第29話:ティファーヌのヒステリーと無駄遣い
領地の境界を守っていた「魔物除けの大結界石」が粉々に砕け散り、街道に魔獣が溢れかえったあの日から、わずか数日。
ロシュ侯爵領は、領民たちの悲鳴と絶望が渦巻く地獄絵図へと転落していた。
王都へ向かう幹線街道は完全に封鎖され、荷馬車の残骸と魔獣の足跡が生々しく残る現場には、誰一人として近づこうとしない。
交易が完全に途絶えたことで、領内の市場からは小麦粉や塩などの生活必需品が瞬く間に姿を消し、物価は跳ね上がり、商店街のシャッターは固く閉ざされた。
さらに、給与の未払いと装備の補給停止に怒った領主私兵団からは脱走兵が相次ぎ、治安は急激に悪化。領民たちは日没とともに雨戸を閉ざし、いつ魔獣が街まで押し寄せてくるのかと怯え、夜を明かす日々が続いていた。
門前には毎日のように、近隣諸侯からの巨額の損害賠償請求書と、商人ギルドからの最後通牒を携えた早馬が砂煙を上げて駆け込んでくる。
ロシュ侯爵邸の執事や従僕たちは、青ざめた顔で館内を走り回り、主人の狂乱と破滅の足音に怯えきっていた。
――しかし。
そんな領地全体の阿鼻叫喚など、まるで別の世界の出来事であるかのように、異様な熱気と華やかさに包まれている一角があった。
本邸一階、最も日当たりの良い南向きの「大応接サロン」である。
「まあ! こちらの深緑色のベルベット、とても深い艶があって素晴らしいですわ! 襟元には白貂の毛皮をふんだんにあしらって、袖には金糸で百合の刺繍を施していただけますかしら? 来週の王都のサロンでお披露目いたしますの!」
部屋の中央に置かれた豪奢な金の縁取りのソファー。
そこに、幾重にも重なるレースとリボンで飾り立てられた極彩色のガウンを羽織り、足を組んで優雅にシャンパングラスを傾けていたのは、ティファーヌ・ヴァン・ベルクであった。
彼女の周囲を取り囲んでいたのは、王都から呼びつけられた一流の仕立屋、宝石商、帽子職人、そして香水商たち、優に二十人を超える商人たちであった。
サロンの絨毯の上には、最高級の絹織物の反物が滝のように広げられ、ビロードの小箱に収められたダイヤモンドやエメラルド、ルビーの首飾りが、シャンデリアの光を浴びてギラギラと毒々しい輝きを放っている。
「さすがはティファーヌ様、お目が高い! こちらは東方交易路を通じて極秘裏に入荷いたしました、一反で金貨百枚を下らない至高の極上絹織物にございます! ロシュ侯爵家の未来の女主人たる貴女様にこそ、まさにふさわしい逸品!」
仕立屋の主人が揉み手をしながら、調子のいい美辞麗句を並べ立てる。
商人たちにとっても、ロシュ侯爵領の異変の噂は耳に入っていた。しかし、「建国以来続く名門侯爵家が、まさか破産寸前であるはずがない」「ツケが効くうちに、高価な不良在庫をすべて売り抜けて大金を巻き上げてやろう」という浅ましい計算が働いていたのだ。
「オホホホ! 当然ですわ! わたくしは、あの薄汚いエリアーナお姉様とは格が違いますのよ! あんな地味で冴えない女が婚約者だったせいで、このロシュ侯爵家の格式は地に落ちておりましたの。わたくしがこうして、眩いばかりの美しさで屋敷を清めて差し上げているのですから、ユリウス様も心から感謝していらっしゃるはずですわ!」
ティファーヌは自慢げに顎を突き出し、宝石商が差し出した漆黒のベルベットのトレーから、親指の先ほどもある巨大なサファイアの指輪を摘み上げた。
そして、自らの細い指へと嵌めると、光に透かしてうっとりと見つめる。
「これもいただきますわ。それから、そちらの真珠のティアラと、エメラルドの耳飾りも全部包んでちょうだい。……代金はすべて、ロシュ侯爵家のツケにしておいてよろしいわね?」
「へへっ、毎度ありがとうございます! ロシュ侯爵家の御威光、まことに恐れ入ります!」
商人たちが満面の笑みで注文書にペンを走らせる。
その伝票の束に刻まれる数字が、どれほど天文学的な狂気の金額に達しているかなど、ティファーヌは一ミリたりとも気にかけていなかった。
彼女にとって、金とは「男がどこからか無限に湧き出させて自分に貢ぐべきもの」でしかなく、領地の経営や財政の仕組みなど、一度として考えたこともなかったのだ。
――その時であった。
「……お、おい……。ティファーヌ……ッ!!」
サロンの重厚な両開き扉が、ドスンと鈍い音を立てて乱暴に押し開けられた。
そこに立ち尽くしていたのは、次期当主ユリウスであった。
だが、その姿には、かつて王宮の夜会で傲慢に胸を反らし、エリアーナを「地味女」と嘲笑っていた若き貴公子の面影など、微塵も残っていなかった。
仕立ての良い上着のボタンは掛け違えられ、襟元は汗と皮脂で黒ずんでいる。
髪は幾日も梳かされていないかのようにボサボサに乱れ、青白い顔には無精髭が生え、落ち窪んだ瞳の周りには、墨を塗ったような濃い隈が張り付いていた。
手には、先ほど届いたばかりの、赤い封蝋が押された無数の抗議文と損害賠償請求書の束を、震える指で握りしめている。
ユリウスの血走った瞳が、サロンの中に広がる光景を捉えた。
山積みにされた最高級の反物。
眩い宝石の小箱の山。
揉み手をしながら笑い合う商人たち。
そして――何事もないかのようにシャンパンを啜り、高価なサファイアを弄んでいるティファーヌの姿。
「な……な、何をしているんだ、お前はぁぁぁッ!?」
ユリウスの喉から、裏返った金切り声が引き裂かれるように飛び出した。
彼は足をもつれさせながら、絨毯の上に散らばる反物を踏みつけ、サロンの中央へと詰め寄った。
「ユリウス様? まあ、みすぼらしいお姿で、どうなさいましたの?」
ティファーヌは不快そうに眉をひそめ、扇で口元を隠した。
「どうなさいましたの、だとぉッ!? 貴様、この状況が見えないのか! 外を見ろ、領地がどうなっているのか分からないのか! 結界が崩壊し、街道が魔獣に封鎖され、交易が完全に止まったんだぞ! 商人たちからは賠償金を請求され、近隣諸侯からは訴訟を起こされ、領地の金庫はすでに一文の金貨すら残っていないんだぞッ!!」
ユリウスは手にした請求書の束を、卓上へと叩きつけるように叩きつけた。
バサバサと紙片が舞い散る。
「それなのに……それなのに貴様は、王都から商人どもを呼びつけ、またこんなガラクタを買い漁っていたのか!? この請求書の金額を見ろ! 金貨三千枚……!? 馬鹿野郎、我が領地の半年分の総税収に匹敵する額だぞ! どこにそんな金がある! 払えるわけがないだろうがッ!!」
唾を撒き散らしながら絶叫するユリウス。
その剣幕に、サロンにいた商人たちが一斉に顔色を変え、互いに目配せをして後ずさり始めた。
しかし――そんな修羅場の真ん中にいながら、ティファーヌの反応は、反省でも怯えでもなかった。
「…………は?」
ティファーヌはグラスをテーブルにコトリと置くと、冷え切った菫色の瞳でユリウスを睨みつけた。
そして――ボッと顔を真っ赤に沸騰させると、ソファーから跳ね起きるように立ち上がり、金切り声を上げて地団駄を踏んだのだ。
「何よ、何よ、何なのよぉぉぉッ!!」
キィィィィン、とサロンの空気が引き裂かれるようなヒステリックな絶叫。
「ガラクタですって!? わたくしが選んだ至高のドレスや宝石を、ガラクタ呼ばわりするなんて何様のつもりですの!? 金貨三千枚ぽっちで何を喚き散らしていらっしゃいますの、この甲斐性なしが!!」
「な……甲斐性なしだと……!?」
ユリウスが息を呑む。
「そうよ、甲斐性なしよ! 貧乏くさい男! ケチ! 器の小さい小心者!」
ティファーヌは両手を振り回し、狂ったように捲し立てた。
その瞳からは、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちていたが、それは悲しみの涙ではない。自分の思い通りにならない現実に対する、激しい怒りと我儘の涙であった。
「わたくしを愛しているって言ったのは、嘘だったんですの!? 『地味なエリアーナお姉様より、美しく華やかなティファーヌこそがロシュ侯爵夫人にふさわしい』って、あの夜会で皆の前で誓ったのは誰ですのよ!? わたくしを世界一幸せにしてくれるって言ったじゃないのぉぉぉッ!!」
「そ、それはそうだが……! だが、今は領地の存亡がかかっているんだ! 少しは節制しろと言っているんだ! 贅沢を控えろと――」
「嫌よ! 絶対に嫌! 節制なんて死んでもいたしませんわ!!」
ティファーヌは卓上にあった高価なクリスタルの花瓶を引っ掴むと、ユリウスの足元へ向けて力任せに投げつけた。
ガッシャァァァンッ!!
耳を劈く破壊音とともに、破片と水が飛び散り、ユリウスのズボンの裾を濡らす。
「ひぃっ!?」
情けない悲鳴を上げて飛び退くユリウス。
「わたくしに、あのお姉様みたいにすり切れたボロ布を着て、埃まみれの部屋で縮こまっていろと仰るの!? 冗談じゃありませんわ! そんな惨めな思いをするために、わたくしが貴方の婚約者になってあげたんじゃありませんことよ! わたくしはロシュ侯爵家の富と名声を享受するためにここにいるの! ドレスの一枚も買い与えられない男なんて、ただの無能じゃないのよぉぉぉッ!!」
泣き叫び、胸を叩き、ヒステリーを起こしてソファーに倒れ込むティファーヌ。
その凄まじい発狂ぶりに、サロンの壁際に控えていた商人たちが、引き攣った表情でユリウスへとじりじりと詰め寄ってきた。
「……あ、あの、ユリウス様」
仕立屋の主人が、冷ややかな、しかし逃げ場を塞ぐような慇懃無礼な声で口火を切った。
「ティファーヌ様のご注文の品、すでに特注の寸法合わせに入っておりまして、今さらキャンセルなど到底受け付けられません。……それに、ロシュ侯爵家ともあろう名門が、わずか金貨三千枚程度の支払いに窮していらっしゃるなど、王都の社交界に知れ渡れば、大変な醜聞になりますが……?」
「そ、それは……」
「ええ、左様でございます」
宝石商もすかさず、冷笑を浮かべながら請求書を突きつけてくる。
「我が商会も、ロシュ侯爵家の格式を信じて品物をお納めいたしました。もしお支払いが滞るようであれば、即座に商業ギルド総本部へ異議申し立てを行い、王宮の財務省へ侯爵家の資産差し押さえを申請せざるを得ませんな」
「し、資産の……差し押さえ……!?」
ユリウスの喉が、ヒクヒクと痙攣した。
四方八方から突き刺さる、冷酷な現実の刃。
商人たちの侮蔑の視線。
ソファーで「嘘つき!」「騙されたわ!」「あんたなんか大嫌い!」と泣き叫び続けるティファーヌのヒステリー。
見栄だ。
彼の人生のすべてを形作ってきた、くだらないプライドと見栄。
ここで「金がないから払えない」「婚約者の買い物をキャンセルする」などと認めてしまえば、自分が「無能な破産者」であることが、王都中の貴族たちに完全に露呈してしまう。
エリアーナを切り捨てて華やかなティファーヌを選んだ自分の選択が、完全なる間違いであったと、白日の下に晒されてしまうのだ。
それだけは――死んでも認めるわけにはいかなかった。
「わ……分かった……! 分かったから、泣き止んでくれ、ティファーヌ……!」
ユリウスはガタガタと震える手で自らの額を押さえ、呻くように声を絞り出した。
「支払う……! 支払えばいいのだろう! ロシュ侯爵家に払えない金などあるはずがない! 我が家は……我が家は王国有数の名門侯爵家なのだからな……ッ!」
その言葉を聞いた瞬間、ソファーで泣き伏していたティファーヌの泣き声が、ピタリと止まった。
彼女は涙に濡れた顔を上げると、先ほどの激昂が嘘のように、ニタリと醜い勝利の笑みを唇に浮かべたのだ。
「本当ですのね、ユリウス様? ふふっ、最初からそう仰ればよろしいのに。やっぱりユリウス様は頼りになりますわ!」
ティファーヌは涙を拭うことすらせず、すり寄るようにユリウスの腕に抱きついた。
だが、その瞳の奥には、愛など欠片も存在しなかった。ただ、自らの欲望を満たすための便利な財布を繋ぎ止めたことに対する、浅ましい安堵と計算だけがあった。
「さあ、商人の方々! ユリウス様が全額お支払いくださるそうですわ! 追加で、あちらの白狐の毛皮のコートもいただいてよろしくてよ!」
「ま、毎度ありがとうございますッ!!」
商人たちが歓喜の声を上げ、新たな請求書を次々と机の上に積み上げていく。
ユリウスは意識が朦朧とするなかで、羽ペンを握らされ、差し出される伝票のすべてに、震える手でサインと公印を捺印していった。
一枚、また一枚と、積み上がる負債の山。
金貨三千枚、四千枚、五千枚――。
すでに金庫が空っぽであることなど、完全に棚上げされたまま、架空の信用の上に築かれた借金の雪だるまが、凄まじい勢いで膨れ上がっていく。
(どうする……? どうやって払う……? 来週の期日までに、この莫大な金を、一体どこから工面すればいいんだ……?)
ユリウスの視界は、真っ暗な絶望の闇に呑み込まれかけていた。
だが、隣で新しい毛皮のコートを羽織って鏡の前ではしゃぐティファーヌは、破滅の足音など微塵も聞こえていない様子で、甲高い笑い声をサロン中に響かせ続けていた。
――愚かな道化たちが、自らの虚栄心という名のガソリンを注ぎ込み、破滅の炎を燃え上がらせていく。
すべてを失うその瞬間まで、彼らの暴走が止まることは、もはや決してあり得なかったのである。




