第30話:帝国からの便りと、贅沢な朝餉
白銀の峻峰を遥かに望むアルジェント大公城の最上層――東翼の張り出しテラスには、澄み渡る朝陽の光が黄金の帯となって降り注いでいた。
北国特有の刺すような冷気は、このテラスには微塵も届いていなかった。
城の中央で満開の花を咲かせ続ける「白銀の古代樹」と、エリアーナが施した【万物最適化】によって城全域に展開された絶対浄化結界の恩恵により、吹き抜ける風はまるで春の高原のように柔らかく、温かで、微かな花の香りを運んでいた。
磨き上げられた白大理石の手すりの向こうには、豊かな実りを迎えた帝都の美しい街並みがどこまでも広がり、活気ある鐘の音が心地よいリズムで響き渡っている。
テラスの中央に設えられた円卓には、純白のレース編みのクロスが掛けられ、まばゆい銀食器が美しく並べられていた。
そこに漂っていたのは、天上の楽園を思わせる、この上なく芳醇で甘やかな朝餉の香りだった。
「……んんっ……美味しい……!」
背もたれに柔らかな羽根毛布を当てられた特注の椅子に腰掛け、エリアーナ・ヴァン・ベルクは両手で大切そうにパンを掲げながら、幸せそうに目を細めていた。
彼女が口に運んでいたのは、大公城の宮廷パン職人が夜明け前から薪窯に火を入れて焼き上げた、至高のクロワッサンだった。
極寒の地で鍛えられた希少な小麦の香ばしさと、帝室御用達の放牧牛から搾られた極上発酵バターの濃厚なコク。外側は驚くほど繊細にサクサクと崩れ、内側はしっとりと幾重にも折り重なった層が舌の上でふわりと蕩けていく。
そして――その焼きたてパンの上に惜しげもなくたっぷりと乗せられていたのは、宝石のように透き通る深紅のジャムだった。
ただのジャムではない。
極寒の高山地帯に自生し、年に一度、満月の夜にしか収穫できないという伝説の果実「雪露ベリー」を、クロード自らが厳選し、宮廷料理長に特命を下して煮詰めさせた特製のフルーツジャムである。
口に含んだ瞬間、上品で爽やかな酸味と、蜂蜜のように濃厚でまろやかな甘みが爆発的に広がり、噛み締めるたびに瑞々しい果肉の粒が弾けて、全身の細胞を甘美な多幸感で満たしていく。
「ふふ、そんなに気に入ってくれたかい? 私の愛しいエリアーナ」
円卓のすぐ隣――並んで座っていたクロード・ディス・アルジェントが、蕩けるような甘い眼差しを向けながら、低く穏やかなバリトンの声で囁きかけた。
普段、軍議の席や戦場では「氷の魔将」として帝国全土の諸侯を震え上がらせている若き大公。
しかし、今の彼の姿には、他者を威圧する峻烈な覇気など欠片も残っていなかった。
上質な純白のシルクシャツの袖を少し捲り、銀色の髪を朝光に透かせながら、まるで宝物を愛でるようにエリアーナの横顔を見つめている。その表情は、愛する飼い主に尻尾を振る大型犬のように無防備で、惜しみない愛惜の光に満ちあふれていた。
「はい、クロード様……! こんなに甘くて、香りが高くて、美味しいジャム……生まれて初めていただきました。パンも温かくて、ふわふわで……」
エリアーナは頬をリスのようにふくらませ、もぐもぐと咀嚼しながら、琥珀色の瞳をキラキラと輝かせた。
身に纏っているのは、今朝ミレイユが選んでくれた、淡い桜色のカシミアニットに純白のプリーツスカートを合わせたサロン着。
かつてロシュ侯爵邸で身を粉にして働いていた頃の、土気色の肌やすり切れた木綿ドレスの面影は、もはや影も形もない。
十分な栄養と睡眠、そして何よりクロードからの惜しみない愛情によって完全に息を吹き返した彼女の肌は、白磁の陶器のようにみずみずしく透き通り、豊かな栗色の髪は朝陽を浴びて艶やかな黄金の光沢を放っていた。
そのあまりの無邪気さと愛らしさに、クロードの胸の奥で甘い熱が弾けた。
「……おや。エリアーナ、口元にジャムがついているよ」
「えっ……? ほんとうですか?」
慌てて指先で口元を覆おうとするエリアーナ。
だが、それよりも早く、クロードの長く美しい指先がスッと伸びてきた。
銀のリングを嵌めた彼の手には、最高級のリネンのナプキンが握られていた。
クロードは椅子ごとエリアーナの方へと引き寄せると、壊れやすい硝子細工の傷を拭うかのような繊細極まりない手つきで、彼女の桜色の唇の端についた紅いジャムの雫を、そっと優しく拭い去った。
「あ……」
触れ合う至近距離。
クロードの通った高い鼻梁から漏れる、針葉樹と白檀の香りを帯びた温かな吐息が、エリアーナの頬を甘く撫でる。
ナプキンで拭い終えた後、クロードは自らの親指の腹で、彼女の下唇を慈しむようにツツッと撫で上げた。
「……ふっ、本当に君は……どうしてこれほどまでに無防備で、愛らしいのだろうね」
耳元に落ちてくる、砂糖菓子を煮詰めたような甘美な声。
クロードは自らの指先を唇に当て、ジャムの残滓を味わうように目を細めると、エリアーナの耳たぶへと唇を寄せた。
「一口食べるごとに、そんなに愛らしい顔で微笑まれたら……朝餉が進まないじゃないか。パンではなく、君そのものを丸ごと味わってしまいたくなる」
「ひゃぅっ……!? ク、クロード様……っ!」
カッと顔を真っ赤に沸騰させ、耳の先まで朱に染めるエリアーナ。
朝から手加減を知らないスパダリの猛烈な口説き文句に、心臓が爆発しそうに跳ね上がる。
円卓の脇で銀のティーポットを掲げて控えていたメイド長のミレイユはといえば、完璧な無表情を装いながらも、その琥珀色の瞳の奥で「尊い……朝からあまりにも尊すぎる……!」と狂信的な光をギラギラと燃え上がらせていた。手にしたポットを傾け、二人の白磁のカップへ、湯気立つ特製ハーブティーを寸分の乱れもなく注ぎ足す。
「クロード様、からかわないでくださいませ……! ミレイユさんも見ていらっしゃいますのに……!」
「からかってなどいないよ。私の偽らざる本心だ」
クロードは悪びれもせず微笑むと、銀のスプーンを手に取り、小皿に盛られた黄金色のクロテッドクリームをたっぷりとすくい上げた。
「さあ、次はこれをつけてごらん。濃厚なミルクの風味が、雪露ベリーの酸味をさらに引き立ててくれるはずだ。……ほら、あーん、だ」
「あ、自分でつけられます……!」
「だめだ。君の手を煩わせたくない。君はただ、私の与える愛と食事を、無心で受け取ってくれればいいのだからね」
有無を言わせぬ極上の過保護。
抗う術を持たないエリアーナは、恥ずかしさに身を縮こまらせながらも、おずおずと小さな口を開き、クロードの手から差し出されたクリームたっぷりの一口を頬張るしかなかった。
「……んっ……! 美味しい……すごく、まろやかです……!」
「そうか。よく噛んで食べるんだよ。……偉いね、エリアーナ」
満足そうに彼女の柔らかな頭を撫でるクロード。
その光景は、端から見れば、一国の最高権力者と未来の大公妃の朝食というよりは、溺愛する愛妻にひたすら尽くす新婚夫婦の睦み合いそのものであった。
かつて――ロシュ侯爵領にいた頃の朝を、エリアーナはふと思い出す。
暖炉の火も入らない凍てつく執務室の片隅で、前日の冷え切った硬い黒パンの耳を、喉を詰まらせながら水で流し込んでいたあの日々。
「手際が悪い」「早く書類を片付けろ」と怒鳴り散らすユリウスの声に怯え、息をすることすら罪悪感を覚えていた、あの暗黒の日々。
それに比べて、いま、自分の目の前にあるこの朝は、一体何なのだろう。
温かな陽光、焼きたてのパンの香り、世界で最も強く優しい男の手、そして惜しみなく注がれる無条件の肯定と甘やかし。
(私……本当に、こんなに幸せになってしまって、いいのかしら……)
胸の奥底から込み上げてくる温かな感情に、エリアーナの目頭が微かに熱くなる。
クロードはその微細な揺らぎを敏感に察知し、机の下で彼女の柔らかな手をそっと握りしめてくれた。言葉はなくとも、「君はここにいていいのだ」と伝える力強い温もりが、彼女の不安を完全に溶かし去っていく。
――そんな、甘やかで穏やかな時間の只中であった。
パサリ、と。
テラスの白い大理石の手すりに、一羽の灰色の伝書鷹が軽やかに舞い降りてきた。
そして、その鷹が羽ばたいた次の瞬間――。
「――おやおや。朝からごちそうさまです、閣下、そしてエリアーナ様」
テラスのアーチ門の影から、風のように軽やかな足取りで、一人の美青年が姿を現した。
陽光を浴びて艶やかに揺れる蜂蜜色の金髪と、悪戯っぽく細められた琥珀色の瞳。
旅用の緑の外套を小脇に抱え、手には一通の赤い封蝋が押された機密報告書を掲げている。
アルジェント帝国諜報部隊長――ロヴェル・サン・ジュストであった。
「……ロヴェル」
クロードはエリアーナの頭を撫でていた手を止め、スッと眉をひそめた。
先ほどまでの蕩けるような表情から一転、冷涼で鋭利な「主君の顔」へと戻り、冷ややかな視線を部下へと向ける。
「我が妃との至福の朝餉を邪魔するとは、ずいぶんと度胸があるな。……それ相応の価値がある報告なのだろうね?」
「ええ、もちろんですよ、閣下。命の危険を冒してまで割り込んだ甲斐のある、最高に愉快な『特ダネ』ですとも」
ロヴェルは優雅に一礼すると、エリアーナへ向けてウィンクを一つ飛ばしてみせた。
「ごきげんよう、エリアーナ様。今朝も息を呑むほど愛らしいですね。……あまり閣下に毒されすぎて、お腹を壊さないようにしてくださいよ?」
「ろ、ロヴェル様……! お疲れ様でございます……」
赤面して会釈するエリアーナ。
クロードの冷たい視線がロヴェルの眉間を射抜くが、百戦錬磨の諜報屋は涼しい顔で肩をすくめ、手にした羊皮紙を円卓の端へと差し出した。
「さて、本題です。……王国方面、特にロシュ侯爵領に潜入させていた我が諜報網の最新報告が届きました」
ロヴェルの口元に、冷徹な情報屋としての皮肉な笑みが浮かぶ。
「――ロシュ侯爵領において、幹線交易路が完全に封鎖されたそうです」
その一言に、エリアーナの手がピクリと止まった。
「……交易路が、完全に……?」
「ええ、エリアーナ様」
ロヴェルは淡々と、しかし事態の凄まじさを克明に語り始めた。
「数日前に北東部の結界石が完全に粉砕・崩壊して以来、原生林から溢れ出たフォレストウルフやブラッドボアの群れが、街道一帯を完全に占拠いたしました。護衛をつけていた大商会の荷馬車部隊が相次いで全滅し、街道沿いの宿場町はゴーストタウンと化しております。……商人ギルド総本部は、ロシュ侯爵領を『通行危険度・特級危険地帯』に指定し、領内へのすべての商人の立ち入りを無期限で全面禁止といたしました」
「そんな……!」
エリアーナの胸がきゅっと痛む。
「街道が封鎖されたということは、領内の物流はどうなってしまうのですか……?」
「どうにもなりませんよ」
ロヴェルは冷笑を漏らした。
「市場の食糧や日用品の価格は十倍以上に暴騰し、商店街は閉鎖。領地の特産品であるはずの農産物は出荷できずに倉庫で腐り果て、通行税の税収は完全に『ゼロ』です。それどころか、街道で被害に遭った商人や近隣諸侯から、巨額の損害賠償請求と訴訟の嵐が、毎日のようにロシュ侯爵邸へ叩きつけられている状態です」
「……ユリウス様と、ティファーヌは……どうされているのですか?」
恐る恐る尋ねるエリアーナに対し、ロヴェルは呆れ果てたように首を横に振った。
「目も当てられませんね。……次期当主のユリウスは、山積みの未処理帳簿と請求書の山を前に、完全に正気を失いかけております。金庫の金が底をついている事実に直面し、私兵への給与も払えず、脱走兵が相次いでいるとか。……そして妹のティファーヌ嬢ですが」
ロヴェルの声音に、軽蔑の色が濃く混ざる。
「領地が破滅の淵にあることなど意に介さず、王都から仕立屋や宝飾商を呼びつけ、侯爵家のツケで金貨数千枚分ものドレスや宝石を買い漁り続けているそうです。ユリウスが『節制しろ』と咎めたところ、ティファーヌ嬢はヒステリーを起こして花瓶を投げつけ、『甲斐性なし! わたくしを愛していると言ったのは嘘だったの!』と大号泣したそうで。……見栄を張りたいユリウスは強く出られず、言われるがままに借金の証文にサインを重ねているとのことです」
「…………」
エリアーナは、言葉を失った。
想像を絶する、救いようのない自滅劇。
自分を「地味で何の役にも立たない」と切り捨て、華やかさだけに群がった二人が、自らの虚栄心と無能によって、領地を丸ごと道連れにして地獄へと転落していく。
かつて自分が血のにじむ思いで守り抜いていた平穏が、いかに脆く、そして彼ら自身がいかに無力であったかを、冷酷な現実が容赦なく証明していた。
エリアーナが複雑な面持ちで瞳を伏せた、その時――。
「……ふっ」
静寂のテラスに、低く冷たい嘲笑が落ちた。
クロードであった。
彼は白磁のティーカップを優雅にソーサーへと戻すと、ロヴェルの差し出した報告書を一瞥すらすることなく、氷青色の瞳に冷徹無比なる光を宿して言い放ったのだ。
「――自業自得だな」
感情の一片すら挟まない、絶対零度の一蹴。
「神の奇跡そのものである妃を手放し、中身のない毒婦に現を抜かした愚か者の末路だ。己の足元すら見えぬ豚どもが、飢えた魔獣の前に放り出され、自ら招いた業火に焼かれるのは、世界の摂理というものだろう」
クロードの声音には、他国の哀れな領主に対する同情など、塵芥ほども存在しなかった。
彼にとって、エリアーナを傷つけ、搾取し、すり減らした王国の人間など、虫けら以下の存在でしかないのだ。
そして――クロードは、その冷酷な笑みを浮かべたまま、流れるような動作で視線をエリアーナへと戻した。
刹那。
彼が纏っていた氷の刃のような気迫が、嘘のように一瞬で消え去った。
現れたのは、先ほどまでと寸分違わぬ、世界で一番甘やかで優しい、蕩けきったスパダリの笑み。
「そんな愚か者どもの話など、私たちの美しい朝を汚す価値もない。……それよりも、エリアーナ」
クロードは銀のフォークを手に取ると、新しく運ばれてきたデザートプレートから、瑞々しいベリーをふんだんにあしらった焼き立てのフルーツタルトを、優しく切り分けた。
そして、フォークの先に乗せた一口を、慈しむようにエリアーナの唇の前へと差し出したのだ。
「おかわりはどうだい? このタルトも、君のために料理長が今朝焼き上げたばかりの特製だよ。……甘いものを食べて、嫌なことなどすべて忘れてしまうといい」
「あ……クロード様……」
「さあ、あーん、だ。君が美味しそうに食べる姿を見せてくれることこそが、私の最大の幸福なのだからね」
目の前に差し出された、至高のスイーツ。
そして、自分だけをこの世の誰よりも大切に見つめてくれる、深愛の瞳。
遥か南のロシュ侯爵領では、自業自得の破滅に怯え、泥沼の罵り合いを続ける愚者たちがいる。
だが、ここアルジェント帝国の光あふれるテラスには――すべてを満たす愛と、揺るぎなき幸福だけが、満ち足りて存在していた。
エリアーナは胸の奥の重荷をふわりと脱ぎ捨てると、春の陽だまりのように澄み切った満面の笑顔を浮かべ、差し出されたフォークへと、小さく口を開けたのだった――。




