第28話:崩壊する魔物除けの結界
地下大金庫の冷え切った暗闇の中で、空っぽの木箱と膨大な借用書の山を前に絶望に打ちひしがれたあの夜から、わずか半日。
ロシュ侯爵領の空は、まるで領地の命運を暗示するかのように、重苦しく澱んだ鉛色の雲に覆い尽くされていた。
本邸二階の執務室。
徹夜による極度の疲労と恐怖で血走った目を擦りながら、ユリウス・ド・ラ・ロシュは爪を噛んでいた。ガチガチと前歯が鳴る不快な音が、書類の散乱する室内に響く。
目の前には、依然として数字の辻褄が合わない分厚い帳簿の束と、ティファーヌが放り出していった莫大な宝石の請求書が転がっている。
「……金がない……。金庫に、金貨が一枚もありはしない……。そんな馬鹿なことがあってたまるか……。我が家は、王国有数の富裕な侯爵家だったはずだ……。なぜだ……なぜこんなことに……」
ぶつぶつと壊れた人形のように同じ言葉を繰り返すユリウス。
現実を受け入れられない彼の脳裏をよぎるのは、かつて自分が「無能な雑用係」と見下し、冷酷に追い出したエリアーナの姿だった。
彼女がいた頃、金庫の残高を心配したことなど一度たりともなかった。日々の支払いは滞りなく処理され、商人への決済も完璧に行われ、自分はただ贅沢にワインを煽り、社交界で大きな顔をしていればよかったのだ。
だが、その安寧が、彼女というたった一人の少女の血の滲むようなやりくりと、規格外の異能によって支えられていたという事実に、ユリウスのプライドは頑として蓋をし続けていた。
「違う……! あいつのせいだ! あの陰気な女が、何か細工をして出て行ったに決まっている! あるいは、先代や執事どもが私を陥れるために金を隠したのだ! 私には何の落ち度もない……! 私は次期侯爵として、ただ正当な権利を行使しているだけだ……!」
己の非を頑なに認めず、虚空に向かって唾を飛ばすユリウス。
だが――彼がどれほど都合のいい妄想に逃げ込もうとも、現実の破滅は、すでにロシュ侯爵邸の敷地を遥かに越え、領地全土を呑み込む未曾有の災厄となって牙を剥き始めていた。
◇
ロシュ侯爵領の北東部。
鬱蒼とした原生林と、領民たちが暮らす平野部を分かつ境界線に、石造りの古い見張り砦がそびえ立っていた。
その砦の屋上には、周囲十数キロメートルにわたって張り巡らされた巨大な防護壁の「要」が鎮座していた。
――「魔物除けの大結界石」。
高さ二メートルを超える、六角柱の形をした古代の遺物。
太古の魔導文明の遺産とされるその青白い水晶石は、かつて建国初期の英雄がこの地に据えて以来、森の奥深くに巣食う凶悪な魔獣たちの侵入を阻む「絶対の防壁」として機能してきた。
本来、この巨大な結界石を稼働させ続けるためには、数十名の上級魔導士が交代で膨大な魔力を注ぎ込み、莫大な維持費を投じる必要があった。しかし、先代侯爵の代から財政難を理由に魔導士団は解散させられ、ここ数年はたった一人の人物――エリアーナが、誰にも知られぬよう一人でその維持を担っていたのだ。
砦の巡回兵が、生ぬるい風の吹き抜ける屋上へと足を踏み入れた。
「……ん? なんだか、今日は風が妙に生臭いな……」
兵士は首を傾げ、鼻をひくつかせた。
いつもなら、この砦の周囲は清涼な空気と、微かなオゾンの香りに満ちていたはずだった。結界石が放つ神聖な魔力波が、森から漂う瘴気や獣の臭いを完全に浄化していたからだ。
しかし、今日の空気は違った。湿った腐葉土の臭いと、獣の糞尿が混ざり合ったような、息苦しい悪臭が風に乗って立ち込めている。
違和感を覚えた兵士は、砦の中央に立つ結界石へと歩み寄った。
そして――その石の表面を目にした瞬間、彼の顔から血の気が一瞬にして引いていった。
「な……な、何だ、これは……!?」
息を呑む兵士の目の前で、信じがたい光景が広がっていた。
かつては青く澄み渡り、内側から眩い光を放っていたはずの水晶石が、まるで汚水に浸されたかのように、ドス黒い灰色へと濁り果てていたのだ。
表面には、蜘蛛の巣のような無数の亀裂が縦横無尽に走り、そのひび割れの奥から、澱んだ紫色の煙がプスプスと不気味な音を立てて噴き出している。
エリアーナがこの屋敷にいた頃、彼女は数日おきにこの砦へと足を運び、誰にも見られぬよう、その華奢な素手をこの冷たい石へと重ね合わせていた。
【万物最適化】――彼女の奇跡の力によって、古代の複雑怪奇な術式の目詰まりは完璧に解消され、金属疲労を起こしかけていた石の内部構造は限界まで修復され、彼女自身の純粋で濃密な魔力が注ぎ込まれることで、結界石は本来の限界を遥かに超えた出力を維持し続けていたのだ。
だが、あの日――王宮の夜会で、エリアーナは告げた。
『今まで私がかけていた付与魔法は、すべて解除して出ていきます』と。
彼女が指を鳴らし、契約の糸を断ち切った瞬間から、結界石への魔力供給は完全に途絶えていた。
それだけではない。長年にわたってエリアーナの力によって無理やり限界突破させられていた反動が一気に押し寄せ、古代の遺物は、溜まりに溜まった構造疲労に耐えきれなくなっていたのだ。
――ピキィン。
耳障りな甲高い音が、静寂の砦に響いた。
兵士の目の前で、結界石の中央を走る亀裂が、さらに太く、深く裂け広がった。
「ひ、ヒビが……広がって……!? おい、誰か来い! 大変だ、結界石が――!」
兵士が階下へ向かって叫ぼうとした、まさにその刹那。
バギィィィィィンッ――!!
天地を揺るがすような凄まじい破裂音が轟いた。
六角柱の巨石が、内側から爆発するように砕け散り、無数の鋭利な破片となって四方八方へと吹き飛んだのだ。
濁った紫色の煙がキノコ雲のように噴き上がり、大気の中に張り巡らされていた不可視の結界の膜が、まるで硝子の天井が叩き割られたかのように、パリパリと音を立てて空中で四散していった。
結界の完全崩壊。
数百年にわたり、ロシュ侯爵領の民を外敵から守り続けてきた絶対の盾が、いま、完全に消滅した瞬間であった。
そして――結界が砕け散った直後。
沈黙していた原生林の奥底から、大地を揺るがすような、無数の獣たちの咆哮が地鳴りとなって湧き起こった。
グルルルルルッ……!
ギャァァァァッ! ギギギギギッ!!
森の木々が激しく波打ち、黒々とした影が雪崩のように木立の隙間から溢れ出してくる。
低級魔獣――フォレストウルフの群れ、狂暴化したブラッドボア、そして鋭い錆びた短剣を手にした無数のゴブリンたち。
通常であれば、結界の神聖な魔力波を恐れて近寄ることすらできなかった凶悪な捕食者たちが、防壁の消失と、領地から漂う無防備な人間の匂いを嗅ぎつけ、飢えた目を血走らせて街道へと殺到したのだ。
「う、わぁぁぁぁぁッ!? 魔獣だ! 魔獣の大群だぁぁぁッ!!」
砦の兵士たちの絶叫は、獣たちの凄まじい足音と咆哮のなかに、一瞬にして掻き消されていった。
◇
同じ頃、ロシュ侯爵領の中央を貫く幹線街道。
そこは、王都と北方の諸領を結ぶ重要ルートであり、普段であれば数十台もの豪奢な交易馬車や商人のキャラバンが行き交う、活気に満ちた大動脈であった。
ロシュ侯爵領の街道は、長年「王国で最も安全な交易路」として商人たちの間で絶大な信頼を勝ち得ていた。魔獣の出没が極めて少なく、街道沿いの木々は常に穏やかで、盗賊すら寄り付かない――商人たちは高い通行税を払ってでも、好んでこの領地を通行していたのだ。
もちろんそれも、エリアーナが放つ無意識の【最適化】の波動が、街道の周囲数キロメートルを常に聖域化していたからに他ならなかったのだが、商人たちもユリウスも、それを「ロシュ家の軍事力の賜物」だと勘違いしていた。
「おい、なんだか急に空気が冷たくなってきたな……」
「ああ、嫌な胸騒ぎがする。早く次の宿場町へ急ごう」
王都へ向かう大商会の荷馬車隊。十台を超える馬車には、高価な織物や香辛料、そして近隣領から買い付けた農産物が満載されていた。
護衛の傭兵たちが剣の柄に手をかけ、緊張した面持ちで周囲の森を見回した、その時――。
ガササササッ!!
街道脇の茂みが激しく揺れ、漆黒の毛並みを持つ巨大な狼――フォレストウルフの群れが、二十頭以上、一斉に街道へと躍り出てきた。
「なっ……魔獣だと!? 馬鹿な、ロシュ侯爵領の街道に魔獣など出るはずが――」
先頭の護衛が叫び切る前に、巨大な狼の牙が彼の肩口へと深々と突き刺さった。
「ぎゃああああっ!!」
「敵襲! 敵襲だぁぁぁッ!!」
「円陣を組め! 馬車を守れッ!」
悲鳴と怒号が交錯し、平和だった街道は一瞬にして血生臭い戦場へと変貌した。
だが、現れたのは狼の群れだけではなかった。
森の奥から、丸太のような太い牙を生やした巨大な猪――ブラッドボアが突進し、先頭の荷馬車を横合いから力任せに跳ね飛ばした。
バギィィッ!!
轟音とともに馬車が横転し、車輪が砕け散る。
積まれていた高価な絹織物や木箱が泥水の上へとぶちまけられ、パニックに陥った馬たちが手綱を引きちぎって暴走を始めた。
さらに、木々の枝の上からは、小汚い布を纏ったゴブリンの群れが奇声を上げながら飛び降り、商人たちへと襲いかかる。
「助けてくれぇぇぇッ!」
「荷物を捨てろ! 逃げろ、逃げるんだぁぁぁッ!」
商人たちは着の身着のままで逃げ惑い、護衛の傭兵たちも圧倒的な数の暴力の前に次々と薙ぎ倒されていく。
馬車は略奪され、炎が上がり、黒煙が鉛色の空へと立ち昇る。
ロシュ侯爵領が誇った「安全神話」は、わずか数十分の間に、無惨にも瓦礫と灰燼の中に消え去った。
この日、街道で襲撃された交易馬車は、確認されただけでも五部隊。
死傷者は数十名に達し、奇跡的に生き延びた商人たちによって、その恐怖の報せは瞬く間に近隣の諸領と王都の商業ギルド総本部へと駆け巡っていった。
ロシュ侯爵領の結界が崩壊した。
安全だったはずの街道は、いまや凶暴な魔獣が跋扈する死の罠へと成り果てた――と。
その結果、何が起きたか。
交易の、完全なる停止。
王都を出発する予定だった大商会は即座にロシュ領への立ち入りを無期限で見合わせ、近隣諸国の隊商も迂回ルートへと進路を変更した。
領内の市場からは物資が消え去り、他領へ出荷されるはずだった農産物は倉庫に滞留して腐り始め、通行税の収入は一夜にして完全な「ゼロ」へと転落したのだ。
◇
同日、午後。
ロシュ侯爵邸の執務室。
「だ、旦那様ぁぁぁッ!! 緊急事態でございますッ!!」
ドガァンッ!!
執務室の重厚な扉が、警備隊長と家令の手によって、ノックもそこそこに力任せに突き破るように開け放たれた。
青ざめた顔で書類を弄んでいたユリウスは、ビクリと肩を跳ねさせ、苛立ちを露わにして怒鳴りつけた。
「無礼者め! ノックもせずに飛び込んでくるとは、どのような教育を受けているんだ! ただでさえ帳簿の計算で頭が痛いというのに――」
「帳簿どころではございませんッ!!」
私兵部隊の隊長が、泥と煤にまみれた甲冑姿のまま、床に膝をついて絶叫した。
「北東部の見張り砦が壊滅いたしました! 『魔物除けの大結界石』が完全に粉砕・崩壊し、原生林から魔獣の群れが領内へ雪崩れ込んでおります!!」
「…………は?」
ユリウスの口から、間抜けな声が漏れた。
「結界石が……崩壊……? 何を寝言を言っているんだ。あれは古代の遺物だぞ? 建国以来、一度たりとも壊れたことなどない頑丈な石だ! 壊れるはずがないだろう!」
「粉々に砕け散ったのでございますッ!」
隊長は悲痛な声を張り上げた。
「すでに街道沿いで商人たちの馬車が相次いで襲撃され、大商会のキャラバンが壊滅いたしました! 街道は完全に封鎖され、交易はストップ、領民たちからも避難を求める悲鳴が殺到しております! 至急、私兵団の全軍を出撃させ、魔獣の討伐と街道の防衛を行わなければ、領地が飲み込まれてしまいます!!」
「な……な、何だとぉぉぉッ!?」
ユリウスは椅子を蹴倒すようにして立ち上がった。
全身から血の気がサーッと引いていく。
「な、なぜだ……!? なぜ急に結界が壊れるんだ!? 魔導士どもは何をしていた! 日頃の点検を怠っていたからではないのか!?」
「魔導士など、先代の代から一人も雇っておりませんでしょうがッ!」
隊長が怒りを滲ませて叫び返した。
「これまでは……これまでは、エリアーナ様が! あのお方が毎月砦に足を運ばれ、お一人で結界石の魔力を保ってくださっていたのです! あのお方を追い出した途端にこれだ……! 現場の兵たちも、あのお方を失った絶望で士気が崩壊しております!」
「ま、またエリアーナかッ!?」
ユリウスのこめかみに青筋が浮かぶ。
「どいつもこいつも、エリアーナ、エリアーナと……! あんな地味女に、結界を維持するような大層な魔力があるはずがないだろうが! 貴様ら、私を愚弄するのも大概にしろ! 私兵団長、貴様が全軍を率いて今すぐ魔獣を殲滅してこい! これは領主代行たる私の絶対命令だ!」
「無理でございますッ!!」
隊長は歯を食いしばり、悔しそうに床を拳で叩いた。
「兵たちへの今月の給与が、まだ一文も支払われておりません! その上、武器の補修費も、回復ポーションの購入費も、金庫から一切下りてこないではないですか! 補給も給料もない状態で、命を捨てて魔獣の群れに突撃しろなどと命じても、兵たちが従うはずがございません! すでに脱走兵が出始めております!」
「な……給料だと……!? そ、そんなものは、後で払うと言えばいいだろうが!」
「『後で』が通じる相手ではございません! 兵士たちにも養う家族がいるのです!」
怒号が飛び交う執務室。
金庫の金は底をつき、借金の山。兵士を動かす金すらない。
自らの放漫と無能が招いたツケが、一気に津波となって押し寄せてきていた。
――しかし。
ユリウスを襲う地獄は、それだけに留まらなかった。
「し、失礼いたしますッ! 旦那様、大変でございますッ!!」
今度は、青ざめた老家令が、両手に抱えきれないほどの手紙の束を抱えて雪崩れ込んできた。
その手紙のすべてに、朱色の封蝋――緊急を告げる公的な紋章が刻印されていた。
「な、何だ、その手紙は……!?」
ユリウスが怯えたように後ずさる。
「抗議文でございますッ! 早馬で、近隣の諸侯や商業ギルドから、怒涛の勢いで抗議と損害賠償の請求書が届いております!!」
家令は震える手で、手紙の山をユリウスの机の上へと叩きつけるように広げた。
「隣領のブラント子爵領より! 『我が領の特産品を積んだ馬車が貴領の街道で襲撃され、全損した! 至急、金貨五百枚の賠償を支払え!』との通告!
さらに、北方のカウフマン伯爵領より! 『貴領の不手際により街道が封鎖され、王都への流通が完全に途絶えた! 国家機能への反逆と同義である、国王陛下へ直訴する!』との激怒の親書!
そして――王都商業ギルド総本部より! 『商人への安全確保がなされない限り、ロシュ侯爵領に対する一切の金融取引を凍結し、過去の融資金の即時一括返済を要求する!』との最後通牒でございますッ!!」
「ば……賠償金……!? 金融取引の、凍結……!? 一括、返済……!?」
読み上げられる絶望的な言葉の数々に、ユリウスの視界がグルグルと激しく回転した。
金貨五百枚?
一括返済?
金庫には、銀貨数枚と銅貨しか残っていないのだ。
何万枚もの金貨を、一体どこから工面しろというのか。
もしこの要求に応えられなければ、近隣諸侯から訴訟を起こされ、王室から領地没収の査問会にかけられ、商業ギルドからは屋敷と鉱山を根こそぎ差し押さえられる。
貴族としての破滅。
ロシュ侯爵家の完全なる崩壊。
「う……あ……あぁ……っ」
ユリウスの膝から力が抜け、ドスンと尻餅をついて床にへたり込んだ。
目の前に散らばる、赤い封蝋の手紙の山。
耳の奥で、警備隊長の悲鳴と、家令のすすり泣く声が遠く響いている。
「なぜだ……なぜなんだ……! 私は……私はただ、次期侯爵として、美しく華やかな妻を選んだだけではないか……! なぜこんな……なぜこんな目に遭わなければならないんだぁぁぁッ!!」
床を掻きむしり、獣のように情けなく叫ぶユリウス。
だが、その叫びに応える者は、この屋敷のどこにもいなかった。
かつて彼を無償の愛と献身で支え、結界を守り、帳簿を整え、すべての災厄をその身一つで防ぎ止めていた少女は――。
いま、遥か北のアルジェント帝国で、本物の愛と至高の肯定に包まれ、世界で一番甘やかに愛されている。
もう、戻らない。
どれほど泣き叫ぼうと、どれほど地べたを這いずり回ろうと、自らの手で捨て去った奇跡は、二度とその手を差し伸べてはくれない。
破滅の足音は、もはや遠い警告などではなかった。
ロシュ侯爵家の喉元へと、冷酷に、確実に、食らいつこうとしていたのである。




