファーヌのドレスの裾をズタズタに引き裂いた。
背中に走る激痛。だが、彼女は悲鳴を上げる暇すら惜しみ、泥と荊棘の茂みの中を、四つん這いになって無我夢中で転がり落ちていった。
背後で、馬の死骸と残された荷物を貪り食う魔獣たちの凄まじい争奪戦の音が響く。
その混乱のおかげで、ティファーヌへの追撃が一瞬だけ緩んだのだ。
運が良いのか、あるいは更なる地獄への猶予なのか。
荊棘に顔や腕を切り刻まれ、衣服を泥まみれのボロ布へと変えながら、ティファーヌは命からがら、街道から少し外れた旧道の草むらへと這い上がった。
「ハァ……ハァ……ッ! ひぐっ……うぅ……っ!」
冷たい泥の上に倒れ込み、激しく肩を上下させるティファーヌ。
手元に残ったのは、泥まみれになった小さな宝石箱がたった一つだけ。
中に入っていたのは、数粒の傷ついたサファイアと、ひしゃげた金の指輪。
あの大金庫の至宝も、金貨数千枚相当のドレスも毛皮も、すべては魔獣たちの血塗られた爪の下に消え去っていた。
「う……うわぁぁぁんッ! わたくしのドレスが! 宝石がぁぁぁッ!!」
ティファーヌは泥に突っ伏し、悔しさと恐怖のあまり大号泣した。
美しい金髪は泥水で固まり、顔は擦り傷と血で腫れ上がり、履いていた靴の片方は脱げ落ち、足の裏からは血が滴っている。
かつてロシュ侯爵邸で「天上の薔薇」と持て囃され、傲慢に着飾っていた令嬢の姿など、どこにも残っていなかった。
そこにいたのは、ただの泥まみれの、見るも無惨な物乞い以下の女であった。
――その時であった。
カラン、カラン、カラン……。
旧道の暗闇の向こうから、重苦しい鐘の音とともに、一台の黒い馬車がゆっくりと近づいてきた。
馬車を引くのは、目の光らない二頭の頑丈な駄馬。
車体には、一切の紋章も装飾もなく、ただ頑丈な鉄格子が嵌め込まれた窓が並んでいる。
「……あ……?」
ティファーヌは泥の中から顔を上げ、すがるようにその馬車の灯りを見つめた。
(た、助かった……!? 王都へ向かう旅人の馬車だわ……!)
彼女は痛む身体を引きずり、泥の中から立ち上がると、よろよろと旧道の真ん中へと躍り出た。
両手を振り、掠れた声を張り上げる。
「助けて! 助けてくださいまし!! わたくしはヴァン・ベルク伯爵家の令嬢、ティファーヌですわ! 馬車が魔獣に襲われて……! 助けて王都へ連れて行ってくださったら、父から莫大なお礼を出させますわ!!」
キキィィッ、と。
泥を踏みしめ、黒い馬車がティファーヌの目の前で停車した。
御者台から、そして馬車の後部から、ガタゴトと音を立てて降りてきた数人の男たち。
彼らは仕立ての良い旅人などでは断じてなかった。
目深に被った粗末な革笠、顔に彫られた刺青、腰に佩いた錆びた短剣と、手にした太い麻縄。
夜の街道を根城にし、難民や行き倒れの旅人を捕らえては裏社会へと売り飛ばす――大陸有数の闇の犯罪組織「人身売買シンジケート」の奴隷商人たちであった。
「……おいおい、こんな夜更けに何が飛び出してきたかと思えば」
先頭の男が、泥まみれのティファーヌを値踏みするように上から下まで見回した。
下卑た笑みが、男の醜い顔に浮かび上がる。
「伯爵令嬢だと? ケッ、泥水を啜った浮浪者の小娘が、大層な寝言をほざくじゃねえか」
「な……何を無礼なことを! わたくしは本当に貴族の令嬢ですのよ! ほら、これを見なさい! 本物のサファイアですわ! これをあげるから、早くわたくしを王都の高級ホテルへ――」
ティファーヌが泥まみれの宝石箱を差し出そうとした、その瞬間。
バシィッ!!
男の太い手が、ティファーヌの手首を容赦なく打ち据えた。
宝石箱が宙を舞い、男の掌の中へとすっぽりと収まる。
「ああっ!? わたくしの宝石が!!」
「へへっ、こいつは上玉のサファイアだ。どこかの屋敷から盗み出してきた泥棒猫ってところか」
男は宝石を懐にしまい込むと、ニタリと笑って部下たちに合図を送った。
「身ぐるみ剥いで、縄をかけろ。顔は傷だらけだが、身体の筋は悪くねえ。洗って化粧をすりゃ、国境沿いの鉱山町の酒場でなら、いい値段で買い手がつくぜ」
「な……っ!? な、何を言っているのよ!? わたくしを誰だと思っているの! 触らないで、無礼者! 汚い手で触るんじゃないわよぉぉぉッ!!」
ティファーヌは暴れ、爪を立てて抵抗しようとした。
だが、屈強な男たちの暴力の前には、温室育ちの我儘な令嬢の抵抗など、羽虫の羽ばたきほどにも通用しなかった。
ドカッ!!
男の拳が、ティファーヌの腹部に深々とめり込んだ。
「ぐふっ……!?」
息が詰まり、激痛に視界が真っ白になる。
崩れ落ちたティファーヌの両腕は、手際よく背中へと捻り上げられ、太い麻縄でギリギリと締め上げられた。
猿轡として泥水で汚れた汚い布が口の中に乱暴に押し込まれ、叫ぶことすら封じられる。
「んーッ! んーーッ!!」
涙と涎を垂らし、必死に首を振るティファーヌ。
だが、男たちは彼女をまるで家畜の豚でも放り込むかのように、馬車の後部――鉄格子の檻の中へと力任せに投げ込んだ。
ドサリッ!!
硬い鉄の床に叩きつけられ、ティファーヌは息を呑んだ。
檻の奥には、すでに数名の身ぐるみを剥がされた薄汚れた女性たちが、死んだような瞳でうずくまっていた。
鉄の扉が、外側から重々しい音を立てて閉ざされる。
ガチャンッ!!
カチリ、と南京錠が下ろされる冷徹な音。
「おい、行くぞ。夜明けまでに国境の闇酒場へ届けるんだ。……鉱山の荒くれ男どもが、新しい慰み者を首を長くして待ってるからな!」
「へへっ、毎度ありだ!」
鞭の音が響き、馬車が再び動き出す。
向かう先は、華やかな王都などでは断じてなかった。
人権も法も存在しない、極北の荒くれ者たちが蠢く、最底辺の鉱山酒場。
生涯、泥水を啜り、尊厳を奪われ、誰からも顧みられることなく使い潰されるだけの――生ける地獄の闇の底。
「んーーッ!! んーーーッ!!」
ティファーヌは鉄格子にしがみつき、血の涙を流しながら叫び続けた。
出ない声を絞り出し、激しく格子を揺さぶる。
助けて。誰か助けて。
ユリウス様。お父様。
そして――エリアーナお姉様。
だが、その叫びが誰かに届くことは、二度となかった。
かつて、自らの美貌と愛嬌だけを武器にして、真面目に働く姉を踏み躙り、その手柄を奪い、領民たちを飢餓へと追いやり、他人の富を貪り尽くした妹。
その傲慢と強欲の果てに待っていたのは、己が他者に与えてきた苦痛のすべてを、何百倍にもして自らの身で支払わされるという――逃れようのない、完璧な因果応報であった。
ティファーヌ・ヴァン・ベルク。
彼女が二度と、華やかな社交界の光を浴びることはなかったのである。




