第35話:帝国の奇跡の聖女
パリン、と。
乾いた硬質な破砕音が、大広間の片隅で甲高く響き渡った。
手から滑り落ちたクリスタルグラスは、冷たい大理石の床に激突して粉々に砕け散り、濁った安ワインの飛沫が、ユリウスの履き古した革靴とズボンの裾を血糊のように赤黒く濡らしていた。
だが、ユリウス・ド・ラ・ロシュは、足元を見下ろすことすらできなかった。
指先の一本すら動かない。
全身の血液という血液が、頭頂部から足の爪先に向けて一瞬にして急速冷凍されたかのように、呼吸器すら凍りついて息を吸うことすら叶わなかった。
視界が、ぐらりと回転する。
頭蓋の奥で、猛烈な耳鳴りがキィィィンと甲高く鳴り響き、周囲の華やかな管弦楽のワルツが遠い異国の音のように霞んでいく。
(……な、んだと……?)
耳朶の奥底に、いま耳にした単語が、呪詛の烙印のように焼き付いて離れなかった。
――エリアーナ・ヴァン・ベルク。
聞き間違いだ。そうに決まっている。
空耳だ。過労と心労と、借金取りに追われる極度の恐怖によって、己の脳髄が都合の悪い幻聴を作り出したのだ。
そうに決まっている、そうでなければ辻褄が合わない。
ユリウスはガタガタと震える手で自らのこめかみを強く圧迫し、アーチ窓の影に立つ外務卿の側近たちへ向けて、血走った眼差しを向けた。
給仕台の影で、他国の情勢を密談していた貴族たちは、グラスを割ったユリウスの無様な姿に一瞥だけ軽蔑の視線を投げかけると、何事もなかったかのように会話を続けていた。
落ちぶれた侯爵令息の粗相など、彼らにとっては足元の虫が跳ねた程度の一幕に過ぎなかったのだ。
彼らの関心は、いまや大陸全土を揺るがしつつある、北方の軍事超大国――アルジェント帝国の劇的な異変の真相にのみ注がれていた。
「……間違いなく、ヴァン・ベルク家の長女だと報告が上がっているよ。王国の北端の関門を徒歩で抜け、国境の樹海を越えて帝国へと渡ったそうだ」
外務卿の側近である壮年の子爵が、懐から取り出した羊皮紙の報告書を指先で弾きながら、低く興奮を孕んだ声で語る。
「信じがたい話だが、帝国側の公式発表と、我が王国の密偵が持ち帰った複数の証言が完全に一致している。……あの極寒のアルジェント帝国において、建国以来三百年もの間、誰一人として蘇生させることが叶わず、今冬には完全に枯死すると宣告されていた御神木『白銀の古代樹』……。それが、彼女が中庭に足を踏み入れ、幹にそっと手を触れた途端、何の前触れもなく一瞬にして満開の白銀の花を咲かせたのだそうだ」
「馬鹿な……! あの古代樹といえば、歴代の大公たちですら手入れを諦めたという伝説の霊木ではないか! 帝室の筆頭魔導士団が総掛かりで儀式を行っても、ピクリとも反応しなかったと聞くぞ!?」
聞き役の伯爵が、目を丸くして身を乗り出す。
「ああ、その通りだ。だが、奇跡は古代樹の開花だけに留まらなかった。……古代樹の覚醒に伴い、大公城全域に神話の時代にしか存在しなかったとされる『絶対浄化結界』が完全に再展開されたのだ。城壁の防御強度は十倍以上に跳ね上がり、外部からのいかなる呪詛も、魔獣の侵入も許さぬ難攻不落の神域へと姿を変えた」
「な……神話級の結界だと……!?」
「それだけではないぞ」
子爵はさらに声を潜め、畏敬の念に声を震わせた。
「古代樹の根を通じて、帝都全域の大地へと奇跡の霊脈が流れ込んだのだ。……年中凍てつき、痩せ細って作物が育たなかった城下の穀倉地帯が、一夜にして黒々とした極上の黒土へと変貌を遂げた。冷害で立ち枯れかけていた麦や野菜が目に見える速度で息を吹き返し、収穫期を前にして、帝国の歴史上かつてない規模の空前の大豊作がもたらされたのだ。……いまや帝都の民は、飢餓の恐怖から完全に解放され、あのお方を『天から舞い降りた豊穣の聖女』と讃え、神殿に肖像画を掲げて祈りを捧げているそうだ」
「お、おいおい……それは本当なのか? まるで、創世神話の女神の顕現ではないか……!」
「嘘をついてどうする。帝国全土の商業ギルドがその恩恵に沸き返り、穀物の輸出入相場が根底から覆っているのだ。……だが、真に社交界を震撼させているのは、帝国の要人たちの変わりようだよ」
子爵の唇に、信じられないものを見たかのような微かな笑みが浮かぶ。
「あの『氷の魔将』……血も涙もなく、他国の軍勢ごと大地を凍土へと沈める歩く天災と恐れられたクロード大公が、だ。……彼女を国境の樹海で自ら出迎えて以来、片時も傍を離れず、自らの主寝室に囲い込んで、まるでこの世の至宝を愛でるように骨抜きにされているというのだ」
「あの大公閣下が……!? 他国のいかなる美女の誘惑にも眉一つ動かさず、感情を殺して剣を振るい続けてきた、あの冷酷無比な男が……!?」
「ああ。帝都の一流仕立屋を数十人呼び出し、城のドレス部屋をまるごと買い占めて数百着の衣装を即金で買い与え、食事の一口にまで甲斐甲斐しく付き添い、彼女が少しでも眉を下げれば世界中から甘い菓子や果実を取り寄せて甘やかし尽くしているそうだ。……噂では、他国の使節との公式謁見ですら、彼女を自らの膝の上に抱き上げたまま応対しかねないほどの狂乱ぶりだとか」
「ひ、膝の上に……!? あの氷の死神が、大型犬のようにデレデレだと……!?」
「それだけではないぞ。あの女性嫌いで有名な近衛騎士団長バスティアンが、壊れかけた愛剣を彼女に直してもらい、膝をついて絶対の忠誠を誓って専属の護衛を志願している。傲慢不遜で誰にも頭を下げなかった天才魔導士ニコラ少年は、術式の誤りを優しく添削されて大号泣し、彼女を『お姉さま』と呼んで懐き、周囲を警戒して威嚇している。さらに、あの気位の高い社交界の女王、コンスタンス・フォン・ヴァルハイト公爵令嬢までもが、ドレスの留め具を直してもらったことに激しく感動し、親友宣言をして『大公妃殿下親衛隊』を結成したそうだ」
「な……なんなのだ、その帝国の中枢は……! 軍事、魔導、貴族社会の頂点が、全員揃ってその女性の虜になっているではないか……!」
「そうとも。いまやアルジェント帝国において、彼女の言葉一つで動かせぬ国家機関など存在しない。……美貌と神話の奇跡を兼ね備え、冷酷な公爵に狂おしいほど溺愛され、国のすべてを従える至高の聖女……。それが、いま隣国で誕生した『奇跡の大公妃』の全貌だよ」
「…………」
給仕台の影で、その会話のすべてを一言一句漏らさず耳にしていたユリウスの身体は、もはや人間のそれとは思えないほど激しく痙攣していた。
ドクンッ!! ドクンッ!!
心臓が、肋骨を内側から叩き壊さんばかりの勢いで暴れ回っている。
全身の皮膚から、脂汗が滝のように噴き出し、喉の奥がカラカラに乾いて張り付き、呼吸がヒクヒクと浅く途切れる。
(嘘だ……嘘だ、嘘だ、嘘だぁぁぁッ!!)
脳内で、狂気じみた絶叫がこだまする。
(ありえない! そんなことがあってたまるか! 同姓同名の別人だ! 王国内に、たまたま同じ『エリアーナ』という名を持つ、強力な古代魔導士の血筋の令嬢がいただけだ! そうでなければ説明がつかないだろうがッ!!)
激しい現実逃避の波が、ユリウスの理性を無理やり麻痺させようとする。
そう思わなければ、立っていられなかった。
精神が耐えきれずに破裂してしまう。
だって、そうではないか。
あいつは――自分の知るエリアーナは、いつだってすり切れた灰色の木綿ドレスばかりを着ていた、薄汚れた女だったではないか。
化粧っ気もなく、髪はただ後ろで小さく束ねられ、肌は青白くやつれ、愛嬌のある笑みの一つも浮かべられず、ただ黙々と執務室の机にかじりついて数字の帳尻を合わせていただけの、陰気な雑用係だったではないか。
そんな女が。
枯れ果てた樹齢三百年の御神木を満開にし?
大公城全域に神話級の結界を張り巡らせ?
不毛の荒野を豊かな黒土に変えて大豊作をもたらし?
大陸最強の「氷の魔将」を骨抜きにし、最高級のドレスを何百着も買い与えられ、騎士団長や天才魔導士や公爵令嬢から崇拝される「奇跡の大公妃」になっている……などと。
そんな荒唐無稽な御伽噺が、この世にあっていいはずがない。
もしそれが真実であるならば――。
もしその「奇跡の聖女」が、他ならぬあのエリアーナ本人であるとするならば――。
あの建国記念夜会で、彼女を「地味で何の能もない雑用係」と嘲笑い、大広間の真ん中でゴミのように切り捨てた自分は、一体何だったというのか。
中身のない妹ティファーヌの美貌に目を奪われ、宝石カタログの請求書に怯え、借金取りに屋敷を荒らされ、領民を血祭りに上げて破滅の淵に立たされている自分は――。
世界で一番愚かで、救いようのない、目玉の腐った大馬鹿者だったということになってしまうではないか!!
「ぐ……っ、あ……ぅ……っ」
ユリウスは自らの喉元を掻きむしった。
否定したい。否定しなければ、己の魂が崩壊する。
――しかし。
彼の意志とは裏腹に、ここ数日間に領地で起きたすべての出来事が、残酷なパズルのピースのように、ガチリ、ガチリと音を立てて脳内で噛み合っていった。
『前の奥方様が……エリアーナ様が、触れるだけで咲き誇っていたのです!』
――老庭師長が、泥にまみれて叫んだあの言葉。
エリアーナが去った途端に、一夜にして黒く腐り果てた自慢の薔薇園。
『これは古代魔法の構造を極限まで効率化した神業です! 一人の規格外の術者が、奇跡的なバランスで維持していたのだ!』
――王都魔導士ギルドの重鎮、一級魔導士ガストンが、青ざめて匙を投げたあの結界石の残骸。
エリアーナが去った途端に粉々に砕け散り、魔獣の群れが街道を呑み込んだあの大防壁。
『土が死んじまってる……! あんなに肥沃だった土が、灰みたいにパサパサだ……!』
――領民たちが絶望して泣き叫んだ、収穫直前に全滅した黄金の麦畑。
エリアーナが去った途端に、二度と作物を実らせなくなったロシュ侯爵領の大地。
そして――何より。
あの建国記念夜会で、去り際に彼女が静かに放った、あの決定的な一言。
『――私がこれまで領地にかけていた「ささやかな付与魔法」は、すべて解除して出ていきますね。これからはお二人で頑張ってください』
パチン、と。
彼女が胸の前で指を鳴らした、あの澄んだ音。
シャンデリアが翳り、薔薇が萎れ、ワインが泥水のように濁った、あの世界の反転。
「あ…………」
ユリウスの口から、魂の抜けたような掠れた息が零れ落ちた。
すべてだ。
すべてが、符合する。
言い逃れの余地など、欠片ほども存在しない。
ロシュ侯爵領の庭園を咲かせていたのも、
結界を維持して魔獣を阻んでいたのも、
大地を肥沃にして豊かな収穫をもたらしていたのも、
そして――極寒のアルジェント帝国でいま起きている奇跡の数々も。
すべて、あの少女――エリアーナ・ヴァン・ベルクの手によるものだったのだ。
彼女の【万物最適化】。
触れたもののポテンシャルを強制的に極限まで引き出し、限界突破させるという、神話の領域の異能。
彼女自身が「誰にでもできる雑用」だと思い込んでいたその力は、誰にでもできるどころか、世界中の魔導士が束になっても敵わない、国家の繁栄そのものを司る「唯一無二の神の御手」だったのだ。
それを。
この自分が。
このユリウス・ド・ラ・ロシュが。
『君のような地味な女は愛せない』と嘲笑い、
『領地の繁栄に何一つ貢献しなかった無能』と罵倒し、
見目だけが良い実務能力ゼロの妹ティファーヌに乗り換え、
身一つで屋敷から追い出したのだ。
「う……あ……ぁぁぁ……っ!!」
ユリウスの膝から、完全に力が抜けた。
ドスン、と鈍い音を立てて、彼は砕け散った硝子の破片と、ワインの染みる泥水の上へと両膝を突いた。
破片がズボンの生地を突き破り、膝の皮膚に食い込んで鋭い痛みが走る。
だが、その肉体の痛みなど、胸の奥底で爆発した「底知れない喪失感」と「自業自得の恐怖」に比べれば、羽毛で撫でられた程度にも感じられなかった。
失ってしまったものの巨大さ。
自分が手放してしまったものの、途方もない価値。
もし、あのままエリアーナを大切に遇していれば。
彼女に労いの言葉をかけ、正式に妻として迎え、その奇跡の力を敬っていれば。
ロシュ侯爵領は、いま頃王国で最も栄華を極める楽園となり、自分は神の聖女を娶った稀代の名君として、大陸全土にその武名と富を轟かせていたはずだったのだ。
それなのに。
残されたのは、何か。
空っぽの金庫。
崩壊した結界。
全滅した麦畑。
反乱の火種を燃やす飢えた領民たち。
山積みの借用証書と、三日後に迫る屋敷の差し押さえ。
そして――自分を「役立たず」と罵倒し、花瓶を投げつけて部屋に閉じこもる、強欲で中身のない妹。
「あいつが……あいつが、聖女……? あんな地味な女が……帝国の……大公妃……!?」
ユリウスの瞳に、狂気の光がギラギラと渦巻き始めた。
ガチガチと前歯を鳴らし、自らの乱れた金髪を両手で力任せに引きむしる。
周囲の貴族たちが、給仕台の影で膝をついて痙攣しているユリウスの異様な姿に気づき、眉をひそめて囁き交わしているのが視界の端に映る。
だが、今のユリウスには、周囲の嘲笑など目に入っていなかった。
恐怖。
後悔。
屈辱。
そして――それらを遥かに凌駕する、底知れない「現実の拒絶」と、歪みきった「執着」の炎が、彼の壊れかけた脳髄の中で、禍々しく燃え上がり始めていた。
(違う……! あいつは、私のものだ……! エリアーナは、我がロシュ侯爵家の婚約者だったのだぞ……!)
血走った瞳が、虚空を睨み据える。
(三年もの間、私の屋敷で、私のために働いていた女だ! あいつの力は、私の領地のためにこそ振るわれるべきものだ! 他国の公爵ごときが、横から掻っ攫っていいはずがないだろうがッ!!)
反省ではない。
謝罪でもない。
窮地に追い詰められた愚者が行き着いたのは――どこまでも己に都合の良い、救いようのない「特大の勘違い」であった。
(そうだ……エリアーナは、私を愛していたはずだ。あんなに文句も言わず、健気に私のために尽くしていたのだから、私に未練がないはずがない! あの婚約破棄だって、私が少し感情的になって言い過ぎただけだ! 私が迎えに行けば……この私が直々に頭を下げて、『許してやるから戻ってこい』と優しく抱きしめてやりさえすれば……あいつは泣いて喜んで、私の胸に飛び込んでくるに決まっている!!)
狂気の笑みが、ユリウスの歪んだ唇の端に、じわりと浮かび上がった。
そうだ。
エリアーナを連れ戻せばいいのだ。
帝国へ行き、あの冷酷公爵の手から彼女を奪い返し、再びこの領地へ連れて帰ってくればいい。
そうすれば、結界は元通りになり、麦畑は蘇り、ワインは金を生み、借金など一瞬で帳消しになる。
自分は再び、富と権力をほしいままにする偉大な領主へと返り咲くことができるのだ。
「ハ……ハハッ……! そうだ、そうに決まっている……!」
ユリウスは膝の破片を払い、よろよろと立ち上がった。
唇から垂れる血を手の甲で乱暴に拭い、大広間の出口へと向けて、憑き物でも憑いたような足取りで歩き始める。
背後から浴びせられる貴族たちの嘲笑など、もはや彼の耳には届いていなかった。
彼が見つめていたのは、遥か北――アルジェント帝国の空。
自らを破滅から救い出してくれるはずの「都合のいい奇跡」を取り戻すための、最後の妄執。
しかし――ユリウスは、まだ何も知らなかった。
屋敷に残してきた妹ティファーヌが、いまこの瞬間、彼を奈落の底へと突き落とす「最悪の裏切り」を企てているということを。
そして――彼が「迎えに行けば喜んで戻ってくる」と信じ込んでいるエリアーナの隣には、大陸最強のスパダリ公爵が、獲物を八つ裂きにするための絶対零度の刃を研ぎ澄ませて待ち構えているということを――。




