第33話:借金取りの包囲網
領民たちを槍と棍棒で血祭りに上げ、門前から力ずくで叩き出したあの忌まわしい夜が明けても、ロシュ侯爵邸に訪れたのは安寧などでは決してなかった。
本邸の大廊下は、真昼だというのに不気味なほど薄暗く、冷え切っていた。
普段であれば、給仕や侍女たちが忙しなく行き交い、床を磨き、暖炉に薪をくべ、主人の目覚めに合わせて温かな紅茶を運んでいたはずの空間。
だが今、磨き上げられていたはずの大理石の床には、前夜の騒動で持ち込まれた泥と靴跡がそのまま乾きつき、埃が白く降り積もっていた。壁に掲げられた銀の燭台は蝋燭が尽きたまま煤け、空気は饐えたカビと冷気の混ざり合った異様な匂いが漂っている。
給与を支払われず、前夜の領民への暴虐を目の当たりにした使用人たちが、夜陰に乗じて次々と屋敷から逃亡したのだ。
銀の食器や僅かな調度品を懐にねじ込み、主人の罵声が届かない闇の中へと消えていった下僕たち。
いまや、この広大すぎる屋敷に残っているのは、逃げ遅れた数名の怯えきった老僕と、自らの破滅から目を背け続ける愚かな主人たちだけであった。
本邸二階の執務室。
ユリウス・ド・ラ・ロシュは、冷え切った暖炉の前の革椅子に埋もれるようにして、虚ろな目で宙を見つめていた。
「……税収が、ゼロ……?」
机の上に放り出された一枚の羊皮紙。
領地の代官たちが命からがら提出してきた、今期の総税収報告書である。
そこに記されていた数値は、ユリウスの目を疑わせるに十分なものであった。
西方鉱山――落盤事故と作業員のサボタージュにより稼働停止。収益ゼロ。
特産品ワイン醸造所――原料葡萄の腐敗と異常発酵により全樽廃棄。損失金貨八百枚。
穀倉地帯――土壌の壊死に伴う小麦の立ち枯れにより収穫皆無。農民からの納税額ゼロ。
幹線街道――魔獣の跋扈による交易路封鎖のため、通行税収入ゼロ。商人ギルドへの違約金金貨千二百枚。
領地を支えていた四本の大黒柱が、文字通り音を立てて同時に圧し折れていた。
収入は完全なる無。
それに対して、日々雪だるま式に膨れ上がる負債と賠償金の利息だけが、秒刻みでロシュ侯爵家の首を絞め上げていく。
「なぜだ……なぜなんだ……! 数ヶ月前まで、我が家は王国有数の富裕な侯爵家だったはずだ……! 領地は栄え、金庫には金貨が唸っていたはずではないか……!?」
ユリウスはガタガタと震える手で自らの頭を抱え込んだ。
無精髭の生えた頬は土気色に淀み、脂汗が顎から滴り落ちる。
栄えていたのではない。
金庫に金があったのではない。
かつてロシュ侯爵領の繁栄と呼ばれていたものの正体は――エリアーナ・ヴァン・ベルクという、たった一人の少女の規格外の異能と、血の滲むような過労によって、崖っぷちで辛うじて維持されていた「奇跡の帳尻合わせ」に過ぎなかったのだ。
彼女が鉱山を整え、土壌を最適化し、ワインの発酵を調和させ、街道の結界を守り、代官たちの不正を暴いて帳簿を締め上げていたからこそ、成り立っていた虚飾の富。
その土台を自らの傲慢で叩き壊し、代わりに中身のない毒婦を招き入れた代償が、いま、一寸の容赦もなく彼を圧し潰そうとしていた。
――その時であった。
ゴオオオオオ……ッ!!
地鳴りのような重々しい車輪の軋み音が、屋敷の前庭から響き渡った。
一台ではない。二台、三台、四台――重厚な鉄の車輪が、手入れの放棄された前庭の敷石を乱暴に踏み砕きながら、本邸の正面玄関前へと次々に滑り込んでくる。
「な……何だ……!? また領民どもか!?」
ユリウスは悲鳴を上げて窓辺へと駆け寄った。
カーテンの隙間から覗き見た彼の瞳に映ったのは、しかし、粗末な農具を手にした飢えた領民たちの姿ではなかった。
黒塗りの、異様な威圧感を放つ巨大な馬車の一団。
その車体には、王都の商業ギルド連合の紋章とともに――裏社会でその名を聞けば泣く子も黙ると恐れられる、王都最大の高利貸し組織「バラン金融商会」の血塗られた天秤の紋章が刻印されていた。
馬車の扉が一斉に開き、中から降り立ってきたのは、豪奢な毛皮の外套を羽織った恰幅のいい商人たち。
そして――その周囲を固めるようにして馬車から吐き出されたのは、革鎧に身を包み、大剣や鉄鎚を下げた、三十人を超える屈強な傭兵や取り立て屋の男たちであった。
「なっ……バラン金融商会だと……!? なぜあいつらが、こんなところに……!?」
ユリウスの心臓が、氷水を浴びせられたように凍りついた。
数日前、金庫が空っぽであることにパニックを起こし、ティファーヌのドレス代と当座の資金を工面するために、破滅的な高利で契約書にサインをしてしまった相手。
支払期日は来週のはずだった。なぜ、今この時に、私兵のような傭兵団を引き連れて乗り込んできたのか。
ドガァァァァンッ!!
階下から、正面大玄関の分厚い扉が力任せに蹴破られるような凄まじい破壊音が響き渡った。
「おいおい! 出迎えの一人もいねえのかよ、この落ちぶれ侯爵家は!」
「おい、ユリウス・ド・ラ・ロシュ! 居るのは分かってんだ! さっさとツラを出しな!!」
野卑で凶悪な怒号が、エントランスホールに反響する。
数名の残っていた老僕たちが悲鳴を上げて逃げ惑う音が聞こえ、陶器の花瓶や飾り棚が乱暴に倒される破壊音が次々と階上まで昇ってきた。
「ひ……ひぃぃっ……!」
ユリウスは腰を抜かし、這うようにして執務机の下へと逃げ込もうとした。
だが、逃げる時間すら与えられなかった。
ドカァッ!!
執務室の重厚なオーク材の扉が、外側から乱暴な蹴りによって蝶番ごと吹き飛ばされた。
木片が飛び散り、砂埃が舞うなか、部屋へと踏み込んできたのは、三人の男たちであった。
先頭に立つのは、豚のように太った身体に金鎖を何重にも巻き付け、顔中に深い傷跡を刻んだ禿頭の男――バラン金融商会の頭取、バランその人であった。
その両脇には、王都商業ギルドの執行官と、身の丈二メートルを超える大剣を背負った歴戦の傭兵隊長が、冷酷な眼差しで部屋を見下ろしている。
「よう、ユリウスの若旦那。……机の下なんぞに潜り込んで、随分と可愛らしいお出迎えじゃねえか」
バランは下品な濁声で笑い、革靴の爪先で机の脚を蹴った。
机の上の書類がバサバサと床に崩れ落ちる。
「ば……バラン殿! 何の真似ですか、これは!」
ユリウスは震える膝を押さえ、机にすがりつきながら必死に虚勢を張った。
「私はロシュ侯爵家の次期当主ですぞ! 貴族の私室へ土足で踏み入り、乱暴狼藉を働くなど、王国法に対する反逆罪ですぞ! 支払期日は来週のはずだ!」
「反逆罪だと? ケッ、笑わせるんじゃねえよ」
バランはペッと床に唾を吐き捨てると、懐から分厚い羊皮紙の束を取り出し、ユリウスの鼻先へと叩きつけるように突き出した。
「よく見ろ、この能なし野郎! 王宮財務省、並びに最高裁判所が発行した、正式な『債権回収並びに緊急資産差押執行状』だ!」
「な……執行状……!?」
「当たり前だろうが!」
今度は、隣に立っていた商業ギルドの執行官が、冷徹な声で書類をめくった。
「ユリウス殿。貴領の街道が魔獣によって封鎖され、大商会の荷馬車部隊が全滅した件。ギルドへの損害賠償額は、すでに金貨三千枚を突破しております。さらに、近隣諸侯からの訴訟、納品遅延による違約金……これらを合わせれば、貴家が負う債務総額は金貨一万枚を優に超えているのです!」
「い、一万枚……!?」
ユリウスの視界が白く明滅した。一国の小規模な都市の国家予算に匹敵する、途方もない金額。
「そしてな」と、バランが残忍な笑みを浮かべて顔を近づけてきた。
「貴様が先週、我が商会から借り入れた金の契約書を忘れたとは言わせねえぞ。『期日までに領内の税収または金庫の現金を担保として充当する』と明記してあったよな? だが、どうだ? 我が方の調査によれば、貴領の畑は全滅、税収はゼロ、そして地下の金庫はすでに一文の金貨すら残っていないそうじゃねえか!」
「な……な、なぜそれを……!?」
「諜報屋を雇えば、金庫の残高なんぞ一刻で調べがつくんだよ!」
バランはユリウスの胸ぐらを太い手で鷲掴みにし、軽々と持ち上げた。
「担保能力が消滅した債務者に対し、即時一括返済を要求し、応じられぬ場合は資産を差し押さえるのは、金融界の絶対の鉄則だ! ……金はあるのか、若旦那? 今すぐここで、金貨一万枚を耳を揃えて払えるのかと聞いてんだよッ!!」
「ぐ、くっ……! は、払えるわけが……そんな大金、今すぐには……!」
ユリウスの喉が引き攣り、苦悶の呻きが漏れる。
バランは冷酷に鼻を鳴らすと、ユリウスをゴミ屑のように床へと投げ捨てた。
ドサリ、と床に打ちつけられたユリウスの前で、執行官が無感動に羊皮紙を広げ、宣告を読み上げた。
「債務不履行を確認。……これより、ロシュ侯爵家の全資産の差し押さえ手続きを開始する。領内の西方鉱山の採掘権、農地、森林、並びにこのロシュ侯爵本邸、および館内の美術品・調度品のすべてを競売にかけ、債権の回収に充当する」
「ま、待ってくれ! 本邸を差し押さえるだと!? 鉱山を奪うだと!? そんなことをされたら、我が家は破滅だ! 私はどこへ行けばいいんだ!!」
床に這いつくばり、みっともなく叫ぶユリウス。
だが、バランはそんな彼の叫びをせせら笑い、冷酷に告げた。
「知るかよ。路頭で野垂れ死ぬなり、物乞いでもするんだな。……おい、野郎ども! 館の中の金目の物を片っ端から運び出せ! 絵画、銀器、絨毯、宝石、一つ残らず剥ぎ取れぇッ!!」
「「「応ッ!!」」」
傭兵たちが歓声を上げ、執務室の棚や壁の装飾品を手当たり次第に乱暴に剥がし始めた。
歴史ある名画が引き裂かれ、銀の燭台が投げ飛ばされ、木箱へと詰め込まれていく。
略奪と変わらない光景。
名門侯爵家の威厳など、金の前には紙切れ一枚の重みすら持ち合わせていなかった。
――その時であった。
「ちょっとぉぉぉッ!! 何事ですの、この騒ぎはぁぁぁッ!!」
執務室の破壊された扉の向こうから、耳をつんざくような甲高い金切り声が響き渡った。
現れたのは、ティファーヌ・ヴァン・ベルクであった。
彼女は、昨日商人たちにツケで注文したばかりの、深緑色の最高級ベルベットドレスに白貂の毛皮のショールを羽織り、胸元には大粒のサファイアの首飾りを輝かせていた。
手には豪奢な羽扇を持ち、エントランスを荒らす傭兵たちを汚物でも見るかのような目で見下ろしながら、ズカズカと部屋の中へ踏み込んできたのだ。
「ユリウス様! 何ですの、この下賎な男どもは!? わたくしのサロンの前にまで薄汚い傭兵が立っていて、ドレスに泥がつきそうになりましたわ! 早くあんな虫けらどもを全員首にして追い払いなさい!」
空気を読まない、あまりにも無知で傲慢な叫び。
その姿を目にした瞬間、バランと執行官の目がギラリと光った。
「ほう……? あいつが、噂の新しい婚約者かい。……おいおい、見ろよ執行官殿。あの女の首に巻いてあるサファイア、それにあの白貂の毛皮……昨日、王都のギルドに回ってきた『ロシュ侯爵家のツケの伝票』に載っていた特注品そのものじゃねえか」
「ええ、間違いありませんね。……総額で金貨五千枚相当の贅沢品です」
「な……っ!?」
ティファーヌは眉を吊り上げた。
「何ですの、貴方たち! 気安くわたくしの装飾品をジロジロ見ないでくださる!? これはユリウス様がわたくしのために買ってくださった、正当な贈り物ですのよ!」
その言葉を聞いた瞬間。
床に這いつくばっていたユリウスの胸の奥で、何かがプツンと、決定的に弾け飛んだ。
「…………っ、貴様ぁぁぁぁぁッ!!」
ユリウスは獣のような形相で跳ね起きると、ティファーヌへと猛然と掴みかかった。
「ひゃっ!? な、何をするのよ、ユリウス様!?」
「お前だ! お前だぁぁぁッ!!」
ユリウスはティファーヌの肩を力任せに揺さぶり、血走った目で唾を撒き散らして怒鳴り散らした。
「この期に及んで、まだそんなものを着飾っているのか! 金貨五千枚だと!? お前が! お前がこんなガラクタを買い漁ったせいで、借金取りが屋敷に踏み込んできたんじゃないか! 領地が滅びかけている時に、お前がツケで贅沢を重ねたから、我が家は破産したんだぞッ!!」
「な……な、何よ! 離しなさいよ、痛いじゃないの!」
ティファーヌはユリウスの手を爪で引っ掻き、力任せに突き飛ばした。
「全部脱げ! そのドレスも、その毛皮も、その宝石も、全部今すぐ外してあの商人どもに返せぇッ!!」
ユリウスは狂乱し、ティファーヌの首元のサファイアを引きちぎろうと手を伸ばす。
「嫌よ! 絶対に嫌! これはわたくしのものよ! 触らないで、この貧乏人がぁッ!!」
バチィンッ!!
甲高い平手打ちの音が、執務室に響き渡った。
ティファーヌの手が、ユリウスの頬を思い切り殴りつけたのだ。
よろめくユリウスに対し、ティファーヌは毛皮のショールをかき抱き、顔を真っ赤にして地団駄を踏みながら、耳を劈くヒステリックな絶叫を浴びせかけた。
「何がわたくしのせいよ! ふざけないで、この甲斐性なし!!」
ティファーヌの口から飛び出したのは、もはや愛嬌の欠片もない、醜悪な本性のすべてであった。
「わたくしを愛しているって言ったのは誰よ!? 『ティファーヌこそが侯爵夫人にふさわしい、何でも好きなものを買ってやる』って言ったのは貴方じゃないの! わたくしは言われた通りに買い物をしてあげただけよ! それを、払えなくなったからって女のせいにするなんて、男として最低だわ! 人間のクズよ!!」
「ぐっ……お、お前……! 私がどれほどお前の機嫌を取るために耐えてきたと思っているんだ! 帳簿の計算一つ手伝わず、宝石カタログばかり眺めていた無能が!」
「無能はお前でしょうがぁッ!!」
ティファーヌは卓上に残っていた、重厚な白磁のアンティーク花瓶を両手で引っこ抜いた。
そして――ユリウスの顔面へ向けて、躊躇うことなく力任せに投げつけたのだ!
「ひぃっ!?」
ガッシャァァァァンッ!!
ユリウスが間一髪で身を屈めた背後の壁に花瓶が激突し、木っ端微塵に砕け散った。
水と花びら、そして鋭利な陶器の破片がユリウスの頬を掠め、一筋の赤い血が滲む。
「婚約者のドレスの一枚も買い与えられないくせに、偉そうに威張り腐って! 領地の経営もできない、結界も直せない、借金取りに怯えて這いつくばるだけの、ただの無能な臆病者! 役立たず!! あんたなんか、大っ嫌いよぉぉぉッ!!」
絶叫し、涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにしたティファーヌは、足元に散らばる宝石の小箱をいくつか強引に引っ掴むと、ドレスの裾を乱暴に持ち上げて執務室から飛び出していった。
廊下を走り去る足音と、自室の重い扉がドガァンと内側から施錠される音が、館内に木霊する。
「…………」
静寂が、戻った。
割れた花瓶の破片と、泥水の上に座り込んだユリウス。
頬から血を流し、呆然と開け放たれた扉を見つめる彼の耳の奥に、ティファーヌの放った最後の罵倒が、呪いのように木霊していた。
『役立たず!!』
その言葉。
かつて自分が、あの冷え切った執務室で、夜を徹して書類と戦っていたエリアーナへ向けて、何度も、何度も、嘲笑いながら投げつけていた言葉。
「役立たず……? 私が……役立たずだと……?」
ユリウスの唇から、掠れた乾いた笑いが漏れた。
滑稽だった。
あまりにも、無様に滑稽だった。
地味で愛嬌がないと切り捨てた元婚約者。
美しく華やかだと選び取った妹。
その二人の間で、自分は何を手に入れたのか。
手に入ったのは、破滅と、借金と、そして「役立たず」という、己が他者に投げつけていた刃そのものであった。
互いに責任を擦り付け合い、罵り合い、破綻した二人の関係。
そこに残されていたのは、愛など最初から存在しなかったという、薄汚いエゴの残骸だけであった。
「ケッ、痴話喧嘩は終わったかい、若旦那?」
バランが冷ややかに靴を鳴らし、ユリウスの前に立った。
「競売の執行日は、三日後だ。それまでに金貨一万枚を用意できなきゃ、この屋敷も鉱山も、全部俺たちのものになる。……せいぜい、奇跡でも祈るんだな」
バランたちは嘲笑を残し、略奪した美術品の山を馬車へと積み込むために執務室を出て行った。
後には、荒れ果てた部屋と、割れた花瓶の破片、そして血を流して震える一人の男だけが取り残されていた。
すべてが終わろうとしていた。
自らの傲慢と愚行によって招いた、完全なる破滅のカウントダウンが、いま、無慈悲に刻まれ始めていたのである。




