第36話:泥沼の責任転嫁
夜の帳が重く降りたロシュ侯爵領の街道を、一頭の痩せた馬に引かれた乗合馬車が、軋んだ車輪を泥濘に沈めながらガタガタと揺れていた。
車内の粗末な木製座席で、ユリウス・ド・ラ・ロシュは虚ろな目を血走らせ、自らの膝を爪が皮膚に食い込むほど強く握りしめていた。
王都の夜会で味わった、あの底知れぬ屈辱と戦慄。
華やかな社交界の貴族たちから浴びせられた冷酷な嘲笑の嵐、誰一人として資金援助に応じず背を向けられた絶望、そして――何より、給仕台の影で耳にした、隣国アルジェント帝国における「奇跡の聖女エリアーナ」の真実。
(エリアーナ……エリアーナが、あの大公城の古代樹を満開にし、結界を張り、不毛の荒野を豊かな穀倉地帯へと変えた……? そんな馬鹿な……そんな馬鹿なことが、あってたまるか……!)
否定しようとすればするほど、過去三年間の記憶が鮮明に脳裏をよぎり、胸を鋭利な刃物で抉り抜いていく。
どんなに過酷な数字の狂いも、彼女の手にかかれば一瞬で整然と整理されていたこと。
彼女が夜露の降りる前に歩くだけで、庭園の花々は咲き誇り、農地の麦は病気知らずで黄金に実っていたこと。
そして、何十人もの上級魔導士が匙を投げた太古の結界石が、彼女の小さな掌によって何年も完璧に維持され続けていたこと――。
すべて、あいつだったのだ。
ロシュ侯爵領の繁栄も、自らが誇らしげに語っていた領主としての威厳も、すべてはあの地味で無口な少女が、無償で注ぎ込み続けていた奇跡の恩恵の上に成り立っていただけの砂上の楼閣。
それを、自分は――。
(……いや、違う! 私は悪くない! 私のせいであるはずがない!!)
ユリウスのこめかみに、太い青筋がドクドクと脈打った。
歪みきった肥大化したプライドが、自らの過ちを認めることを断固として拒絶し、猛烈な勢いで「身代わりの標的」を求め始めたのだ。
(ティファーヌだ……! あいつだ! あの毒婦が、私を唆したのだ! 『お姉様は地味で愛嬌がない』『わたくしこそが侯爵夫人にふさわしい』と甘えた声で擦り寄り、私の目を眩ませ、エリアーナを追い出させたのはあいつではないか!!)
黒々とした憎悪の炎が、ユリウスの胸の奥底で爆発的に燃え上がった。
すべてはあの女のせいだ。
あの女の浅ましい色香と贅沢のせいで、自分は至宝を手放し、破滅の淵へと叩き落とされたのだと。
馬車が本邸の正門前に到着するや否や、ユリウスは御者に金を投げて寄越すことも忘れ、泥に足を取られながら馬車を飛び出した。
門番の詰め所は無人で、鉄格子の正門は半開きのまま錆びついて軋んでいる。
前庭には前夜の借金取りや傭兵たちが残していったゴミや壊れた木箱が散乱し、噴水からはヘドロのような悪臭を放つ泥水が溢れ出していた。
玄関ホールの扉を体当たり同然に押し開けると、屋敷の中は真夜中の墓場のように静まり返っていた。
灯りの消えた廊下、剥ぎ取られた絵画の跡が白く残る壁、足元に散らばる割れた陶器の破片。
使用人たちは一人残らず逃げ去り、暖炉の火も落ちた館内には、冬の訪れを告げる凍えるような隙間風だけが吹き荒れていた。
「……ティファーヌ……ッ!!」
獣のような低い唸り声を上げ、ユリウスは手すりを掴みながら大階段を駆け上がった。
息を切らし、足をもつれさせながら目指したのは、かつてエリアーナを物置部屋へ追いやった後に、ティファーヌのために贅を尽くして改装させた本邸二階の「主賓客室」であった。
部屋の扉の前まで辿り着いたユリウスは、ノックすらすることなく、真鍮のドアノブを乱暴に回した。
しかし、内側から鍵が掛けられており、ガチリと鈍い音を立てて弾かれる。
「開けろッ!!」
ドガンッ! ドガンッ!
ユリウスは狂ったように扉を拳で殴りつけ、革靴の爪先で力任せに蹴り上げた。
「開けろ、ティファーヌ! 中にいるのは分かっているぞ! さっさと扉を開けやがれぇぇッ!!」
激しい衝撃音とともに木屑が飛び散る。
数分間の暴虐の末、内側から怯えと怒りの混ざった甲高い悲鳴が響き、ガチャリと鍵が外れる音がした。
ユリウスは肩で扉を押し開け、部屋の中へと雪崩れ込んだ。
「何ですの、真夜中に! 気でも狂いまして――」
扉の向こうで待ち構えていたティファーヌが、罵声を浴びせかけようと口を開いた瞬間、ユリウスはその細い両肩を力任せに鷲掴みにし、部屋の奥の巨大な天蓋付きベッドへと乱暴に突き飛ばした。
「きゃあああっ!?」
シーツの上に倒れ込んだティファーヌ。
だが、ユリウスの血走った瞳が捉えたのは、部屋の中に広がる異様な光景であった。
床の上には、何杯もの大きな旅行用革トランクが口を開けて転がっていた。
衣装棚から引きずり出された最高級の絹のドレス、白貂の毛皮、そして――昼間に借金取りのバランたちから必死に隠しおおせたのであろう、金細工の小箱にぎっしりと詰め込まれたダイヤモンドやエメラルド、サファイアの首飾りや指輪の山。
ティファーヌは、それらの貴金属をトランクの底へと狂ったように詰め込んでいる最中だったのだ。
「……何をしているんだ、お前は」
ユリウスの声は、恐ろしいほど低く、冷え切っていた。
「逃げる準備か? あの大金庫から奪った貴金属と、我が家のツケで買い漁った宝石を持って……この私を見捨てて、一人で王都へトンズラするつもりだったのか!?」
「な、何を馬鹿なことを仰っているのよ!」
ティファーヌはベッドから起き上がり、乱れた金髪をかき上げながら、鋭利な爪を立てるように叫び返した。
「借金取りに奪われないよう、わたくしが安全な場所へ保管しようとしていただけですわ! それより、夜会はどうなりましたの!? 大貴族の方々から、金貨五千枚……いえ、一万枚の融資を取り付けてこられたのでしょうね!?」
「融資だと……?」
ユリウスの唇が、引き攣った歪な笑いを刻んだ。
彼は大股でベッドへと歩み寄ると、床に転がっていたトランクを力任せに蹴り飛ばした。
ガシャァンッ!!
トランクがひっくり返り、詰め込まれていた宝石箱が床に散乱し、色鮮やかな宝石の粒が絨毯の上に無残にばら撒かれる。
「きゃあっ! わたくしの宝石が!!」
「融資など、一文たりとも出るわけがないだろうがぁッ!!」
ユリウスの絶叫が、寝室の天井を突き破らんばかりに響き渡った。
彼はティファーヌの胸元に掴みかかり、その派手なネグリジェの襟首を締め上げるように引き寄せた。
「門前払いだ! 虫けらのように嘲笑われ、貧乏神だと唾を吐きかけられたわ! 我が領地が破滅したことも、麦が枯れたことも、街道が魔獣に呑まれたことも、すべて王都中に知れ渡っていたんだよ! そしてな……お前が金貨数千枚ものツケで豪遊し、私に借金を重ねさせたことも、社交界の全員が知っていたぞッ!!」
「く、苦しい……! 離しなさいよ、この狂人!!」
ティファーヌは爪を立て、ユリウスの手首を激しく引っ掻いた。
皮膚が裂け、血が滲むが、ユリウスの手の力は緩まない。彼の瞳には、地獄の底から這い上がってきた亡者のような怨嗟が煮えたぎっていた。
「お前だ……! お前が、全部悪いんだ、ティファーヌ!!」
ユリウスは唾を撒き散らしながら、顔を数十センチの距離まで近づけて怒鳴り散らした。
「あの夜会の日……お前が私に擦り寄ってきたんだろうが! 『お姉様は地味で、領地にふさわしくない』『わたくしこそがユリウス様の隣にふさわしい』と、甘ったるい声で私を唆したな!? エリアーナを追い出せと、あいつとの婚約を破棄しろと、裏で手を回して私を操ったのはお前だッ!!」
「は……はぁぁぁッ!?」
ティファーヌは痛みに顔を歪めながらも、負けじとヒステリックな金切り声を張り上げた。
「何を被害者面していらっしゃいますの、この卑怯者が!! 唆したですって!? ふざけないでちょうだい! 『愛嬌のない地味女などうんざりだ、お前のような美しい花こそが私の伴侶だ』って、鼻の下を伸ばしてわたくしを口説いてきたのは、他ならぬ貴方の方じゃないのよ!!」
「黙れッ!! お前が……お前がエリアーナの仕事を奪うような真似をしたからだ! あいつが! エリアーナが、この領地のすべてを支えていたんだぞ!!」
ユリウスの叫び声に、ティファーヌは一瞬だけ目を剥いた。
だが、次の瞬間、その口から漏れ出たのは、嘲笑と軽蔑の混ざった毒々しいせせら笑いであった。
「……何よ、今さらお姉様の名前を出すなんて。みっともないにも程がありますわ! あんな地味で冴えない出来損ない、実家にいた頃からわたくしの引き立て役しか能のなかった女じゃありませんの!」
「出来損ないだと!? 貴様、何も知らんのかッ!!」
ユリウスはティファーヌを乱暴にベッドの上へと押し倒し、床に散らばる宝石を踏み躙りながら絶叫した。
「夜会で聞いてきたんだよ! アルジェント帝国で、いま何が起きているかをな! あいつは……エリアーナは、国境の樹海を越えて帝国の大公城へ行き、あの『白銀の古代樹』を満開に咲かせたんだ! 城全域に神話級の結界を張り、不毛の荒野を一瞬で肥沃な穀倉地帯へと変え、『天から舞い降りた奇跡の聖女』として国中から崇拝されているんだぞッ!!」
「…………え?」
ティファーヌの顔から、一瞬にして表情が抜け落ちた。
息が、喉の奥で止まる。
「せ……聖女……? お姉様が……?」
「そうだ! あの『氷の魔将』クロード大公が、あいつに骨抜きにされて主寝室に囲い込み、ドレスを何百着も買い与え、騎士団長も天才魔導士も公爵令嬢も、全員があいつの足元に傅いているんだ! あいつが持っていた力は……誰にでもできる雑用なんかじゃなかった! 国家の命運を一人で左右する、正真正銘の神業だったんだよ!!」
ユリウスは自らの乱れた髪を掻きむしり、狂気じみた形相で叫び続けた。
「うちの庭園の薔薇が枯れたのも、麦が全滅したのも、結界石が粉々に砕け散ったのも……全部、あいつが手を引いたからだ! あいつが一人で、その命を削って領地のすべてを維持していたんだ! それを……それを、この役立たずの寄生虫が! 中身のない見栄っ張りのお前が、あいつを追い出すように仕向けたせいで、我がロシュ侯爵家は破滅したんだぁぁぁッ!!」
突きつけられた衝撃の真実。
実の姉が、隣国の最高権力者に愛され、奇跡の聖女として君臨しているという現実。
幼い頃から常に「出来損ない」「引き立て役」と見下し、実家でもこの屋敷でも、都合のいい雑用係として踏み躙り続けてきたあのエリアーナが、自分など足元にも及ばない雲の上の至宝として輝いている――。
その事実を理解した瞬間、ティファーヌの胸の中で弾けたのは、反省でも後悔でもなかった。
それは――己のプライドを根底からへし折られたことに対する、猛烈な嫉妬と、狂乱の怒りであった。
「嘘よ……嘘よ、嘘よ、嘘よぉぉぉッ!!」
ティファーヌはベッドを蹴り、獣のように飛び起きてユリウスの胸元へと突進した。
「そんな嘘に騙されて、わたくしに責任を押し付けるんじゃないわよ!! あのお姉様にそんな力があるはずないでしょう!? あんな陰気で、愛嬌もなくて、男の機嫌一つ取れない女が聖女ですって!? 笑わせないでよ! どうせ他国の男を誑かすために、妖術か呪いでも使ったに決まってるわ!!」
ティファーヌの両手が、ユリウスの顔面へと伸びた。
鋭利に尖らせた爪が、ユリウスの頬と首筋を容赦なく引き裂く。
ブチィッ、と肉の裂ける鈍い音が響き、ユリウスの頬から鮮血が吹き飛んだ。
「ぐわぁっ!? 貴様、何をするッ!!」
「離しなさい! 全部、貴方のせいじゃないの!!」
ティファーヌは狂気じみた形相で、ユリウスの髪を引っ張り、首を絞め上げようと組み付いた。
「『俺の実力だ』って威張っていたのは誰よ!? 決算書を広げて『私の類稀なる指導力のおかげで領地が栄えている』って、偉そうに胸を反らせていたのは貴方でしょうが!! お姉様がやった仕事を自分の手柄にして、社交界でいい気になっていたのは貴方じゃないの!!」
「ぐっ……お前だって、それに乗っかって贅沢を貪っていただろうがッ!!」
「わたくしは騙された被害者よ!!」
ティファーヌは唾を吐きかけながら絶叫した。
「貴方が本当に優秀な次期侯爵だと思ったから、婚約者になってあげたんじゃないの! 蓋を開けてみれば、帳簿の数字一つ読めない、結界も直せない、金庫を空っぽにして借金取りに怯えるだけの、ただの無能な張り子の虎じゃないの!! 男の風上にも置けない、役立たずのゴミ屑野郎!!」
「黙れ、黙れ、黙れぇぇぇッ!!」
ユリウスは逆上し、手にした拳を力任せに振り抜いた。
ドガァッ!!
鈍い打撃音が響き、ティファーヌの華奢な身体が吹き飛んで、ドレッサーの巨大な三面鏡へと激突した。
ガッシャァァァンッ!!
鏡が粉々に砕け散り、鋭利なガラスの雨がティファーヌの背中と肩へと降り注ぐ。
深緑のベルベットドレスが裂け、白い肌から血が滲み出た。
「きゃあああああっ!!」
ティファーヌが悲鳴を上げて床を転がる。
だが、ユリウスの手は止まらなかった。
彼は血に塗れた手でティファーヌの髪を掴み上げ、床に引きずり倒した。
「誰が役立たずだ! 誰が張り子の虎だ! お前のような毒婦、今日限りで婚約破棄だ! この屋敷から叩き出してやる! 一文の持参金も、服の一枚も持たせずに、街道の魔獣の前に放り出してやるぞッ!!」
「や、やめなさいよ! 触らないで、人殺し! 狂人!!」
ティファーヌは床に落ちていた重厚な銀の燭台を手探りで掴むと、ユリウスの側頭部へ向けて力任せに振り下ろした。
ガコォンッ!!
「ぐあぁっ!?」
頭蓋を鈍器で殴打された衝撃に、ユリウスの視界が真っ白に明滅した。
手の力が緩み、ユリウスはその場に前のめりに倒れ込む。
額からタラリと生温かい血が流れ落ち、床の絨毯を赤黒く染めていく。
「ハァ……ハァ……ハァ……ッ!」
ティファーヌは燭台を放り出すと、破れたドレスをかき抱き、這うようにして後ずさった。
床に倒れ伏し、呻き声を上げるユリウス。
その姿を見下ろすティファーヌの瞳には、もはや怒りすら通り越した、氷のような冷酷さと、底知れない嫌悪感だけが張り付いていた。
「……最低よ」
ティファーヌは血の混ざった唾を床に吐き捨てた。
「全部、おしまいよ。……領地も、屋敷も、貴方も……全部、おしまいだわ」
床で血を流すユリウスは、かすむ視界の中で、歯を食いしばりながら呻くように声を絞り出した。
「……迎えに……行く……」
「……は?」
「エリアーナを……迎えに行くんだ……」
ユリウスは床を爪で引っ掻き、狂気じみた執着の光を目に宿らせて呟いた。
「あいつは……私の婚約者だったんだ……。あいつは、私を愛していた……。私が直々に帝国へ迎えに行けば……あいつは泣いて喜んで、戻ってくるに決まっている……。戻ってきたら……お前のような女は、二度と敷居を跨がせないからな……ッ!」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、ティファーヌの唇から、乾いた冷笑が零れ落ちた。
「……ふっ、あっはははは! 迎えに行くですって? エリアーナお姉様が、貴方みたいな無様な負け犬の元へ戻ってくるわけがないでしょうが! 本当に……最後まで頭の湧いた、哀れな男ね」
ティファーヌはもはやユリウスを相手にすることすらやめ、足元に散らばる宝石の小箱へと手を伸ばした。
ユリウスは意識が朦朧とするなかで、よろよろと立ち上がると、自らの血で汚れた額を押さえながら、千鳥足で部屋を出て行った。
自室へ戻り、痛む傷の手当てをするのか、あるいは酒に逃げ込むのか。
ドタン、バタンと遠ざかる足音が、廊下の闇の向こうへと消えていく。
◇
深夜二時。
ロシュ侯爵邸は、死に絶えたかのような完全な暗闇と静寂に包まれていた。
風の音すら途絶え、屋敷の周囲からは、遠く原生林から響いてくる魔獣たちの遠吠えだけが、微かに夜気を震わせている。
主賓客室の鍵が、音もなく内側から開けられた。
ギィ……と微かな軋み音を立てて扉の隙間から現れたのは、黒いフード付きの厚手の外套を目深く被った人影――ティファーヌであった。
その顔には、先ほどの狂乱の面影はどこにもなかった。
鏡の破片で切った頬や肩の傷には包帯が巻かれ、その瞳には、自分の身を守ることだけを最優先にした、冷徹で計算高い光がギラギラと宿っていた。
彼女の両手には、二つの重厚な革トランクが握られていた。
中には、借金取りの目を盗んで隠し持っていたロシュ侯爵家の家宝の貴金属の数々、そして先日ツケで手に入れたばかりのサファイアの首飾りやエメラルドの指輪、ダイヤモンドのティアラ――換金性の高い宝石類が、ぎっしりと隙間なく詰め込まれていた。
持ち出せるだけの富のすべて。
(こんな沈みかけの泥舟に、いつまでも付き合っていられるわけがないわ)
ティファーヌは唇の端を吊り上げ、冷酷に息を吐き捨てた。
(三日後には借金取りが屋敷を差し押さえに来るのよ。あの無能なユリウスと一緒にいたら、わたくしまで借金の形に売り飛ばされてしまうわ。……あんな男、どうなったって知ったことじゃない。この宝石さえあれば、王都へ逃げて、新しい大貴族のパトロンを見つけることなんて造作もないわ)
足音を殺し、薄暗い大廊下を進む。
一階のエントランスホールを通り抜け、裏口の勝手口へと向かう。
屋敷の裏手には、かつて御者たちが使っていた古い小さな馬車が一台、放置されていた。馬小屋に残っていた最後の老馬を一頭繋ぎ、手綱を握る。
かつて、エリアーナがこの屋敷を出て行った夜。
彼女は亡き母の形見の小さなペンダント一つと、わずかな銀貨だけを小さな鞄に詰め、身一つで静かに去っていった。
しかし――今、この屋敷から逃げ出そうとしているティファーヌの両手には、他人の家から盗み出した、血塗られた強欲の宝石の山が握られていた。
ガタゴトと、小さな音を立てて馬車が動き出す。
勝手口の門を抜け、夜の闇に沈むロシュ侯爵邸の敷地を離脱する馬車。
ティファーヌは一度だけ振り返り、死んだように暗い本邸のシルエットを見下ろした。
二階の執務室の窓には、微かな蝋燭の火が揺れていた。あの部屋で、ユリウスはいま頃、額から血を流しながら、一人で悪夢に怯えているのだろう。
「さようなら、無能なユリウス様。……せいぜい、あの地味なお姉様の幻影に縋り付いて、惨めに破滅なさいな」
ティファーヌは嘲笑を漏らすと、容赦なく馬の尻に鞭を当てた。
馬車は速度を上げ、王都へと続く街道――いまや結界が砕け散り、飢えた魔獣の群れが獲物を待ち構える「死の暗闇」へと向かって、一直線に疾走を始めた。
己が向かう先にあるものが、輝かしい王都の社交界などではなく――自らの強欲が生み出した、最も過酷で救いようのない「破滅の牙」であることにも気づかずに。
泥沼の責任転嫁の果てに、二人の道化の絆は完全に崩壊した。
そして――逃亡した妹を待ち受ける、恐るべき因果応報の罠が、闇の中で静かに口を開けていたのである。




