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第34話:社交界での孤立

王都の中心にそびえる豪奢なヴィルヘルム公爵邸の大広間は、無数の魔導シャンデリアが放つ黄金色の光彩と、華やかな管弦楽の調べに満ちあふれていた。


磨き上げられた大理石の床には、最高級のシルクやベルベットを纏った貴婦人たちの鮮やかなドレスが花園のように広がり、仕立ての良い燕尾服を着た紳士たちが、クリスタルグラスを傾けながら談笑に興じている。

天井画には神話の神々が戯れ、給仕たちは銀のトレイに載せた極上のシャンパンや色鮮やかなオードブルを運んで回る。

富と権力、そして虚栄と名声が集う、王都社交界の夜会。


わずか十数日前――あの建国記念の夜会において、ユリウス・ド・ラ・ロシュが世界の中心に立ち、傲慢に胸を反らせてエリアーナを切り捨てたあの場所と、寸分違わぬ煌びやかな世界がそこにあった。


しかし――大広間の入り口の巨大なアーチ扉の脇、巨大な円柱の影に身を潜めるようにして立ち尽くしていたユリウスの境遇は、あの日とは天と地ほどに様変わりしていた。


「……くそっ……なぜだ、なぜこんな目で見られなければならないんだ……」


ユリウスは震える指先で、自らの上着の襟元をぎゅっと引き締めた。

身に纏っているのは、かつて彼が最も気に入っていた濃紺の夜会服だった。だが、仕立てこそ一流であるものの、借金取りの傭兵たちに館を荒らされた際に床へ投げ飛ばされたせいで、生地のあちこちに細かい皺が寄り、肩口の金糸の刺繍は擦り切れて解けかけている。

無精髭の生えかけた頬には、ティファーヌに投げつけられた花瓶の破片による生々しい切り傷が、赤黒い瘡蓋となって痛々しく残っていた。

目の下には墨を塗ったような深い隈。

徹夜と恐怖、そして飢えに近い極度の衰弱によって痩せこけたその姿は、かつて「社交界の若き貴公子」と持て囃された面影など微塵もなく、まるで夜の宴に紛れ込んだ亡霊のように惨めであった。


なぜ、こんな屈辱的な姿を晒してまで、王都の夜会へと足を運んだのか。

理由は、ただ一つしかなかった。


――「資金援助」である。


領地の鉱山は止まり、ワインは全滅し、麦畑は枯れ果て、街道は魔獣に封鎖されて税収は完全なゼロ。

地下金庫は空っぽで、商業ギルドや高利貸しからの借金取り立ての期限は、残り三日を切っていた。

このままでは、ロシュ侯爵家の本邸も領地もすべて差し押さえられ、自分は路頭に迷う物乞いへと転落する。

生き残るためには、かつて父と親交のあった大貴族たちや、社交界で親しく言葉を交わしていた有力諸侯たちに頭を下げ、何としてでも数千枚の金貨の融資を取り付けなければならなかったのだ。


「私には……まだロシュ侯爵家の看板がある。父上の代からの人脈があるんだ。事情を説明し、一時的な不運だと話せば、手を差し伸べてくれる有力者が一人や二人はいるはずだ……!」


己にそう言い聞かせ、乾ききった唇を舐めた。

ユリウスは呼吸を整え、精一杯の「かつての傲慢な貴公子」の笑みを顔に貼り付けると、円柱の影から大広間の中心へと足を踏み出した。


カツン、カツンと、大理石の床を踏みしめる靴音。

目指すのは、広間の中央でワイングラスを手に談笑していた、父の代からの知己であるベルンハルト伯爵の一団だった。王国西部の交易を牛耳る富裕な大貴族であり、過去には何度もロシュ侯爵家と共同で投資を行ってきた間柄である。


「べ、ベルンハルト伯爵閣下! ご無沙汰しております、ユリウスでございます!」


ユリウスは努めて朗らかな声を張り上げ、深く一礼した。

かつてのように、親しげに肩を叩き合い、美酒を酌み交わしてくれるはずだと信じて顔を上げた、その瞬間――。


「…………」


ピタリと、周囲の会話が途絶えた。

ベルンハルト伯爵は、グラスを口元に運ぼうとしていた手を止め、冷ややかな、虫けらでも見るかのような侮蔑の眼差しをユリウスへと向けた。

そして――何の一言も発することなく、まるで汚らわしい汚泥が足元に跳ね飛んできたかのように、露骨に嫌悪感を露わにして一歩後退したのだ。


「ひ……伯爵閣下……?」


「……失礼。どこの無礼者かと思えば、ロシュ侯爵家の放蕩息子殿か」

伯爵の声音は、氷のように冷淡であった。

「身だしなみも整えられぬ者が、公爵家の神聖な夜会へ紛れ込むとはな。家令は何をしているのだ、物乞い同然の輩を通すなど」


「も、物乞いなどと、滅相もございません! 私は次期ロシュ侯爵、ユリウスですぞ! 閣下、実は少々、我が領地において一時的な資金繰りの都合が生じまして……! 閣下のお力をお借りして、金貨二千枚……いや、千五百枚ほどの短期の融資をいただけないかと――」


「融資だと?」


ベルンハルト伯爵は、鼻でせせら笑った。

その嘲笑を合図にするかのように、周囲を取り囲んでいた諸侯や貴婦人たちの間から、クスクスと忍び笑いの波が広がっていく。


「身の程知らずにも程があるな、ユリウス殿。……貴領の街道が魔獣に蹂躙され、交易路が完全に封鎖されていることなど、王都の貴族で知らぬ者はおらんよ。我が商会の荷馬車も、貴領の不手際のせいで三台全損し、多大な損害を被ったのだ。弁償の請求書をすでに送っているはずだが、まさかそれを棚に上げて、さらなる金を無心しに来たのかね?」


「そ、それは……! 街道の魔獣は、近いうちに必ず討伐いたします! 一時的な事故なのです!」


「一時的な事故、かね?」

別のテーブルから、恰幅のいい侯爵が進み出て、冷笑を浴びせかけた。


「噂では、貴領の畑の麦は一夜にして立ち枯れて全滅し、税収はゼロだそうではないか。さらに、飢えに苦しんで救済を求めた領民たちに対し、私兵を使って暴力で血祭りに上げたと聞く。……領地経営を破綻させ、領民から反乱の火種を焚きつけられているような無能な男に、誰が一文の金を貸すというのだ?」


「なっ……な、なぜそれを……!?」


ユリウスの顔から、完全に血の気が引いた。

領民への武力鎮圧は、昨夜起きたばかりの出来事だ。なぜ、王都の貴族たちがすでにその事実を克明に知っているのか。


「情報が回らぬとでも思ったのかね?」

伯爵夫人の一人が、扇で口元を隠しながら嘲笑の刃を突き刺す。


「商業ギルドも、王宮の財務省も、貴方の愚行には呆れ果てておりますわ。……あの大金庫を空っぽにして借金取りに屋敷を荒らさせながら、新しい婚約者のティファーヌ嬢には金貨数千枚ものドレスや宝石を買い与えていたのでしょう? 身の丈も知らず、毒婦に現を抜かして領地を滅ぼした愚か者……それが社交界における、貴方の現在の評価ですことよ」


「毒婦だと……!? ティファーヌは、私の愛する――」


「愛する、ねえ」

別の令嬢が、クスクスと喉を鳴らした。

「その愛するティファーヌ嬢は、今夜の夜会にお姿が見えませんけれど? 破滅寸前の貴方を放り出して、一人で屋敷に閉じこもっていらっしゃるのかしら? それとも、もう次の金蔓を探しに逃げ出されたのかしらね?」


「ぐっ……お前たち……! 無礼な口を利くな! 我がロシュ侯爵家は、建国以来続く名門ぞ!」


追い詰められたユリウスが、真っ赤になって怒声を張り上げた。

だが、その威嚇は、誰一人として怯ませることはなかった。

返ってきたのは、かつて建国記念夜会でエリアーナに向けられていたものと全く同じ――何百倍もの冷徹さと侮蔑を孕んだ、社交界の総意としての「完全なる拒絶」であった。


「名門だった、過去形ですわね」

「恥を知りなさい。これ以上、見苦しい姿を晒す前に、さっさと立ち去るがよろしいわ」

「近寄らないでくださる? 貧乏神の悪臭がドレスに移ってしまいますわ」


サーッと、潮が引くように。

ユリウスの周囲から、人々が露骨に距離を取っていった。

半径五メートル以内に、誰もいない。

煌びやかな大広間の中心で、着古した夜会服を着て、頬に傷を負った男が、ただ一人――嘲笑と軽蔑の視線の集中砲火を浴びながら、孤立無援の檻の中に閉じ込められていた。


誰も目を合わせない。

声をかけても、背を向けられる。

かつて彼に媚びへつらい、甘い言葉を囁いていた取り巻きの男たちすら、目を逸らして足早に去っていく。


(なぜだ……? なぜなんだ……!?)


ユリウスの膝が、屈辱のあまりガクガクと震えていた。

あの日。

建国記念夜会で、自分がエリアーナを「地味で何の能もない」と罵倒し、婚約破棄を突きつけた時。

周囲の貴族たちは、皆、自分に同調して拍手を送っていたはずではなかったのか。

自分の選択を「英断だ」と讃え、華やかなティファーヌとの婚約を祝福していたはずではなかったのか。


なぜ今、自分だけがこうして泥水を浴びせられ、嘲笑の標的にならなければならないのか。


その疑問に対する答えは、壁際から聞こえてきた、高位貴族たちの容赦ない囁き声の中にあった。


「……まったく、ロシュ侯爵令息の無能ぶりには失笑を禁じ得ないな」

「ええ。彼が領地を誇らしげに語れていたのは、すべてあの前婚約者――エリアーナ嬢のおかげだったというのに」


「…………っ!?」


エリアーナの名が耳朶を打った瞬間、ユリウスの背筋が凍りついた。


「聞いたか? 王都魔導士ギルドのガストン殿が、先日ロシュ領から逃げ帰ってきたそうだぞ」

「ああ、聞いたとも。砕け散った結界石の術式を解析したガストン殿が、青ざめて『あれは神話の領域の術者が一人で維持していた神業だ』と叫んで匙を投げたそうだ」

「庭園の奇跡の薔薇も、極上のワインも、大地の肥沃さも、すべてエリアーナ嬢がその類まれなる手腕と魔力で支えていたのだというではないか」

「それを、己の実力だと勘違いして威張り散らし、あまつさえ『地味で愛嬌がない』と罵って追い出すとはな……」

「稀代の至宝を手放し、中身のない毒婦に現を抜かして領地を破滅させた、救いようのない大馬鹿者よ」


「く……っ、あ……ぁ……」


喉が詰まり、息が苦しくなる。

容赦のない陰口の刃が、ユリウスのプライドを、自尊心を、これまでの人生のすべてを、ズタズタに切り刻んでいく。


知っていたのだ。

社交界の貴族たちは、すでに真実を知っていたのだ。

ロシュ侯爵領の繁栄がエリアーナの双肩にかかっていたことも、彼女を失った途端に領地が瓦解したことも。

そして――自分が犯した過ちが、取り返しのつかない愚行であったということも。


かつて自分が吐いた侮辱の言葉。

『お前のような地味で愛嬌のない女は愛せない』

『領地の繁栄に何一つ貢献しなかった無能』

そのすべての言葉が、巨大なブーメランとなって自らの頭上へと降り注ぎ、己の無能と愚かさを白日の下に晒し上げていた。


「ち、違う……! あいつは……あいつはただの雑用係だったんだ……! 私を陥れるために、何か呪いでもかけて逃げたに決まっているんだ……!!」


声にならない叫びを胸の内で漏らしながら、ユリウスは逃げるように大広間の隅――給仕台の陰へと後退った。

震える手で、卓上に置かれていた安物のワイングラスを引っ掴む。

喉を潤さなければ、胃の中の酸が逆流して吐き出してしまいそうだった。

一気に煽ったワインは、かつてエリアーナが整えていた屋敷の美酒とは似ても似つかない、苦味と渋みだけが舌を刺す、泥水のような味がした。


資金援助など、一文たりとも手に入らなかった。

誰一人として、自分に手を差し伸べてくれる者はいなかった。

残された時間は、あと三日。

金貨一万枚を用意できなければ、自分はすべてを失い、破産者として地獄へ叩き落とされる。


(どうすればいい……? 私は、一体どうすれば……!?)


暗闇の底で頭を抱え、絶望に震えるユリウス。


――その時であった。


すぐ隣のテラスに通じるアーチ窓の元で、他国の情勢に詳しい外務卿の側近たちと、有力諸侯数名が、ひそひそと熱を帯びた声で密談を交わしているのが耳に入ってきた。


「……おい、聞いたか? 北方のアルジェント帝国から届いた、信じがたい凶報……いや、吉報というべきか」

「ああ、帝国全土を揺るがしているという、あの噂だろう?」


「アルジェント帝国」という単語に、ユリウスの耳がピクリと反応した。

極寒の北国。大陸屈指の軍事大国でありながら、年中雪と氷に閉ざされ、不毛の大地が広がる峻烈な帝国。

ユリウスがかつて「あんな野蛮な凍土の国など、我がロシュ領の足元にも及ばぬ」と見下していた隣国である。


「あの『氷の魔将』と恐れられるクロード大公が、数日前、単身で竜を駆って他国から一人の女性を連れ帰ったそうだ」

「ああ、帝都中の仕立屋を買い占め、数百着のドレスを贈って主寝室に囲い込んでいるという、あの話か」

「それだけではないぞ! その女性が城の中庭を歩かれた途端、建国以来三百年間枯れ果てていた御神木『白銀の古代樹』が、一瞬にして満開の花を咲かせたのだそうだ!」


「な……何だと……!? あの古代樹が……!?」

聞き役の貴族が息を呑む。


「それだけではない! 古代樹の開花とともに、大公城全域に神話級の絶対浄化結界が展開され、城下の農地という農地が黒々と肥沃化し、痩せ地だった穀倉地帯が一夜にして空前の大豊作を迎えたというのだ!」

「帝都の民は、あのお方を『天から舞い降りた豊穣の聖女』と讃え、熱狂的な信仰を捧げているらしい」

「さらに、大公直属の近衛騎士団長や宮廷筆頭魔導士、果てはあの気位の高いヴァルハイト公爵令嬢までもが、あのお方に心服し、親衛隊を結成して傅いているとか……」

「まさに奇跡だ。あの冷酷無比な氷の公爵すら骨抜きにし、極寒の帝国を光で満たしたという、絶世の美女……」


会話を聞いていた貴族たちが、ため息混じりに感嘆の声を漏らしていた。


給仕台の影で、その会話を耳にしていたユリウスは、自嘲の笑みを浮かべかけた。

(ふん……馬鹿馬鹿しい。他国の出来過ぎた御伽噺だ。枯れ木に花を咲かせ、結界を張り、作物を実らせる聖女だと? そんな神話のような人間が、現実に存在するはずが――)


そう吐き捨てようとした、まさにその刹那であった。


「……ところで、その奇跡を起こした大公妃候補の女性だが」

外務卿の側近が、周囲を窺うように声を潜め、決定的な一言を口にしたのだ。


「――我が王国の貴族家から出奔された令嬢だという噂だ。確か、名は……エリアーナ・ヴァン・ベルク嬢、と」


ガシャァァァァンッ!!


乾いた、凄まじい破砕音が、給仕台の影に響き渡った。


ユリウスの手から、クリスタルのワイングラスが滑り落ち、大理石の床の上で粉々に砕け散ったのだ。

飛び散った赤ワインが、彼の靴とズボンの裾を血のように濡らす。

だが、ユリウスは足元を見下ろすことすらできなかった。


「…………え?」


呼吸が、止まった。

視界が、ぐにゃりと歪んだ。

全身の毛穴という毛穴から、一瞬にして冷たい汗が噴き出し、心臓が肋骨を突き破らんばかりに狂ったような激痛を伴って乱打し始める。


いま、何と言った?

その男は、いま、何という名を口にした……?


エリアーナ・ヴァン・ベルク。


枯れ木を満開にし。

大公城全域に神話級の絶対結界を張り巡らせ。

不毛の荒野を一瞬にして豊かな穀倉地帯へと変え。

大陸最強の「氷の魔将」を骨抜きにし、国中の要人たちを傅かせているという、天上の聖女。


「エ……エリアーナ……? ま、まさか……あの……あの、地味な女が……!?」


ガチガチと、奥歯が音を立てて激しく打ち鳴らされた。

嘘だ。

嘘だ、嘘だ、嘘だ!!


あんな、すり切れた灰色の木綿ドレスを着て、

愛嬌もなく、俯いて帳簿ばかり弄っていた、

自分が「お前のような地味な女は愛せない」と切り捨てた、あの出来損ないの女が――。


アルジェント帝国で、国を潤す奇跡の大公妃として君臨している……だと……!?


「う……そ……だろ……? エリアーナが……あいつが……!?」


大広間の眩い光の中、砕け散った硝子の破片を踏みしめながら、ユリウス・ド・ラ・ロシュは、生まれて初めて味わう底知れない「戦慄」と「狂気」の深淵に呑み込まれ、ガタガタと震え上がっていた――。

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